藤原秀郷流である佐貫氏を祖とする青柳氏
上州青柳城(群馬県館林市青柳町堀ノ内乙)
>>佐貫嗣綱の孫、文治四郎広嗣が館林の青柳に移り、その子孫が青柳を名乗った。
>>青柳城は当時赤井氏のものであった可能性が高い。
このへんちと怪しい
その後どのようにして前橋市青柳町へ移ったかは不明である。
前橋市青柳町周辺は、中世初期に青柳御厨と呼ばれた荘園があった。
長野家着到帳には青柳金王忠家、本居勢田郡青柳村とだけある。
まとめ
佐貫成綱~成光の時に、青柳・玉村御厨は建立(1163~5年)されたと考えられる。
その後成光の時代には、邑楽郡古海(大泉町)へ居を移し、重光・広光・広綱と続き
広綱の時代には佐貫庄に拠点を移し、佐貫氏の勢力が最大になったと思われる。 棟治
舞木・赤岩・瀬戸井・上五箇・上中森・下中森・大輪・須賀・梅原・江口・千津井
・江黒・飯野・宇奈根の諸郷で、その中央に佐貫氏本拠の大佐貫郷(館)があった。
これらは現在の明和町・千代田町・板倉町にはばまたがっている。なおこの地域には
藤原北家の藤原長良を祭神とする長良神社が見られ、佐貫荘の荘園鎮守として佐貫氏
が勧請したとみられている。
佐貫広綱は、藤姓足利一族の中のみならず、上野国の中でも比較的早くに鎌倉御家人
となった。
二荒神社考」という論文に、上記の内容が記載されており、墓石にある「道慶」という
人物が、藤原道慶であると判明した。『赤城年代記』応永十三年の条に名のある
「佐貫又太郎藤原沙弥道広」と同一人物だろうか。
惣領である佐貫を名のる舞木道広は、出家して「道慶」と名乗ったと言うことか
佐貫広綱~舞木道広までの時代に、より佐貫荘の中心に近い青柳の地に拠点を移した
と考えられる。惣領が舞木氏に移ると没落した佐貫氏は、土地の名青柳を名乗る。
もしくは、青柳御厨成立時から佐貫氏の一族が青柳を名乗っていた。
舞木駿河守持広は、鎌倉府から逐電した一色伊予守の縁者であったため、関東管領
に出仕を求められる。上杉家臣長尾忠政は持広に本領安堵を約束し、自らの宿所に招い
て酒宴を開く。しかし、この席で持広は謀殺されてしまう。舞木・青柳没落
応仁二年(1468)青柳城主赤井正光、前年に相模最乗寺住職となった大林正通
(応永三十三年、茂林寺開山)の徳を慕い、茂林寺に一伽藍を建立。八万坪もの
領地を寄進し、自ら開基となる。赤井氏は、舞木や佐貫系一族に代わり、佐貫荘の
主になる。
いよいよ居場所のなくなった青柳氏は、管領上杉氏を頼りゆかりの地である前橋の
青柳郷を知行として安堵された。のちに長野氏の同心と成り、そして家臣となった。
箕輪城の落城後は、武田氏従い下芝の地を安堵された。そして現在に至る。
途方もない想像を含むが、史料も見つからず、これが精一杯のいきさつである。
そして「荒船の夕陽」に登場する男の育った土地と士族の由来である。
20160731 棟治
藤原秀郷流『青柳氏』の研究
※勢多郡青柳村を本拠とした『青柳氏』は藤原秀郷流である
と管理者の棟治は説を唱え研究している。
◆藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、平安時代中期の貴族・武将。
・秀郷→千常→文□→兼光→頼行(藤原)→淵名兼行→行房(佐貫)→成綱→成光(古海)
下野大掾藤原村雄の子。受領(守 介 掾 )の内三番目の地位。
室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。
もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵
二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、贈正二位を追贈された。
源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出した。
・後裔氏族
秀郷の子孫は中央である京都には進出しなかった結果、関東中央部を支配する
武家諸氏の祖となった。
・上野国:赤堀氏・岩櫃斎藤氏・桐生氏・佐貫氏・大胡氏・山上氏・園田氏
Wiki 最終更新 2016年6月21日より
◆藤原兼行(淵名兼行)
・秀郷→千常→文□→兼光→頼行(藤原)→淵名兼行→行房(佐貫)→成綱→成光(古海)
・淵名荘(ふちなのしょう)は、上野国佐位郡(現在の群馬県伊勢崎市)にあった荘園。
