多胡の古碑文

多胡の古碑文

多胡の古碑文・・・上野3碑の中で、多胡の古碑には、石上の性が刻まれている。これを現代語訳すと次のようになる。「弁官局からの命令である。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる。郡の名前は多胡郡とせよ。これは和銅4年3月9日甲寅に宣べられた。左中弁・正五位下多治比真人。太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊。」(「箕輪城と長野氏」より)

  • 多胡碑研究の歴史・・・★和銅4年(711)多胡碑が多胡郡が設置された。羊(ひつじ)という渡来人が東国へ移住し、多胡郡を建郡。朝廷は羊に支配を任せる。弁官局からの命令を記述した内容となっている。700年後、建久6年(1509) 連歌師:宗長の「東路の津登」で多胡碑を紹介した。約900年後から、研究が急速に発展した。参考文献は「多胡碑の江戸時代」:多胡碑博物館著である。実に素晴らしい研究であった。400円って、安すぎる。十分、楽しめた。3月9日、16日は3碑は覆堂の中に入って、直接碑文が見られる日のであった。
箕輪初心★多胡碑&「多胡碑研究の歴史」 より

う渡来人が東国移住し、多胡郡を建郡。朝廷は羊に支配を任せる。弁官局からの命令を記述した内容となっている。多胡碑は現在「御門」という地名にあるが、「郡衙(ぐんが)」が置かれた場所だと推定されている。それ故、ここ数年、周辺調査が行われている。今回も現地研修会が行われているのは郡衙との関わりを高崎市の教育委員会が調査しているからである。多胡碑から南西500m程の場所である。上毛新聞に高崎市教委の田口先生の説明で「郡衙時代の寺か?」とあった。
箕輪初心★群馬『多胡碑&周辺遺跡現地説明会20140309』 より

  • 多胡碑シンポジウム・・・上毛三碑(①多胡碑、②山上碑、③金井沢碑)+④山上多重塔には、見学に行っている。しかし、内容は未だに把握していない。多胡碑シンポジウムは、4人の大先生が講演後、シンポジウムをする。10時~17時までの長丁場なので午後から行くことにした。★結果的には「5C~8Cにかけて、群馬は韓国・中国からの渡来人の宝庫で、朝廷の東国支配の拠点であることが分かった。」だけだった。
箕輪初心■群馬「多胡碑シンポジウム」3月6日より

  • 最終更新:2016-05-29 22:41:09

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