上杉定昌
◆上杉定昌(うえすぎ さだまさ)
(Wiki最終更新 2011年4月17日 より本サイト内に取り込んだもの)
室町時代の人物。上杉房定の子。上杉顕定、上杉房能の兄。
父房定に代わり文明3年から五十子陣で、同9年からは上野白井城に在陣して
弟の関東管領上杉顕定補佐した。
生誕:宝徳2年(1453年) 初名は定方。左馬助、民部大輔。
死没:長享2年3月24日(1488年5月5日)
◆戦国期における関東管領山内上杉氏・越後上杉氏の相関図(憲実以降)
『戦国期山内上杉氏の研究』黒田基樹氏著(岩田書院)とWikiよりまとめたもの
|(越後守護) (越後守護) (越後守護:清方の子)
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| 22上杉憲忠
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| | |(足利成氏の子)
| | | (高基の子)
・-重方 ・-法興 ・-28上杉憲政
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| ・-周泰
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(越後守護) | (越後守護)|
| ・-上杉龍若(房顕へ養子:顕定)
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| ・-上杉房能(天水越で自刃)
| (越後守護)
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・---上杉房実-・-上杉定実(越後守護・為景の傀儡)
| (上条) |
・---定顕 |
(定憲は、房実子or孫と諸説あり)
凡例 ─は実子
=は養子
数字は関東管領就任の順
- 宝徳2年(1453年)
上杉定昌は、越後守護上杉房定の長男として生まれる。
元服した時期は不明だが、初めは定方(さだまさ)と名乗った。
- 享徳3年(1454年)
上杉顕定は、越後守護上杉房定の子として誕生。幼名:龍若 別名:四郎
- 寛正7年/文正元年(1466年)
2月、関東管領・上杉房顕が武蔵国五十子陣にて陣没したが男子がいなかった。
家宰・長尾景信は長尾景仲の遺言であるとして、房顕の従兄弟で上杉一族の重鎮である
越後国守護・上杉房定の子に房顕の跡を継がせようとしたが、房定はこれを拒否した。
10月には室町幕府8代将軍・足利義政からも改めて房定の子を後継とするよう命じられ、
房定の次男である龍若(顕定)が山内上杉家の家督を継いで当主となった。
- 応仁元年(1467年)
上杉憲房は、上杉憲実の子で僧籍にあった周清の子として誕生。
後に又従兄弟にあたる関東管領・上杉顕定の養子となる。また、顕定の船台上杉房顕の
養子でもあったとする説もあり、上杉家連枝としては家格が高かったようだ。
扇谷上杉持朝死去
- 応仁2年(1468年) 毛呂島・連取原合戦(伊勢崎市)
- 文明3年(1471年)
上杉顕定は古河御所を占領して勝利している。
上杉定昌(定方)もこの頃には、父房定より関東の軍事を任されるようになった。
上杉顕定(17才)定昌(18才)憲房(4才)
「足利義政御内書」(9月17日の足利義政の文書)
関東事、連々被忠節旨、上杉四郎註進之趣、被聞食之
訖、尤神妙、弥々可抽戦功侯也、
同日
小幡右衛門尉とのへ
長野左衛門尉とのへ
(解説)
享徳の乱中に館林城を落とした上杉軍は、更に古河を攻め、足利成氏を同地から追った。
小幡右衛門尉・長野左衛門尉は、上杉軍に加わって活躍し、その結果上杉顕定の注進に
よって将軍足利義政から、感状を下されたのである。なお、『松陰私語』には、この後
に長野左衛門尉為兼という人物がみえ、関係が注目される。高崎市史より
●文明9年に「当国(上野)中一揆長野左衛門尉為兼(業)」と見えることから
長野氏が一揆の旗頭となったことがわかる。(資4-223)。
持広謀殺から文明9年まで37年ほどの間に、長野氏は長尾氏と親密な関係を結び上州一揆の
旗頭となったのである。
※久保田先生・・・長野氏は上州の代表になっていた。
●古河城に先駆けて、館林城にて激しい戦いが繰り広げられ、戦功を挙げた上杉方
の武将に対して、将軍義政から御内書が発給された。
これを受給した山内上杉氏方の武将を列挙すると、次のようになる。
関東管領上杉顕定
・家宰長尾景信・嫡子長尾四郎佐衛門尉景春
・大石顕垂・大石隼人佐・大石新左衛門尉
・長尾定景(足利)・長尾藤寿・善四郎
・武蔵守護代惣社長尾忠景・子高津長尾能登守
(能登守は、「長享二年五月二一日 長尾定明書状 赤堀上野介宛 切紙」
から後の上野守護代長尾定明?)
