箕輪城と上州戦国史

ごあいさつ

  1. ご訪問ありがとうございます。このサイト(ホームページ)は、FC2様の運営するWikiのシステムを利用して作成され、掲載されている内容は箕輪初心氏のブログから、許可を得て引用し、まとめたものです。更にWikiや他のサイト、並びに市販されている書籍からも書写して一時的に保存し、まとめて行く予定です。
  2. このサイトには目的があります、それは箕輪城を取り巻く上州の戦国史をドラマとして空想すること。言い換えるなら管理者である宗春が描いた物語書籍にしたり、映像化出来たら良いなと夢を見続けるための道具なのです。したがって、論拠を示した論文の体を成しておらず、宗春自身に都合の良い内容に傾斜しておることをあらかじめお詫び申し上げます。
  3. 榛名山麓に築かれた支城網や、なびく旗印がおぼろげながら見えて参りました。これからは箕輪衆のお侍さんたちが、如何にして武田勢に立ち向かっていったのか、新陰流軍学『訓閲集』を参考にして戦場に立つ一個人の目線で見て行こうかなと思っております。また、上野国・上州とは現在の群馬県のことです。
2018.08.29 宗春

  • 最近の独り言・・・はじめツウィートしてから2か月が経とうとしている。得られる情報からの成果は目を見張るものがあった。特に戦に関する事では、『戦国の陣形』『戦う大名行列』が為になった。『戦国の軍隊』これは昨年読んだものだが、これを合わせて合戦3大本と言えよう。最後に上野の剣聖上泉伊勢守による『新陰流訓閲集』は、上野武士なら戦の心得の虎の巻と言える。いよいよ榛名山麓に靡く旗印が動き、武田勢に打ち懸かって行く様子が目の前に浮かんできた。
2018.10.08 宗春

2016年5月23日作成開始 岡宗春(棟治改め) Twitter 登録してみた

トピックス

新陰流つっても、剣術だけじゃないよ。兵法だよ、合戦の虎の巻信綱伝 2018.09.10

  小笠原家の『源家訓閲集』の内容も陰陽五行的な占いの要素の方が強く、これが氏隆から
  信綱へ伝えられ、その子である秀胤から岡本半介に相伝されたため、この系統は陰陽思想
  の面が強いが、一方で、信綱から疋田豊五郎に伝えられた※疋田伝の『訓閲集』は実戦的
  要素の方が強い内容となっている。
 武者揃えの法
  国家無事の時、我が国の内にて武者を揃える場を定めて、法の如く備えを立て置き、その所
  より一里ほど先に陣場を定めて、その組々の陣所を取り、物頭〔軍の組頭〕どもの小旗を持
  たせ遣りて、我々が〔各々の〕陣所に立て置くべし。
 ・陣場に置く人数・坪割(旅の陣取り-500人)

    500人の陣場.jpg  aranamiraf.jpg
 ※箕輪支城網に北新波砦(規模は75m四方)があるが、周囲に2m程の土塁を持つが内部には
  これと言った遺構は見られないと言う。

最後の箕輪城主氏業の化名は新五郎、左衛門五郎は誰?『長尾忠景書状』2018.08.08

  『長尾忠景書状』に見る【長野左衛門五郎】とは、如何なる人物であろうか?
   これは、山内上杉家家宰の長尾忠景が、上野守護代として領国内に本貫を持つ
   落合氏(現藤岡市上落合か)に宛てた書状である。
   また長野家の家臣団の中に『落合又九郎』の名がみえる。
    nagaotadakage_shojou01.jpg  minowajou11.jpg
                           (縄張り図は余湖君様のHPより)
   これを読み下し文にすると、次のようになると思います。
    先忠に復さるるの由、長野左衛門
    五郎注進を披露せしめ、御書を
    申し成し候、定めて御本意たるぺく候
    この刻、御忠節簡要に候、
    恐々謹言、
    六月十五日 前尾張守忠景(花押)
    謹上 落合三郎殿
「長野市立博物館だより92号」森田真一氏著より引用してまとめたもの
まとめ
 ●今回は 左衛門五郎を房業にあてて方業を業政と同一人物として考えてみる
  宗春は今のところこれがしっくりくる。
    長野入道⇒為業⇒房業⇒方業(業政)⇒氏業 (間に誰か入るかもしれない)

