島田宗長の『東路の津登』
島田宗長の『東路の津登』
箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨より
- 永正6年(1509) 『東路の津登』
(★『群書類従』・・・宗長『東路の津登』より)
「永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より出立。」
※出発は永正六年文月十六日とある。
- 鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)
長尾孫太郎顯方の舘はちがた(埼玉県大里郡寄居町鉢形)と
いふ處につきぬ。政定馬上ながらくちずさびに。
むさし野の 露のかきりは 分もみつ
秋の風をは しら川の關
この比。越後の國鉾楯により。
武藏上野の侍進發のこと有て。
いづこもしづかならざりしかば。ひと夜有て。
★となると、長尾孫太郎顯方は鉢形城を築城した長尾景春
の家系ではなく、上杉顕定に重用された長尾景春の叔父
の系統ということになるのはないだろうか。
★いずれにしても上杉顕定の守護代として、長尾孫太郎顕方
は鉢形に残っていたことになる。扇ガ谷上杉定正と対立し
ていたからである。顕方の「顕」は上杉顕定から一字を貰ったのであろう。
●長井(埼玉県大里郡妻沼町)
~~~~利根川~~~~~~~~
●新田庄(群馬県新田郡)
●下野の足利庄●佐野 ●室の八幡(栃木市)
●鹿沼●日光●鹿沼●佐野●足利
●新田之庄●太田●大胡(前橋市大胡)
9月~~~~~~~~~~~~
●青柳(前橋市青柳)●荒蒔(前橋市荒牧)
「松田加賀守・・重陽(旧暦9月9日)の連歌会」
宗長は松田加賀守とは文通していた。
●大戸(東吾妻町)
●草津・・10日間滞在した。
●大戸
9月25日
●板鼻か後閑(安中市)
「きのふけふ(昨日今日)ふわけ出侍る。山中前後左右の
紅葉の興計なるべし。過諄九月廿五日、太守佳例の
法楽の連歌 依田中務少輔泊にして、
菊さきて あらそふ秋の 花もなし
規懐紙を越後の陣へとなん。
●はま川並松別当(★古い字)にして
色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」
★依田中務少輔(しょうゆう)光幸の宿所で
太守=上杉顕定主催の「法楽の連歌」に参加した。
連歌は越後上杉顕定の陣(新潟県六日町?)に送られた。
- 『宗長の生涯』
★戦国時代、武将も連歌等の文芸に嗜んだようである。
宗祇と宗長達は連歌の拡大を目指して旅をした。 宗長の永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
(★千葉市の戦国時代の城館跡より)
★★ 宗長の生涯 ★★
文安5年(1448)~天文元年(1532)
・文安5年(1448) 駿河国島田(現静岡県島田市)で
鍛冶職:五条義助の子として生まれた。
・寛正6年(1465) 18歳で出家した。
「下職の者の子ながら、十八にて法師になる」 (★宇津山記)
・寛正6年(1465)18歳
宗長は駿河守護の今川義忠に仕えた。
・文正元年(1466)19歳
秋、連歌師宗祇が関東に下向した。 途中、験府で今川義忠を訪ねた。 今川義忠の命令で、宗長は宗祇を名月の清見が関 (清水市興津)に案内した。 ※宗長&宗祇との出会いは宗長の一生を決定づけることの
なった。
・応仁元年(1467) 応仁の乱が勃発した。
8代将軍:足利義政の継嗣争い・・・・
細川勝元 VS 山名持豊(山名宗全)
今川義忠1,000騎を率いて上洛した。 東軍へ属した。細川政元の味方になった。 上洛中に伊勢新九郎(北条早雲)の姉妹の北川殿と結婚 した。