- 文明4年(1472年)
2月公方成氏方の攻勢により、古賀御所は回復された。
- 文明5年(1473年)
上杉顕定(19年才)定昌(20才)憲房(6才)
4月 越後上杉定昌はこの頃から、父に代わって関東へ出陣していた。五十子在陣。
『上杉顕定』森田真一氏著より
6月 白井長尾景信が死去。
長尾景春は、父の死と共に白井長尾家の家督と右衛門尉の官途名を頂く。
しかし、山内家の家宰の地位を引き継げなかった事は、知っての通りである。
★長尾景春は、当然、家宰職も継げると思っていた。
しかし、山内上杉家:上杉顕定の家宰の地位は
叔父:長尾忠景(総社長尾氏)が継ぐことになった。
つまり、上杉顕定は白井長尾家の力が強くなりすぎることを嫌ったのである。
当時顕定は20(1454生)前後であり、寺尾豊後守(高崎市)の助言とする説もある。
・長尾景春、橋林寺開基。「上毛剣術史(中) 剣聖上泉信綱詳伝」 より
※前橋市史では、文明8~9年(1477)橋林寺建てられるとしている。
長野氏により厩橋城このころ築城ともいわれる 。金井曲輪(市立図書館の北側)に創建。
※また、長尾景仲と長野入道の時代にあるように、国府周辺には以前から長野氏の宿所・陣所
は存在していたようだ。戦いの激化のより利根東岸の砦を強化する形で拡張・改築されたの
ではあるまいか。
- 文明6年(1474年)
4月
上杉定方は、名乗りを定昌と改めるが、「昌」の字は上杉朝昌の偏諱であり、房定が同時期
の扇谷上杉家の後継選びに介入しようとしていたと推測されている。その後も五十子に在陣
して弟の関東管領上杉顕定とともに享徳の乱を戦い続けた。
- 文明7年(1475年)
長尾景春が 武蔵:鉢形城を築城(伝)
後に謀反の時景春に味方した諸氏
・足利長尾氏・葛西大石氏(葛西城 )・二宮大石氏(滝山城)
・上野長野氏・武蔵両長井氏・成田氏・豊島氏・毛呂氏・千葉氏
・相模金子氏・海老名氏・本間氏・甲斐加藤氏
・犬懸長尾景利(景春の従兄弟・景連?)(秩父郡内に所領在り)武蔵日尾城
秩父の薄地域(小鹿野町)を領していた犬懸長尾氏(鎌倉長尾氏の系列)とは縁戚関係
があり、景春の妻も犬懸長尾の出身でありました。
・安保氏(秩父郡内に散在した所領在り・また公方より郡内の惣成敗権あり)
このように、景仲・景信と二代に渡って従ってきた諸氏は、白井長尾氏から惣社長尾氏
へ家宰の地位移行に伴い、領国における既得権喪失を危惧した。そのため、これを守る
ために景春に味方と言うよりか、担ぎ上げて強訴に及んだという事であろうと想像する。
- 文明8年(1476年)
6月 長尾景春の乱が勃発、道灌が今川氏の内紛介入のために駿河に滞在していた。
景春は武蔵鉢形城に拠って反旗を翻す。
顕定・忠景は未だ景春の力を軽視していた。
景春は優れた武勇の士であり、2代続けて家宰職を継いだ白井家の力は
他の長尾氏一族よりも抜きん出ていた。
五十子陣の上杉方の武将達は動揺し、勝手に帰国する者が続出する。
- 文明9年(1477年)
正月 長尾景春の攻撃で五十子陣が崩壊すると上野国白井城へと引いた。
上杉定昌は、その後より白井城に駐在するようになる。
長野業政の父方業(まさなり)説をとるならば、方業はこの頃生まれていたことになる。
上野は戦乱の真っ只中、浜川・白井・厩橋のいずれかの城中で生まれたのだろう。
上杉顕定(23年才)定昌(24才)憲房(10才)方業(5才仮)
景春方「長野左衞門尉為業」武蔵針谷原の合戦で死亡。
- 文明10年(1478)
1月 足利成氏が簗田持助を通じて山内上杉家家宰:長尾忠景へ和議を打診した。
20年以上の戦いに飽いた足利成氏は足利幕府の関東管領
との有利な条件での和睦を望んでいた。
上杉氏と足利成氏の間で和議が成立。
- 文明11年(1479)
太田道灌は甥:資忠と千葉自胤(千葉氏の上杉方)を房総半島へ派遣した。
千葉孝胤の籠る臼井城(千葉県佐倉市)を攻略した。
- 文明12年(1480)
1月 長尾景春が八幡山(雉ヶ岡城付近)で蜂起した。
(★太田道灌状・・)
忠景の嫡男:長尾顕忠は、秩父郡で上杉軍の将として長尾景春と交戦した。
総社長尾氏の家督を継いだとみられている。 (「太田道灌状」)
鉢形城落城後も児玉郡付近には長尾景春の勢力が残っていた雉ヶ岡城が長尾景春方の
城であったのか不明であるが、児玉郡は山内上杉氏の所領である。
★山内家には相当数の長尾景春の支持者(安保氏?)がいたのではないだろうか?
