上杉憲房
第26代関東管領:山ノ内上杉憲房
◆上杉憲房(うえすぎ のりふさ)
(Wiki最終更新 2014年6月1日 より本サイト内に取り込んだもの)
戦国時代の大名。上杉憲実の子で僧籍にあった周清(秀晟、周尋とも)の子。
正室:上杉朝昌の娘
生誕:応仁元年(1467年) 五郎(通称)
死没:大永5年3月25日(1525年4月17日)
憲房と箕輪長野氏との関わり合いは深く、戦国物語を綴るうえで重要な位置にある。
縄張り図と写真は余湖くん様のホームページより
又従兄弟にあたる関東管領上杉顕定の養子となる、だが、その立場は必ずしも安定し
ておらず、長尾景春の乱の最末期には長尾景春らによって山内上杉家当主に擁立されて
いた時期が存在していたことが知られている。関東管領就任時は平井城主であったが
知られている。
◆戦国期における関東管領山内上杉氏・越後上杉氏の相関図(憲実以降)
『戦国期山内上杉氏の研究』黒田基樹氏著(岩田書院)とWikiよりまとめたもの
|(越後守護) (越後守護) (越後守護:清方の子)
|
| 22上杉憲忠
| |
| | |(足利成氏の子)
| | | (高基の子)
・-重方 ・-法興 ・-28上杉憲政
| |
16上杉憲孝 | ・-周泰
| |
|(越後守護) | (越後守護)|
| | ・-上杉龍若(房顕へ養子:顕定)
18上杉憲定-20憲基 | |
| ・-上杉房能(天水越で自刃)
| (越後守護)
|
・---上杉房実-・-上杉定実(越後守護・為景の傀儡)
| (上条) |
・---定顕 |
(定憲は、房実子or孫と諸説あり)
凡例 ─は実子
=は養子
数字は関東管領就任の順
- 応仁元年(1467) 扇谷上杉持朝死去
上杉憲房は、上杉憲実の子で僧籍にあった周清(秀晟、周尋とも)の子として生まれる。
- 応仁2年(1468) 毛呂島・連取原合戦(伊勢崎市)
- 文明3年(1471) 上杉顕定は古河御所を占領して勝利している。
①9月17日の足利義政の文書
「足利義政御内書」・・
小幡右衞門尉とのへ
長野左衞門尉とのへ
※久保田先生・・・長野氏は上州の代表になっていた。
②「享徳の乱後」の長野氏の分立
???年、「実相院諸国旦那帳」
「上野国まえはし殿 名字なかのと御なのり候えども
いその上氏也、箕輪殿・大こ殿・・」
(★那智大社文書)
※久保田先生・・・熊野神社が有力であった。伊勢神宮は
それから後の時代である。
まえはし殿・・・厩橋長野氏(宮内小輔の冠途・・)
みのわ殿・・・・箕輪長野氏(庶流に室田長野氏)
大こ殿・・・・・大胡長野氏(左馬介の冠途、厩橋長野氏の連枝)
※久保田新説①長野宮内少輔系方業などの厩橋が本家ではないか?
・・・那智大社文書には長野3家
「まえはし殿、箕輪殿、大こ殿」とあるからである。
文明3年(1471年)には、享徳の乱のなかで足利成氏方であった高師久(高氏)の
拠る館林城が上杉氏により落城した(佐貫合戦)。このときの館林城主は舞木氏配下
の赤井文三(文屋三郎)・文六(文屋六郎)両人で、当時の赤井氏は異なる名乗り
の2流(文三系と文六系)が存在していた。文三系は信濃守、文六系は刑部少輔・若狭守
の位を受け継いだとみられる。 館林落城での赤井氏に関して『館林市史』は、文三を
綱秀、文六を高秀ではないかと指摘している。 wikiより
上杉勢は対岸の篠崎で昼夜見張りをしていた。赤井氏は、青柳の茂呂氏を従えていた。
小山氏など古河公方方が上杉方へ寝返ったため、5月には古賀御所を攻め落とした。
ここで言う立林城は、Wikiにあるように「館林城」である説と大袋城(館林市)である
説とある。どちらも同じ低湿地(沼)に半島状に突き出した領域に縄張りを持っている。
館林市史では館林城と記し、どう見ても戦国・江戸期に見える館林城と読み取れる。
だがどうだろう、佐貫の庄の主になったとはいえ、赤井氏にあれだけの縄張りを持つ
要害を築けるであろうか?多くのHPが指摘しているように大袋城を立林城とした方が
妥当であると考える。だが、古河公方のおひざ元と言える館林なので公方の力添えに
より築城されたと考えたら納得がいく。また当時舞木氏は公方と関東諸氏の取次役を
担っていたという説もあった。ますますありだな 棟治
- 文明4年(1472)
2月公方成氏方の攻勢により、古賀御所は回復された。
- 文明5年(1473)
4月 上杉定昌は父に代わって五十子に在陣するようになる。
6月 白井長尾景信が死去。
白井長尾家の家督は嫡男:長尾景春が継いだ。
★長尾景春は、当然、家宰職も継げると思っていた。
しかし、山内上杉家:上杉顕定の家宰の地位は
叔父:長尾忠景(総社長尾氏)が継ぐことになった。
上杉顕定は家宰を長尾景春の叔父:長尾忠景(総社長尾氏)に
与えてしまったからである。
つまり、上杉顕定は白井長尾家の力が強くなりすぎることを嫌ったのである。
当時顕定は20(1454生)前後であり、寺尾豊後守(高崎市)の助言とする説もある。
・長尾景春、橋林寺開基。「上毛剣術史(中) 剣聖上泉信綱詳伝」 より
てことはこの頃すでに、厩橋城の形はあったことになる。
橋林寺は厩橋長野家の菩提寺であり、鬼門の寺である。
金井曲輪(市立図書館の北側)に創建。
長野家を2つに割り、景春に従った長野為業が築城して居城したのではないだろうか。
尚業もこの頃すでに箕輪城の形を作っていた?
