『上毛古戦記』

 ◆『上毛古戦記』(山崎一氏著 再販)

  ●吾妻3家滅亡の項の一部抜粋
   長禄の頃(一四五八年頃)泰近(泰親)は榛名社参の道の
   手違いから箕輪城主長野景重の兵五百に不意に内出城を襲
   われた。泰近は二百余人を従えて討って出て激しく戦った
   が景重のため腹巻の中程を射ぬかれて討死し、妻の常盤は
   吾妻川に身を投じたと伝え、今もそこを常盤の渕と呼ぶ。
   長野景重とは誰かという問題であるが、年代から考えれば
   隆業の頃で浜川に居城していたはずである。しかし、故福
   島武雄氏によれば、すでに箕輪城は長野氏の城として存在
   したことになるので箕輪城主と呼んでも差支えあるまい。
   浜川の館は里城、箕輪は要害城であったと想像できる。

 ◆『上毛古戦記』(山崎一氏著 再販)
  〇第十五話 碓氷峠の戦い

   天文十四年、関東管領上杉憲政は、今川義元を語らい、
   古河公方晴氏を見方とし総勢八万五千を以て、北条氏康打倒の兵を発した。
   氏康の暁将北条左衛門大夫綱成はこれを川越の城に支えてがっちり受けとめ、
   氏康はこれをしとうとし八千の寡兵の果敢な夜曲異によって上杉の大軍を粉砕した。
   憲政は小野因幡守、本間近江、倉賀野三河、難波田弾正等たのみの勇将を多数失い、
   ほうはうの体で平井に逃げ帰ったが、旗下の諸将が次々に叛して氏康につくありさまに、
   大勢挽回に日夜苦慮を重ねた。
   その頃、甲斐の武田信玄が信州戸石の戦に精鋭四千を討ちなされ、
   その上病にかかって明日をも知れぬ重態と伝え聞いた。
   この情報は戸石の戦で臆病払いになった甲州の浪人共がもらしたものである。

   戸石の戦というのは、今の上田にあった村上義清の属城を、天文十五年三月十四日
   武田信玄が攻略しようとした戦で、村上勢はここを先途と奮戦し、武田方は勇将甘利
   備前、横田備中も討死して苦戦に陥ったが遂に踏みこたえ、義清を越後に走らせた合戦
   であった。※実際は上田原にて村上軍に敗れている。

   この機に乗じ信玄を打ち破り、勢力の拡張安定をはかって諸将の離叛を防ごうという
   上原兵庫や菅野大膳(高田憲顕)ら側近の献策に、憲政も動かされて応じようとした。

   箕輪の城主長野信濃守業政は 「当面の敵は北条氏康であるのに、
   どこ迄も彼を撃破しようとせず、意趣遺恨のない武田に兵を向けようとするのは
   毛を吹いて疵を求める業だ」と顔色を変え席を蹴って立った。

   侍大将衆は「業政は信州侍の真田弾正幸隆と懇意で幸隆が信玄方に帰参するのを援助した
   程であるから武田攻撃に反対するのだ」と業政を除外して信州に兵を出すことに定めた。

   くじ引きの結果、倉賀野十六騎の筆頭金井秀景が先陣の大将となり、総勢二万余騎を
   もって勇躍、笛吹峠(碓氷峠)に向った。時に天文十五年十月の初め(注2)である。

   武田方の碓氷峠の抑えに置かれていた飯富兵部、小山田備中、真田弾正から即刻甲府へ
   注進があり、相木の依田市郎兵衛常吉や芦田下野守信守からもこの事が急報され、甲府
   は色めき立った。信玄は二日はぎめの瘧であったというから三日熱のマラリヤにかかっ
   ていたのであろうが、少しも驚かず、板垣信形を大将として、十月四日甲府から碓氷峠
   に急行させ、翌五日には自ら四千三百の兵を率いてその後を追った。

   この合戦に武田方の総兵力は六、七千であったらしい。
   常に二万内外の大兵を手足の如く駆使した信玄が、
   二万の関東勢に対しこの寡兵で碓氷の隘路に敵を支えようとしたのは、
   上杉方の判断の通り当時彼がいかに苦境に立っていたかがうかがわれる。
   後の機山大居士時に年二十六。