戦渦は全国に拡大していった。 足利幕府や守護大名の衰退・・・・
約10年間にわたって継続した内乱となった。
京都は壊滅的な被害を受けて荒廃した。 戦国時代に突入していった。
・文明8年(1476)今川義忠が戦死した。
宗長は駿河を去り上洛した。 宗長は室町時代の連歌師:宗祇(1421~1502)の弟子 となった。宗祇に連歌を学んだのだ。
・??年 大徳寺の一休宗純に参禅した。
大徳寺の真珠庵の傍らに住んだ。
・文明10年(1478)
宗祇と宗長は越後の上杉氏を訪ねた。
宗祇の種玉庵は将軍・管領・公家の居住する地区である。 公家:三条西実隆 管領:細川高国 周防の大内義興(山口城) 能登の畠山氏(七尾城) 越後の上杉房能(上越市)らと連歌を詠んだ。
・文明12年(1480)
宗祇と宗長は筑紫の立花氏?を訪ねた。
「博多千句」を興行し、『筑紫道記(みちのき)』を著した。
・文明13年(1481) 一休宗純がで死んだ。
山城国薪村(現京都府京田辺市)の
酬恩庵に住んで一休宗純の菩提を弔った。
・長享2年(1488) 師匠:宗祇が北野連歌所宗匠となった。
★名実ともに連歌界の第一人者となった。
・長享2年(1488) 『水無瀬三吟百韻』に参加した。
宗祇は北野連歌所宗匠の座を兼載に譲った。
・長享2年(1488) 水無瀬三吟百韻に参加した。
・延徳3年(1491) 湯山三吟百韻に参加した。
・明応4年(1495) 兼載らと『新撰菟玖波集』を撰集した。
この中に、岩松尚純9句&横瀬国繁3句ある。
1)岩松尚純が9句 「 なでつくす 袖か岩ほの 朝霞 」 「 郭公 月にいざよふ 雲間哉 」 「 風でまたで 露におられよ 萩が花 」
2)小野(横瀬)国繁は3句
3)小野(横瀬)業繁が2句
※文学史の偉大な足跡を残した。
・明応5年(1496) 駿河に戻って今川氏親に仕える。
宗長は今川氏親の外交顧問であった。 ※各地を旅した。
合計2度にわたって、周防の大内義興を訪ねた。
・明応9年(1500)
・文亀2年(1502)
宗祇は7度目の越後の上杉氏を訪ねた。
宗祇は越後で体調を崩した。 宗長は宗祇を見舞うため、駿河→鎌倉→(鎌倉上道)・・
板鼻・・・東山道・・北国街道・・越後国府(上越市)
しかし、宗長が病気になってしまった。
宗祇は弟子の宗長、宗碩らに伴われて越後国府→中野→菅平 →菅平・(真田の地)・・鳥居峠・・・(吾妻)・・・大津 宗長は草津温泉で療養=湯治することになった。 宗祇は伊香保温泉で休憩・・・発病した。
おそらくは船で・・・江戸→鎌倉・・・
宗祇は富士山を見たがっていた。
「富士をも もう一度 見侍らん」 (★宗祇終焉記) 美濃に向かう途中、箱根湯本の旅館で没した。 宗長は最期を看取った。 「おのおのこゝろをのどめて、あすは此の山をこゆべき用意
せさせて、うちやすみしに、夜中過るほど、いたくくるしげ
なれば、をしうごかし侍れば、只今の夢に定家卿にあひたて まつりしといひて、玉のをよ絶えなばたえねといふ哥を吟ぜ られしを、聞く人、是は式子内親王の御哥にこそと思へるに、 又このたびの千句の中にありし前句にや、
「 ながむる月に たちぞ うかるる 」
といふ句を沈吟して、我は付けがたし、みなみな付け侍れな
どたはぶれにいひつつ、ともし火のきゆるやうにしていきも
絶えぬ。
・8月11日 宗長は清見ヶ関に着いた。
「道のほど、たれもかれももの悲しくてありし山ぢのうが
りしも、なきみわらひみかたらひて、清見が関に十一日
につきぬ。夜もすがら磯の月をみて、宗長
「 もろともに 今夜清見 が関ならば
おもふに月も 袖ぬらすらん 」
駿河桃園(現静岡県裾野市)定輪寺に葬られた。 宗長は「宗祇終焉記」を著した。 宗祇没後は宗長&宗碩が連歌界の中心となった。