上杉憲房が白井城主になった時、方業(16才仮)被官? かもしんない 2018.08.04

 ●上杉定昌(うえすぎ さだまさ)  (Wiki最終更新 2011年4月17日 より本サイト内に取り込んだもの
  室町時代の人物。上杉房定の子。上杉顕定、上杉房能の兄。
  父房定に代わり文明3年から五十子陣で、同9年からは上野白井城に在陣して弟の
  関東管領上杉顕定を補佐した。そして、定昌は上野国北部~越後魚沼郡にかけて政治的
  な影響力を有していた。
『上杉顕定』森田真一氏著より
    定昌支配領域01.jpg  siroijou32.jpg
    定昌の権力          白井城の縄張り図は余湖くん様のホームページより

 ●上杉憲房(うえすぎ のりふさ)  (Wiki最終更新 2014年6月1日 より本サイト内に取り込んだもの
  戦国時代の大名。上杉憲実の子で僧籍にあった周清(秀晟、周尋とも)の子。
  正室:上杉朝昌の娘
まとめ
  • 文明13年(1481年)
  上杉憲房(14才)元服する。長尾景春は。憲房を「屋形」と称して被官していた。
  上杉顕定(27年才)定昌(28才)憲房(14才)方業(9才仮)
  • 長享2年(1488年)
  上杉顕定(34年才)定昌(35才)憲房(21才)方業(16才仮)
  3月24日に上杉定昌は、白井で従者共々自害した。享年35。
  越後上杉定昌(顕定兄)死去に伴い、上杉憲房白井城を引き継いだ。
  原因について上杉房能を擁立しようとする長尾能景らの陰謀であるとする説や、扇谷上杉氏
  による謀殺とする説、扇谷上杉定正方についていた白井城の旧城主である長尾景春ないしそ
  の与党によって襲撃されたとする説がある。
 ※越後上杉房能一派や扇谷上杉定正双方の意を酌んだ景春の仕業という説はどうだろう?
  その後担がれていた憲房は景春と絶縁することになるのであるが、憲房は利を得た形だ。
  長くなりそうなので一旦〆ます。
 

宗長の「東路の津登」に見る長野氏。顕定越後へ出張 宗春(棟治改め)2018.07.17

 ●宗長の「東路の津登」によると、永正六年(一五〇九)上野に足を踏み入れた時、
  「はま川並松(榎)別当にして」、「此別当、俗長野、珪石上也」とみえ、
  浜川の長野氏が並松(榎)の別当であったとしている。
  並松(榎)は天龍護国寺を指すと考えられる。
  榛名神社と天龍護国寺は一体の開係であり、同寺別当であった長野一族が榛名寺領の
  支配・管理にも関与し、木部氏の跡を継承して室田に入ったことも想定される。
     souchou01.jpg  北爪砦.jpg
    (★千葉市の戦国時代の城館跡より)   寺の内館(高崎市浜川町町東)

 ●永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より出立
  新田:岩松~大胡~青柳~荒蒔~浜川~大戸~草津~
  大戸~依田で句会~
  宗長は長野憲業の身内で浜川の松田氏を訪ねた。
  浜川松田氏の元で句会「多胡碑に石上が載ってるねえ。子孫だってねえ。」 
 

戦国後期の高津長尾氏はあまり知られていない。長尾定明が仏事奉行 2018.07.14 

 文亀二年(1502)八月二十八日
  二四0男 談柄
   卅三談
 ○関東管領上杉腐定、文亀二年壬戊八月廿八日、於上 以下略

   板鼻守護所.jpg   itahana08.jpg 
                       (★安中市教委)
〔解説〕
  この一三回忌法事には、鎌倉の建長寺・円覚寺から高僧が招かれ、読経している。
  仏事奉行は長尾能登守(総社(高津)長尾定明)、布施奉行は尻高左京である。
  そのほか、力石・大石などの上杉氏被官が事に当たっている。
  会場となった海竜寺の近くには、管領御館・顕定御館、更に板鼻道場のあったことがわかる。
  海竜寺は現存しないが、安中市板鼻の字名として残っている。
 

この時長野陣所におったのは、業尚・憲業・方業はたまた顕業・房業?2018.07.11

・文明十八年(1486)
 232北国紀行 九月未ごろ、尭恵が越後から鎌倉への旅の途中、佐野にて旅情にふける
  『~神無月廿日あまりに彼国府長野の陣所に至る事晡(夕方)時になれり、此野ほ
   秋の霜をあらそひし戦場いまだはらはずして、軍兵野にみてり、かれたる萩われもかう
   などをひきむすびて夜をかさぬ、~』   (下略)