- 文明7年(1475年)
長尾景春の乱を契機に、憲顕の叔父重顕から出た扇谷上杉家が家宰太田道灌の補佐の
もと勢力を拡大し、山内家と並ぶ勢力となった。以来、山内と扇谷の両家は関東管領の
座をめぐって数十年にわたり抗争を続けた(長享の乱)。
山内上杉家はこの戦いに勝利し関東管領の地位を守ったが、続いて越後守護代・長尾為景
の反乱と上杉顕定の戦死による家督争い(永正の乱)が発生、この頃には、伊豆に興り
相模を平定した新興の後北条氏の圧迫を受ける様になった。
長尾景春が 武蔵:鉢形城を築城(伝)
従兄弟の扇谷上杉家家宰:太田道灌は勢力を拡大し、
山内家と並ぶ勢力となった。
以来、山内と扇谷の両家は関東管領の座をめぐって抗争を続けた。
- 文明8年(1476)
上杉顕定は長尾景仲の死後、長尾景春に家宰&守護代の地位を継がせなかった。
足利成氏との和睦交渉が続けられる中、長尾景春は秩父郡
&児玉郡で抵抗を続けていた。長尾景春は鉢形城から
ゲリラ戦により、上杉方の城を落城させた。
6月道灌が今川氏の内紛介入のために駿河に滞在していた。
景春は武蔵鉢形城に拠って反旗を翻す。
顕定・忠景は未だ景春の力を軽視していた。
景春は優れた武勇の士であり、2代続けて家宰職を継いだ白井家の力は
他の長尾氏一族よりも抜きん出ていた。
五十子陣の上杉方の武将達は動揺し、勝手に帰国する者が続出する。
古河公方が後ろで糸を引いて房総半島の「千葉孝胤」が
「長尾景春」に呼応し、上杉顕定に反旗を翻した。
★当然であった。有力家臣:長尾景春が古河公方と結んで離反したのであるから
苦境に陥いった。
- 文明9年(1477)~ 長尾景春の乱 最大の争いが五十子の戦いである。
橋林寺建てられる。厩橋城このころ築城ともいわれる。 前橋市HPより
1月 五十子の戦い
五十子陣からも撤退せざるを得なくなった。
乱の背景に上杉氏の内部矛盾=権力闘争があった?
山内上杉顕定が敗退し、東国における戦国時代の幕開けへと繋がっていった。
長尾景春 VS 上杉顕定
長尾景春は2500騎を率いて五十子陣を急襲した。
上杉顕定と上杉定正は大敗を喫して敗走。・・・
顕定と定正は上野平井城に逃れた。
18年間、上杉氏の対古河公方戦の最大の防御拠点だった
「五十子陣」は長尾景春に落とされてしまったのである。
調子こいた長尾景春に、関東の国人や地侍が次々と味方になった。
相模小磯城(神奈川県大磯町)の越後五郎四郎
相模小沢城 (神奈川県愛甲郡愛川町)の金子掃部助
相模溝呂木城(神奈川県厚木市)の溝呂木正重(景春の被官)
相模小机城(神奈川県横浜市)の矢野兵庫が呼応した。
多くの関東の国人、地侍が景春に味方した。
長尾景春は、上杉氏と敵対する豊島泰経・豊島泰明
・千葉孝胤・那須明資・成田正等らとも同盟を結んだ。
特に旧領を太田氏に奪われていた南武蔵の豊島氏は喜んだ。
★豊島氏はかつて、新田初代:新田義重の母になった
一族で、鎌倉時代の名門であった。
石神井城と練馬城(練馬区)に豊島泰経、平塚城
(東京都北区)に弟の泰明が太田道灌の領地をとって返り咲いた
豊島一族は江戸城と河越城・岩槻城との連絡線を断った。
太田道灌は今川氏の内紛介入のために駿河に滞在していた。
太田道灌は相模、房総地方の鎮圧にも奔走せざるえなくなった。
太田道灌は長尾景春と戦うざるを得なくなったのだ。
※戦線は相模国から下総国に至る関東一円にと拡大していった。
扇谷上杉家の家宰:太田道灌が武蔵に攻め込んできた。
3月 太田道灌は溝呂木城と小磯城を落とした。
さらに小沢城を攻撃・・
長尾景春が援兵を送った。
太田道灌は一旦兵を引いた。
小机城の矢野兵庫が出陣して、太田道灌の河越城攻撃した。
太田資忠(道灌の甥)と上田上野介が撃退した。
4月 江古田・沼袋原の戦い
太田道灌 VS 豊島一族
太田道灌は上杉朝昌:三浦高救らの援軍を得た。
平塚城城下を焼き払った。
豊島泰経・泰明を待ち伏せて50騎で200騎の豊島勢を
打ち破り、泰明を討ち取った。
太田道灌は泰経を追って石神井城を囲んだ。
豊島泰経の石神井城を攻め落とした。
★石神井城もそのうち掲載予定。
◆◆文明9年 長尾景春の乱(戦乱上州へ)
長尾景春 VS 上杉顕定と上杉定正軍
長尾景春は五十子を出陣して利根川を渡り、鉢谷原で攻めるが撃退された。
