箕輪城と上州戦国史

ごあいさつ

  1. ご訪問ありがとうございます。このサイト(ホームページ)は、FC2様の運営するWikiのシステムを利用して作成されたものです。今年2年目に入りますが、孤軍奮闘していこうと思います。
  2. 掲載されている内容は箕輪初心氏のブログから、許可を得て引用し、まとめたものです。ことわりのない限りは、師からの引用を管理者の解釈を含めて載せております。最近Wikipediaよりの引用が増えてきました。研究者の論文も用いて作成されているようで、最新のものも多く方々には感謝しております。余湖先生の縄張り図も、分かりやすく重宝しております。
  3. このサイトには目的があります、それは大河ドラマを制作すること。言い換えるなら管理者である宗春が、夢を見続けるための道具なのです。学んで行くうちに、榛名山麓になびく旗印がおぼろげながら見えて参りました。また、上野国・上州とは現在の群馬県のことです。
  どなたかドラマ作りを共に戦ってくれる同心衆は、居りますでしょうか?

  • 最近の独り言・・・秋の夜長、いよいよ執筆がしたくなってきた。だが、力が足りないので修行の旅に出ることにした。今は別の場所で、鍛えています。宗春2017.09.30

 
2016年5月23日作成開始 宗春

トピックス

業政ちゃんには悪いけど、管領家は頼りにならんので晴信ちゃんにする 2017.09.16

 ◆天文13年(1544)
   説.真田幸綱(幸隆)は相木・禰津らの推挙があり、山本勘助⇒小山田虎満・板垣信方
   を通して武田晴信に奏上されて家臣となった。(勝手な推論です 宗春)

    幸隆臣従.jpg  250px-Sanada_Yukitaka.jpg  
   天文13年(1544) 武田晴信・相木昌朝・伴野信是は村上義清方の田口城の田口長能を
   攻略した。後、相木市兵衛昌朝が田口城に入った。従兄弟の娘婿の城に入城した。
   長男:相木信房(武田晴信の妹婿)に治めさせた。
                     『相木市兵衛依田昌朝と武田信玄』依田武勝著
   天文14年4月 武田晴信は小諸城にあって、岩尾城代:真田幸隆を使者として六ヶ城に
   籠っていた 望月盛時(望月遠江守)を調略させている。武田晴信も、武威を高めていた
   望月盛時の降伏を喜び、望月盛時には太刀や馬を贈っている。
                       (小助の部屋さまより)(武家家伝様より)
   小山田 虎満 / 小山田 昌辰(おやまだ とらみつ / おやまだ まさたつ)は、信濃国衆
   真田幸隆(幸綱)との取次も務めており、幸隆とともに軍事行動も行っている。
   以上の事から幸隆の臣従時期は天分13年田口城攻略からから14年3月までの間
   考えられる。

じっちゃん(業政)の言い付けを守り、よく戦った文吾丸ちゃん 2017.09.15

 ◆天文13年(1544)
  ●長野義樹は、石井城主石井信房となる(現前橋市富士見)
   この年の内に、長野業正の子、氏業=業盛(幼名は松代)は、生誕したとされる
   安房里見家より長野家へ養子に入った幼名文吾丸は、元服して長野義樹と名乗った。
   氏業が生まれると、石井城(前橋市富士見町石井)を任され、石井信房を名乗った。
   この時信房は、石井城を任されるにあたり6060石を賜ったとある。これは知行を得たと
   考えるのではなく、地域の諸将を配下に収めるべく城に入ったと宗春は解釈した。
    石井領.jpg  漆窪・岡城.jpg
   この地域の諸将は、白井長尾氏の支配下にあったものと考えられ、地域内にその寄居が
   存在する。寄居の名は長尾氏の配下にある地侍たちが、有事において籠る砦であった。
   白井長尾氏は、長尾景春の乱以降。総社長尾氏は、大永年間に上杉家に背いて以降
   台頭してきた長野氏に圧迫されて支配力を失っている。このため当該地域を収めるべく
   下田氏を重臣として石井信房が石井城へ入ったものと考えられる。そして地域内の
   諸将は、これに従い箕輪城落城まで戦ったものとも考えられる。
  ※なおこれらの事は、しっかりした論拠によるもので無く今後の研究が期待される。

