このサイトの概要

はじめに

  • はじめに・・・このサイトは、上州箕輪城と戦国期における西上州並びに、周辺諸国の歴史を取り扱っております。箕輪城は、その初めの築城者である長野氏が武田氏に滅ぼされた後、幾度となく城主・城代が変わっております。その成り行きや、その後の状況などを踏まえて、上州戦国史を紐解いて行きたいと考えております。
 
  • 掲載される内容は、トップページにもあるように「箕輪初心氏のブログ」に掲載されている内容を主に、編集しております。いずれは何らかの書籍になれば良いかなと考えております。その事を意識して、出来るだけ順序立てた構成にしていかなければ成らないと思います。そこで以下に目次のごとく概要を記すこととしました。
 

関東戦国時代の幕開け

関東戦国時代の幕開け・・・古河公方が成立した享徳の乱は、旧来の政治体制が大きく動揺し、新興勢力の後北条氏が台頭する遠因ともなった。したがって、関東における戦国時代は、古河公方成立で始まり、豊臣秀吉による後北条氏滅亡で、終結したとも定義付けられる。ではその戦国時代の始まる少し前から、箕輪城主長野業政が登場するまでの、関東地方の歴史をたどってみよう。
    • 永享の乱と上杉憲実・・・★上杉憲実といえば、『足利学校』というイメージが強い。上野国の藤岡平井城も築城した。・永享10年(1438)永享の乱後、鎌倉公方家足利持氏と関東管領:上杉憲実の対立が始まった。
    • 結城合戦と上州一揆・・・※永享の乱が集結した。永享の乱後、上杉憲実は主君:足利持氏を滅ぼしたことに対しての自責の念にかられて出家した。弟:上杉清方に託して、伊豆国清寺で出家した。
    • 享徳の乱より戦国へ・・・江ノ島合戦。長尾景仲は上杉憲忠の舅で扇谷上杉家当主:上杉持朝と共謀して足利成氏を攻め滅ぼそうとしたが失敗した。逆に反撃を受けてしまった。
    • 上杉顕定と長尾景春・・・山内上杉家の家宰:長尾景仲が病没した。上杉房顕は関東管領からの辞意を表明した。足利義政に拒絶された。

箕輪城の歴史を探る

箕輪初心●箕輪城シリーズ②「箕輪城の歴史概略」 より

 

箕輪城の歴史・・・箕輪城は、文明8年(1477)応仁の乱が終わった頃から明応6年(1497)頃の間に、高崎市の浜川にいた長野業尚かその子信業(憲業)が築城したと言われている平山城です。現在の城跡は井伊氏の時代の遺構だと考えられています。
    • 上野長野氏の研究・・・近藤先生は「1190年に石上=長野氏が国衙領に入ったが、鎌倉時代に無用の長物になり、東山道ぞいの浜川に館を作って、・・安全な場所:鷹留城→箕輪城を造った。」という説を述べた。
    • 古代上毛国と石上氏・・・「上毛かるた」の中に「昔を語る多胡の古碑」があることは、上州生まれの人にはなじみ深く知れている。さて、この碑文について戦国期の連歌師宗長は、その記録「東路の津登」にて「長野氏の姓は石上であり、多胡碑に見える石上尊がその祖である」と語っている。
    • 阿保親王と在原業平・・・ 「上野長野氏の研究」のところにある、石上氏については古墳時代にさかのぼって上野との係り合いを見てきた。では以下におさらいを載せてその後、在原業平について調べてみよう。

長野氏の時代・・・長野氏の時代における初期の城は、現在の本丸と御前曲輪と二の丸(追加修正:+木俣、それに続く椿山砦・水の手郭・東明屋砦+通路)の規模位で、大手門は現在の搦め手口にあったと考えられています。長野氏は業尚・信業(憲業)・業政・業盛の4代約70~に80年渡り箕輪城を拠点に活躍しました。長野業政の時代に最盛期を迎え、(追加修正:今の規模に近くなったと思われます)箕輪城の周りには200m~300m以内に家臣団の城や砦を約60ヶ所(★箕輪初心の調べでは82ヶ所)築きました。

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 左(本丸入り口の石碑)      右 長野氏の築城当時の大手口(=井伊時代の搦め手口)から二の丸を望む。

 さらに、城を強固にするために娘12人などによる姻戚関係+長野業政養女による姻戚関係で親戚・同心(協力者)を得て西上州の有力武将になりました。しかし、永禄3年(1560)に長尾景虎の上州への働きかけが強くなると、武田信玄は上州に侵略を強化し始めました。永禄4年(1561)の長野業政の死ぬと、甲斐の武田、越後の上杉の争いがいっそう激しくなりました。そして、相模の北条も加わりの三つ巴の戦いになりました。結果的には、永禄9年(1566)9月29日、武田信玄は味方に引き入れた長野氏の親戚:小幡信貞・和田業繁・倉賀野五郎や吾妻を支配下に治めた真田幸隆など旧臣ともに箕輪城を攻め、攻略しました。
 
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(搦め手口よりの二の丸遠望) 右 (関東最大規模の本丸堀 大きい所で幅30m・深さ20mの薬研堀・今は破城のため深さ10m程)

武田氏の時代・・・武田氏の時代には、甘利昌忠・浅利信種・内藤昌豊などが武田氏の有力家臣が城代になり、16年間、箕輪城を拠点に西上州支配しました。天正10年(1582)に、武田氏が滅亡すると、織田氏の家臣滝川一益が入城しました。

滝川一益の時代・・・滝川一益の時代には、箕輪城は西上州の武将の人質の城として利用し、一益は一ヶ月程で厩橋城に移りました。しかし、6月に織田信長が本能寺の変で死ぬと、後北条氏が箕輪城に入城しました。

北条氏の時代・・・北条氏の時代には、後北条氏の北条氏邦・家臣の猪俣憲邦・多米長定・塀和(はが)が入城し、約8年間支配しました。この時代に箕輪城は修築・拡大され、堀や橋台は確実に北条氏が改築したことがうかがわえます。しかし、真田氏の名胡桃城へ沼田城主猪俣憲邦が侵攻したことをきっかけに、天正18年(1590)に、豊臣秀吉の小田原攻めが始まり、北条氏が滅亡してしまいます。豊臣秀吉が天下統一を果たすと、徳川家康が関東に配置されました。そして、秀吉の命令で、井伊直政が入城しました。

 

井伊直政の時代・・・井伊直政の時代には、箕輪城12万石で箕輪城と城下町整備が行われました。約8年間在城し、この当時では、関東では、天守閣はないものの最も大きな城になったと思われます。慶長3年(1598)に高崎に移る前に、上杉景勝や真田一族に箕輪城を使われないように堀を埋め、徳川家康は箕輪城を破城にしました。
 

史跡・城館編

 
 
 

上州紀行  


  • 最終更新:2016-07-07 18:33:48

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