5月13日太田道灌は上杉顕定・上杉定正と合流した。
五十子(埼玉県本庄市)を奪回。
太田道灌は五十子に着陣した。
長尾景春は鉢形城にひとまず退却した。
景春方「長野左衞門尉為業」武蔵針谷原の合戦で死亡。
- 文明10年(1478)
1月 足利成氏が簗田持助を通じて山内上杉家家宰:長尾忠景へ和議を打診した。
20年以上の戦いに飽いた足利成氏は足利幕府の関東管領
との有利な条件での和睦を望んでいた。
上杉氏と足利成氏の間で和議が成立。
太田道灌の裏工作であった。
享徳の乱終結・・・享徳3年(1454)~文明9年(1477)
20年間、対立していた。・・・
長尾景春は足利成氏の後ろ盾を失った
3月 長尾景春が河越城へ攻撃した。
上杉定正と太田道真が撃退した。
豊島泰経が平塚城で再挙。
太田道灌は鎮圧・・・
豊島泰経は敗走して小机城に逃れた。
長尾景春は「鉢形城」を奪還し、再び、抵抗を始めた。
太田道灌は小沢城を攻め落とした。
4月 太田道灌は小机城を攻略。
小机城に匿われていた豊島泰経は行方知れずとなり、豊島氏は
歴史上から姿を消した。
太田道灌は相模の長尾景春方の諸城を駆逐していった。
7月 太田道灌は長尾景春の鉢形城を攻略した。
上杉顕定の居城とした。
長尾景春は武蔵国を追われてしまった。
12月 境根原合戦
太田道灌は、和議に反対する足利成氏の有力武将:
千葉孝胤を打ち破った。
- 文明11年(1479)
太田道灌は甥:資忠と千葉自胤(千葉氏の上杉方)を房総半島へ派遣した。
千葉孝胤の籠る臼井城(千葉県佐倉市)を攻略した。
しかし、太田資忠は戦死した。
さらに、真里谷武田氏、海上氏を降し、房総半島から反対勢力を
一掃することに成功した。
- 文明12年(1480)
忠景の嫡男:長尾顕忠は、秩父郡で上杉軍の将として長尾景春と交戦した。
総社長尾氏の家督を継いだとみられている。 (「太田道灌状」)
6月 長尾景春の最後の拠点:日尾城(埼玉県秩父市)を
太田道灌に攻め落とされた。
長尾景春は足利成氏を頼って落ち延びた。
古河公方:足利成氏と長尾景春は、室町幕府に
「両上杉家」との「和睦」調停を申し出た。
足利幕府も命により、「両上杉家」と「古河公方」の対立&
「長尾景春の叛乱」は、和睦で、終焉することになった。
- 文明13年(1481 上杉憲房(15才)元服する。長尾景春は。憲房を「屋形」と称して被官していた。
- 文明14年11月27日(1482年1月6日)
足利成氏と両上杉家との間で和議が成立。
足利成氏は幕府から赦免された。(都鄙合体)
※30年にも及んだ享徳の乱は終結した。
上杉顕定&上杉定正は対立したままだった。
- 文明18年(1486) 太田道灌が殺害された。
太田道灌は、群を抜く大きな江戸城:扇谷の石垣修理しようとした。
主君の扇谷上杉定正は「謀反だ。」と思った。
そこで、扇谷上杉定正は糟屋邸
(相模国糟屋現:神奈川県伊勢原市)に誘い出し、殺害。
※扇谷家の台頭を恐れた山内家の策略だと言う学者・研究者や子孫の方もいる。
大田道灌暗殺により、大田道灌の子:資康や扇谷上杉家に
付いていた国人衆の多くが山内家へ走った。
堯恵は上野国国府の長野陣所に行った。関東管領:藤原(上杉)顕定に会った。
長尾景春も上杉定正に加担して、山内:上杉顕定と戦うことになった。
- 文明19年(1487) 九月、尭恵は「長野陣所小野景頼が許」で連歌を興行したという。
長野陣所については「国府長野の陣所」ともみえ、上野府中(前橋市元総社町)に設営
された陣所である。小野(木部)景頼は長野氏と同陣または長野陣所内に加わっていた
ことになる。 (「北国紀行」)
◆◆長享の乱
- 長享元年(1487) 長享の乱が勃発
山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂した。
「長享の乱」の抗争へと広がっていった。
長享の:長享元年(1487)~永正2年(1505)
山内上杉家の上杉顕定(鉢形城) VS 扇谷上杉家(河越城)の上杉定正→甥・朝良
長尾顕忠は山内上杉家の家宰として軍を率いて
上杉朝良・伊勢宗瑞(北条早雲)らと戦った
晩年・・・武蔵国杉山城を居城にした可能性がある。
- 長享2年(1488) 両者の抗争は本格化した。
「関東三戦」
①実蒔原の合戦
②須賀谷の合戦