   板垣信形が碓氷にかけつけた頃、上杉勢五千程は既に峠を越えて北側の高地に陣し、
   本隊の隘路進出を援護する態勢にあった。
   武田勢は展開を終るや否や矢をとばし鬨を作って攻めかかった。
   金井秀景の先隊はこれに応じ激しく矢を射立てると、武田方は矢頃に合わせて退却し
   はじめる。上杉方がこれに追尾して追い下して行くと、板垣は手勢二百余騎に下知して
   急にとって返えし猛反撃を加えて来た。

   中にも十七才の広瀬郷右衛門景房、十九才の三科伝右衛門形幸の二人の若武者は、
   真先に槍を揮って突進し、広瀬はたちまち藤田丹後守を討ち取り三科は師岡隼人に槍を
   つけた。秀景勢はたちまち混乱して敗走、今や展開半ばにあった本隊になだれ込んだ。
   地形は険しく道は狭い。
   上杉の大部隊は退却して来る味方に押されて総崩れの形となった。
   武州の深谷内匠介が一人難所に踏み止って、追い迫る甲州勢十余人を大薙刀でなぎ倒し
   て防ぐ間に、上杉方もようやく態勢を立て直したので、板垣勢は追撃を止め峠の西に引
   き返した。

   この一戦に甲州方の討取った首一千二百十九級であったという。
   こうしている間に信玄の主力は軽井沢に到着し、
   信州に出陣中だった真田幸隆等も急遽戦場にはせつけ戦線に展開した。

   上杉方も漸く隊形を整え、未の刻両軍互に突進して激しく戦ったが、上杉勢は足並み
   整わず、散々に突立てられて退却を開始し、武田方は勝に乗って猛烈果敢に追い立てた。

   その先頭に立つ板垣信形を見つけた上州方の勇士白倉五左衛門は小高い所に駈け上って、
   只一矢に板垣を射止めようと、剛弓に矢を番え、切って放ったが矢は馬の胸もと深く突
   き立った。

   板垣が馬から下り立ったのを見て、上杉方の十五、六騎がはせつけ、
   信形をおっ取り囲んで切りかかり、既に危く見えた時、真田幸隆が馬をあおって走り
   寄り、敵二人を切り伏せ、三人に手を負わせて戦ううち、武田方七十騎、
   上杉方百騎あまりが互いに寄せ合い切り結び、双方相引きに引き上げた。

   上杉勢はこの戦いに四千三百の将兵を失い、武田方も討死二千百四十三を出した。
   信玄は上杉勢の企図を完全に破砕することが出来たので、その夜の亥の刻、
   形の如く勝開を執行した。
   尚、上杉方の出方を見るため信玄は三日間ここに野営し、十月十日甲府に帰り、
   板垣信形は十一月末まで軽井沢に残って警戒に当った。
                            (甲陽軍鑑)

     注1『北条五代記』や『新編武蔵風土記』その他によって、戦の日がまちまちであり、
        数回の合戦が行われ、夜戦ではなかったようだ。
     注2『高白斎記』によると天文十六年八月。


  ●十月、上杉方の倉賀野六郎・淡路守らが碓氷峠に出陣する
新編高崎市史資料編4(中世II)より
  270 信陽雑志
   九月、上杉勢出張干白井之由、真田・芦田・相木等追々註進云々、
   同時使板垣守軽井沢、左馬介信繁・穴山伊豆守等為諏方番手、
   十月、上杉方倉賀野六郎・舎弟淡路守・見田五郎左衛門・上田又次郎
   ・松本兵部丞・和田左衛門尉・同兵部允・新田・舘林・山上、白井・忍・深谷
   ・五甘・厩橋・沼田・白倉・弥太郎・長板・松井田等都合二万三千余人
   陣干碓氷峠、板垣与相木・芦田進破之、
 〔解説〕
   武田晴信(信玄)ら甲斐勢が信濃国の村上義清らを攻撃した。
   その際、上杉憲政に率いられた上野勢二万三〇〇〇余人は、碓氷峠に出陣し、
   信濃勢を救援した。その上野勢の中に倉賀野六郎とその弟淡路守がみえる。