「だから止めとけ、言ったんじゃ」と業政じっちゃんに言われちゃう 2017.09.12

  10月
   4日 笛吹峠(碓氷峠)の戦い(この戦いは年代不明で幻の戦いと英知出版)
   これまで幻とされていた『碓氷峠の合戦』の可能性を検証していこうと思う。
    碓氷峠の合戦.jpg  碓氷峠城(仮).jpg
 『270』 信陽雑志 (十月、上杉方の倉賀野六郎・淡路守らが碓氷峠に出陣する)
   九月、上杉勢出張干白井之由、真田・芦田・相木等追々註進云々、
   同時使板垣守軽井沢、左馬介信繁・穴山伊豆守等為諏方番手、
   十月、上杉方倉賀野六郎・舎弟淡路守・見田五郎左衛門・上田又次郎
   ・松本兵部丞・和田左衛門尉・同兵部允・新田・舘林・山上、白井・忍・深谷
   ・五甘・厩橋・沼田・白倉・弥太郎・長板・松井田等都合二万三千余人
   陣干碓氷峠、板垣与相木・芦田進破之、
 〔解説〕
   武田晴信(信玄)ら甲斐勢が信濃国の村上義清らを攻撃した。
   その際、上杉憲政に率いられた上野勢二万三〇〇〇余人は、碓氷峠に出陣し、
   信濃勢を救援した。その上野勢の中に倉賀野六郎とその弟淡路守がみえる。
                       新編高崎市史資料編4(中世II)より
 

以前はありね~と思ってたけど、今はそうでもない、で範虎ちゃんは? 2017.09.09

 ◆三寺尾の合戦(和田記・甲陽軍鑑を元にした推察)
   18日巳の刻、信玄は急に甲府を立ち、当時新しく所属した上州の先手(市河・小幡?)
   を案内として兵を進め、甘楽郡南牧を押し通り同郡八木連(和田紀)又は鬼面(軍艦)
   に進出してそこを焼き払った。
    三寺尾の合戦.jpg  三寺尾の合戦の様子.jpg
  9月
   3日 内藤修理亮昌豊、馬場民部少輔信房、原加賀守昌俊、同隼人助昌勝父子、浅利民部
   小宮山丹後守昌友の六頭の手を以て九月三日戦が始った。
   ★三寺尾の合戦は史実かどうか疑問である説=多数説。
    しかし、 安中のふるさと館での富原道晴氏の資料
   『三寺尾の戦い』(江戸時代の資料・・・陣立図)があった。
    三寺尾の合戦にて、長野方の里見義光は戦没した。

3強に挟まれた上野国、裏切ったのではない、強い主を選んだのだ 2017.09.02

箕輪初心:生方▲箕輪城172峰岸純夫説を加味した『武田信玄の西上州侵攻&箕輪城落城』 より
  11月 政虎、関東に出陣する。
   2日 武田晴信は相木領内松原神社で、高田・諏訪(松井田)の戦勝祈願をした。
      西上野へ出陣する。(笹本正治氏 武田信玄)
   18日 上野高田城、二日後に国峯城を攻略。
   西上州を侵攻を開始し、国峰に在陣した。
                        (★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
    国峯城の城域.jpg  永禄4年倉賀野城の攻撃.jpg
   武田氏余地峠を越え砥沢に到着。
   武田信玄は小幡信貞の従兄弟の小幡図書之介に乗っ取られた国峰城
   を奪い返して、小幡憲重・信実(重貞→信実→信貞)に復帰させた。
   武田信玄は貫前神社に制札を出した。
  ※霜月(11月)24日
   小幡に晴信様が御出張の時、直ちに参上し申し出て受け取った。
                        (★「長年寺文書」の「天産受連覚書」)
 

夜間豪雨の本陣奇襲は、金敷平・原山?オープニングにしたいシーン 2017.08.29 

  ●箕輪城攻防戦(永禄4年) 『箕輪町史に見る長野氏の戦い』
   永禄四年四月、信玄其子義信と共に、二万余りの兵を以って侵入した。
   鷹留城主長野業通は其の弟業固に命じ秋間方面に出撃させた。
   業固退いて雉郷砦を守り、更に退いて鷹留城に入り、鳥川を境して彼我相対峙した。
   一方信玄は若田原辺から烏川を渡り、白岩、高浜の砦を攻落して、箕輪城に迫った。

