箕輪城と上州戦国史

ごあいさつ

  1. ご訪問ありがとうございます。このサイト(ホームページ)は、FC2様の運営するWikiのシステムを利用して作成されたものです。今年2年目に入りますが、孤軍奮闘していこうと思います。
  2. 掲載されている内容は箕輪初心氏のブログから、許可を得て引用し、まとめたものです。ことわりのない限りは、師からの引用を管理者の解釈を含めて載せております。最近Wikipediaよりの引用が増えてきました。研究者の論文も用いて作成されているようで、最新のものも多く方々には感謝しております。余湖先生の縄張り図も、分かりやすく重宝しております。
  3. このサイトには目的があります、それは大河ドラマを制作すること。言い換えるなら管理者である宗春が、夢を見続けるための道具なのです。学んで行くうちに、榛名山麓になびく旗印がおぼろげながら見えて参りました。また、上野国・上州とは現在の群馬県のことです。

  • 最近の独り言・・・県立文書館に、武田信玄から長野信濃守に宛てた文書がある
   武田晴信書状「笛吹峠にて上杉家との交戦に感謝~~~」 偽物かもしれん?
                        (永禄初年カ)11月15日)
   今まで、山内上杉家に義理立てて、北条や武田に降らなかったと軍記ものが伝えてきた
   実はまったく真逆で、一刻も早く武田に同心してそのの同盟である、北条との戦を避け
   たかった、と考えたらどうだろうか? 実に妙案だと思うのだが・・・であるならば
   何がそれを妨げたのだろうか? 面白い物語ができそうだ。  2017.08.17 宗春
 
2016年5月23日作成開始 宗春

トピックス

幸隆ちゃんには悪いことしたが、こっちにも都合があったんで許して 2017.08.16

 天文10年(1541)
  ・真田幸隆、故郷を追われて箕輪城に来る
  ・厩橋長野氏(厩橋城)と由良氏(金山城)が対立、山上氏は長野氏側へと離反
    神川の戦い.jpg  海野平の戦い.jpg
  5月 神川の戦い
   武田信虎は、諏訪頼重村上義清等ともに信濃佐久郡・小県郡へ侵攻した。
   13日 信虎、諏訪頼重・村上義清と共に小県郡の海野棟綱を攻める。
   海野棟綱ら滋野一族は抵抗するが尾野山城(上田)が落城し、海野平・矢沢などに
   おいて三氏の連合軍に敗退し、棟綱の嫡男・幸義は神川で戦死している。
   25日
   滋野一族は同日に総崩れとなると、海野棟綱・真田幸綱ら滋野一族は関東管領の上杉憲政
   を頼り、上野国へ亡命する。
  ①黒田基樹説では、大将は長野業正で、海野棟綱&真田幸綱(幸隆)も同行した
   と思われるとしている。 諏訪頼重は独断で山内上杉憲政と和睦を結び、芦田郷
   を支配地として割譲した。
  ②平山優説では、大将は不明だが、★諏訪頼重が長野業正との和睦で芦田城・長窪城
   を支配地とした。また海野棟綱は、家臣の深井棟広・小野沢守儀(もりよし)・
   瀬戸是慶らと平井城で過ごした。海野棟綱の消息が途絶える。客死したのであろう

通説では「川中島で忙しくて行ってらんね」だけど有ったかもしれん 2017.08.13

  ・弘治3年4月
   武田氏は西上州に侵入、迎え撃つ上州一揆勢と同月9日合戦に及ぶ。
「関八州古戦録」より
   下の図は、表面上は北条に従っているが、越後の長尾景虎の越山を企む管領家の諸将
    弘治3年西関東勢力図01.jpg
   瓶尻の戦いは、江戸時代の軍記物に紹介されているだけで、その実態は明らかにされて
   おらず、その史実を証明する史料も見当たらないとされている。
   そこで、富岡武蔵氏のBlogに見る「瓶尻(みかじり)の戦い」 を元に、他の資料と合
   わせて、この合戦を考察してみよう。その記事の中の「甲陽軍鑑」に、次の一節がある。
  狼藉の振る舞いがあって・・・
   北条氏康から晴信へ要請があり、「近年北越の長尾景虎がたびたび越山して、昔の管領家
   の旧臣と語らい、武州の岩槻の太田美濃守資正は、武州を望み、また箕輪の長野業政は、
   婚姻を手段として諸将との結びつきを固め、景虎に代わって西毛を掌握し、自己の保全と
   勢力拡張を図り、狼藉の振る舞いがあって困る。・・・」とある。

