連歌師の宗祇

連歌師の宗祇

箕輪初心★【連歌師:飯尾宗祇】&関東管領:上杉&長尾 より
  • 寛正2年(1461) 宗祇40歳?五十子への1度目の訪問
   宗祇は『萱草(わすれなぐさ)』を編集し始めた。

  ★第一自選句集・・・寛正2年(1461) ~文明5年(1473)

「 武蔵五十子(いかっこ)といへる所
   にて 千句に
   きへなはきへぬか かゝる 罪科 」

  • 文正元年(1466)宗祇45歳
宗祇は五十子(埼玉県本庄市)を再び訪れた。
宗祇が連歌を指導しに五十子陣へ訪れたのだ。
五十子陣に足利成氏との対戦中にあった長尾孫六
 (長尾景棟が有力説)を見舞いに宗祇が訪れている。
 千句の連歌を興行した。

 五十子の長尾景信の館(陣所)で連歌会があった。
 →『老葉(わくらば)』の編集を開始した。
→『老葉(わくらば)集』
「長尾左衞門尉のもとへ始てまかり
  待しとき、 九月侭
  秋をせけ 花はおいせぬ 菊の水 」

 
 長尾孫六が連歌の指南書を求めてきたので、 
 宗祇は長尾孫六(景信)に手紙を出した。
 『長六文』を与えたと言う。
 『長六文』は宗祇の最古の連歌学書とされる。
 また、鉢形城を去った長尾景春も五十子陣にいたので
 宗祇に指導を受けていたと考えられている。

・文正2年(1467)宗祇は『吾妻問答』を編集した。
宗祇は長尾孫七郎(景春)に『吾妻問答』を送った。
★長尾景春は連歌を学び始めた。25歳頃だった。
宗祇の自撰句集『萱草(わすれぐさ)』は寛正2年(1461)
~文明5年(1473)頃であるが、内容から五十子で詠ま
れた千句とされる。短期間とはいえど、五十子が東国に
 おける文化的中心地の一つであったと言われている。

  • 【連歌師:飯尾宗祇】
★和歌の西行・連歌の宗祇・俳句の松尾芭蕉は漂泊の人として
有名である。宗祇も歌枕=歌に詠まれた名所を求め、東は関
東、西は九州の筑紫まで旅した。ほとんどが地方の名族であっ
た。周防の大内、若狭の武田、能登の畠山、越後の上杉、武蔵
の上杉&長尾など各地の大名を訪ねた。松尾芭蕉は『笈の小文』
で、「西行の和歌における、宗祗の連歌における、雪舟の絵に
おける、利休が茶における、其貫道する物は一なり。」と述べ
た。宗祇は関東では扇谷上杉朝定&太田道灌、山内顕定&長尾
景忠に招かれた。宗祇と宗長達は連歌拡大を目指して旅をした。

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★★宗祇:応永28年(1421)~文亀2年(1502)の生涯★★
・応永28年(1421)近江か紀伊で生まれた。
 飯尾(いのお・いいお)という姓と言われているが
 定かではない。最近の有力説は広島大学名誉教授:金子
 金治郎先生が、「宗祗ハ江東ノ地ニ生マレ」と述べたそ
 うである。近江守護:佐々木六角氏の重臣伊庭氏である。
 と学会でも認められているそうである。
(★某Hpより)

・???  京都相国寺に入った。

・宝徳 2年(1451) 30歳? 連歌に志した。
   宗砌、専順、心敬に連歌を学んだ。
 
・寛正2年(1461) 40歳?
宗祇は『萱草(わすれなぐさ)』を編集し始めた。
※第一自選句集・・・寛正2年(1461) ~文明5年(1473)
「 武蔵五十子(いかっこ)といへる所
   にて 千句に
   きへなはきへぬか かゝる 罪科 」

★五十子(埼玉県本庄市)は関東管領:山内上杉顕定
  が常駐した。
家宰は白井城(群馬渋川)主:長尾景信であった。

・文正元年(1466)45歳
宗祇は五十子(埼玉県本庄市)を再び訪れた。
五十子の長尾景信の館(陣所)で連歌会があった。
 →『老葉(わくらば)』の編集を開始した。
→『老葉(わくらば)集』
「長尾左衞門尉のもとへ始てまかり
  待しとき、 九月侭
  秋をせけ 花はおいせぬ 菊の水 」

宗祇は長尾孫六(景信)に手紙を出した。

・文正2年(1467)宗祇は『吾妻問答』を編集した。
宗祇は長尾孫七郎(景春)に『吾妻問答』を送った。
★長尾景春は連歌を学び始めた。25歳頃だった。


・応仁元年(1467) 応仁の乱が始まった。
   約10年間にわたって継続した内乱。
   8代将軍:足利義政の継嗣争い・・・・
    細川勝元 VS 山名持豊(山名宗全)
全国に拡大した。
  足利幕府や守護大名の衰退・・・・
  戦国時代に突入していった。
  京都は壊滅的な被害を受けて荒廃した。

