箕輪城と上州戦国史

ごあいさつ

  1. ご訪問ありがとうございます。このサイト(ホームページ)は、FC2様の運営するWikiのシステムを利用して作成されたものです。今年2年目に入りますが、孤軍奮闘していこうと思います。
  2. 掲載されている内容は箕輪初心氏のブログから、許可を得て引用し、まとめたものです。ことわりのない限りは、師からの引用を管理者の解釈を含めて載せております。最近Wikipediaよりの引用が増えてきました。研究者の論文も用いて作成されているようで、最新のものも多く方々には感謝しております。
  3. このサイトには目的があります、それは大河ドラマを制作すること。言い換えるなら管理者である棟治が、夢を見続けるための道具なのです。学んで行くうちに、榛名山麓になびく旗印がおぼろげながら見えて参りました。また、上野国・上州とは現在の群馬県のことです。

  • 最近の独り言・・・箕輪城と上野の戦国史を調べるのにあたり、上杉氏・長尾氏は外せない。
   特に上杉憲房と長尾景春は、長野氏と深く関りがあると見られている。 両氏について
   研究していくと、黒田基樹先生の論文に行き当たる。ネットで調べていると色々な史料
   が出てくるが、最新のものみたいで引用していいものか迷ってしまう。

   この時代、岩松(横瀬)・小幡氏など上野の国衆たちは、どこの家中でも内乱は絶え
   ない。ならば長野氏も、一族を割っての対立は、当然あったであろう。安房里見氏も
   義豊・義堯の内乱後に、系図は勝者の義堯側に詐称されていたと言われている。
   長野氏の系図は、沢山あり錯綜しているが、内乱の結果だと考えられないだろうか?
   景春の乱時に、白井長尾氏側と惣社長尾氏側で上野の領主たちは割れたはずである。
                                  2017.04.22 宗春
2016年5月23日作成開始 棟治

トピックス

どうも最近、色んな人が箕輪城主になってるんで、まよっちゃうよ 2017.4.12

「長野市立博物館だより92号」森田真一氏著より引用してまとめたもの

   これは、山内上杉家家宰の長尾忠景が、上野守護代として領国内に本貫を持つ
   落合氏(現藤岡市上落合か)に宛てた書状である。
   また長野家の家臣団の中に『落合又九郎』の名がみえる。
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                      (縄張り図はよこ君のホームページ様より)
   これを読み下し文にすると、次のようになると思います。
    先忠に復さるるの由、長野左衛門
    五郎注進を披露せしめ、御書を
    申し成し候、定めて御本意たるぺく候
    この刻、御忠節簡要に候、
    恐々謹言、
    六月十五日 前尾張守忠景(花押)
    謹上 落合三郎殿

  ※ここにある『長野左衛門五郎』とは、如何なる人物であろうか?
 

孫四郎ちゃんには、皆世話になっていたのだ!でもイケイケはいくない 2017.04.11

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
   長尾 景仲(ながお かげなか)は、室町時代中期の武将。
   山内上杉家の家宰で上野・武蔵守護代。上野群馬郡白井城主。
   (近年では、景英の代まで白井城主とする事は否定されている。)
   鎌倉(足利)長尾氏の長尾房景の次男で、母は白井長尾氏の長尾清景の娘。
   (実は伯耆守の子で、房景の養子になった後白井家に養子へ入った黒田説あり)
   母方の伯父である長尾景守の婿養子となって白井長尾氏の家督を継いだ。
   (房景の嫡子四郎左衛門尉が、禅秀の乱で打死したので景春養子に入った説あり)
   子に景信、忠景、景明、娘(太田道真正室)。
   孫には長尾景春(嫡孫)・太田道灌(外孫)がいる (道灌は娘婿説あり)
   戦国最強の長尾父子と言えば為景・景虎だが、元祖は景仲・景信であり更に上を行く
   そして+αで景春ちゃんが付いてくるのだ
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   縄張り図はよこ君のホームページ様より  『長尾景仲』黒田基樹氏著より

   寛正4年(1463年)長尾景仲は鎌倉にて76歳で没。
   関東管領上杉氏と白井長尾氏の発展のために力を尽くした生涯であった。
   また景仲は公方成氏と共に、関東戦国時代を引き起こした張本人と言えるかもしれない。
   だが、戦国上野の領主達にとって、このお方は所領安堵と恩賞を与えてくれた主人なのだ。
   そして景仲の孫:景春の時代には、敵味方に分かれて争うことになる・・・  宗春 
 

賢寿王丸は、方業(業政?)ちゃんと仲良しなのに宮原へ飛ばされちゃった 2017.3.9

Wiki最終更新 2016年10月3日より本サイト内に取り込んだもの
   戦国時代の武将。関東管領。古河公方・足利高基の次男。賢寿王丸 通称:四郎
   養父は上杉憲房。母は宇都宮成綱の娘・瑞雲院。
   上杉氏時代の別名に憲広(読み同じ)。
   関東享禄の内乱後上総宮原(宮原御所)へ移り、宮原晴直と改める。