   上野国府.jpg  蒼海城.jpg
  埋め込んだ縄張り図はイメージです   縄張り図は余湖くん様のHPより 
〔解説〕
   府中(前橋市元総社町)では長野氏の陣所にも寄り、長尾顕忠の陣所では連歌会を催
   した。また文明十九年(1487)にも上野府中長野陣所において歌を詠んでいる。
   さらに、小野景頼の屋敷にて連歌会を開いた。小野景頼については上野の武士と考え
   られるが他に資料がなく不詳である。 ※現在は木部氏の本姓が小野説あり。
新編高崎市史資料編4より

井伊直政旗下の長野民部業実に率いられて箕輪武士は関ケ原へ行った。2018.07.07

箕輪落城後の長野氏 中世部会専門委員 久保田順一(〇部会レポート)平成9年3月1日より
まとめ
【1.】箕輪落城は「受連覚書」によって永禄9年が通説となった。
【2.】静嘉堂文庫所蔵の『安藤藩臣親族記』に、長野信濃守の旗下であったとされる、
  長野(小鼻輪)若狭浜川右京の系図がある。
  落城後信玄によって、長野(小鼻輪)若狭は小鼻輪を浜川右京は浜川の地を安堵され、
  その他長野家旧臣達の多くが武田家に召し抱えられた。
  彦根藩の『侍中由緒書』に長野氏は、3席家老として4千石を与えられ幕末まで続いている。
  長野信濃守の子出羽守(業親)、その業親の子である嫡子十郎左衛門(業実・伝蔵)
  家康に召しだされて井伊直政の小姓に取り立てられた。
【3.】箕輪城主左衛門大夫氏業(業盛)の子極楽院陳鎮良は、落ち延びて後に西上野の
   年中行事職に補任されている。また来迎時塔頭善長院を回帰して子孫が住職を務めている。

   gokurakuin22.jpg   minowa_ii06.jpg
  写真は伝説の逆さ梅とされている    彦根城下には長野氏菩提寺:長純寺がある。

以前は「長野左衛門尉為兼ってだれだよ?」なんて言われていたのに 20180612

高崎市史やWikiを基に編集したもの
 ●足利義政御内書(感状)文明3年(1471)

   関東事、連々被忠節旨、上杉四郎註進之趣、被聞食之
   訖、尤神妙、弥々可抽戦功侯也、
     同日
    小幡右衛門尉とのへ
    長野左衛門尉とのへ

  解説
   享徳の乱中に館林城を落とした上杉軍は、更に古河を攻め、足利成氏を同地から追った。
   小幡右衛門尉・長野左衛門尉は、上杉軍に加わって活躍し、その結果上杉顕定の注進に
   よって将軍足利義政から、感状を下されたのである。なお、『松陰私語』には、この後
   に長野左衛門尉為兼という人物がみえ、関係が注目される。高崎市史より
   maebasijou02.jpg  maebasijou01.jpg
   幕末の前橋城の石垣部分(左)と復元図(右)

  さて、利根川を挟んで対峙する古賀公方と上杉連合軍が争う享徳の乱。
  この時代上野中央部に勢力を張る長野氏の重要拠点は何所であろうか?
  さほど考えなくとも、厩橋や大胡があげられると思うゆえ、一揆の旗頭である入道や為業が
  厩橋あたりに在陣するのは至極当然のように思えるが如何であろうか。

長野入道ってだれ? 長野と言えば石上氏 まえはし・みのわ・おおこ 20180609

長尾景仲と長野入道の時代(上野守護代と上州一揆旗頭)
高崎市史やWikiを基に編集したもの
  鎌倉公方足利持氏から古河公方足利成氏の時代に、長野氏の動きを示すものに
    「関東再興始当国長野入道於宿所長尾俊叟申出事
    (上野国長野入道の宿所において、長尾俊叟(景仲)は、関東の立て直し
     について申し出があった)
   という記事がある(県資5-松陰私語)。
   これは「松陰私語」の目録第五にみえるが、本文欠損のため具体的な内容は不明である。

    kagenaka001.jpg  松陰私語.png
  なお、別のところに
    「先年於長野宿所有御助言
    (先年、長野宿所において助言があった)
   との記述があり、同様のことを述べたものであろう。長尾俊叟とは白井長尾景仲のこと
   であり、文安3~5年(1446~8)当時の上野国守護代であった頃の様子と考えられる。
 

