箕輪城と上州戦国史

ごあいさつ

  1. ご訪問ありがとうございます。このサイト(ホームページ)は、FC2様の運営するWikiを利用して作成されたものです。
  2. 掲載されている内容は、箕輪初心氏のブログから、許可を得て引用し、まとめたものです。ことわりのない限りは、師からの引用を管理者の解釈を含めて載せております。
  3. このサイトの管理者である棟治は、別サイト「上野の戦国史」を運営しております。そこで行き詰まりを感じたため、仕切り直しとしてここを立ち上げました。上野国・上州とは現在の群馬県のことです。

  • 最近の独り言・・・夢中になってやれてる内は良いのだが、減速してきてしまった。色々まとめたりすると時間が掛かってしまう。もっと気楽に思いついた事を書き留めておきたくなった。そこで凝りもせずに新たにブログを始めたわけである。楽しいことを、楽しいうちにやる!これが棟治のモットーなのだ。 『荒船の夕日(ブログ)』・・・棟治 
2016年5月23日作成開始 棟治

トピックス

著者も書いておられるが、密書が見つかって大変なことになった長尾家 2017.01.09

 ◆『戦国のコミュニケーション』(山田邦明氏著 吉川弘文館)
   大永4年~7年の総社長尾氏と長野方業・厩橋賢忠の争いは大変興味深い。
   もちろんこれは、方業=業政か否かという問題が深くかかわっているからである。
   また、総社長尾家が如何にして北条や越後長尾為景と盟約を結んで、山内上杉家に
   叛旗を翻したかその状況について、あれこれと想像していた。

   棟治は、『戦国のコミュニケーション』のこの章を真っ先に目を通したわけであるが
   自身が考えていた、長尾氏の状況がほぼ裏付けされる内容と読めたので、まるで後詰
   を得た城の守備隊の気分である。そこで、これから師の著作よりと、私なりに考えた
   当時の様子とを交えてまとめてみようと思います。
2017.1.5 手元に届く
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長野方業についての考察、同じ人それとも親子? 20161217 


 1.石上から長野氏へ  
   近年上杉家文書により『長野方業(ながの まさなり)』なる人物が取りざたされるよう
   になった。そこで長野氏の出自についておさらいし、考察して行きたいと思います。

   まず長野氏の出自について定説となっているのは、古代より在地に根付いた豪族であり、
   物部氏が没落して石上氏を名乗るようになり、それを祖とした事である。
   そして時代の流れにより、浮沈を繰り返して戦国時代まで至る過程を見てみよう。

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記録に残る長野郷の主 車持氏と石上氏だったと思うのだが・・・ 20161210

保渡田古墳群の主はだれ? (5世紀代の終わりから6世紀前半代)
   本古墳群は、榛名山の南麓の保渡田・井出の地に分布しており、二子山古墳・八幡塚
   古墳・薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳が残っている。群の西南部に最大規模の
   二子山古墳があり、その東北方に八幡塚古墳、その西北西に薬師塚古墳がある。
   築造年代は、5世紀代の後半も終わりに近い頃から6世紀前半代にかけてであり、
   二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の順に造営されたと推定されている。Wikiより
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   写真は高崎市のHPより保戸田古墳群      三ツ寺I遺跡の模型

   そこで長野郷の歴史の流れを、古代から見てゆきたいと考えた   棟治

じっちゃん(業政)の若いころの活躍はこうだった!かもしんない? 20161002

白井城と長野氏の台頭 その2・・・上杉憲房が関東管領に着き、憲寛・憲政と変わって
 いった。その中で方業から業政と名乗りを変え、上野最大の国衆となったその歴史を探って
 行きたいと思います。

   永正9年(1512) 鉢形城にて関東管領の相続争い 顕実 VS 憲房

   上杉顕実は、実兄の古河公方・足利政氏に援助を求め、長尾顕方成田顕泰の支援を受け
   て武蔵鉢形城に拠った。憲房(白井・平井城)は政氏の子の足利高基を味方につけ対抗し、
   関東は二分された。

   ①顕実派・・・足利政氏・惣社長尾顕方・成田顕泰・下倉備中守・桐生佐野氏・赤石氏
   ②憲房派・・・足利高基・足利長尾景・横瀬景繁
         ・白井長尾景英・寺尾左京亮・木部隼人佑・阿保丹四郎
         ・長野憲業・厩橋長野賢忠・方業
 