郡のほぼ全域が荘域であったことから、佐位荘(さいのしょう)とも称された。
「仁和寺法金剛院領目録」に同荘の名前があり、同院の創建が大治5年(1130年)
であることから、その前後に仁和寺領として成立したとみられている。
・秀郷流の藤原兼行(淵名兼行)が「淵名大夫」の異名で呼ばれており、彼もしくは
その子孫である佐貫成綱が開発に関わったとみられている。また、付近にある女堀
(未完成)の開削にも関わったとする見方がある。
◆赤井照光(あかいてるみつ)(生年不詳~1545) 千代田町役場のHPより
中世に入ると武士の台頭が著しく、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)して下克上の
世となり戦いに明け暮れた。佐貫庄の末裔(まつえい)も敵味方入り乱れ、世の
動きに翻弄されていった。
・永享十年(1438)の永享の乱では、舞木持広の配下に赤井若狭守の名が見られる。
・永亨十二年(1440)舞木駿河守持広は、鎌倉府から逐電した一色伊予守の縁者
であったため、関東管領に出仕を求められる。上杉家臣長尾忠政は持広に本領安堵を
約束し、自らの宿所に招いて酒宴を開く。しかし、この席で持広は謀殺されてしまう。
「持広の寄騎の侍赤井若狭守」は激怒し、長尾家中の士を多数討ち取るも、主君同様
に討たれてしまう。『関八州古戦録』は赤井若狭守の曾孫を、赤井山城守勝光として
いる。『鎌倉大草紙脱漏』も同様の事を記している。以降、舞木氏は衰退。
佐貫氏、舞木氏に代わり、赤井氏が佐貫庄内の最大勢力となった。
戦国期、上杉謙信に属した木戸城主木戸玄斎忠朝は舞木氏の子孫と言う。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
更に館林方面へ進行する拠点として青柳城を築いた。
・下って十五世紀半ばになると、青柳城主赤井山城守照光が大袋城を経て、狐が恩返しに
自分の尾で縄張りしたという名城尾曳城(館林城)を築き本拠とした。
~~~~~~ 以前定説とされてきたが、伝説の域を出ていない ~~~~
この頃には赤井氏が館林周辺の諸郷村の土豪を服属組織化して、軍事・政治・経済共
その手中に握っていた。
・文明三年(1471)古河公方足利氏と関東管領上杉氏とが争った享徳の乱で、
足利氏に与した高師久が赤井文六(文屋六郎)、文三(文屋三郎)の居城立林(館林)城
に籠もり、上杉氏によって攻略されたというのが資料上の初見である。
赤井氏は、藤原姓ではなく文屋姓とするのが定説になってきている。
・此に「佐貫庄」は支配者の本拠地名を冠し、「館林領」と呼ばれる様になった。
照光は天文十四年(一五四五)館林城で没するが、「赤岩山は先祖の菩提寺なれば、
我が骨は堂山に葬るべし」と遺命し、光恩寺(こうおんじ)堂山々上に葬られた。
◆◆佐貫流舞木氏と赤岩(青柳)氏
秀郷→千常→ 文脩→兼光→頼行(藤原)→淵名兼行→行房(佐貫)→成綱→成光(古海)
◆佐貫成光裔
何代か間に入る
舞木宗綱 仕足利尊氏文和頃
舞木師綱(佐貫駿河)1364年 上州白旗一揆首領
●舞木道広(佐貫又太郎) 応永頃 上杉禅秀の乱応永23年(1416年)
舞木持広(駿河 永享十年(1438)の永享の乱では、舞木持広の配下に赤井若狭守。
12年持広は、上杉家臣長尾忠政に謀殺される。
舞木家秀(太郎)
舞木定綱(孫太郎景隆) 兵庫 仕足利義氏
舞木宮内
◆佐貫成光裔 この後の青柳氏に繋がる系図には自信が持てない
佐貫広綱(佐貫広綱は源平合戦期、源頼朝に臣従。)・・・建久3年(1192年)11月
永福寺の池石を畠山重忠・大井実春らと共に運んでその大力を頼朝に称賛される。
佐貫秀綱
何代か間に入る
?佐貫綱輝
?佐貫資綱 (大佐貫館)
?赤岩(佐貫)嗣綱 赤岩(赤岩城)に居住して赤岩氏と称した。
?赤岩(佐貫)嗣綱の孫、文治四郎広嗣 館林の青柳(青柳城?)に移った。
何代か間に入る
●青柳(佐貫)綱政 広嗣裔 応永頃 上杉禅秀の乱応永23年(1416年)
『青柳弥七綱政は以前に羽継大袋澱より買得した江黒郷内近藤原の畠一町(年貫二貫文)
を代銭八貢文で江口方へ売却をしたものである。』と佐貫荘の領主であった文書あり。
青柳綱教 永享の乱で舞木持広は、上杉家臣長尾忠政に謀殺される。
これにより佐貫系の舞木・青柳氏は没落している。この後上杉方に与した青柳一族の
者が戦功あって、上杉統治下にある前橋の地を安堵された?