・永正元年(1504) 斎藤安元の援助により駿河国丸子(現静岡市
丸子=まりこ)の郷泉谷に柴屋軒(現吐月峰柴屋寺)を結んで
隠棲した。
駿河&京との間を行き来した。 大徳寺の山門造営にも関与した。
宗長は、今川氏親の命で甲斐の武田信虎との講和を成立させる
など外交面でも働いた。
・永正5年(1508)越後守護:上杉房能(ふさよし)が
守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に八海山の麓で
殺された。長尾為景が佐渡の娘婿:本間氏の援助を
受けたのである
・・・関東管領:山内上杉顕定が越後に出兵した。
・永正6年(1509) 『東路の津登』
(★『群書類従』・・・宗長『東路の津登』より) 「永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より
出立。」
※出発は永正六年文月十六日とある。
「思ひつつ幾春か過し・・」 ★数年前の宗祇7回目の越後&草津・箱根の影響も
あると思われる。
7月16日 宗長は白河の関を見ようと駿河丸子(まりこ)を
出発した。
●丸子→
●駿府→ ●小田原
●藤沢
・・・・鎌倉上道・・・
丸子・沼津・小田原・藤澤と経由して
「八月十一日むさしの国・・・」
●府中(東京)
●青梅
「八月十一日 武蔵の国勝沼(東京都青梅市勝沼)といふ処 に至りぬ。 三田弾正忠氏宗此処の領主たり。兼ねてしも白川の道々の
事申しかよはし侍りしかば、こゝのやすらひ十五日に及べり。
連歌たびたびあり。
きりはたゞ わけ入る八重の 外山かな
此の山家、うしろは甲斐の国の山。北は秩父といふ山に つづきて誠に深山とは、ここをや申すべからむ。 此処の山深き心なるべし.
おなじ処に山寺あり。前は武蔵野なり、 杉本坊といふにして,
露をふく 野風が花に 朝ぐもり
むさし野の景気ばかりなり。」
★「景気」は景色・風景の美しさを称えているのであろう。
※柴屋軒宗長は武蔵国勝沼(青梅市)の三田弾正忠氏宗の
居館を訪づれ半月ほど滞在したのだった。
三田氏宗&三田政定は宗長を手厚くもてなし、宗長 の滞在中に度々連歌の会を催している。 ★和歌の嗜みもあったのであろう。
※宗長の文章は上杉顕定・憲房の越後出陣中の武蔵国の不安な
状況を示している。三田氏宗&政定らは山内顕定の家臣であっ
たのに出陣しなかった。何故か?・・・わからん。
※三田氏宗&三田政定父子~~~~~~~
武蔵国杣保(現青梅市)に根を張った国人で平将門の
後裔と称していた。
三田氏宗関東管領山内上杉顕定の配下として活動している。 長享の乱・・・長尾能景が扇谷上杉氏方から奪い取った
椚田城(初沢城)の城主になった。
三田氏宗の勝沼城とその周辺が所領であった。 永禄6年(1563)三田氏は北条氏照に攻められて滅亡した。
「同十五日。氏宗おなじく息政定これかれ駒うちならべ。 むさし野の萩薄の中を過行がてに。」
●鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)
長尾孫太郎顯方の舘はちがた(埼玉県大里郡寄居町鉢形)と
いふ處につきぬ。政定馬上ながらくちずさびに。 むさし野の 露のかきりは 分もみつ
秋の風をは しら川の關
この比。越後の國鉾楯により。
武藏上野の侍進發のこと有て。
いづこもしづかならざりしかば。ひと夜有て。
★となると、長尾孫太郎顯方は鉢形城を築城した長尾景春
の家系ではなく、上杉顕定に重用された長尾景春の叔父 の系統ということになるのはないだろうか。
・永正2年(1505)長尾景春は上野国に戻って白井城に入った。.
