武田晴信の志賀城攻め&人身売買

武田晴信の志賀城攻め&人身売買

◆◆ 武田晴信の志賀城攻め&人身売買 ◆◆

  • 閏7月から8月 小田井原の戦い(長野県佐久市)、『高白斎記』・『妙法寺記』の志賀城攻め
  • 閏7月、武田晴信は大井三河守貞清を先手として甲府を出陣した。
  • 7月24日 武田晴信は志賀城の包囲を開始した。「卯の刻から午の刻まで志賀の城に取り詰められる」
  • 7月25日 金堀衆が城の水の手を断った。志賀城は窮地に陥った。「25日未の刻、水の手取りなさる」
  • ◆関東管領:上杉憲政は志賀城救援の軍勢の派遣を決めた。上杉憲政は重臣:長野業正の諫言を無視して、倉賀野党16騎を先陣に金井秀景を大将とする西上野衆の大軍を派遣した。(★『関八州古戦録』→大河ドラマ「風林火山」)。長野業正「北条氏康のほか、武田晴信まで敵にすることはできない。」と、出陣しなかった。(★大河ドラマ「風林火山」)
  • ※エピソード・・・金井秀景の先陣はくじ引きで決まった。 関東管領軍は東山道の入山峠(バス事故現場と軽井沢プリンススキー場山頂の間)を越えて信濃へ入った。★一般的に碓氷峠とあるが、当時の碓氷峠は軽井沢に入る碓氷バイパスの道ではない。碓氷峠の戦いや笛吹峠の戦いという言い方で書いてある本もある。武田晴信は志賀城を包囲中であったが、重臣:板垣信方、甘利虎泰(甘利元経済復興大臣の先祖)に別動隊を編成させて迎撃に向かわせた。
  • 高田憲頼らの援軍もあって包囲は10日にもおよんだが志賀城は落城しなかった。
  • 8月6日 小田井原で合戦。甲斐守護武田晴信 VS  関東管領上杉憲政。「8月卯の刻、板垣駿河其の外働き、関東衆数多討ち取らる」板垣、甘利率いる武田軍は関東管領軍を一方的に撃破して敵将14~5人、兵3000を討ち取る大勝利を収めた。
  • その夜・・・武田晴信は、名のある武将の首は槍先にかざし、兵の首は棚に並べて志賀城下に晒したのだ。担当者は山本勘助だった。(★大河ドラマ「風林火山」)
  • 8月7日 一夜明けて・・・。志賀城兵上杉の援軍の到着を今か今かと首を長くして待ちわびていた。志賀城内の城兵が目の当たりにしたのは・・・しかし、来たのは生首・・・見下ろす城下に、無数の生首が並ぶという悲惨な光景であった。武田軍は3000の首を志賀城の目前に並べて晒して威嚇した。
  • ★ところで、3000もの首を一度の戦で実際に討ち取ることができるのであろうか。関東管領上杉憲政軍が大軍勢だったとしても、本当に可能なことなのだろうか?首3000はオーバーかもしれないが、相当数の首を並べて見せたのだろう?武田軍3000人が一人1つの首を運ぶのは大変じゃないのかな?重さを量ったことはないけれど・・・棟治私見・・・3千の首があったとして考えると、武田勢と一緒についてきた暗黒商人に銭を払い運ばせた。この元を取るために、乱捕りした捕虜に高い値を付けた。さすが晴信腹黒い、甲州金の威力は火縄銃をも上回る、私らにこんな想像をさせるとは流石だ。
  • これで、志賀城では救援の望みが完全に立たれた。志賀城兵の戦闘意欲は削がれ、大きく意気消沈した。
  • 8月10日、武田軍は総攻めをしかけた。外曲輪、二の曲輪が焼き落とした。「10日午の刻、外曲輪を焼く。子牛の刻、二の曲輪焼く」
  • 8月11日、武田軍は本曲輪を攻めた。城主笠原清繁と高田憲頼は討ち取られ落城した。「11日、午の刻、志賀父子・高田父子打ち捕らる」もはや命運は尽きたと覚悟を決めた笠原清繁以下300余名は、決死の突撃を決行し、壮絶な討死を遂げた。笠原清繁、笠原清仲父子は討死。援軍に駆けつけていた高田憲頼、高田繁頼(笠原繁頼)父子も討死した。志賀城は落城
