周辺遺跡現地説明会
周辺遺跡現地説明会
- 周辺遺跡現地説明会・・・★和銅4年(711)多胡碑が多胡郡が設置された。羊(ひつじ)とい
う渡来人が東国移住し、多胡郡を建郡。朝廷は羊に支配を任せる。弁官局からの命令を記述した内容となっている。多胡碑は現在「御門」という地名にあるが、「郡衙(ぐんが)」が置かれた場所だと推定されている。それ故、ここ数年、周辺調査が行われている。今回も現地研修会が行われているのは郡衙との関わりを高崎市の教育委員会が調査しているからである。多胡碑から南西500m程の場所である。上毛新聞に高崎市教委の田口先生の説明で「郡衙時代の寺か?」とあった。
箕輪初心★群馬『多胡碑&周辺遺跡現地説明会20140309』 より
◆◆ 上毛4碑の歴史 ◆◆
- ★上毛3古碑を年代順に追うと、以下のようになる。
- ①681年の高崎市山名:山上碑・・・放光寺の僧:長利が、自分の系譜を記し、母の黒売刀自を供養したものである。
- ②711年の高崎市吉井:多胡碑・・羊(ひつじ)という渡来人が東国移住し、多胡郡を建郡。朝廷は羊に支配を任せる。
- ③726年の高崎市山名:金井沢碑・・石碑を建てて神仏に誓った。=先祖供養の仏教碑なのである。群馬への仏教の伝来が東大寺・国分寺建立以前にあったことを意味している。
- ④801年の山上多重塔(群馬県みどり市山上)道輪という僧が、朝廷や衆生の安楽のために法華経を安置する塔を建てたものである。平安時代初期の東毛への仏教文化伝来を知る上で、重要である。
◆◆ 多胡碑 ◆◆
- 【1】多胡碑
【銘文】
弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊
【読み方】
弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘
良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて
多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅
に宣る。左中弁・正五位下多治比真人。
太政官・二品穂積親王、左太臣正二
位石上尊、右太臣正二位藤原尊。
【現代語訳】
朝廷の弁官局(べんかんきょく)からの命令があった。
上野国の片岡郡・緑野郡(みどのぐん)・甘良郡
(かむらぐん)の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡を
つくり、羊(ひつじ)という人に支配を任せる。
郡の名前は多胡郡としなさい。
和銅4年(711年)3月9日の甲寅(きのえとら)の日
に宣(の)べられた。
左中弁正五位下:多治比真人(たじひのまひと)の宣旨である。
また、多胡郡を作ることを決めたときの太政官は
二品(にほん)位:穂積親王(ほづみのみこ)、
左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様、
右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様。
(★説明書き)
- 【1】H23年度周辺遺跡・・・多胡碑博物館
- 【2】H24年度周辺遺跡・・・多胡碑博物館
- 【3】H25年度周辺遺跡・・・多胡碑西約500m程
1)発掘調査現地説明会 ★高崎市教委:寺島先生が説明して下さった。
(★パフレットの航空図)右の森がが池城
・33号
・32号
・29号
・以前のトレンチ場所の写真 ・28号・・・排水溝があったという。
・以前のトレンチ場所北の溝
2)多胡碑博物館の外での展示物 ★高崎市教委:田口先生が説明して下さった。
・製鉄の廻りの壁?
・田口先生の製鉄想像図
- 最終更新:2016-05-30 14:28:53