上杉顕定の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。
★いずれにしても上杉顕定の守護代として、長尾孫太郎顕方
は鉢形に残っていたことになる。扇ガ谷上杉定正と対立し
ていたからである。顕方の「顕」は上杉顕定から一字を
貰ったのであろう。
●長井(埼玉県大里郡妻沼町)
「翌日日たけて。 長井の誰やらんの宿所へと送らる。 夜に入ておちつきぬ。」
~~~~利根川~~~~~~~~
明る朝。利根川の舟渡りをして。
●新田庄(群馬県新田郡)
「上野の國新田の庄(群馬県新田郡)に禮部尚純(岩松尚純)
隱遁ありて。今は靜喜かの閑居に五六日。」
★岩松尚純は横瀬=由良一族に太田金山城を奪われて
いて、「静喜」と名乗っていた。
連歌たびたびにおよべり。
5~6日、連歌を楽しんだ。
●下野の足利庄(栃木県足利市)
・足利学校
・ばんな寺
●佐野 佐野泰綱を訪ねた。
●室の八幡(栃木市)
「あづま路の 室のやしまの 秋のいろは
それとも分かぬ 夕烟(けぶり)哉 」
柴屋軒宗長
●鹿沼
下野宇都宮氏家臣の壬生綱重の鹿沼の館に招かれた。 壬生綱房&綱重父子を訪ね、連歌会を開いた。 「六十あまり おなじふたつの 行末は
君が為にぞ 身をもをしまむ」
壬生綱重と宗長は同年齢であった。親しみを込めて
連歌を詠んだ。
●日光
「この後北行して日光に至るも、戦乱と大雨に阻まれ白川行き
を断念、北関東を遊歴。
・・・白河の関を断念した。
★後の松尾芭蕉と同じように、歌枕の地であったから・・・
でも、宇都宮氏VS 那須氏の戦いや洪水があった。
●鹿沼
●佐野
●足利
●新田之庄
岩松尚純を連歌を楽しんだ。
●太田
医光寺・・・太田市由良威光寺かな?
●大胡(前橋市大胡)
大胡上総介綱長の館に泊まった。
★大胡氏は長野大胡氏の可能性がある。
(★高崎市史)
9月~~~~~~~~~~~~
●青柳(前橋市青柳)
「青柳という里・・・」
★箕輪城主:長野業政の家臣:青柳金王はここに領地
があった。
●荒蒔(前橋市荒牧)
「荒蒔の和泉入道宿所・・・」
9月9日
●浜河(高崎市浜川町)
「松田加賀守・・重陽(旧暦9月9日)の連歌会」 宗長は松田加賀守とは文通していた。
★松田加賀守は一体誰なのであろうか?
長野憲業・長野業政の家臣団の中に松田姓の
有力家臣は出てこない。
予想される館は「隆業館、後の浜川館である。」
200m×130mの大きな館である。高崎北高
の井野川野球グランドの西隣から西に当たる。
1)寺内館:(元高崎市浜川公園南西部300m・・・
東山道に隣接北部)
2)乙業館(おとなり)(高崎市浜川町道場火薬工場北) 3)寺内館・矢島館・北爪館・北新波砦・満勝寺砦 住吉城(沖町)など
★矢島砦(90m×90m)・北新波砦(90m×90m)など
約20の館が長野郷浜川地区にあるが、浜川館以外
はみな小さい。
久保田順一先生の長野郷の中心地は箕輪であったとすれ ば、現箕郷町に館があった可能性もある。
●大戸(東吾妻町)
海野三河守の宿所に1泊した。
★大戸氏は滋野系海野氏である。
天文年間頃には長野業政の娘婿となっている
分家の浦野氏は
武田信玄の時代からであろう。永禄年間の
榛名鷹留城を攻めた記録(★榛名神社)
の長年寺に火をかけた記録(長年寺受連)
が残っている。
9月12日
●草津
・・・10日間滞在した。
9月21日
●大戸
海野三河守の館にて連歌会
9月25日
●板鼻か後閑(安中市)
「きのふけふ(昨日今日)ふわけ出侍る。山中前後左右の
紅葉の興計なるべし。過諄九月廿五日、太守佳例の
法楽の連歌 依田中務少輔泊にして、