 身近にいた戦国の小領主たち まあちゃんありがとう 20161001

剣崎小路城(御嶽神社) 剣崎町字上小路
  ・伝えによると永正四年(1507年)ごろ福田忠政(系図では政忠)がこの地に剣崎
   小路城を築城。忠政の子加賀守信義(倉賀野16騎)は若田ヶ原の戦に功あり、武田
   信玄より剣崎、藤塚、豊岡の地を拝領す。忠政-信義-勝政-信成と住し、天正十年
   (1583年)板鼻へ移居す。

  ・天正18年 柴田勝家の孫勝雲  徳川家康より2000石で入城。

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   幼馴染のまあちゃん家に伝わる家系図

けっこう想像が膨らんじゃって、こんなじっちゃん物語ができちゃった 20160929

白井城と長野氏の台頭 その1・・・戦国中期に上野長野氏が台頭するが、その事と白井長尾氏
 は深く係っていると考えれれる。これについて今まで分っている事を踏まえて、その歴史を
 探って行きたいと思います。

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榛名山麓は『ぐんまちゃん』王国だった。だが噴火で埋もれちゃった 20160916

朝日新聞デジタル(2014年05月28日 朝刊)より
   榛名山の北東約8.5キロの扇状地の先端部分にある古墳時代後期の遺跡。2012年
   11月、国道バイパス建設に伴う県埋蔵文化財調査事業団の発掘調査で、6世紀に噴火
   した二ツ岳の火砕流堆積(たいせき)物の下から、国内で初めてよろいを着けた状態の
   成人男性の骨が見つかった。考古学や火山学などの専門家による調査検討委員会が中心
   となって分析を進めている。

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 碓氷荘とか長野郷はいっぱい軽石が降って復興は難航したろうね 20160908

   久保田順一先生28年8月27日の講演会にて初心氏は、その内容の一部を次のような
   項目にまとめた。

 (1)中世の概念
    「通説は武士の時代とされていたが、今は、院政期から中世と考えられている。」
 (2)武士も貴族の一部である。・・・・軍事貴族
 (3)荘園=私領・公領=郷の違い・・・院政期に成立(荘園公領制)
    荘園・・・新田荘・桃井荘は私領である。
     郷・・・長野郷・甘楽郷などは国が支配した。
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   鳥羽上皇:崩御 保元元年(1156)
 

 我らのスーパー爺(業政)ちゃんで新たに分かった事って何? 20160907

箕輪初心:生方▲箕輪城208【久保田順一先生20160827「長野業正:新系図発見」】
  まえがき
   平成28年(2016)8月27日、久保田順一先生の「長野業正の実像に迫る」というテーマ
   で群馬県立博物館での講演会があった。今回の久保田先生の大目玉商品は、徳川光圀から
   以降に作られた「系図纂要」の中の「長野氏系図」である。私が知り得た長野氏系図の
   18番目と なる。
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 天仁元年(1108)浅間山が大噴火しちゃって大変だったらしい 20160820

 ◆藤原秀郷流佐貫氏の研究・・・藤原秀郷流氏族の在地化
書籍・論文の研究 『館林市史(館林の中世)』 より
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   ・在京武者 秀郷→千常→ 文脩→兼光→頼行(藤原)
   ・在地領主化 →淵名兼行→行房(林)→成綱(那波)→成光(古海)

   秀郷の子孫(秀郷流藤原氏)は、11世紀前半の頼行・行範兄弟まで中央軍事貴族・
   摂関家賢して活動し、千常・ 文脩・兼光・頼行は次々にに鎮守府将軍に起用ざれた。

長野家の重要拠点、厩橋城って利根川に流されちゃったりで大変だった 20160721

   厩橋城(前橋)と石倉城についての解説は、利根川の西遷と築城時期、また築城者が
   長野・長尾氏の間で錯綜している。

  • 2015.08現在の棟治(サイト管理者)の考えを箇条書きにしてみる。
  1. 1427年(応永34年)利根川変流以前に、総社長尾忠房が古石倉城を築く。
  2. 1429年(永享元年)古石倉城崩壊のため、新たに蒼海城を長尾忠房が築(改築?)いた。
  3. 1473年(文明5or9年) 橋林寺建てられる。長野氏は古石倉城址に、厩橋城をこのころ築城 。
  4. 1524年(大永4or7年) 箕輪・厩橋長野氏は、総社長尾顕方を挟撃する。この時西岸の石倉砦築いた?(雲徳軒の文書)
  5. 永禄年間より武田氏も厩橋城攻略の為石倉砦を改修付け城とした?
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直政(なおまさ):業政(なりまさ)なんか似てね? 井伊氏の出自とか 20160719