・文明2年(1470)
  太田道心&道灌は宗祇を河越城に招いた。
『河越千句』・・・
大胡修茂(のりしげ)もいた。


・文明3年(1471)
  篠脇城主:東常縁(とうのつねより)
  に「古今伝授」を授けられた。
  東常縁の弟:正宗龍統から漢学を学んだ。

  東常縁が宗祇に古今伝授を終えると
  東常縁は宗祇が帰京する際に泉水で
一首をはなむけに詠った(伝)。
  「もみじ葉の 流るる竜田 白雲の
   花のみよしの   思ひ忘るな 」
●郡上八幡の宗祇水
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・文明5年(1473) 42歳 上京に種玉庵を結んだ。
将軍・管領・公家の居住する地区である。
  公家:三条西実隆や細川政元らと交わった。 
  周防の大内義興、若狭の武田氏、能登の畠山氏、
  越後の上杉房能ら各地の大名を訪ねた。


・文明8 年(1477)45歳 宗祇は帰京した。
※中央歌壇に復帰した。

・文明9年(1477)46歳 関東に下向した。
武蔵の太田道真・道灌父子(川越城・岩槻城?・江戸城)
  の庇護を受けた。
 上野の長尾景信(白井城)や長尾忠景(総社城)の庇護も
 受けた。

・文明9年(1477)応仁の乱が集結。
   以後、古典復興の気運が高まった。
   地方豪族や武士が京都の文化への関心を示した。
   と同時に連歌の大流行した。
  宗祇は、連歌の技巧的な句風+『新古今和歌集』の美意識
  を表現した。
   全国的な連歌の流行とともに、宗祇&一門は連歌の黄金期
  を築いていった。

・文明10年(1478)
宗祇と宗長は越後の上杉氏を訪ねた。

・文明12年(1480)
宗祇と宗長は筑紫の立花氏?を訪ねた。

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 (★太宰府)
「博多千句」を興行し、『筑紫道記(みちのき)』を
 著した。

・長享2年(1488)48歳 
①『梅花無尽蔵』を編集した。
山内上杉顕定の描いた水墨画「柳の図」の賛辞である。
越後上杉房定の描いた水墨画「白鷹図」の賛辞である。


 ②北野連歌所宗匠となった。
  ★名実ともに連歌界の第一人者となった。
  
 ③『水無瀬三吟百韻』を著した。
  職は兼載に譲った。

・延徳3年(1491) 『湯山三吟百韻』を著した。

・明応4年(1495) 兼載らと『新撰菟玖波集』を撰集した。
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(★多胡碑博物館)

この中に、岩松尚純9句&横瀬国繁3句ある。
1)岩松尚純が9句
「 なでつくす 袖か岩ほの 朝霞 」
「 郭公 月にいざよふ 雲間哉 」
「 風でまたで 露におられよ 萩が花 」

2)小野(横瀬)国繁は3句

3)小野(横瀬)業繁が2句
※文学史の偉大な足跡を残した。
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※各地を旅した。

合計2度にわたって、周防の大内氏を訪ねた。

・明応9年(1500)

・文亀元年(1501)
「宗祗老人、年ごろの草庵も物うきにや、都の外のあらまし
 せし年の、春のはじめの発句に、

「 身や今年 都を余所の はるがすみ 」

 その秋の暮、こし路の空におもむき、此のたび帰る山の名
 をだに思はずして、越後の国にしるたよりをもとめて二とせ
 計送られぬと聞きて、文亀はじめの年六月の末、駿河の国よ
 り一歩をすゝめ、足柄山をこえ、富士のねをよそに見て、
 伊豆の海、おきの小島による浪、こゆるぎの磯をつたひ、
 鎌倉を一見せしに、右大将家のそのかみ、また九代の栄えも、
 ただ目の前の心ちして、鶴が岡のなぎさの松、雪の下のいら
 かは、げに岩清水にもたちまさるらんとぞ覚え侍る。
 山々のたゝずまひ、やつやつきしまじまいはゞ筆のうみも
 底見えつべし。
 爰には九年がこのかた、山の内、扇の谷、鉾楯の事出で来て、
 凡八ケ国二かたにわかれて、道行く人もたやすからずとは
 聞こえしかど、こなたかなた知るつてありて、武蔵野をも分
 け過ぎて上野をへて、なが月朔日頃に、越後の国府に至りぬ。」
(★宗祇終焉記:島田宗長)

6月初旬
●京都
●駿河

●足柄山を越え、富士の峯を見ながら・・・
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 (★足柄山城)
●小田原・・・伊豆の海、沖の島・・・大島
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●大磯
●鎌倉の鶴ヶ岡
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 (★銀杏があった時)
●武蔵野
●上野國
●越後国府(上越市)