武蔵杉山城って憲房の叔父ちゃんが居たって本当? 管領奪還 2018.06.02

武蔵杉山城(埼玉県嵐山町杉山字雁城)
wIKIその他資料より抜粋して編集した物 宗春
  市野川左岸の山の上に築かれた山城である。築城主は不明。地元豪族の金子主水の築城
  によるとの伝承はあるが、文献資料にはあらわれない。従来、城の縄張りの観点から後
  北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力であったが、発掘調査にもと
  づく考古学的な知見からは山内上杉氏時代の城である可能性が非常に強くなってきた。

   sugiyamar01.jpg  sugiyamatyoukan.jpg
   左写真と縄張り図は余湖くんのホームページ様より

 「上州白旗一揆の時代 みやま文庫 図書 久保田 順一」を買ってきたので久しぶりに更新
  してみたくなった。一揆衆から上杉被官へと解説があったのが面白かった。宗春

業政ちゃんには悪いけど、管領家は頼りにならんので晴信ちゃんにする 2017.09.16

 ◆天文13年(1544)
   説.真田幸綱(幸隆)は相木・禰津らの推挙があり、山本勘助⇒小山田虎満・板垣信方
   を通して武田晴信に奏上されて家臣となった。(勝手な推論です 宗春)

    幸隆臣従.jpg  250px-Sanada_Yukitaka.jpg  
   天文13年(1544) 武田晴信・相木昌朝・伴野信是は村上義清方の田口城の田口長能を
   攻略した。後、相木市兵衛昌朝が田口城に入った。従兄弟の娘婿の城に入城した。
   長男:相木信房(武田晴信の妹婿)に治めさせた。
                     『相木市兵衛依田昌朝と武田信玄』依田武勝著
   天文14年4月 武田晴信は小諸城にあって、岩尾城代:真田幸隆を使者として六ヶ城に
   籠っていた 望月盛時(望月遠江守)を調略させている。武田晴信も、武威を高めていた
   望月盛時の降伏を喜び、望月盛時には太刀や馬を贈っている。
                       (小助の部屋さまより)(武家家伝様より)
   小山田 虎満 / 小山田 昌辰(おやまだ とらみつ / おやまだ まさたつ)は、信濃国衆
   真田幸隆(幸綱)との取次も務めており、幸隆とともに軍事行動も行っている。
   以上の事から幸隆の臣従時期は天分13年田口城攻略からから14年3月までの間
   考えられる。

じっちゃん(業政)の言い付けを守り、よく戦った文吾丸ちゃん 2017.09.15

 ◆天文13年(1544)
  ●長野義樹は、石井城主石井信房となる(現前橋市富士見)
   この年の内に、長野業正の子、氏業=業盛(幼名は松代)は、生誕したとされる
   安房里見家より長野家へ養子に入った幼名文吾丸は、元服して長野義樹と名乗った。
   氏業が生まれると、石井城(前橋市富士見町石井)を任され、石井信房を名乗った。
   この時信房は、石井城を任されるにあたり6060石を賜ったとある。これは知行を得たと
   考えるのではなく、地域の諸将を配下に収めるべく城に入ったと宗春は解釈した。
    石井領.jpg  漆窪・岡城.jpg
   この地域の諸将は、白井長尾氏の支配下にあったものと考えられ、地域内にその寄居が
   存在する。寄居の名は長尾氏の配下にある地侍たちが、有事において籠る砦であった。
   白井長尾氏は、長尾景春の乱以降。総社長尾氏は、大永年間に上杉家に背いて以降
   台頭してきた長野氏に圧迫されて支配力を失っている。このため当該地域を収めるべく
   下田氏を重臣として石井信房が石井城へ入ったものと考えられる。そして地域内の
   諸将は、これに従い箕輪城落城まで戦ったものとも考えられる。
  ※なおこれらの事は、しっかりした論拠によるもので無く今後の研究が期待される。