何か事情があって、吉業ちゃんは身を引いて菅谷筑前守となる(伝承) 2017.08.01

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
 ◆この地域の領主または、里見衆を率いていた侍大将を推定してみると

   菅谷衆(仮).jpg  sugayatakasakiraf.jpg
   ●説明板。
   「長野吉業は実弟:業盛に箕輪城を渡し、自らは弘治2年(1556)
   3月4日に菅谷城主となった。・・・
   その後、息子五郎左衛門は永禄六(1563)、武田軍と戦った。
   永禄七年(1564)武田軍との戦いにより討ち死にした。」
  ※2014年11月7日は住職:大木謙哉氏にお世話になりました。

  ②中泉氏 (柱 同一本 中泉兄弟)とある
   中泉の砦(高崎市中泉)

長野氏家発祥の地「浜川」、それは平安末期にまで遡り石上氏へ至る? 2017.07.25

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
   また、柱一本 松田右馬助ともある。特に浜川衆(仮)という名称があったわけでは
   ないが、豊後守が住吉城より、若田原へ向けて出撃したという軍着物の記述がある。
   そのため、これに従って守ったであろう、諸将と地域を想定してみた。
    浜川衆(仮).jpg  hamakawaraf.jpg
  ◆この地域の領主または、浜川衆(仮)を率いていた侍大将を推定してみると
  ① 【一ノ執権】
   ・藤井豊後守友忠・・・椿山で戦死。
    浜川城主・・・★長野業政の叔父・・
    業政亡き後は、長老として一族をまとめ氏業(業盛)を支えた。
    箕輪落城の時、城前にて箕輪武士の気概を見せつけ散ったと伝わる。

業政ちゃんは、堰を拡張開削して、流域支配したよね?きっと 2017.07.22

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
  ※3男:長野直業=石上直業(左京亮・竹頭院) (?~?)
   長野信業の3男or業政の庶子・・・現箕郷町富岡に在住。
   小花和業修系譜では、小塙若狭守高成と改名している。
   小塙(現高崎市小塙町・・)7邑(村)を領有している。
    長野堰.jpg  naganoseki.jpg
    街道と長野堰および、箕輪城支城の想像図
   上記のように、長野家の直轄地(長野堰の流域)であった事を思わせる記述がある。
   小塙地区に砦(小塙の砦)があり、小塙衆(仮)として地域を守ったと考えられるが
   誰が守ったかは検討する必要がある。

  ①長野直業=石上直業(左京亮・竹頭院) (?~?)
   長野信業の3男or業政の庶子・・・現箕郷町富岡に在住。
   車郷小学校&飯守神社&童子砦&稲荷砦一帯が城であった可能性がある。
   ・・・箕輪城を守る 為の大きな城があったと考えている。
  ② 【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)】
   ・飯塚左衛門丞忠則・・・・?
    並榎城(砦)(下並榎の砦?)住定居・・・高崎市並榎町天竜護国寺
 

「道を征する者は国を征する」と業政ちゃんが言ってたような気がする 2017.07.15

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
 この地域の領主または、板鼻衆を率いていた侍大将を推定してみると
  ①後閑城主:依田光慶 板鼻城
  ②岸監物頭忠清・・・・・・?
   【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
   板鼻砦住・・・・・安中市:板鼻城
  ③吉田伊豆守文頼・・・・
   【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
   →武田家臣:豊岡砦
  ④福田加賀守信義倉賀野16騎筆頭住立石(藤岡市立石?)剣崎小路城
    板鼻衆(仮).jpg  itahanajo01.jpg
   板鼻の地は、奥大道・鎌倉街道上道・信州街道・三国峠への道が交差する要衝である。
   長野氏を攻略するにあたり、碓氷川の南岸観音山丘陵の中腹に、砦を築いて対岸の
   板鼻を臨んだという。武田氏と長野氏の間で、永禄年間に幾たびかの決戦があった
   が、板鼻東方にある若田原もその一つとされている。
 