③高見原の合戦
当初は上杉顕定は上杉定正に押されるが、抗争が長期化
するにつれて、上杉顕定が次第に有利に立った。
- 長享2年(1488)長野業尚、室田に築城、浜川より移り鷹留城と称す
- 延徳元年 1489年 このころ長野氏が厩橋城に入る。 前橋市HPより
棟治の私見は、文明5年の長尾景春の乱の頃から、すでに長野氏は厩橋城にいた。
(文明9年(1477)~ 長尾景春の乱以来白井城は、上杉家の管理下にあった。)
この当時白井周辺と赤城山西・南麓の領主たちは白井衆に属していたと思われる。
仮説 厩橋長野顕業(白井衆)を父、尚業系の女を母として厩橋にて生まれる。
それとも白井長尾氏からもらった母の方が面白いかな?
伊勢宗瑞+扇谷上杉定正は、武蔵・相模にて山内上杉顕定+茶々丸と戦う。
- 明応3年(1494) 山内・扇谷両上杉氏の抗争が再発。
9月上杉定正は伊勢宗瑞軍を相模・武蔵へ招き入れた。
10月2日定正は、高見原(小川町)・塚田(寄居町)と進出し、荒川を挟んで対陣した。
ところが、荒川渡河中に落馬して上杉定正が急死したため、伊勢軍は撤退した。
●上杉顕定は足利政氏の弟(顕実)を四郎と名付け養嗣子として迎えた
上杉顕定は東国における「古河公方&管領体制」の再構築を図っていた。
特に足利政氏の弟を上杉顕実として養子として迎え、密接な関係を築いた。
これにより、古河公方は一転して山内上杉方となった。
上杉顕実は憲房を差し置いて、上杉顕定の正統な家督後継者に据えられたと考えられる。
(★久保田順一先生の講演会)
- 明応5年(1496) 上杉顕定の軍勢は相模国に進攻した。
7月 伊勢宗瑞の弟:伊勢弥二郎の籠城する小田原城を攻略した。
この事により、相模の西郡は「一変」した。
榛名神社安堵状
顕定は、古河公方:足利政氏を招いたが、数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還した。
上戸陣は7年にわたり山内上杉家の陣所として機能した。
- 明応7年(1498)8月25日 明応の大地震 伊豆半島に大津波が押し寄せた。
伊勢宗瑞は善政を敷いて、伊豆における人心の把握を行ったとされる。
- 文亀元年(1501) 長年寺が創建:長野業尚
長野氏系図には、鷹留城を築くとある。箕輪城も築くともある。
- 文亀3年(1503) 長野業尚が死亡。(★みさとの歴史)
長野憲業が家督を継承。
- 永正元年(1504)
長享2年(1488)杉定昌(顕定兄)死去に伴い、上杉憲房は白井城を継いでいた。
9月6日 上杉顕定は、仙波から白子へと江戸城攻略のため陣を移した。
この動きに対して宗瑞・氏親が進軍してきたため、顕定は西方へ退却した。
9月27日立河原の戦い 長野孫太郎房業(房兼:憲房の房?)討ち死に
父顕業の子であるとすれば、孫太郎房業は嫡子だったのであろうか?それならば憲房より
房の字を拝領したことにうなづける。またこれにより長野賢忠が厩橋長野家を継いだの
かもしれない。
VS
結果・・・山内上杉連合軍 2,000人余りの死者を出して大敗。鉢形城へ敗走した。
「長野孫太郎房業、上杉顕定に従い、戦死・・・」(★近藤先生の群馬県史)
仮説 業政の父の兄弟又は、賢忠・方業の長兄である房業が亡くなった。
の援軍を受けて反撃に転じた。
11月 武蔵椚田要害
12月 相模実田要害を山内上杉軍は攻略した。
- 永正2年(1505) 山内&越後上杉氏が上杉朝良の河越城を攻撃。
結果・・・上杉朝良が降伏。朝良の江戸隠居を条件に和睦した。
山内&越後上杉氏は長享の乱で事実上の勝利宣言といえる。
上杉顕定は菅谷館に上杉朝良を幽閉して出家させ、甥の上杉朝興
を当主に立てることを扇谷上杉家臣団に強要した。
しかし、扇谷上杉家臣団の反発が強く、諦めた。
上杉顕定は上杉朝良が解放し河越城に戻した。
長尾景春は上野国に戻って白井城に入った。
上杉顕定の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。
長尾景春は柏原城(★群馬県東吾妻町)に逃亡した。
長尾景春は引き続き、上杉顕定に対抗した。
- 永正3年(1506)~4年 (永正の乱) 古河公方内の相続争い
永正3年(1506)長野賢忠、橋林寺に寺領寄進(厩橋長野家の家督継いだ?)