    永禄4年箕輪城攻防戦.jpg  永禄4年4月箕輪城攻防戦03.jpg
   本城は※1業政死して、其子業盛は二月謙信に従つて相模に行き、老臣藤井豊後守友忠
   が守っていた。友忠城を守り、機を見ては出撃し大いに寄手を悩ませた。
   此の時保渡田此砦の援兵は白岩の砦を復し、和田城の授軍は高浜砦を復し、更に松井田、
   安中の援軍と共に敵の後を断った。※1現在有力説は、小田原に同行している。
 

戦国の世とは言え一族の多くが、その存続を賭けて戦い地に伏した 2017.08.26

ブログ『山城めぐり』『下仁田町古城と城主』⑪ 下仁田教育委員会著より
  まとめ
   小幡図書介によるものと考えられている国峯城乗っ取りは、謙信公の越山が8月である
   事から鑑みると、前年永禄3年9月であったと推定されます。
   長野業政の進言によるのであろうか、図書介には小田原に参陣せず上野に残り、信州の
   武田勢に備えたと考えられる。
   上杉本隊が留守の間を狙い、南牧に砦を築いて備える動きを見た図書介は、軍勢を派遣
   したところ、桧平にて合戦に及んだ。しかし、あえなく敗退し松井田・安中方面へ前線
   が移動してしまった。
   その後箕輪城にて、長野業政を欠く箕輪衆と合戦に及び、ひとしきり暴れた武田軍は撤
   退したと思われる。

    笹の平城03.jpg  桧平の合戦02.jpg
  「笹の平城」
   本丸です。この城は国峰城の小幡氏(図書之介)の最前線基地で地元の豪族高橋氏に築城
   させ、武田氏に付いた敵対する市川氏と戦闘があったと伝えられています。
   永禄3年(1560)? 小幡領の最前線として築城。武田信玄の侵攻。
   ・永禄4年(1561) 4月 笹渡戸の戦い(笹の平・檜平)武田信玄の攻撃で、落城。
   武田信玄の祠・・・箕輪城攻撃戦勝祈願。上野進出の足がかりになった戦である。
 

もしかしたら、お馬に乗って出撃した、じいちゃんの名前があるかもよ!2017.08.22

   ブリタニカのネット辞典に
   ぐんせい【軍制】
    「軍隊の諸制度の総称。軍隊の編制・運用の制度など。」とある

  ●初めに軍隊の編成(箕輪衆)について考えてみよう。
   長野家支配領域の、支城と守将の配置については検討してきた。
   次は、軍隊(手勢)の構成について考えてみる。
    業政期の長野家支配領域.jpg  箕輪支城.jpg
  ・まず箕輪衆(長野業政の軍勢)は、関東幕中文の内にある
   ⑦羽田彦太郎
    ★東吾妻町大柏木・・大柏木城=羽田城
   ⑪大戸中務少輔
    ★東吾妻町の大戸城
   ⑯高田小次郎
    ★妙義町菅谷城 
   など、上野国にて一領主として独立している諸将は除き、直接支配下にあったと考え
   られる諸将を、配下にし運用したとして、検討して行こうと思います。
   箕輪衆は、総勢1500で領域を守ったとされているので
   長野業政は、1500の手勢(大隊)を率いた総大将(大身の侍)と定義しておきます。
   *300騎(1500人)と考え修正していこうかなと。(騎上はもっと多いかも)
 

幸隆ちゃんには悪いことしたが、こっちにも都合があったんで許して 2017.08.16

 天文10年(1541)
  ・真田幸隆、故郷を追われて箕輪城に来る
  ・厩橋長野氏(厩橋城)と由良氏(金山城)が対立、山上氏は長野氏側へと離反
    神川の戦い.jpg  海野平の戦い.jpg
  5月 神川の戦い
   武田信虎は、諏訪頼重村上義清等ともに信濃佐久郡・小県郡へ侵攻した。
   13日 信虎、諏訪頼重・村上義清と共に小県郡の海野棟綱を攻める。
   海野棟綱ら滋野一族は抵抗するが尾野山城(上田)が落城し、海野平・矢沢などに
   おいて三氏の連合軍に敗退し、棟綱の嫡男・幸義は神川で戦死している。
   25日
   滋野一族は同日に総崩れとなると、海野棟綱・真田幸綱ら滋野一族は関東管領の上杉憲政
   を頼り、上野国へ亡命する。
  ①黒田基樹説では、大将は長野業正で、海野棟綱&真田幸綱(幸隆)も同行した
   と思われるとしている。 諏訪頼重は独断で山内上杉憲政と和睦を結び、芦田郷
   を支配地として割譲した。
  ②平山優説では、大将は不明だが、★諏訪頼重が長野業正との和睦で芦田城・長窪城
   を支配地とした。また海野棟綱は、家臣の深井棟広・小野沢守儀(もりよし)・
   瀬戸是慶らと平井城で過ごした。海野棟綱の消息が途絶える。客死したのであろう