・文亀2年(1502)
宗祇は7度目の越後の国府に上杉氏を訪ねた。
宗祇は越後で体調を崩した。
宗長は宗祇を見舞うため、駿河→鎌倉→(鎌倉上道)・・
 板鼻・・・東山道・・北国街道・・越後国府(上越市)
しかし、宗長が病気になってしまった。
 
2月末
「きさらぎの末つかた、をこたりぬれど、都のあらましは打ち
置きぬ。上野の国草津と云ふ湯に入りて、駿河の国に罷帰らん
のよし、おもひ立ちぬるといへば、宗祗老人、我も此の国にし
てかぎりを待ち侍れど、命だにあやにくにつれなければ、こゝ
らの人々のあはれびも、さのみはいとはづかしく、又都に帰
りのぼらんも物うし。 美濃国にしるべありて、のこるよはひ
のかげかくし所にもと、たびたびふりはへたる文あり。哀とも
なひ待れかし、富士をも今ひとたび見待らんなどありしかば、
うちすて国に帰らんも、つみえがましくいなびがたくて信濃路
にかゝり、ちくま河の石ふみわたり、菅のあら野をしのぎて、
廿六日といふに、草津といふ所につきぬ。

おなじき国に、伊香保といふ名所の湯あり。中風のためによし
など間きて、宗祗はそなたにおもむき、二かたになりぬ。此の
湯にてわづらひそめて、湯におるゝ事もなくて、五月のみじか
夜をしもあかしあびぬるにや、

「 いかにせむ 夕告鳥の しだりをに
  声恨むよの  老のねざめを 」
 
宗祇は弟子の宗長、宗碩らに伴われて越後国府→中野→菅平
  →菅平・(真田の地)・・鳥居峠・・・(吾妻)・・・大津
 宗長は草津へ。
  宗祗は伊香保へ行くことになった。
  宗長は草津温泉で療養=湯治することになった。
  宗祇は伊香保温泉で休憩・・・発病した。

5月下旬
●川越

6月初旬
●江戸の舘=江戸城は太田道灌の後、上杉定正がいた。

「みよし野の里、河越にうつりて十日余りありて、文月の初に
江戸といふ館にして、すでにいまはのやうにありしも、又と
りのべて、連哥にもあひ、気力も出でくるやうにて、鎌倉近き
処にして、廿四目より千句の連哥あり。廿六日にはてぬ。
一座十句十二句など、句数も此ごろよりはあり。おもしろき
句もあまた侍しそかしこの千句の中に、

「 けふのみと 住む世こそ 遠けれ 」

といふ句に、

「八十まで いつかたのみし 暮ならむ
 年のわたりは  ゆく人もなし 」

 老のなみいくかへりせばはてならん
思へば、いまはのとぢめの句にもやと今こそ
 思ひあはせ侍れ。」

6月24日~
●鎌倉の近くで連歌会
おそらくは船で・・・江戸→鎌倉・・・
宗祇は富士山を見たがっていた。
「富士をも もう一度 見侍らん」
(★宗祇終焉記)
  美濃に向かう途中、箱根湯本の旅館に泊まった。

●箱根湯本
・7月30日 宗祗は箱根湯本で客死した。
  享年82歳。箱根湯本の早雲寺に墓がある。
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~~~~宗長~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「おのおのこゝろをのどめて、あすは此の山をこゆべき用意
せさせて、うちやすみしに、夜中過るほど、いたくくるしげ
なれば、をしうごかし侍れば、只今の夢に定家卿にあひたて
まつりしといひて、玉のをよ絶えなばたえねといふ哥を吟ぜ
られしを、聞く人、是は式子内親王の御哥にこそと思へるに、
又このたびの千句の中にありし前句にや、

 「 ながむる月に  たちぞ うかるゝ 」

といふ句を沈吟して、我は付けがたし、みなみな付け侍れな
どたはぶれにいひつゝ、ともし火のきゆるやうにしていきも
絶えぬ。

 
・8月11日 宗長は清見ヶ関に着いた。
「道のほど、たれもかれももの悲しくてありし山ぢのうが
 りしも、なきみわらひみかたらひて、清見が関に十一日
 につきぬ。夜もすがら磯の月をみて、宗長

 「  もろともに 今夜清見 が関ならば
     おもふに月も  袖ぬらすらん 」



・文明18年(1486) 太田道灌没
 太田道灌は、群を抜く大きな江戸城:扇谷の石垣修理しよう
  とした。
 主君の扇谷上杉定正は「謀反だ。」と思った。そこで、
  扇谷上杉定正は糟屋邸
 (相模国糟屋現:神奈川県伊勢原市)に誘い出し、殺害。

  • 最終更新:2016-06-02 16:40:18

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