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    明照院の山門(御所跡)        縄張り図 余湖くん様のホームページより  

   また、天文2年(1533)に里見義堯へ輿入れした長野業政の妹との間に生まれた
   と考えられる文悟丸(義樹:石井讃岐守信房・左京大夫)がいる。
   その後、長野業政の養子となり、現前橋富士見の石井城から旧榛名鷹留城の守将へ
   抜擢される。江戸時代の書に、石井左京大夫讃岐守信房(室田鷹留城主:軍師)と
   あり、これは伝承の域を出ないが、憲寛を介して繋がりがあるため興味深い。
 

正当な血筋でありながら庶家とされ、そこから返り咲いた2人の武将? 2017.3.8

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
   戦国時代の大名。上杉憲実の子で僧籍にあった周清(秀晟、周尋とも)の子。
   正室:上杉朝昌の娘
  生誕:応仁元年(1467年) 五郎(通称)
  死没:大永5年3月25日(1525年4月17日)
   憲房と箕輪長野氏との関わり合いは深く、戦国物語を綴るうえで重要な位置にある。
   上杉憲房は、妻の兄:上杉朝良の娘を長野業政に嫁がせ、叔父・甥の関係を結んだ。 
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    縄張り図と写真は余湖くん様のホームページより

   又従兄弟にあたる関東管領上杉顕定の養子となる、だが、その立場は必ずしも安定し
   ておらず、長尾景春の乱の最末期には長尾景春らによって山内上杉家当主に擁立されて
   いた時期が存在していたことが知られている。関東管領就任時は平井城主であったが
   顕定と共に各地を転戦し、鉢形城上野白井城また、武蔵杉山城に在陣していたことも
   知られている。

四郎の名で養子に迎えられ、関東管領を継いだのに、長くは続かなかった 2017.3.7

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
   戦国時代の武将。古河公方・足利成氏の次男で関東管領・上杉顕定の養子としてその後
   を継いだ。娘に宇都宮成綱の妻がいる。
  生誕:不詳 足利政氏の弟。通称は四郎。官位は民部大輔。
  死没:永正12年(1515年)

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   復元された門             縄張りは余湖くんのホームページ様より

 ●上杉顕定は足利政氏の弟(顕実)を四郎と名付け養嗣子として迎えた
  明応3年(1494)
   上杉顕定は東国における「古河公方&管領体制」の再構築を図っていた。
   特に足利政氏の弟を上杉顕実として養子として迎え、密接な関係を築いた。
   鉢形城に入れた。これにより、古河公方は一転して山内上杉方となった。
   上杉顕実は憲房を差し置いて、上杉顕定の正統な家督後継者に据えられたと考えられる。
                             (★久保田順一先生の講演会)

龍若ちゃんは、戦国初期から40年以上も戦い抜いた、超がんばった 2017.3.7

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
   室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。
   越後上杉家の出身(上杉清方の孫)で山内上杉家を継いだ。
   関東争乱期の40年以上にわたって関東管領を務めた。
  生誕:享徳3年(1454年)龍若 四郎
  死没:永正7年6月20日(1510年7月25日)

   上杉顕定は越後上杉家の出身で山内上杉家を継ぎ、享徳の乱(上杉VS古河公方)
   →長尾景春の乱長享の乱(山内上杉顕定VS扇谷上杉定正+甥:朝良)→永正の乱
   (上杉家VS長尾家)と関東争乱期の40年以上にわたって関東管領を務めた。
   上杉顕定は連歌や絵画の才能に恵まれた人物であった。また、平井城から板鼻守護所
   に抜ける街道沿いの地域全体を、活性化させ城下町とした。そして北関東屈指の都市
   として賑わったという。

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   新潟県南魚沼市下原新田の周辺には、かつて長森原の戦いの戦没者を埋葬したとの伝承
   をもつ塚が点在していたが(下原百塚)、その中でひと際大きな塚は管領塚と呼ばれ
   顕定の墓と伝えられている。 

龍春は、父・兄・叔父に続き関東管領に就任、激務の末五十子にて陣没 2017.3.5 

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
   室町時代中期の武将、守護大名。
   関東管領、山内上杉家当主。上杉憲実の次男で憲忠の弟。
  生誕:永享7年(1435年)龍春(幼名)、八郎(通称)兵部少輔
  死没:寛正7年2月12日(1466年2月26日)
  ●結城合戦の後、上杉憲実は房顕以外の子供を全て出家させた。
   房顕は従兄の越後守護上杉房朝の元に留め置かれた。
  文安元年(1444年)
   父から越後と丹波の所領を与えられ、上洛して8代将軍足利義政の近臣として仕えた。
  享徳3年12月27日(1455年1月15日)
   兄が鎌倉公方足利成氏によって暗殺された。
  享徳4年(1455年)
   3月 房顕は、第23代関東管領に任命された。
   成氏征討軍の大将として関東へ下向して同年4月頃に上野平井城へ入った(享徳の乱)。

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  寛正7年(文正元年)(1466)
   上杉憲実は長門大寧寺で死去、享年57。
   2月、上杉房顕が五十子にて陣没した。享年32歳。