「だから止めとけ、言ったんじゃ」と業政じっちゃんに言われちゃう 2017.09.12

  10月
   4日 笛吹峠(碓氷峠)の戦い(この戦いは年代不明で幻の戦いと英知出版)
   これまで幻とされていた『碓氷峠の合戦』の可能性を検証していこうと思う。
    碓氷峠の合戦.jpg  碓氷峠城(仮).jpg
 『270』 信陽雑志 (十月、上杉方の倉賀野六郎・淡路守らが碓氷峠に出陣する)
   九月、上杉勢出張干白井之由、真田・芦田・相木等追々註進云々、
   同時使板垣守軽井沢、左馬介信繁・穴山伊豆守等為諏方番手、
   十月、上杉方倉賀野六郎・舎弟淡路守・見田五郎左衛門・上田又次郎
   ・松本兵部丞・和田左衛門尉・同兵部允・新田・舘林・山上、白井・忍・深谷
   ・五甘・厩橋・沼田・白倉・弥太郎・長板・松井田等都合二万三千余人
   陣干碓氷峠、板垣与相木・芦田進破之、
 〔解説〕
   武田晴信(信玄)ら甲斐勢が信濃国の村上義清らを攻撃した。
   その際、上杉憲政に率いられた上野勢二万三〇〇〇余人は、碓氷峠に出陣し、
   信濃勢を救援した。その上野勢の中に倉賀野六郎とその弟淡路守がみえる。
                       新編高崎市史資料編4(中世II)より
 

以前はありね~と思ってたけど、今はそうでもない、で範虎ちゃんは? 2017.09.09

 ◆三寺尾の合戦(和田記・甲陽軍鑑を元にした推察)
   18日巳の刻、信玄は急に甲府を立ち、当時新しく所属した上州の先手(市河・小幡?)
   を案内として兵を進め、甘楽郡南牧を押し通り同郡八木連(和田紀)又は鬼面(軍艦)
   に進出してそこを焼き払った。
    三寺尾の合戦.jpg  三寺尾の合戦の様子.jpg
  9月
   3日 内藤修理亮昌豊、馬場民部少輔信房、原加賀守昌俊、同隼人助昌勝父子、浅利民部
   小宮山丹後守昌友の六頭の手を以て九月三日戦が始った。
   ★三寺尾の合戦は史実かどうか疑問である説=多数説。
    しかし、 安中のふるさと館での富原道晴氏の資料
   『三寺尾の戦い』(江戸時代の資料・・・陣立図)があった。
    三寺尾の合戦にて、長野方の里見義光は戦没した。

3強に挟まれた上野国、裏切ったのではない、強い主を選んだのだ 2017.09.02

箕輪初心:生方▲箕輪城172峰岸純夫説を加味した『武田信玄の西上州侵攻&箕輪城落城』 より
  11月 政虎、関東に出陣する。
   2日 武田晴信は相木領内松原神社で、高田・諏訪(松井田)の戦勝祈願をした。
      西上野へ出陣する。(笹本正治氏 武田信玄)
   18日 上野高田城、二日後に国峯城を攻略。
   西上州を侵攻を開始し、国峰に在陣した。
                        (★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
    国峯城の城域.jpg  永禄4年倉賀野城の攻撃.jpg
   武田氏余地峠を越え砥沢に到着。
   武田信玄は小幡信貞の従兄弟の小幡図書之介に乗っ取られた国峰城
   を奪い返して、小幡憲重・信実(重貞→信実→信貞)に復帰させた。
   武田信玄は貫前神社に制札を出した。
  ※霜月(11月)24日
   小幡に晴信様が御出張の時、直ちに参上し申し出て受け取った。
                        (★「長年寺文書」の「天産受連覚書」)
 

夜間豪雨の本陣奇襲は、金敷平・原山?オープニングにしたいシーン 2017.08.29 

  ●箕輪城攻防戦(永禄4年) 『箕輪町史に見る長野氏の戦い』
   永禄四年四月、信玄其子義信と共に、二万余りの兵を以って侵入した。
   鷹留城主長野業通は其の弟業固に命じ秋間方面に出撃させた。
   業固退いて雉郷砦を守り、更に退いて鷹留城に入り、鳥川を境して彼我相対峙した。
   一方信玄は若田原辺から烏川を渡り、白岩、高浜の砦を攻落して、箕輪城に迫った。

    永禄4年箕輪城攻防戦.jpg  永禄4年4月箕輪城攻防戦03.jpg
   本城は※1業政死して、其子業盛は二月謙信に従つて相模に行き、老臣藤井豊後守友忠
   が守っていた。友忠城を守り、機を見ては出撃し大いに寄手を悩ませた。
   此の時保渡田此砦の援兵は白岩の砦を復し、和田城の授軍は高浜砦を復し、更に松井田、
   安中の援軍と共に敵の後を断った。※1現在有力説は、小田原に同行している。
 