  〇第十六話 三寺尾の合戦

   碓氷峠の戦の結果、上杉憲政は武田信玄をも敵としなければならなくなった。
   天文十八年、信玄は深く西毛に侵入し、甘楽郡の諸城を次々に落して神流川
   にまで達したが、これは本格的作戦ではなく、いわば平井城に対する強行偵察
   だったのであろう。
   天文十八年八月十八日巳の刻、信玄は急に甲府を立ち、当時新しく所属した
   上州の先手を案内として兵を進め、甘楽郡南牧を押し通り同郡八木連に進出
   してそこを焼き払った。八木連には郷土谷津の砦があったので、これを占嶺
   したものと思われる。
   甲陽軍艦には、信玄は碓氷峠から上州に侵入、鬼面(おにつら)まで進撃し
   たようになっているが、当時碓氷には安中越前守忠政があり、これを無視し
   て甘楽、多野に進むことは出来ない筈である。

   和田記によれば、八木連に放火した信玄がそこから帰陣しようと考えている
   所へ、安中忠政等が三寺尾で戦を仕かけたことになっていて、事情が全く合
   わなくなる。

   おそらく群馬県史にある如く神流川迄兵を進めたと考えねばならない。鬼面
   は鬼石でなくともどこか神流川に近い所と想像してよかろう。信玄が威力偵察
   の予定を終って帰陣しようとした時、彼は彼の得意の反撃戦により敵の追撃を
   断ち、安全に撤退すべく上州勢を誘いこんだに違いない。

   安中忠政等は、この誘いにのったものと判断して差支えあるまい。
   信玄が、和田城又は倉賀野城を攻略して安中、松井田の背後をおびやかす気配
   を見せ、鏑川を渡って寺尾に進出すれば、安中越前守を隊将とする西毛九頭の
   諸将は、六千余人を以て「和田城の右手の方、片岡郡三寺尾で晴信を噴い止め
   よう」としたと和田記に言う。三寺尾は今の高崎市乗附、石原、寺尾である。

  「和田兵衛大夫は倉賀野三河守と相談して別城に引き籠り、用心厳しく今か今か
   と待ちかまえた」と和田記は記し、上州勢は撤退する甲州勢に追尾しようとし
   たのではなく守勢で起ったのだ。(倉賀野三河守は既に川越で討死し、その頃
   は金井秀景等所謂倉賀野十六騎が協力して倉賀野城を固めていた時で、三河守
   は誤りである。)

   信玄はこれを知り「晴信に対し戦を挑むとはけなげなもの、味方は切所を越えて
   深く敵地に入ったため地の理に暗く、敵はよく地形に通じているのだから、けっ
   して侮るな」と下知すれば、諸手は備えを引きしめ内藤修理亮昌豊、馬場民部少
   輔信房、原加賀守昌俊、同隼人助昌勝父子、浅利民部、小宮山丹後守昌友の六頭
   の手を以て九月三日戦が始った。

  「内藤は一の殿であるから、畳んだ備えを押し廻し、手に分れてどっと鬨の声を
   合せ、直ちに弓、鉄砲を打ちかければ、上州勢もこれに応じてはげしく射ち合った」
   とあるのを見れば、武田方は退却行から戦をはじめたのである。いわゆる「大がえし」
   の反撃戦である。

   向をかえた内藤勢の左右から、馬場、浅利、小宮山の各隊が押し出し、上州勢の両翼
   を包んで奮撃し、両軍のしょうき入り乱れ、椚み合い矢叫びの声が天に響き、馬蹄の
   音は地軸をゆるがせた。

   甲州方の曲渕庄左衛門、新参の和田八郎の家来磯谷与三郎等が一番、二番の槍を入れ、
   必死に戦えば、上州勢は散々に打ち破られた。
   甲州勢の討ち取った首五百二十七級、その日の巳の刻にはもう勝鬨を行っている。
   かくて信玄は、敵に一撃を加えてその戦闘力を破砕し、追尾の憂を断って悠々と
   信州へ撤退し小笠原長時に備えた。
                     (和田記)