- 永正4年(1507)
関東管領山内上杉顕定の弟で、越後守護:上杉房能が、守護代:長尾為景(上杉謙信
の父)に拠点を急襲された。
顕定を頼り関東へ向かったが、八海山の麓まで追撃を受けて8月7日に天水越で自刃した。
長尾為景が佐渡の娘婿:本間氏の援助を受けたのである。
上杉顕定の養子:上杉憲房と上杉朝良の妹の婚姻が成立して
山内・扇谷両家の同盟関係が復活した。憲房の嫁 説①
★私見・・この時、同時に長尾顕忠の娘は扇谷上杉朝良の室になった
のではないだろうか。
永正4年(1507年)に古河公方足利成氏の次男・顕実が顕定の養子になると、顕実は
顕定の仮名である「四郎」の名のりが許されて、憲房は後継者から外されて庶流とし
ての地位が確定してしまう。
- 永正5年(1508)
結んでいたため、これを契機として両上杉氏に反旗を翻した。
- 永正6年(1509)
1月9日(11月29日)長尾顕忠の娘 長尾顕方室・上杉朝良室がいる。
????年 長尾顕忠の娘は、扇谷朝良の室になっている。
長尾顕忠の没後と考えられている?
7月、古河公方の内乱を収めた。
上杉顕定は養子:憲房と共に越後に攻め入った。
上杉顕定は長尾為景(上杉謙信の父)に殺された越後の
弟の弔い合戦のために、越後上田庄(新潟県六日町)に
遠征し、長尾為景を府内(上越市)に退却させた。
長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実を越中国(富山)に追放した。
越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図があったと考えられている。
上杉顕定は、報復の大軍を起こすと為景は劣勢となって佐渡に逃亡した。
仮説 業政は、兄賢忠に付いて、上杉顕定と共に越後へ出兵したであろうか?
それとも憲房付で白井城にいたのであろうか?初陣は果していると思う。
長尾為景に呼応した勢力を抑えるため、扇谷上杉朝良は上野に(白井城)在陣していた。
8月 宗瑞は扇谷上杉領国へ乱入した。このことは今川氏などの要請によるものではなく
北条(伊勢)氏の領国拡大を目視した軍事行動と評価されている。為景に呼応した攪乱?
●顕定の越後侵攻について
片桐昭彦はこれに加えて越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図があったと
推測する。
山田邦明は、顕定が房能方であった色部氏と為景の和睦の道を探っていたり、伊達氏に
宛てて「定実に対して一切の余儀(=遺恨)は無い」と伝えていることから、永正5年
の段階において顕定と為景は決定的な対立関係に無かったとして、直接的な契機を
山内家の所領である妻有庄へ為景方の信濃衆が攻め入ったことに求める。
ともあれ、房能の仇討ちを大義名分として越後国に攻め入った顕定軍は府内を制圧した。
しかし顕定の越後統治は非常に強硬でうまくいかず、国人の反発を受けた。
翌年になって長尾為景らの反攻に遭う。同年、足利義稙の命令で信濃国佐久郡の伴野貞慶
と大井行満の争いを和解させている。
(★『群書類従』・・・宗長『東路の津登』より)
「永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より出立。」
※出発は永正六年文月十六日とある。
宗長は長野憲業の身内で浜川の松田氏を訪ねた。
新田:岩松~大胡~青柳~荒蒔~浜川~大戸~草津~
仮説 業政は在原業平の子孫なんだから、青柳か荒蒔で宗長と連歌にいそしんだ?