箕輪初心●箕輪城シリーズ54「井伊直政」
  ■井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主。
   永禄3年(1560) 桶狭間の戦い  祖父:井伊直盛は今川義元側。戦死。
   永禄4年(1561)2月19日 17代井伊虎松(直政)が生まれた。今川氏の
    家臣:井伊直親の長男。遠江国井伊谷説(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)。祝田説。

   永禄5年(1562)今川家家老:小野但馬守の「徳川方に内通した」と讒言
    井伊直親は申し開きに駿府に向かう途中、今川氏真の命で、掛川城主:朝比奈泰朝
    の軍に攻められ、19人が討死。抹殺。井伊直政は2歳であったため、直親の従兄妹
    祐圓尼が井伊直虎と名乗り、直政の代理として井伊氏の当主になった。

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   信野望さんの創造での直政兄貴かな?

    直政の生母は今川氏の家臣:松下清景と再婚→井伊氏の家督相続権を剥奪。
    井伊氏は井伊谷の所領を失い、直政も今川氏に命を狙われた。
    井伊氏重臣:新野左馬助親矩に保護され、養母:井伊直虎に育てられた。
 

いけいけ軍団は、北条・武田の旧臣にまかせた え!上州勢も? 20160718

箕輪初心★箕輪城№91【井伊直政家臣:長野業親→長野業実とは?】
  ★井伊直政の第3家老は長野業実である。
   では、長野業実とは一体誰なのであろうか?

   ◆説1)長野出羽守業親=亀寿丸の子説=長野業政の孫説
    阿保清勝の姪を妻として5子があった(伝)1人が伝蔵(業実、業真)である。 
   ◆説2)長野出羽守業親=長野業政嫡子=浜川遊喜斎説
    業正(業政)の子:業親(浜川遊喜斎)の子が伝蔵(業実、業真)である。
   ◆説3)長野出羽守業親=業政の庶子か養子または近親者説。
   ◆説4)長野出羽守業親=長野方業の養子:長野勝業
   ◆説5)長野業親=長野業忠(長野業政3男)説
   ◆説6)長野業氏(長野業政兄)の長男、長野業通の次男:業茂
    長野業茂の次男:業源のことだとされている。Wikiより

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   (★箕輪城の本丸郭馬出の旗)

直政ちゃんの率いる、『赤備え』いけいけ軍団 やだ!こわい  20160717

箕輪初心:生方▲箕輪城№201井伊直政19▲【箕輪城時代~高崎城時代の家臣団】修正版

  ★井伊達夫氏は【井伊軍志】の中で、天正18年(1590)の箕輪城入城時~慶長5年(1600)の
   関ヶ原の戦いまでの期間は、 士(侍)大将&準(准)将クラスを17名、足軽大将
   &準衆クラスを18名+3名~4名としている。
   天正18年(1590)年の秋=旧暦の8月3日~7日の間に箕輪城に入封して
   井伊直政の家臣が増えた。
   慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い=高崎城時代には、井伊直政の精鋭部隊800人を
   先峰とした3600人が出陣した。秋山太郎先生は、「総数1250騎5000人の大部隊
   なっていった。」と話された。しかし、多く見積もると7000人かもしれない。
   木俣などは馬一騎に対して8~10人1セットである。
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  (★箕輪城の井伊の旗)

蜻蛉切りの忠勝ちゃんより強力? 『徳川四天王』 井伊兵部少輔直政 20160717

箕輪初心■箕輪城シリーズ26「第17代:井伊直政」
  箕輪初心■「第17代:井伊直政」
  ・天正18年(1590) 井伊直政8年・・箕輪城は直政の居城跡説が有力。       
   {箕輪城の歴史・・・箕郷町教育委員会の冊子より}
   徳川筆頭家老の最高石高12万石で入城・・・北関東支配の拠点?
  ★箕輪初心私見・・・「特に真田・上杉対策ではないだろうか?」
  ★箕輪初心私見・・・「井伊氏の時代に城の拡張工事(堀の深さ10m・3の丸と本丸へ
   の橋・二の丸と大堀切・2006年発掘の門・郭馬出・木俣・水曲輪・法峰口など)を
   したのでは。・・・・城下町が箕輪小の南に細長く、発展しているから。」
   (箕輪初心作成・・・参考:山崎一氏の立体模型・秋本太郎氏作成の鳥瞰図