 ●第十七話 神流川の戦い

   川越の夜戦は、関東公方、関東管領を枢軸とする旧鎌倉府体制の最後の炬火であった。
   この戦に全関東をこぞる上杉の大軍を完膚なき迄に撃破した北条氏康は、
   つづいて生明の公方義明を鴻の台に降し、着々戦国大名としての地盤を確立し、
   天文二十年春、上杉氏の本拠平井城を覆滅して最後の止めを刺すべく、
   北条左衛門大夫綱成父子、横井越前守を先鋒と定め二万余騎を率いて小田原を発し、
   神流川に達した。

   上杉方ではこの事を聞き、太田資正、長野業政をはじめ、曾我祐俊、金井秀景、安中忠政、
   小幡憲重等が東武州、西上州は勿論、赤井、新田、佐野、足利、桐生、渋川、山上、那和の
   諸勢を併せ、先陣、後陣の備えを立て半途に支え、神流川を挟んで決戦の火蓋を切った。

   時に三月十日の昼下がりである。
   上杉方は数においては、はるかに優位に立っていた。
   流石の北条勢もじりじりと圧迫されて引き色に見えた時、主将自ら采配をとって陣頭に
   立ち、「進めや者共、相模武者の名をけがすな。」ともみにもんで下知すれば若武者達
   は死力を奮って戦った。

   中にも綱成の子福島善九郎康成は十八才の初陣ながら真先にかけ入り、
   刃向う敵一二、三人を切り倒した。
   善九郎にまけてなるものかと叔父福島伊賀守勝広も、
   筋金入りの樫の棒を強力にまかせて打ち振り打ち振り、甲の真向、
   馬の平首当るを幸い薙ぎ伏せ、味方の兵をはげまし戦えば、上杉方の大軍も追い立て
   られて足並みを乱し、太田資正、長野業政の活躍にもかかわらず北条方にね返える者が
   相つぎ、総くずれとなって平井城に逃げ返り、堅く門を閉ざして龍城した。

   北条勢も追撃して城の外郭に迫ったが、伊豆、相模の軍兵も死傷が多く、
   無理な攻めは危険なので、氏康は上杉方の態勢の整わぬうち、さっと線上を離脱して
   小田原に帰陣した。

   平井城址は今、藤岡市西平井に遣っている。牙城は南に偏し、本丸は鮎川の崖上に
   あって五角形に土囲をめぐらし、二の丸やささ曲輪が北から西をかこみ、三の丸と
   新曲輪が北側に並び付になっている。
   更に北に総曲輪が付く。牙城部は長尾忠房が上杉憲実のために築いた部分、
   三の丸、新曲輪、総曲輪は上杉顕定の増築の部分であろう。

   こうして総曲輪の城下町が立派に作られていたことは、既にかなりの程度に政治、
   経済の中心と⊥ての機能が活動していたことを示している。
   平井城はいわゆる堅固の城である。東から北にかけ神流川と鏑川とを外防線とし、
   その中に東平井常岡、大神宮山、動堂、白石、深沢(黒熊の中城)岡、落合、峯山、
   河内の諸砦を配している。

   これ等はほとんど単郭の丘城か平城で、けっして堅固なものではない。
   それはこれ等が築かれた当時の戦闘が堅塁による攻城戦ではなく、
   野戦を主としたものであったことからである。
   平井城も決して堅城ではなかった。

   平井城域の構成はこれだけではない。
   日野金井の金山西城とは里城-要害城の関係をもち、
   西の新堀城(多比良城)とは別城一郭を構成する。
   更にこの新堀城が一郷山城との間に別城一郭の関係である。

   鮎川を潮った子王子山城や南三波川諸松城、譲原の真下城南の外壁である。
   日野金井の東にある平井東城は高山氏の城で、天屋城、要害山、
   百聞築地の碧から構成され清水山城を外壁とする。

   かくの如き堅固な防禦組織の平井城であるから、
   氏康が粗忽には強攻しなかったことが肯定出来る。
                  (関八州古戦録)

  ●第十八話 平井落城

   小田原に帰った氏康は、神流川の戦に寝返って味方となった上州、
   武州の諸将を利用して活発に上杉方の人々の抱き込み工作を行った。
   この戦に小田原勢の実力を見せつけられた諸将は自衛に腐心し、表面はともかく、
   ひそかに北条に款を通ずる者が多かった。