晴信ちゃんが攻めてきそうなんで、準備したのにばれちゃったみたい 2017.07.12

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
 この地域の領主または、室田衆を率いていた侍大将を推定してみると
十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
  ①鷺坂常陸守長信・・・・戦死。
   本郷砦住定居・・・高崎市旧榛名町本郷の高浜砦のことである。
   高浜砦と景忠寺砦兼任であろう。・・・匂坂常陸介長信(箕輪記)
  ※余湖先生のサイトより引用して
   御門(みかど)城(久留間の砦・本郷の砦・景忠寺城・高崎市榛名町本郷字三角)
   を本郷の砦と比定しておきます。
    本郷衆.jpg  takahamattyo.jpg

  本郷衆に想定する地域内の、城館の主あるいは守将をまとめて見る
   高浜城  :城主坂上氏・鷺坂常陸守長信
   三ツ子沢砦:新井氏(武田氏の時代)、もしくは清水氏の居館・青柳金王忠家
   本郷の砦(景忠寺城):長尾景忠?・鷺坂常陸守長信
   七曲の砦 :島方輝忠
   新井砦  :北爪周防守政勝
 

永禄9年、倉渕方面から連日攻められて、5月には落城しちゃったみたい 2017.07.08

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
 ・鷹留(室田)長野氏
   業尚や憲業のころ長野氏は鷹留城にあり、のち箕輪城に移ったともいわれる。
   その鷹留城は業尚の築城と伝え、箕輪城時代はその支城として機能した。
   憲業のあと鷹留城には業正の兄の三河守業氏が入った。この子孫を鷹留長野氏という。
    室田衆01.jpg  chounenji1.jpg 
 この地域の領主または、室田衆を率いていた侍大将を推定してみると
  ①長野業氏・業通父子(鷹留(室田)長野氏)
   系図①長年寺(鷹留長野氏)の系図
   長年寺所蔵のものは、鷹留城主であった業氏の子
   孫が作成したもので、業氏の兄弟である業政に関わる記述は少ない。

 【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
  ②石井左京大夫讃岐守信房(室田鷹留城主:軍師)・・戦死。
   安房里見義堯の娘は長野業政に嫁いだ。長野業政の養子
   現前橋富士見の石井城→旧榛名鷹留城の守城へ
   石井左京大夫讃岐守信房(室田鷹留城主:軍師)
 

永禄年間に甲州勢との戦で、那波無理之介ちゃんに高浜城を強襲された 2017.06.27

Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの
  この地域の領主または、里見衆を率いていた侍大将を推定してみると
 ・【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)+α
 ・【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
 ・【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)】
   石井左京大夫讃岐守信房(室田鷹留城主:軍師)・・戦死。
    里見衆02.jpg  kijigou01.jpg
   長野信濃守在原業政家臣録=着到帳の中に、【中小姓以下同じ】大島団六とあるがおそ
   らく一族の者と考えられる。
   また【給人以下同じ】の項目に、里見兵左衛門里見久右衛門の名がみえるが、在地に
   あった一族か、河内守のように戻ってきたかは定かでない。

業政ちゃんの、箕輪城南西部に広がる領域と支城網なのです 2017.5.30 

   『長野信濃守在原業政家臣録=着到帳』から、長野家の支配領域について考察して見よう
   と思う。今まで知られていたことが覆されて、違った当時の様子が見えてくる気がして
   ならない。戦国時代を描くうえで、大事なことだと思う。
   そこで「箕輪城と長野氏」(近藤 義雄氏著 戎光祥出版)ならびに『長野業政と箕輪城
   (久保田順一氏著 戎光祥出版)とを元に調べてゆく事にする。

     箕輪城と長野氏.jpg   箕輪城領域_南02.jpg 

 