戦国の世とは言え一族の多くが、その存続を賭けて戦い地に伏した 2017.08.26

ブログ『山城めぐり』『下仁田町古城と城主』⑪ 下仁田教育委員会著より
  まとめ
   小幡図書介によるものと考えられている国峯城乗っ取りは、謙信公の越山が8月である
   事から鑑みると、前年永禄3年9月であったと推定されます。
   長野業政の進言によるのであろうか、図書介には小田原に参陣せず上野に残り、信州の
   武田勢に備えたと考えられる。
   上杉本隊が留守の間を狙い、南牧に砦を築いて備える動きを見た図書介は、軍勢を派遣
   したところ、桧平にて合戦に及んだ。しかし、あえなく敗退し松井田・安中方面へ前線
   が移動してしまった。
   その後箕輪城にて、長野業政を欠く箕輪衆と合戦に及び、ひとしきり暴れた武田軍は撤
   退したと思われる。

    笹の平城03.jpg  桧平の合戦02.jpg
  「笹の平城」
   本丸です。この城は国峰城の小幡氏(図書之介)の最前線基地で地元の豪族高橋氏に築城
   させ、武田氏に付いた敵対する市川氏と戦闘があったと伝えられています。
   永禄3年(1560)? 小幡領の最前線として築城。武田信玄の侵攻。
   ・永禄4年(1561) 4月 笹渡戸の戦い(笹の平・檜平)武田信玄の攻撃で、落城。
   武田信玄の祠・・・箕輪城攻撃戦勝祈願。上野進出の足がかりになった戦である。
 

もしかしたら、お馬に乗って出撃した、じいちゃんの名前があるかもよ!2017.08.22

   ブリタニカのネット辞典に
   ぐんせい【軍制】
    「軍隊の諸制度の総称。軍隊の編制・運用の制度など。」とある

  ●初めに軍隊の編成(箕輪衆)について考えてみよう。
   長野家支配領域の、支城と守将の配置については検討してきた。
   次は、軍隊(手勢)の構成について考えてみる。
    業政期の長野家支配領域.jpg  箕輪支城.jpg
  ・まず箕輪衆(長野業政の軍勢)は、関東幕中文の内にある
   ⑦羽田彦太郎
    ★東吾妻町大柏木・・大柏木城=羽田城
   ⑪大戸中務少輔
    ★東吾妻町の大戸城
   ⑯高田小次郎
    ★妙義町菅谷城 
   など、上野国にて一領主として独立している諸将は除き、直接支配下にあったと考え
   られる諸将を、配下にし運用したとして、検討して行こうと思います。
   箕輪衆は、総勢1500で領域を守ったとされているので
   長野業政は、1500の手勢(大隊)を率いた総大将(大身の侍)と定義しておきます。
   *300騎(1500人)と考え修正していこうかなと。(騎上はもっと多いかも)
 

幸隆ちゃんには悪いことしたが、こっちにも都合があったんで許して 2017.08.16

 天文10年(1541)
  ・真田幸隆、故郷を追われて箕輪城に来る
  ・厩橋長野氏(厩橋城)と由良氏(金山城)が対立、山上氏は長野氏側へと離反
    神川の戦い.jpg  海野平の戦い.jpg
  5月 神川の戦い
   武田信虎は、諏訪頼重村上義清等ともに信濃佐久郡・小県郡へ侵攻した。
   13日 信虎、諏訪頼重・村上義清と共に小県郡の海野棟綱を攻める。
   海野棟綱ら滋野一族は抵抗するが尾野山城(上田)が落城し、海野平・矢沢などに
   おいて三氏の連合軍に敗退し、棟綱の嫡男・幸義は神川で戦死している。
   25日
   滋野一族は同日に総崩れとなると、海野棟綱・真田幸綱ら滋野一族は関東管領の上杉憲政
   を頼り、上野国へ亡命する。
  ①黒田基樹説では、大将は長野業正で、海野棟綱&真田幸綱(幸隆)も同行した
   と思われるとしている。 諏訪頼重は独断で山内上杉憲政と和睦を結び、芦田郷
   を支配地として割譲した。
  ②平山優説では、大将は不明だが、★諏訪頼重が長野業正との和睦で芦田城・長窪城
   を支配地とした。また海野棟綱は、家臣の深井棟広・小野沢守儀(もりよし)・
   瀬戸是慶らと平井城で過ごした。海野棟綱の消息が途絶える。客死したのであろう

