『相木市兵衛依田昌朝と武田信玄』:依田武勝著の志賀城攻め

『相木市兵衛依田昌朝と武田信玄』:依田武勝著の志賀城攻め

◆◆ 『相木市兵衛依田昌朝と武田信玄』:依田武勝著の志賀城攻め ◆◆
  • 武田信玄は志賀城主:笠原清繁を納得させるために、相木市兵衛を何回も交渉に使わせた。村上勢が上杉憲政を頼み、武田軍をたたきつぶそうという作戦であった。武田信玄は志賀城を包囲し、比高170mの志賀城の本丸に目を向けた。本丸には上野国菅原の高田憲頼の軍1000も加勢している。
  • 7月18日、武田信玄は8000の兵で抗戦体制に入った。
  • 7月24日、攻撃開始。武田信玄は水源を絶った後、廓、搦め手を百足組指揮官:多田満頼に攻めさせ、虎生谷を占領した。笠原清繁は上杉憲政に後詰めするように使いを出した。上杉憲政は10000の大軍を用意し、金井秀景を大将として、小田井が原に布陣させた。
  • 武田信玄は相木昌朝に相談した。相木昌朝は「あと一息で志賀城が落城せんとしている。兵を引いてはならぬ。別働隊で、小田井が原を攻撃すべし。」と答えた。板垣信方は「相木殿の言うとおり、我ら横田・甘利の軍勢3000でこれに当たる。」と気勢をあげた。真夜中、武田勢3000が上杉軍10000を襲う。激しい戦いを繰り広げた。翌朝までに3000の首を挙げた。上杉勢はちりぢりになって上野に逃げ帰った。
  • 板垣信方は「3000の首を無駄にしてはならぬ。これを志賀城の門前に並べよう。」と言った。「籠城を解いて、降伏するように・・・。」と促した。相木昌朝は女房子どもを連れて逃げ出す武士のため、間道に置いた兵を退かせた。
  • 8月10日、城内に残る兵は3分の1程に減り、1000人を割った。
  • 8月11日、夜明けとともに、攻撃が始まった。法螺貝を吹き鳴らし、寄せ太鼓を絶え間なくならし続けた。・・・逃げる者は今のうち・・と知らせているのである。城将父子・高田父子など城兵300余人が最後をとげた。8月22日、武田信玄は甲府に凱旋した。

  • 最終更新:2016-06-17 22:19:49

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