色々探して見たがどこにも載ってないので、こんな歴史を考えてみた。 2017.5.14

二柳・夏目・青柳塁系譜(青柳家文書)とWikiより編集
   信濃村上氏である、源満仲の五弟満快を祖とする一族。
   平安時代後期に信濃守として下向した源為公(満快の曾孫)の子である源為邦(村上源判
   官代)に始まる。平安時代末期には奥州合戦の功によって信濃夏目郷の地頭職を与えられ
   た国忠の後裔が夏目氏を称した。

   南北朝時代、南朝方の新田武蔵守義宗に味方した、源高頼(夏目次郎左衛門尉高頼)
   現れる。次郎左衛門尉高頼は、葛尾城にあった村上氏に仕え、岩尾・志賀・二柳を輩出
   した。

    二柳・夏目・青柳01.jpg  二柳・夏目・青柳03.jpg

   戦国時代に二柳直信は、筑摩郡の青柳郷へ移り住んだのが青栁氏の始まりである。
   その後青栁氏は、時代の荒波にのまれ村上・小笠原・武田など主家を変えていった。
   その過程で一族は分家して行き、上野長野氏に仕えた青栁金王忠家なども知られている。
 

関東戦国の風雲児3人衆(為景・景春・宗瑞)のひとり、かげはるちゃん 2017.5.6

Wikiと黒田氏の書籍・初心師のサイトより編集してまとめたもの
   戦国時代の武将。北条早雲と並ぶ関東における下克上の雄の一人である。
   生誕:嘉吉3年(1443年)
   死没:永正11年8月24日(1514年9月22日)
   別名:孫四郎、四郎左衛門尉(通称)
   官位:左衛門尉

    長尾景春.jpg   日尾城.jpg
                    余湖くん様のHPより

   景春の白井長尾家は、祖父の景仲が山内上杉家の家宰を務めてから筆頭家老となり、父
   も家宰として勢力を伸ばした。景春も山内上杉家の家臣として享徳の乱で古河公方・足利
   成氏と戦い、文明3年(1471年)に父と共に成氏の古河城攻めにも参戦している。
   景春は、この後上杉家に反旗を翻し『長尾景春の乱』を引き起こすのである。よって
   彼の年表による経歴はここでは割愛することにした。

   下剋上の雄とされたこの男『長尾景春』は、白井長尾景信の子であるが、父の死後その
   職位を継げなかった事を恨み乱を起こしたとされている。本当にそうであろうか?
   白井城・上杉憲房・白井長尾氏は、箕輪長野氏と深く係わりを持っている。このことは
   しばしこのサイト内で語っている。景春について、ここで少し掘り下げてみるとしよう。
 

おじいちゃんごめんなさい、宗春はえらい勘違いをしてたかもしんない 2017.5.3

   新たに出て来た文書は、宗春の想像をはるかに上回っていて、とても信じられない
   文書の整理番号にH22とあったので、平成22年に届けられた物かと考えられる。
   そうであれば、今まで広く知られていなかった事に納得がいく。
   群馬県立文書館よりコピーしてもらった系図を下に、再考して行くことにする。

   金王忠家は、清和源氏源満快流:二柳流:夏目流:箕輪青柳氏という事になる。
   また初代二柳国高の父為邦は村上義清の先祖の家系から養子に入ったと伝わる。

      二柳・夏目・青柳03.jpg   二柳・夏目・青柳02.jpg
     郡馬県立文書館より(寄贈者の方より掲載許可いただきました)

  ・文禄元年(1592) 井伊直政が江戸留守居役となった。江戸城普請を担当した。
  ※箕輪人口推定2万人以上~最高4万人は関東2番目規模か?
   井伊直政の領内検地を(12万石)したと伝わるが、この時のものと思われる下芝村への
   年貢定め書が、『下芝百姓中』宛てに出された物として伝わっている。

   だれが言い始めたのであろう?『歴史は変わる』未来の事ではなく、過去のそれである。
   掲載されている内容について、考察しその歴史をわかる範囲で探ってみよう。
 

  • 最終更新:2017-08-17 00:52:12

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