通説では「川中島で忙しくて行ってらんね」だけど有ったかもしれん 2017.08.13

  ・弘治3年4月
   武田氏は西上州に侵入、迎え撃つ上州一揆勢と同月9日合戦に及ぶ。
「関八州古戦録」より
   下の図は、表面上は北条に従っているが、越後の長尾景虎の越山を企む管領家の諸将
    弘治3年西関東勢力図01.jpg  峰法寺口の合戦01.jpg
   瓶尻の戦いは、江戸時代の軍記物に紹介されているだけで、その実態は明らかにされて
   おらず、その史実を証明する史料も見当たらないとされている。
   そこで、富岡武蔵氏のBlogに見る「瓶尻(みかじり)の戦い」 を元に、他の資料と合
   わせて、この合戦を考察してみよう。その記事の中の「甲陽軍鑑」に、次の一節がある。
  狼藉の振る舞いがあって・・・
   北条氏康から晴信へ要請があり、「近年北越の長尾景虎がたびたび越山して、昔の管領家
   の旧臣と語らい、武州の岩槻の太田美濃守資正は、武州を望み、また箕輪の長野業政は、
   婚姻を手段として諸将との結びつきを固め、景虎に代わって西毛を掌握し、自己の保全と
   勢力拡張を図り、狼藉の振る舞いがあって困る。・・・」とある。

何か事情があって、吉業ちゃんは身を引いて菅谷筑前守となる(伝承) 2017.08.01

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
 ◆この地域の領主または、菅谷衆(仮)を率いていた侍大将を推定してみると

   菅谷衆(仮).jpg  sugayatakasakiraf.jpg
   ●説明板。
   「長野吉業は実弟:業盛に箕輪城を渡し、自らは弘治2年(1556)
   3月4日に菅谷城主となった。・・・
   その後、息子五郎左衛門は永禄六(1563)、武田軍と戦った。
   永禄七年(1564)武田軍との戦いにより討ち死にした。」
  ※2014年11月7日は住職:大木謙哉氏にお世話になりました。

  ②中泉氏 (柱 同一本 中泉兄弟)とある
   中泉の砦(高崎市中泉)

長野氏家発祥の地「浜川」、それは平安末期にまで遡り石上氏へ至る? 2017.07.25

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
   また、柱一本 松田右馬助ともある。特に浜川衆(仮)という名称があったわけでは
   ないが、豊後守が住吉城より、若田原へ向けて出撃したという軍着物の記述がある。
   そのため、これに従って守ったであろう、諸将と地域を想定してみた。
    浜川衆(仮).jpg  hamakawaraf.jpg
  ◆この地域の領主または、浜川衆(仮)を率いていた侍大将を推定してみると
  ① 【一ノ執権】
   ・藤井豊後守友忠・・・椿山で戦死。
    浜川城主・・・★長野業政の叔父・・
    業政亡き後は、長老として一族をまとめ氏業(業盛)を支えた。
    箕輪落城の時、城前にて箕輪武士の気概を見せつけ散ったと伝わる。

業政ちゃんは、堰を拡張開削して、流域支配したよね?きっと 2017.07.22

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
  ※3男:長野直業=石上直業(左京亮・竹頭院) (?~?)
   長野信業の3男or業政の庶子・・・現箕郷町富岡に在住。
   小花和業修系譜では、小塙若狭守高成と改名している。
   小塙(現高崎市小塙町・・)7邑(村)を領有している。
    長野堰.jpg  naganoseki.jpg
    街道と長野堰および、箕輪城支城の想像図
   上記のように、長野家の直轄地(長野堰の流域)であった事を思わせる記述がある。
   小塙地区に砦(小塙の砦)があり、小塙衆(仮)として地域を守ったと考えられるが
   誰が守ったかは検討する必要がある。

  ①長野直業=石上直業(左京亮・竹頭院) (?~?)
   長野信業の3男or業政の庶子・・・現箕郷町富岡に在住。
   車郷小学校&飯守神社&童子砦&稲荷砦一帯が城であった可能性がある。
   ・・・箕輪城を守る 為の大きな城があったと考えている。
  ② 【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)】
   ・飯塚左衛門丞忠則・・・・?
    並榎城(砦)(下並榎の砦?)住定居・・・高崎市並榎町天竜護国寺
 