大戸~依田で句会~
浜川松田氏の元で句会「多胡碑に石上が載ってるねえ。子孫だってねえ。」~鉢形
・一方、宗長の「東路の津登」の永正六年(一五〇九)の春分に、
「はま川並松(榎)別当にして」、「此別当、俗長野、珪石上也」とみえ、
浜川の長野氏が並松(榎)の別当であったとしている。
並松(榎)は天龍護国寺を指すと考えられる。
榛名神社と天龍護国寺は一体の開係であり、同寺別当であった長野一族が榛名寺領の
支配・管理にも関与し、木部氏の跡を継承して室田に入ったことも想定される。
やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出してきた。
武蔵の権現山城(神奈川県鶴見)まで侵攻した。
◆上杉顕定の戦没により山内家は大きく揺れた
- 永正7年(1510)
4月20日 上杉定実・為景勢は、蒲原津へ上陸した。
5月頃 宗瑞は武蔵椚田城を攻撃して開城させた。
長尾景春もこれに一味して相模津久井山に移動してきた。いずれも為景との連携だった。
6月10日 上杉憲房・総社(高津)長尾定明は椎谷(柏崎市)に進軍し、後に大敗した。
定明は河西衆、憲房(白井城が拠点)は北上野衆(厩橋・沼田・吾妻あたり?)+魚沼?衆
顕定は、寺泊近くの黒滝城へ守将として上州桃井氏を置いている。
総社(高津)長尾定明・越後上杉憲明(顕定養子)戦死
6月20日 長森原(南魚沼市)の戦い。(森田真一著より)
長尾為景は佐渡の本間一族(娘婿)の力をかり、長者ヶ原で上杉顕定を攻撃した。
上杉顕定は長野為景の信濃の援軍:高梨政盛に敗北し、自刃。享年57歳。
※越後(現六日町八海山麓)の管領塚
★上杉顕定はなんと、長尾景春の同族で越後守護代
長尾為景(上杉謙信の父)と戦って戦死してしまったのだ。
長尾景春は伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟を結んで、上杉憲房にさらに対抗した。
に対峙した。
憲房は、さらに権現山で対峙する上杉朝良への援軍を差し向けた。
成田顕泰・渋江孫太郎・藤田虎寿丸(業繁)・大石源左衛門・長尾景長代官成田中務丞
・武州南一揆・顕方代官矢野安芸入道憲信(定明戦死で河西衆率いた?)などを派遣。
※総社(高津)長尾定明の子長尾顕方はのちに総社長尾家を継ぐ?継いでいた?
7月 権現山の戦い
伊勢宗瑞(北条早雲)は、扇谷上杉朝良の被官:上田政盛を早雲側に寝返らせた。
そして上田政盛を権現山で蜂起た。
北条早雲は、平塚の住吉城で呼応し、扇谷上杉領を脅かす楔を打ち込む形をとった。
北条早雲は、三浦半島の制圧した。
やがて、権現山城を攻略した。多米が城将となった。
そして両上杉氏は2万余の軍で、権現山城を包囲した。(憲房も着陣なら業政も同行?)
7月19日、10日余の激戦・・・
両上杉氏は権現山城を落とした。
権現山城に籠もった上田蔵人政盛は「本覚寺の地蔵堂をば根城に拵らへた。」とある。
本覚寺山の根城は、藤田虎寿丸により攻め落とされた。
伊勢宗瑞(北条早雲)は小田原城まで撤退した。
上杉顕実は、顕定の死後、山内上杉氏を継ぎ関東管領を継承する。
しかし同じ顕定の養子の上杉憲房と対立する。
結果・・・山内家の衰退に繋がった。
★上杉憲房が自分の妻の兄:上杉朝良の娘を長野業正に嫁がせることで
権勢を維持しようとした からであると考えたのは、この頃であろうか?
足利高基は、関宿に移り父成氏に再び反旗をひるがえす。
同時期に雪下殿空然(小弓公方義明)が、太田荘にて蜂起する。
は政氏の子の足利高基を味方につけ対抗し、関東は二分された。
この時に高基の子憲寛を憲房の養子に迎える約束をしたと思われる
仮説 業政はこの時完全に白井衆として憲房側に付いている
扇谷上杉朝良の妹婿:上杉憲房 朝良の娘婿:長野業政の正室だからである
長野憲業死亡説
弟:長野信業が鷹留城主から箕輪城主となったする説があるが、この説は間違いである。
- 永正9年(1512) 鉢形城にて関東管領の相続争い 顕実 VS 憲房
上杉顕実は、実兄の古河公方・足利政氏に援助を求め、長尾顕方や成田顕泰の支援を受け
関東は二分された。
①顕実派・・・足利政氏・惣社長尾顕方・成田顕泰・下倉備中守・桐生佐野氏・赤石氏
②憲房派・・・足利高基・足利長尾景・横瀬景繁
・白井長尾景英・寺尾左京亮・木部隼人佑・阿保丹四郎
・長野憲業・厩橋長野賢忠・方業
※長野憲業は顕定の執事だったとすれば、顕定が跡継ぎと決めていた顕実に付くのが筋
ではないだろうか?そして憲房についた賢忠・方業兄弟に宗家の座を奪われたとか考え
れば納得がいく。また横瀬景繁についてもこの当時どちらかと言うと古河公方よりで、
足利高基より指示を受けて足利長尾景長と共に出陣に及んだ。高基・憲房の同盟のおり
古河より憲寛が上杉へ養子に入ったのであろう?こうして歴史は繰り返された。
業政は憲業と共に憲房側として、鉢形攻めに参加しているかもね
長尾景春と長尾景英の親子の対立が激化して、長尾景春は出奔し、
長尾景英は上杉憲房を援けて、上杉顕実に追放に功を挙げた。
上杉憲房は上杉顕実と争って勝利し、山内上杉家の家督を継いだ。家宰は足利長尾景長
白井・総社長尾家の没落
10月 長野憲業の壁書・・・吾妻出陣祈願。景春の出奔に関係ある?