6月 長尾景春の最後の拠点:日尾城(埼玉県秩父市)を太田道灌に攻め落とされた。
長尾景春は足利成氏を頼って落ち延びた。
古河公方:足利成氏と長尾景春は、室町幕府に「両上杉家」との「和睦」調停を申し出た。
足利幕府も命により、「両上杉家」と「古河公方」の対立&「長尾景春の叛乱」は、
和睦で、終焉することになった。だが、まだ乱はくすぶる。
- 文明13年(1481年)
上杉憲房(14才)元服する。長尾景春は。憲房を「屋形」と称して被官していた。
上杉顕定(27年才)定昌(28才)憲房(14才)方業(9才仮)
- 文明14年11月27日(1482年1月6日)
足利成氏と両上杉家との間で和議が成立。
足利成氏は幕府から赦免された。(都鄙合体)
※30年にも及んだ享徳の乱は終結した。
だが、定正は山内家主導で進められたこの和睦に不満であり、定正と顕定は不仲になる。
上杉顕定&上杉定正は、その後も対立したままだった。
- 文明18年(1486年)
上杉定昌は、越後上杉房定の官途である民部大輔を譲り受け、翌年には家督を譲られた。
- 長享元年(1487年)
長享の乱が勃発 (長享元年(1487)~永正2年(1505))
翌長享元年(1487年)、顕定と実兄の定昌(越後守護)は扇谷上杉家に通じた長尾房清
の下野国足利庄勧農城(現在の栃木県足利市)を奪い、ここに両上杉家の戦いが勃発し
たのである。
山内上杉家の上杉顕定(鉢形城) VS 扇谷上杉家(河越城)の上杉定正→甥・朝良
長尾顕忠は山内上杉家の家宰として軍を率いて
上杉朝良・伊勢宗瑞(北条早雲)らと戦った
晩年・・・武蔵国杉山城を居城にした可能性がある。
- 長享2年(1488年)
上杉顕定(34年才)定昌(35才)憲房(21才)方業(16才仮)
2月5日 「関東三戦」①実蒔原の合戦
鉢形城を出陣した関東管領山内上杉顕定(34才)・憲房(21才)〔顕定養子〕は、
扇谷上杉氏の本拠地・相模糟屋に押し寄せました。顕定は糟屋の館の北を守る七沢要害
(七沢城、厚木市)を攻略し、扇谷定正と城の南に位置する実蒔原で激突しました。
江戸時代の戦記物である『北条記』によると、顕定父子は一千余騎、これに対して定正は
二百騎で河越城(埼玉県川越市)から、一日一夜で駆けつけたといいます。
その戦いは「原野血に染まって野草緑を替えにける」といった激戦でしたが、「山内の大勢
わずかの小勢に懸負けて、四方に乱れ落ち行く」といった結果となりました。実蒔原の地形
を熟知した定正の作戦勝ちともいえるようです。しかし、薄氷を踏む勝利だったようです。
定正もその書状で、かろうじて勝利したと述べています。(いせはら文化財サイト様より)
3月24日に上杉定昌は、白井で従者共々自害した。享年35。
原因について上杉房能を擁立しようとする長尾能景らの陰謀であるとする説や、扇谷上杉氏
による謀殺とする説、扇谷上杉定正方についていた白井城の旧城主である長尾景春ないしそ
の与党によって襲撃されたとする説がある。
父・房定と同様に音に聞こえた風流人であり、文化人らとの交流も厚かった。訃報に触れた
連歌師宗祇は定昌のことを「無双の仁慈博愛の武士」であったと三条西実隆に語っている。
※長野業尚、室田に築城、浜川より移り鷹留城と称す
- 最終更新:2018-07-28 00:19:36