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戦国上毛かるた・・・「関東と信越つなぐ板鼻守護所」 20160716

 ◆上杉氏の守護所:板鼻 群馬県安中市板鼻
  古代・・・東山道が信濃国から奥州に向かって伸びていた。後に鎌倉に向かう
   鎌倉街道が板鼻から分岐するようになり、碓氷川・烏川(板鼻の北を流れる)の水運
   も含めた交通の要所となった。
  平安中期・・・
   かつては上野国片岡郡、後に碓氷郡に属していた。歴史地名としての「板鼻」は
   現在よりも広く、安中市東部から高崎市の一部を含む地域を指していたとみられている。
  ・長保元年(999) 9月2日、源頼信上野介に任官。
  鎌倉時代 
   板鼻には一遍が建立した聞名寺がある。
   「板鼻道場」として時宗の拠点の1つにもなった。
  ・建武4年(1337) 板鼻を含む八幡荘が守護領とされた。
   上野国の守護所は板鼻に設置された。
  ・南北朝時代山内上杉憲顕の守護所や菩提寺:海龍寺がなどが造られた。
  ★上杉氏関連の遺構は見つかっていない。地名として海龍寺が残っている。

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岸監物頭(かたぶつのかしら)名前からしてすごい、出自はもっとすごい 20160710

  ◆岸監物頭忠清・・・・・・?
   板鼻砦住・・・・・安中市:板鼻城 (鷹ノ巣城・安中市板鼻町)
   『平井城探訪史』のなかに岸氏の出自についての記事が載っていた。

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   山内上杉氏家宰の長尾景仲の3男景頼は、長尾改め岸景頼とする内容が記載されていた。
   この岸監物頭忠清も長尾の流れをくむ人物であろうか?
   また知行の地はいずこにありや?要検討である   棟冶

忠家ちゃんは、ご先祖様を探している。館林から来た?教えて~! 20160709


   上州青柳城(群馬県館林市青柳町堀ノ内乙)
   佐貫嗣綱の孫、文治四郎広嗣が館林の青柳に移り、その子孫が青柳を名乗った。
   青柳城は当時赤井氏のものであった可能性が高い。
   その後どのようにして前橋市青柳町へ移ったかは不明である。
   前橋市青柳町周辺は、中世初期に青柳御厨と呼ばれた荘園があった。

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   上州青柳城(龍積寺北)の堀跡      前橋青柳大師(龍蔵寺)
   長野家着到帳には青柳金王忠家、本居勢田郡青柳村とだけある。

上野における未曽有の戦乱もこれがピーク しかし春はまだ遠い 20160706

箕輪初心●箕輪城シリーズ⑲「第11代:滝川一益」
   箕輪初心●箕輪城を人質の収容所にした滝川一益

  @天正10年(1582) 天正壬午の乱
   2月   滝川一益は織田信長に佐久・小県2郡を支配。信長より名馬を拝領。
   3月   滝川一益は、北条氏邦を追撃。
   3月下旬 滝川一益が箕輪城に入城。(織田氏)1か月入城管理。仕置きを実行。

   戦国時代にあって、この男は勇猛を馳せ一軍の将を仰せつかった。がしかし
   その男の想像を絶する事態が、この地を襲った。つう顔だねこれ!
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   写真は、初ボランティアの女性2人。   NHK大河 真田丸より

長篠にて多くの上野衆も散っていった 箕輪城も主不在が続いた 20160706

箕輪初心●箕輪城シリーズ⑱「第10代内藤昌月」
箕輪初心:生方▲【武田氏の箕輪城領国支配④不在時代、⑤内藤昌月~⑥北条家臣:内藤昌明】
  ■天正3年(1575)5月~天正5年(1577)まで
  ★箕輪初心私見「後継者選定が遅れ、箕輪城主が不在。瀬下(富岡高瀬)が城番では?」
  *天正3年(1575) @跡部大炊守奉書→瀬戸神十郎への書簡
   箕輪に在城命令。箕輪城主の名前と花押がない。(群馬県地域文化233栗原修)