上杉憲房の禁制 (★長年寺文書)
長野憲業は本拠を箕輪城に移す
- 永正10年(1513) 長野憲業の立願状:榛名神社
4月 長野憲業が100疋を榛名神社に寄進。大戸城の攻略を祈願(★みさとの歴史)
(*海野棟綱の息子?娘婿?真田幸隆誕生・・・・説が4つ。)
長野憲業が 榛名神社巌殿寺宛に大戸要害の落居を願文を出した。 (★長年寺文書)
★何故、長年寺か?
最初の長純寺は水草(箕郷町下芝)にあり、水害で流されていた。
- 永正11年(1514) 8月24日(9月説)長尾景春が死去。享年72歳。
墓は上野国白井(現渋川市旧子持村):空恵寺。
・・・長尾景英が継いだ。妻は長野業政の妹である。
長野一族?榛名神社に制札をだした。
★伊勢宗瑞(北条早雲)は長尾景春のことを
「武略・知略に優れていた武将である。」
と尊敬してたというが、・・・・・・・・
★「長尾景春&長尾為景は関東管領家:上杉家の没落を推進し、私の関東進出の足がかり
を作ってくれた大恩人。棚からぼた餅をありがとう。」
といった感じなのであろうか。 ・・・・・
やがて、後北条家3代目:北条氏康によって扇谷家は滅ぼされ
山内上杉家も上野国:平井城を追われることになっていった。
- 永正12年(1515) 上杉憲房が第26代関東管領になる。
この時憲房は、方業(業政)を箕輪城へ入れて跡継ぎに据えたのかもしれない。
- 永正14年(1517)初代小弓公方の足利義明このころ小弓入城。
- 大永元年(1521)
11月3日 武田太郎(晴信)、石水寺要害で誕生。
11月23日 信直(信虎)、今川氏の武将福島正成を討ち取る。
11月27日 太郎、府中の館に入る。
- 大永3年(1523) 扇谷上杉朝良は北条の脅威にさらされ、山内上杉憲房と和睦・同盟を模索
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◆長尾景春の乱以来すっかり権力を失った白井・総社長尾家は復権を狙った。
徳雲軒の文書 大永4年説(優勢)・でも逆らっただけで挟撃無し?
1月13日 氏綱、上杉朝興を江戸に破る。
10日 扇谷上杉・山内上杉は和睦同盟す
14日 上杉朝興は、河越~松山城と退却した
15日 上杉朝興は、上杉憲房が進出していた藤田陣(寄居町)に合流した
※氏康の執拗な攻撃で江戸・岩槻と北条方へ寝返らせて北上した。追われた扇谷朝興
は、寄居の藤田陣まで退却したとある。このとき上杉憲房も在陣していたと思われ
協力して氏康と追い返した。この寄居に在陣していたのは、長尾氏の謀反が原因で
これを征伐せんとして攻め寄せたのではなかろうか? 要研究
2月11日 武田信直(信虎) 、関東に出陣。
関東管領上杉憲房と相模の北条氏綱との合戦に介入。
2月 両上杉氏支援のため都留郡猿橋(大月市猿橋町猿橋)に軍勢を集め
相模国奥三保(神奈川県相模原市)へ侵攻する。
3月 信直(信虎)は、武蔵国秩父へ出兵し、関東管領の上杉憲房と対面している。
6月 上杉憲房の援軍を得て反撃に転じた朝興は、河越を回復・復興して居城した。
7月20日 信直(信虎)は、武蔵岩槻城を攻める。『高白斎記』
11月23日 信直(信虎)は、氏綱と和睦。
12月2日 徳雲軒の文書 長尾顕景の謀反
箕輪長野方業(業政)厩橋長野賢忠と総社長尾氏を挟撃する
- 大永5年(1525)
2月氏康は、両の上杉家と交わした和睦を破り、岩槻城を攻略した。
これに対し朝興は、再び山内家に援軍を求めた。
それを受けた上杉憲寛は、配下の軍勢を率い武蔵野国へ出陣して行った。
憲寛は、北条方になびいた、金田氏(菖蒲佐々木氏)の篭る菖蒲城を攻めた。
氏綱はこれに対し援軍を送り、大石石見守の守る葛西城を攻撃した。
真里谷信嗣は北条と手切れをして、小弓公方ともに上杉方になった。
3月25日、上杉憲房はに死去し、家督相続を巡り混乱が生じている。
27代関東管領に上杉憲寛が就任