   この状態を見すまして氏康は準備成れりと再び平井攻略の兵を進め、
   同じ天文二十年の秋八月上旬、大軍を擁して平井城に迫った。
   上杉憲政は急遽回文して平井防衛の兵を集めようとしたが、
   かけつける者はほとんどなく、あまつさえ寵臣上原兵庫介はひそかに逃げ落ちて行方も
   知れず、菅野大勝亮は甲州にのがれ、側近の者共まで遁げ去って平井の兵は総勢五、
   六百となってしまった。

   憲政もあきれ果てて、太田三楽にたよって岩槻へ行こうか、長野業政の箕輪へ行こうか
   と苦慮していた。
   曾我兵庫介、三田五郎左衛門、本庄宮内少輔が相談して憲政に、
  「太田三楽も長野業政も又とない忠臣であるから、
   それを頼れば必ず死力を尽くして主君を守るであろうが、
   二人共北条の大軍を防ぎ止めるには力が足らぬ。
   越後の長尾景虎は、今二十三才の若年乍ら智勇兼備のほまれ高く、信州の村上義清に
   頼られて強剛武田信玄と戦を交えて数年間、一歩も引かぬ武者振りと聞く。
   彼の父為景は顕定入道可詩斎、房能入道常義の御兄弟を殺した逆臣ではあるが、
   もとはと言えば上杉家譜代の家臣であるから、一切を忘れ水に流して頼って行けば、
   味方となって力をつくすであろう。一時彼に頼り、
   機を見て再び関東に返り上杉家を復興するのが最後の策である。」
   と熱心にすすめた。

   憲政も今はこれに従うより外なく、曾我、二階堂、三田、石堂、野村、小野良五十余人
   を従え夜に紛れてひそかに平井を発って越後に向った。
   北条勢が平井城を包囲すると、城主の既にない城中では、義を忘れぬ譜代の人々が要所
   を固め、ここかしこに支えて必死に防ぎ戦ったが、寡兵如何ともし難く持口を押し被ら
   れ、或は落ちて行き、その日のうちに落城してしまった。
   氏康は外曲輪を焼き払い、北条三郎長綱にこの城を守らせて小田原へ帰陣した。

   平井城に残っていた憲政の長男竜若丸は、乳母の兄弟の目賀田新介兄弟三人と叔父の
   九里采女正、同与左衛門等と共に落ち、民家にかくれていたが、新介等は変心して竜王丸
   を小田原につれて行き、北条氏に差出して恩賞を受けようとした。

   氏康は竜若を笠原越前守に受け取らせ、神尾治部右衛門に首を切らせてしまった。
   目賀田一族八人は不忠不義の悪逆人と小田原の城下を引き廻し、一色村の松原で礫刑に
   処した。
   今も小田原の東郊山王原に竜若丸主従の墓というのが仙残っている。

   憲政は利根川を潮って沼田に出、高平の雲谷寺に入ったが、沼田氏は既に北条に心を
   移していて冷遇し、川田の地頭山名義季が、笹尾の郷高瀬戸に迎えて厚くもてなした。

   しかし憲政はそこにも長く居るわけにゆかず、石倉三河の館に移り、
   その後吾妻の木の根を通り越後に向ったという。

   春日山に着いた憲政は、上条山城守定春の邸に入り、三田五郎左衛門の案内で景虎に
   面会を申し入れ、景虎は城内に招じ礼節をつくして対面した。
   憲政から上杉の家督を譲りうけた景虎は、関東管領家の回復を約した。

   憲政は春日山の二の曲輪に置かれ、慰料として三百貫付された。
   春日山城は高田市と直江津市との間、信越線春日山駅から西二、五キロの山にある。
   梯郭式の城であって本丸は西南端にあり、長さ三百五十メートルで比較的小さく、
   東北と東南の山麓に遠構えの濠をもっていた。
   堀切りのないのは雪の多い地方であるから、城主は平常山下の居館に居たのであろう。
                                  (関八州古戦録)
 

  • 最終更新:2017-09-13 23:18:30

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