  ・天正3年(1575)5月21日 長篠の戦い・・三河国長篠城(現愛知県
   新城市長篠)で織田信長徳川家康連合軍3万8000 VS 武田勝頼軍1万5000
   戦うことになった。内藤昌秀は戦況不利を悟って、武田勝頼に撤退を進言。
   受け入れられず出撃した。内藤昌豊が戦死。壮烈な戦死。享年54歳。
   保科千次郎(昌月)が内藤昌秀の養子として、内藤家の家督を継承した。
   しかし、2年間は箕輪城は城代はいなかった。城番衆と番手衆はいた。

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   (★箕輪城)            (★保渡田城本郭・・公民館)

西上州のお侍さん達は、修理亮ちゃんと長篠へ出陣して行った   20160706

箕輪初心:●箕輪城シリーズ⑰「第9代:内藤昌豊」
箕輪初心:生方▲箕輪城198●『武田氏の箕輪領支配』③内藤昌豊関係の古文書史料
  ●内藤豊後守昌秀(修理亮昌豊)の歴史
   「武田24将の一人で、信濃・上野攻略戦で活躍。騎馬250騎の侍大将。」
  ★箕輪初心私見・箕輪城在城期間 永禄12年(1569)10月?~天正3年(1575)5月

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   萩原のおじいちゃんのご先祖様は、木部50騎の内藤相備えで長篠へ出陣して行った。
   はたして帰ってこれたのであろうか?そんな思いをよそに陽は沈んでいった。
 

守るも攻めるも、つらかった戦国時代 浅利ちゃん三増峠に没す 20160704

箕輪初心●箕輪城シリーズ⑯「第8代:浅利信種」
箕輪初心:生方▲箕輪城197●『武田氏の箕輪領支配』②浅利信種
   浅利信種の軍装は飯富虎昌の赤備えを受け継いでいた。
   「武田24将の一人で、信濃・上野攻略戦で活躍。騎馬120騎持ちの侍大将。」
   浅利氏は甲斐源氏庶流で甲斐国八代郡浅利郷(現在の山梨県中央市浅利)に拠った
   一族で、信種の系統はその後裔のうち甲斐浅利氏と呼ばれる一族である。
  ★箕輪初心私見
   「箕輪城在城期間 永禄10年(1567)10月?日~永禄12年(1569年)10月

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箕輪再入城、幸隆ちゃんの領地再分配で、上野の仕置き治まった? 20160704

箕輪初心:●箕輪城シリーズ⑭「第7代真田幸隆(幸村祖父)」

  ■永禄10年(1567)3月8日 信玄が真田幸隆・信綱の白井城攻めをほめて、
   箕輪城の普請と知行割りを行うように指示。(秋本先生・群馬県地域文化233栗原修)
   「長野業政に義理がある武田24将の一人。」
   天文10年に初めて来た時、幸隆を侮った者たちはさぞかし困ったろうねえ。
   謝っちゃった人もいれば、野に下った者、色々なのだろう。

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   箕輪城の石垣(笑い積み?)       幸隆

せっかく勝ったのに、その傷がもとで亡くなっちゃった?  20160704

箕輪初心●箕輪城シリーズ⑬6代「甘利昌忠」
   箕輪初心:私説箕輪城主第6代:甘利源左衛門尉昌忠(→信忠) 
   天文2年 (1533年)~永禄10年(1567年)?4説あり?   
   「武田24将の一人で、信濃・上野攻略戦で活躍。騎馬100騎持の侍大将。」
  ★箕輪初心私見
   ・・箕輪城在城・・永禄9年(1566)9月29日~永禄10年(1567)3月7日まで?
   箕輪城の戦後処理のため、甘利・金丸・曽根が城番として残ったと思われる。

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                  上田原の戦いで散った父虎泰 NHK風林火山より

あ~あ!負けちゃったよ 箕輪落城後に西上野の仕置を任された人たち  20160704


   『地域文化233「みのわの歴史」』栗原修著・『戦国期上杉
  ・武田氏の上野支配』栗原修著2010年5月初版400部:
   岩田書院18000円には、武田氏の領国支配についての詳細が掲載されている。
   特に、箕輪城の武田時代16年の発給文書が詳しい。
   ①春日弾正忠+(真田幸綱+甘利昌忠+金丸虎義)の時代の歴史史料をまとめてみた。

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                        春日弾正忠

  • 最終更新:2017-01-14 14:28:30

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