上杉朝興 VS 北条氏
大永4年 扇谷上杉朝興は山内上杉憲寛と対北条同盟結んでいた
4月金刺昌春が信直(信虎)を頼る。この年、信直は氏綱・駿河の
今川氏親と戦い、相模津久井城を攻める。
信直(信虎)北条氏綱と和睦する。
まもなく氏綱は越後国の長尾為景と連携して上野侵攻を企図し信虎に
領内通過を要請するが、信虎は山内上杉氏に配慮してこれを拒絶し、和睦は破綻する。
『勝山記』によれば、信虎は山内上杉氏の家督を預かった上杉憲寛とともに
相模津久井城(相模原市緑区)を攻撃している]。
『勝山記』『神使御頭之日記』によれば、同年4月1日には諏訪頼満に追われた
諏訪大社下社の金刺氏と推定されている「諏訪殿」が甲府へ亡命する。
信虎はこの「諏訪殿」を庇護して諏訪へ出兵し、8月晦日に諏訪勢と甲信国境で
衝突するが、武田方は荻原備中守が戦死し大敗した。
8月には朝興は、武蔵白子原にて北条方と野戦に及び、激戦の末多くを討ち取り
敗走させた。
長野業政の次男吉業が誕生?
- 大永6年(1526)
長野信業は長子:業氏に鷹留城を与えた。(★群馬県史)
長野憲業=信業同一人物説もある。
古河公方・小弓公方・扇谷・山内両上杉の各陣営は対北条に置いて一時的に同盟した
5月、扇ヶ谷上杉朝興と盟約を結び、その要請を受けた安房里見氏の
の三浦半島に渡った。その方面へ進出してきた北条氏に対抗するため、
品川・鎌倉を攻撃して当主としての器量を示した。
そのさい、軍勢が鎌倉を襲撃したことにより、鶴岡八幡宮が焼失してしまった。
この時朝興は、余勢をかって蕨城を攻め取った。
6月3日には、信濃佐久郡の伴野貞慶の要請により信濃へ出兵する。
『勝山記』によれば信虎の出兵に対して佐久郡の国衆・大井氏らは
和睦を受け入れたという。
6月19日 将軍義晴、信直(信虎)を上洛させようとする。
6月23日 今川氏親が没し、氏輝が嗣ぐ。
7月には 氏輝が家督を相続すると、今川氏と一時的に和睦する
7月30日 信直(信虎)、氏綱の兵を駿河梨の木平に破る。
氏綱と和睦がならず上洛できず。
9月 朝興は、再び憲寛の援軍を得て、武蔵小沢城を攻略
11月には相模玉縄城まで進撃を見せたが、北条方は守り切った。
山内上杉軍の一手をなす長野勢にあった長野方業(後の業正)は
知略にたけその勇猛な戦いぶりから「上州の黄斑」と称えられて行くのであった。
さらに朝興は、江戸湾の支配を巡って後北条氏と対立関係に陥っていた
小弓公方足利義明と、その同盟関係にある安房里見氏とも連携を図っていった。
根拠の薄い棟治想像 この時業政は、安房里見氏から室を貰い受けた?
- 大永7年(1527)
- 長尾顕景の謀反(惣社城:現前橋の総社神社付近)北条氏綱(2代目)に内通した
徳雲軒の文書 大7永年説 ここで完璧に挟撃される?
4月27日 信直、将軍足利義晴を訪問、従五位下に叙される。信直、信虎と改名する。
6月3日 信虎、信濃に出兵し、後に大井氏と和睦する。
7月8日 信虎 帰途に善光寺に参詣。この年、今川氏輝と和睦。
11月27日 箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景・
白井長尾景誠の排除を徳雲軒と謀る。
12月16日 箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔とともに総社城を攻めすすめる。
(戦国史-上州150年)
(★上杉家文書:山田邦明2002)
「長尾孫四郎景誠者、景英嫡男、母ハ箕輪ノ城主長野信濃守業正の姉也、
大永七年十二月五日景英卒シテ、四十九日於法事ノ席、野心之家臣有テ、
景誠害ス、長野信濃守聞之、白井エ来リ、長尾ノ陪心ト志ヺ合、総社長尾景房を招キ、
白井長尾の正統を継、景誠大永八年(1528)正月廿四日生害ス・・・(後略)」
(★そう林寺伝記:久保田順一)
- 最終更新:2018-07-25 21:28:18