何代か間に入る
青柳忠勝
青柳金王忠家
治部右衛門 重左衛門 次左衛門
以上の系図は
・武将系譜辞典(管理人 川部正武氏)より
◆佐貫城(大佐貫館) (邑楽郡明和町大佐貫)
佐貫城は大佐貫交差点の南側一帯にあったらしい。現在遺構は湮滅状態にある。
仕方がないので、上記山崎一氏の図面に全面的に頼って想像図を描いてみた。
『城郭体系』では「大佐貫館」としている。佐貫氏の居館であったが、佐貫資綱の子
嗣綱が赤岩城に移って廃されたという。「西北南の堀跡が認められる」とあるが
現在ではすっかり失われてしまったようだ。
◆舞木城(邑楽郡千代田町舞木字城下稲荷)
舞木城は、群馬県千代田町舞木に比定される。「舞木城跡」の案内板の建つ公園はある。
しかし、城の遺構を見ることはできない。
閑静な住宅街に囲まれ、公園には「藤原秀郷公誕生之地」という碑が建っている。
上記の引用文は、文明3年に比定される足利義政感状だ。
享徳の乱のまっただ中、“太田図書助資忠”は各地を転戦。
(享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27 日)
館林を攻めたあと、向かったのは舞木城だった。
秀郷の子孫の俵氏は、室町時代の享禄年間頃まで舞木城に在城していたという。
◆赤岩城(群馬県邑楽郡千代田町赤岩字城山)
佐貫太郎資綱の子次郎嗣綱ははじめ赤岩に居住して赤岩氏と称した。
その子文治郎広嗣の時、青柳(館林)に移ったと言う。(群馬県古城塁址の研究)
この文治四郎広嗣が館林の青柳に移った後、その裔綱政が青柳を名乗ったと思われる。
◆上州青柳城(群馬県館林市青柳町堀ノ内乙)
・歴史 余湖くんのホームページ様より
青柳城は永享年間(1429~41年の間)に赤井勝元によって築かれたとされています。
城域は、青柳町の龍積寺の北側の「堀ノ内」にあった。
◆いつ前橋市青柳へ移ったのかは不明。2つの青柳の地は、室町期にいずれにせよ
上杉家所領である。鎌倉時代から佐貫荘はもとより、青柳御厨は佐貫氏の所領で
あったのかもしれない。館林と前橋にある青柳の地は、利根川の左岸であるという
同一の立地条件を持っている。館林地区は戦国初期より古河公方方だったようだ。
文明3年上杉勢に攻められ、大袋・舞木城が落城している。
※一つの仮説を唱えるなら、青柳の地名はどちらかが先に存在して、後の方が青柳氏
が住居したので土地に氏族の名が付いた。普通に考えたら青柳御厨の方が古いので、
この地を領有する佐貫系赤岩氏が、館林に移った際、青柳を名のり、その土地も後に
青柳と呼ばれるようになった。鎌倉期より栄えた山名宿に、木部氏が住居したので
現在木部町になっている例がある。
もし戦国期以前の文献に館林地区には、青柳と言う地名がなければ木部町と同様で
ある。これは調べてみると面白いかもしれない。平安末期あたりの古い時代に青柳
の地名はあったようだ。20160731
※もう一つの仮説を考えてみると、別の秀郷流で大胡氏の一族が、
ただ単に青柳御厨の地頭として青柳を名乗ったもので戦国時代まで存続した。
これが一番シンプルでわかりやすい。大胡氏の系図に乗っていればいいのにな。
この説は薄そうだ、→淵名兼行→佐貫行房(拝志庄=赤城西麓)→成綱(那波庄)
→成光(古海=大泉周辺)と歴代東に移動し居を変えて荘園を築き上げているので、
行房・成綱あたりの時代に青柳御厨・玉村御厨を建立していると思われる。つまり
藤姓足利系大胡氏が輩出される以前に佐貫氏の手が加わっていると考えられる
からである。
ネットで調べた系図からだと、なんかこじつけ臭くなってしまっている。
この辺りが今後の課題である。
◆古樹紀之房間(こきぎのへや)様より
平安中期以降に関東に大きな勢力となった藤原北家魚名後裔を称する下野出身の
藤原秀郷の流れの諸氏、及び藤原道兼後裔と称する
下野・常陸の守護宇都宮・八田一族は、実際には毛野族裔
ではないかとみられる。
この辺りに住んでいれば当然毛野氏の末裔と血が混じるから改めて考えなくても
いい気がするが以上出自に関するこれらは以後要検討事項とする
20160610改編 棟治
- 最終更新:2016-08-04 18:54:33