「道を征する者は国を征する」と業政ちゃんが言ってたような気がする 2017.07.15

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
 この地域の領主または、板鼻衆を率いていた侍大将を推定してみると
  ①後閑城主:依田光慶 板鼻城
  ②岸監物頭忠清・・・・・・?
   【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
   板鼻砦住・・・・・安中市:板鼻城
  ③吉田伊豆守文頼・・・・
   【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
   →武田家臣:豊岡砦
  ④福田加賀守信義倉賀野16騎筆頭住立石(藤岡市立石?)剣崎小路城
    板鼻衆(仮).jpg  itahanajo01.jpg
   板鼻の地は、奥大道・鎌倉街道上道・信州街道・三国峠への道が交差する要衝である。
   長野氏を攻略するにあたり、碓氷川の南岸観音山丘陵の中腹に、砦を築いて対岸の
   板鼻を臨んだという。武田氏と長野氏の間で、永禄年間に幾たびかの決戦があった
   が、板鼻東方にある若田原もその一つとされている。
 

晴信ちゃんが攻めてきそうなんで、準備したのにばれちゃったみたい 2017.07.12

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
 この地域の領主または、室田衆を率いていた侍大将を推定してみると
十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
  ①鷺坂常陸守長信・・・・戦死。
   本郷砦住定居・・・高崎市旧榛名町本郷の高浜砦のことである。
   高浜砦と景忠寺砦兼任であろう。・・・匂坂常陸介長信(箕輪記)
  ※余湖先生のサイトより引用して
   御門(みかど)城(久留間の砦・本郷の砦・景忠寺城・高崎市榛名町本郷字三角)
   を本郷の砦と比定しておきます。
    本郷衆.jpg  takahamattyo.jpg

  本郷衆に想定する地域内の、城館の主あるいは守将をまとめて見る
   高浜城  :城主坂上氏・鷺坂常陸守長信
   三ツ子沢砦:新井氏(武田氏の時代)、もしくは清水氏の居館・青柳金王忠家
   本郷の砦(景忠寺城):長尾景忠?・鷺坂常陸守長信
   七曲の砦 :島方輝忠
   新井砦  :北爪周防守政勝
 

永禄9年、倉渕方面から連日攻められて、5月には落城しちゃったみたい 2017.07.08

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
 ・鷹留(室田)長野氏
   業尚や憲業のころ長野氏は鷹留城にあり、のち箕輪城に移ったともいわれる。
   その鷹留城は業尚の築城と伝え、箕輪城時代はその支城として機能した。
   憲業のあと鷹留城には業正の兄の三河守業氏が入った。この子孫を鷹留長野氏という。
    室田衆01.jpg  chounenji1.jpg 
 この地域の領主または、室田衆を率いていた侍大将を推定してみると
  ①長野業氏・業通父子(鷹留(室田)長野氏)
   系図①長年寺(鷹留長野氏)の系図
   長年寺所蔵のものは、鷹留城主であった業氏の子
   孫が作成したもので、業氏の兄弟である業政に関わる記述は少ない。

 【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
  ②石井左京大夫讃岐守信房(室田鷹留城主:軍師)・・戦死。
   安房里見義堯の娘は長野業政に嫁いだ。長野業政の養子
   現前橋富士見の石井城→旧榛名鷹留城の守城へ
   石井左京大夫讃岐守信房(室田鷹留城主:軍師)
 

永禄年間に甲州勢との戦で、那波無理之介ちゃんに高浜城を強襲された 2017.06.27

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
  この地域の領主または、里見衆を率いていた侍大将を推定してみると
 ・【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)+α
 ・【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
 ・【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)】
   石井左京大夫讃岐守信房(室田鷹留城主:軍師)・・戦死。
    里見衆02.jpg  kijigou01.jpg
   長野信濃守在原業政家臣録=着到帳の中に、【中小姓以下同じ】大島団六とあるがおそ
   らく一族の者と考えられる。
   また【給人以下同じ】の項目に、里見兵左衛門里見久右衛門の名がみえるが、在地に
   あった一族か、河内守のように戻ってきたかは定かでない。

  • 最終更新:2018-10-09 15:10:20

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