通説では「川中島で忙しくて行ってらんね」だけど有ったかもしれん 2017.08.13

  ・弘治3年4月
   武田氏は西上州に侵入、迎え撃つ上州一揆勢と同月9日合戦に及ぶ。
「関八州古戦録」より
   下の図は、表面上は北条に従っているが、越後の長尾景虎の越山を企む管領家の諸将
    弘治3年西関東勢力図01.jpg  峰法寺口の合戦01.jpg
   瓶尻の戦いは、江戸時代の軍記物に紹介されているだけで、その実態は明らかにされて
   おらず、その史実を証明する史料も見当たらないとされている。
   そこで、富岡武蔵氏のBlogに見る「瓶尻(みかじり)の戦い」 を元に、他の資料と合
   わせて、この合戦を考察してみよう。その記事の中の「甲陽軍鑑」に、次の一節がある。
  狼藉の振る舞いがあって・・・
   北条氏康から晴信へ要請があり、「近年北越の長尾景虎がたびたび越山して、昔の管領家
   の旧臣と語らい、武州の岩槻の太田美濃守資正は、武州を望み、また箕輪の長野業政は、
   婚姻を手段として諸将との結びつきを固め、景虎に代わって西毛を掌握し、自己の保全と
   勢力拡張を図り、狼藉の振る舞いがあって困る。・・・」とある。

何か事情があって、吉業ちゃんは身を引いて菅谷筑前守となる(伝承) 2017.08.01

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
 ◆この地域の領主または、菅谷衆(仮)を率いていた侍大将を推定してみると

   菅谷衆(仮).jpg  sugayatakasakiraf.jpg
   ●説明板。
   「長野吉業は実弟:業盛に箕輪城を渡し、自らは弘治2年(1556)
   3月4日に菅谷城主となった。・・・
   その後、息子五郎左衛門は永禄六(1563)、武田軍と戦った。
   永禄七年(1564)武田軍との戦いにより討ち死にした。」
  ※2014年11月7日は住職:大木謙哉氏にお世話になりました。

  ②中泉氏 (柱 同一本 中泉兄弟)とある
   中泉の砦(高崎市中泉)

長野氏家発祥の地「浜川」、それは平安末期にまで遡り石上氏へ至る? 2017.07.25

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
   また、柱一本 松田右馬助ともある。特に浜川衆(仮)という名称があったわけでは
   ないが、豊後守が住吉城より、若田原へ向けて出撃したという軍着物の記述がある。
   そのため、これに従って守ったであろう、諸将と地域を想定してみた。
    浜川衆(仮).jpg  hamakawaraf.jpg
  ◆この地域の領主または、浜川衆(仮)を率いていた侍大将を推定してみると
  ① 【一ノ執権】
   ・藤井豊後守友忠・・・椿山で戦死。
    浜川城主・・・★長野業政の叔父・・
    業政亡き後は、長老として一族をまとめ氏業(業盛)を支えた。
    箕輪落城の時、城前にて箕輪武士の気概を見せつけ散ったと伝わる。

業政ちゃんは、堰を拡張開削して、流域支配したよね?きっと 2017.07.22

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
  ※3男:長野直業=石上直業(左京亮・竹頭院) (?~?)
   長野信業の3男or業政の庶子・・・現箕郷町富岡に在住。
   小花和業修系譜では、小塙若狭守高成と改名している。
   小塙(現高崎市小塙町・・)7邑(村)を領有している。
    長野堰.jpg  naganoseki.jpg
    街道と長野堰および、箕輪城支城の想像図
   上記のように、長野家の直轄地(長野堰の流域)であった事を思わせる記述がある。
   小塙地区に砦(小塙の砦)があり、小塙衆(仮)として地域を守ったと考えられるが
   誰が守ったかは検討する必要がある。