菊さきて あらそふ秋の 花もなし 規懐紙を越後の陣へとなん。はま川並松別当(★古い字) にして
色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」
★依田中務少輔(しょうゆう)光幸の宿所で
太守=上杉顕定主催の「法楽の連歌」に参加した。
・文明2年(1470) 依田信濃守全棟=政知が長源寺
(安中市後閑)に、三ツ木(中後閑)・下郷(下後閑)に
所領を寄進。
(★安中市史:長源寺文書) ①芦田光玄=忠政→②政友=政知→③光慶 →全真→全賀(弟)→全真の子:信盛→虎昌 →昌忠→将監(弟)→盛繁
※天文元年(1531)長野業政が箕輪城を継承。
・天文年間 依田光慶は、箕輪城主長野業政の女を
室として嫁にした。同心になった。
・天文7年(1538)依田光慶が板鼻鷹巣城に移った(伝)。
★とすると、「東路の津登」に書き表された「依田中務少輔
(しょうゆう)光幸は、依田信濃守全棟=政知の可能性が
が高い。・・・中務少輔(しょうゆう)ランクは地方の戦
国武将ではランクが高い。そうすると、・永正6年(1509)
の時点では、依田氏は安中市後閑の可能性がある。
多胡碑記念館の研究では板鼻になっているがどうなので
あろうか? 安中市板鼻ではなく、安中市後閑ではないだ
ろうか。安中市史・中世の安中・安中市教委の井上慎一先
生講演会、長野立科町史?などでは天文7年(1538) 依田光慶(徳昌軒)が板鼻鷹巣城に移った(伝)。ので、 それ以前は、後閑にいたことになる。
また、古くは碓氷郡は現倉渕の烏川右岸=西地域まで
あった。幕末に小栗上野介の子どもらが西軍のから逃れよ
うとして、使おうとした道である。
宗長は大戸→倉渕→地蔵峠→松井田細野→安中後閑と行け
るはずなのだ。後閑から東山道に入り、板鼻→東山道北道?
(国府道)と通ると、八幡→金井淵→長野郷:浜川となる。
連歌は越後上杉顕定の陣(新潟県六日町)に送られた。
9月末~10月1日
●浜川
「その日、九月儘なるべし。神無月朔日になりぬ。 又発句、 神無月 里やふりにし 花の春
此別当俗長野姓石上也並松上野國多胡郡 弁官府碑文銘曰太政官二品穂積親王左大臣 正二位石上尊此文系図(★古い字)有布留社あり
布留今道
ひの光や ふしわかねは 石上ふりにし里に
花咲にけり。
当月異名小春にそよへて過にし花の春に
やと申計也。武州成田下総守顕泰亭にして
あしかもの みきはゝ雁の 常世かな 水郷也。舘のめぐり四方沼水幾重ともなく蘆の露 枯れ廿余町四方へかけて水鳥おほく見えわたり
たるさまなるべし。同千句興行第一句発句に・・・
・・・(略)・・・
★宗長は浜川(高崎市浜川町)に10月1日に戻ってきた。
・・・・・重要ポイント・・・
10月~~~~~~~~~~~~
●忍(埼玉県行田市)
宗長は高崎の浜川から埼玉の行田に行った。
【6】武州成田下総守顕泰の館(埼玉県行田市)
・延徳元年(1489) 山内上杉氏配下の成田親泰が
太田道灌の縁戚で扇谷上杉氏配下の
忍大丞の館を急襲。
・延徳2年(1490) 成田親泰が築城を開始。
翌年完成。
・永正6年(1509) 成田下総守顕泰(親泰)の忍城に
連歌師の宗長は立ち寄った。
★成田顕泰か長泰が上野の箕輪城主:長野業政の
娘をもらた?? ・・
箕輪城主:長野業政は娘を成田下総守顕泰の
嫡子に嫁がせた。
(★箕郷町誌:箕輪城&長野氏:近藤義雄先生)
★更に「のぼうの城」と繋がる。
●鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形) 「鉢形より菅谷に入る。 鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)の舘にして。 霜をへん 生さきしるし 松の千代 馬庭豐前守重直興行せし也。 顯方いまだ少年の行末はるかなることを賀し侍る計也。 又一座興行。發句。顯方にかはりて。 さえし夜を かさねてけさや 薄氷
連歌はてゝ酒など有て夜更侍りし也。 當城逗留の旅宿隨意軒といふにして。 神無月 くれさりし秋か 宿の菊
庭の菊秋を殘せるさま成べし。 鉢形をたちて。
●菅谷(埼玉県嵐山町)
「須賀谷(比企郡嵐山町菅谷)といふ所に
小泉掃部助の宿所に一日休らふ。
人數はなくて。懷紙表八句。 冬かれや 萱か下葉の 秋の風
むさし野の東野中のほとりなるべし。
霜枯の景氣ばかり也。
あたりの平澤寺(嵐山町平沢)にして。
こほりけり 松にうこかぬ 岩根水
本尊は不動尊。池にふりたる松有。
●勝沼(東京都青梅市勝沼)
「又かつぬまにつきぬ。
建長寺天源庵は横川嶽の開山大應國師遷化の舊跡也。
いぬる五とせばかりのさきのとし回祿す。庵領なども久しく
知行して。およそなきが如くなり。紫野大徳寺衆中。
たびたび申くださるといへども。とかくことゆかず。
此折ふしに堅眞と云人多年の知人にて。うちうちに申つ たふること有て。」
●江戸・・江戸城
「江戸の舘に六七日におよべり。 連歌三百韻あり。 霜寒き 松ゆく田鶴の 朝日かな
遠山に こゝろはゆきの 朝戸かな 上杉建方
雪はけさ 水につもれる みそれ哉
こゝろは雪のといへるあたりふるめかしくて。しかも又
めづらしげ也。一日づつ隔て。おもしろかりし會席也。
すなはち天源庵領二箇所かへしつけらるべきよし。
嚴重の事也。都鄙いまの折ふしには。まことに希有の事
なるべし。」
●品川(東京都品川区)
品川といふ津にしる人あり。 和泉堺よりきて。此六七年すめりとかや。 長途窮屈。五六日休息して。 ある夕なぎに海の邊にありきて歸りて。 夕なきか 冬に入江の 春かすみ
江春入二舊年一といふ句をおもひ出て。なぎたる夕のおぼろ
おぼろと見えわたるさまにや。 安房上總下總めのまへの處なるべし。ある人安房のきよすを
一見せよかしとさそひしに。いづこかさしてとおもふ世なれば。
たち歸り江戸のたてのふもとに一宿して。」 ~~~~隅田川~~~~~~ 「すみだ川の河舟にて。」
●葛西(葛飾区・江戸川区)
下總國葛西(葛飾区・江戸川区)の庄 の河内を半日計よしあしをしのぐおりしも。・・・
●葛飾
●検見川
●市川
これより下總國葛飾・検見川・市川などを遊歴。
●江戸
江戸に歸りつきて又の日舘にして。 月や江に よる波たゝむ 朝こおり
●品川
廿八日。品川へとての間に旅宿の古梅軒一折のよし有しかど。 發句ばかりにて。 さきてかつ 春をまちとれ 梅の花
此軒號によそへて侍る計也。品川に兩日あしをやすめ。
●木月(川崎市中原区木月)
きつきといふ里あり。
諸西隼人佐宿所一宿して。
●玉縄
鎌倉ちかきあたり齋藤新左衞門光吉宿所に。 一日めを煩ひて逗留。・・・
●鎌倉
~12月初めまで鎌倉に逗留した。
●小河原
●箱根
●沼津
●駿府
●丸子
・享禄4年 (1530)~
宗長は柴屋軒で最晩年を過ごした。 「宗長日記」は静かな柴屋軒の生活を記した。
・享禄5年・天文元年(1532) 宗長没。
3月5日没・・・85歳であった。
★参考図書
・多胡碑の江戸時代:多胡碑記念館
・中世日記紀行集48巻:
・歴史の群像9遍歴「宗長」:斉藤栄文責:集英社
・関東戦国の大乱:群馬歴史博物館92回企画展
・
★参考サイト
・ウキペディア宗長
・アトミの花便り(文藝譜 宗長『東路のつと』)跡見学園
- 最終更新:2017-07-25 14:10:33