  • ※『妙法寺記』・・・武田勢は、板垣駿河守、甘利備前守、横田備中守、多田 野三八らが大将となって上州勢に向かった所、「上州人数切り劣り候ひて、名だたる大将14~5人討ち取り、雑兵3000ばかり討ち取り、此の首をシガ城を廻り悉く御掛け候。是を見て要害の人数も力を失い候。」さらには「水につまって」志賀城は八月十一 日に落城せし・・。」。
★『高白斎記』は城攻めが進行していく様子がよく理解できる。
  • 武田晴信の敵兵への処置は厳しかった。捕虜となった城兵は奴隷労働者とされ、女子供は売り払われた。戦国時代の合戦では捕虜は報酬として将兵に分け与えられた。金銭で親族に身請けさせることが行われたが、捕虜の値段は非常に高額(※生首運びだい込)で身請けができず、ほとんどが人買いに売買されたという。武田信玄の部隊の後続には、奴隷商人が付いてきていたという。※ごめんなさい想像です。
  • ※エピソード
  • ①「シカ殿御上は小山田羽州(信有)給りて駒橋に御同心申し候。去る程に男女いけどり成され候ひて悉く甲州へ引越し申し候。去る程に2貫3貫5貫1貫にても身類ある人は承け申し候」(★『妙法寺記』)
  • ②笠原清繁の夫人は小山田信有に与えられ妾とされた。悲運に涙に暮れた笠原清繁夫人の哀話が残されている。(★『甲斐国志』)
  • ③小山田信有(小山田信茂の父:岩殿城主)がお金で買った。(★大河ドラマ「風林火山」)
  • ★志賀殿(笠原)氏の奥方は、武田重臣の小山田信有に与えられ、信有は自分の領地である駒橋(大月市)に連れ戻った。小山田虎満は内山城代になっていて、行ってないなもしれないが・・・真田幸綱(幸隆)は小山田虎満の配属になっていた説もあり、内山城下に住んでいた可能性もある。笠原清繁の奥様は相当な美人だったのであろうか?それにしても、殺した敵の奥方を自分の側室にしてしまうというのは、どういう神経をしているのだろうか?武田晴信も諏訪頼重を殺して、娘を妾にしちゃったけれど・・だいたい奥様はどう思っていのだろうか?慈善事業なのだろうか?
  • 小山田信有は、側室として可愛がった。しかし、ある時突然発作的に信有を寝首をかいた=刺し殺してしまった。「信有の名誉を守るため、病死したことにせよ」と言っていた。(★大河ドラマ『風林火山』)実際は殺していないかもしれない。小山田信有が笠原奥様に殺されたことを証明する史料はない。
  • 落城後には、志賀城内に残っていた女や子ども、町人、城下の百姓までもが生け捕りにされ、甲府へと連行された。人身売買のための奴隷として・・・・・。ただし、親戚等が金を出したものについては、2貫~3貫といった値段で買い取らせたらしい。上杉謙信は20~30銭であった。
  • ★奴隷の末期は死か・・・男は金山工夫か?・・・武田金堀衆?第2次世界大戦中の朝鮮人鉱山労働者のようだ。白根や松代の大本営のように・・・女は宿場の飯盛女か?これは、江戸時代も続く。宿場では、1軒の旅籠で飯盛女・女郎は3人までと決められていたが、品川宿・三島宿・倉賀野宿などではルール違反が多かった。安中藩では、運上金もとっていた。いずれにしても、生け捕りにされた者は人身売買の道具にされるのが、 戦国時代の常であった。特に武田信玄の後から奴隷商人がついて来ているのが特徴であった。志賀城を落とした武田晴信は佐久郡の制圧を完了した。

  • 最終更新:2016-06-17 22:18:53

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