龍忠は、景仲ちゃんにそそのかされて、父上のいいつけに背いてしまった 2017.3.4 

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
   室町時代中期の武将、守護大名。上杉憲実の長男で房顕の兄。山内上杉家出身。
   関東管領に就任するが、鎌倉公方足利成氏に謀殺されて、享徳の乱のきっかけとなる。
  生誕:永享5年(1433年) 幼名は龍忠
  死没:享徳3年12月27日(1455年1月15日)

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   憲実の出家・隠遁とともに、長男の憲忠も仏門に入ったとされているが、それはここ
   伊豆国清寺だったのであろうか?出家前に当主へ擁立された説もある。

孔雀丸ちゃんの弟、清方君も兄に負けじと頑張りすぎてしまった 2017.02.28

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
   室町時代中期の武将。上条上杉家の祖。上杉房方の末子。越後上条城城主
  (えちごじょうじょうじょうじょうしゅ:上条 錠 じょうじょう じょう)んなわけない
   実兄の上杉憲実が隠棲後、山内上杉家当主を兼ねた。
   また、関東管領・武蔵守護も兼ねていた可能性がある。
   越後守護職は兄の朝方・頼方が継承し、三兄の憲実は山内上杉家を継承し関東管領と
   なっていたため、清方は刈羽郡鵜川荘上条の地を領して分家し、上条上杉家を興した。
  応永19年(1412年)誕生?、通称は十郎。
  文安元年(1444年)に清方は死去(自刃説あり)した。

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    上条城址に続く道          上条城本丸跡 柏崎市のHPより

   幕府と鎌倉府の間に立ち、苦悩する兄憲実をよく助け、永享の乱も戦った。
   関東管領として山内上杉家を率いるが、幕府からは認められなかった。
   兄も手を焼いた職務を背負い、ついと耐えれず自刃に及んだのであろう。
                                    棟治

孔雀丸ちゃんは越後上杉家から、まじつれぇ所へ養子に出されてしまった。2017.2.21

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
   室町時代中期の武将、守護大名。関東管領、上野・武蔵・伊豆守護。
   越後守護上杉房方の3男。子に憲忠、房顕、周清(上杉憲房の父)、法興、周泰ほか。
   養父は従兄の上杉憲基。猶子に上杉実定(さねさだ、憲基の実弟・佐竹義人の次男)。
   関東管領を務め、足利学校や金沢文庫を再興したことで知られる。

  ★上杉憲実といえば、『足利学校』というイメージが強い。上野国の藤岡平井城
   築城した。永享10年(1438)永享の乱後、鎌倉公方家足利持氏と関東管領:上杉憲実
   の対立が始まった。上杉憲実は、頭脳明晰であったが、足利持氏の教育に失敗してし
   まって、主君殺しの汚名を着てしまったのである。    箕輪初心師のブログより

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ドラマを見ていて整理をしてみたくなった 箕輪城と井伊直虎・直政 20170209

  井伊直虎(おとわ・次郎法師・祐圓尼)と直政(虎松)の関係について
初心師のブログとWikiより引用してまとめたもの
   井伊直政は、徳川四天王に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣。
   自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。
   徳川氏きっての政治家・外交官としても名高い。
   遠江国井伊谷の出身で、『柳営秘鑑』では榊原康政や鳥居元忠と並び、
   「三河岡崎御普代」として記載されている。

   永禄4年(1561年)2月19日、直政は今川家臣である井伊直親(亀之丞)の長男虎松
   として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。
   井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主であり、当時の井伊家当主である井伊直盛(虎松
   の父の従兄・おとわの父)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。

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   龍潭寺(りょうたんじ・初心師のサイトより)と井伊谷城縄張り(余湖くんのサイトより)

   永禄5年(1562年)虎松の生まれた翌年に父の井伊直親(亀之丞は、に謀反の嫌疑
   を受けて今川氏真に誅殺される。当時、虎松はわずか2歳であったため、新たに直親の
   従妹に当たる祐圓尼(おとわ・次郎法師)が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となった。

著者も書いておられるが、密書が見つかって大変なことになった長尾家 2017.01.09

 ◆『戦国のコミュニケーション』(山田邦明氏著 吉川弘文館)
   大永4年~7年の総社長尾氏と長野方業・厩橋賢忠の争いは大変興味深い。
   もちろんこれは、方業=業政か否かという問題が深くかかわっているからである。
   また、総社長尾家が如何にして北条や越後長尾為景と盟約を結んで、山内上杉家に
   叛旗を翻したかその状況について、あれこれと想像していた。

   棟治は、『戦国のコミュニケーション』のこの章を真っ先に目を通したわけであるが
   自身が考えていた、長尾氏の状況がほぼ裏付けされる内容と読めたので、まるで後詰
   を得た城の守備隊の気分である。そこで、これから師の著作よりと、私なりに考えた
   当時の様子とを交えてまとめてみようと思います。
2017.1.5 手元に届く
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  • 最終更新:2017-04-22 13:07:42

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