  ①長野直業=石上直業(左京亮・竹頭院) (?~?)
   長野信業の3男or業政の庶子・・・現箕郷町富岡に在住。
   車郷小学校&飯守神社&童子砦&稲荷砦一帯が城であった可能性がある。
   ・・・箕輪城を守る 為の大きな城があったと考えている。
  ② 【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)】
   ・飯塚左衛門丞忠則・・・・?
    並榎城(砦)(下並榎の砦?)住定居・・・高崎市並榎町天竜護国寺
 

「道を征する者は国を征する」と業政ちゃんが言ってたような気がする 2017.07.15

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
 この地域の領主または、板鼻衆を率いていた侍大将を推定してみると
  ①後閑城主:依田光慶 板鼻城
  ②岸監物頭忠清・・・・・・?
   【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
   板鼻砦住・・・・・安中市:板鼻城
  ③吉田伊豆守文頼・・・・
   【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
   →武田家臣:豊岡砦
  ④福田加賀守信義倉賀野16騎筆頭住立石(藤岡市立石?)剣崎小路城
    板鼻衆(仮).jpg  itahanajo01.jpg
   板鼻の地は、奥大道・鎌倉街道上道・信州街道・三国峠への道が交差する要衝である。
   長野氏を攻略するにあたり、碓氷川の南岸観音山丘陵の中腹に、砦を築いて対岸の
   板鼻を臨んだという。武田氏と長野氏の間で、永禄年間に幾たびかの決戦があった
   が、板鼻東方にある若田原もその一つとされている。
 

晴信ちゃんが攻めてきそうなんで、準備したのにばれちゃったみたい 2017.07.12

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
 この地域の領主または、室田衆を率いていた侍大将を推定してみると
十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
  ①鷺坂常陸守長信・・・・戦死。
   本郷砦住定居・・・高崎市旧榛名町本郷の高浜砦のことである。
   高浜砦と景忠寺砦兼任であろう。・・・匂坂常陸介長信(箕輪記)
  ※余湖先生のサイトより引用して
   御門(みかど)城(久留間の砦・本郷の砦・景忠寺城・高崎市榛名町本郷字三角)
   を本郷の砦と比定しておきます。
    本郷衆.jpg  takahamattyo.jpg

  本郷衆に想定する地域内の、城館の主あるいは守将をまとめて見る
   高浜城  :城主坂上氏・鷺坂常陸守長信
   三ツ子沢砦:新井氏(武田氏の時代)、もしくは清水氏の居館・青柳金王忠家
   本郷の砦(景忠寺城):長尾景忠?・鷺坂常陸守長信
   七曲の砦 :島方輝忠
   新井砦  :北爪周防守政勝
 

永禄9年、倉渕方面から連日攻められて、5月には落城しちゃったみたい 2017.07.08

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
 ・鷹留(室田)長野氏
   業尚や憲業のころ長野氏は鷹留城にあり、のち箕輪城に移ったともいわれる。
   その鷹留城は業尚の築城と伝え、箕輪城時代はその支城として機能した。
   憲業のあと鷹留城には業正の兄の三河守業氏が入った。この子孫を鷹留長野氏という。
    室田衆01.jpg  chounenji1.jpg 
 この地域の領主または、室田衆を率いていた侍大将を推定してみると
  ①長野業氏・業通父子(鷹留(室田)長野氏)
   系図①長年寺(鷹留長野氏)の系図
   長年寺所蔵のものは、鷹留城主であった業氏の子
   孫が作成したもので、業氏の兄弟である業政に関わる記述は少ない。

 【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
  ②石井左京大夫讃岐守信房(室田鷹留城主:軍師)・・戦死。
   安房里見義堯の娘は長野業政に嫁いだ。長野業政の養子
   現前橋富士見の石井城→旧榛名鷹留城の守城へ
   石井左京大夫讃岐守信房(室田鷹留城主:軍師)
 

永禄年間に甲州勢との戦で、那波無理之介ちゃんに高浜城を強襲された 2017.06.27

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
  この地域の領主または、里見衆を率いていた侍大将を推定してみると
 ・【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)+α
 ・【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
 ・【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)】
   石井左京大夫讃岐守信房(室田鷹留城主:軍師)・・戦死。
    里見衆02.jpg  kijigou01.jpg
   長野信濃守在原業政家臣録=着到帳の中に、【中小姓以下同じ】大島団六とあるがおそ
   らく一族の者と考えられる。
   また【給人以下同じ】の項目に、里見兵左衛門里見久右衛門の名がみえるが、在地に
   あった一族か、河内守のように戻ってきたかは定かでない。

  • 最終更新:2017-10-12 21:22:45

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