上杉憲房と長野左衛門五郎
『長尾忠景書状』に見る【長野左衛門五郎】とは、如何なる人物であろうか?
これは、山内上杉家家宰の長尾忠景が、上野守護代として領国内に本貫を持つ
落合氏(現藤岡市上落合か)に宛てた書状である。
また長野家の家臣団の中に『落合又九郎』の名がみえる。
(縄張り図は余湖君様のHPより)
これを読み下し文にすると、次のようになると思います。
先忠に復さるるの由、長野左衛門
五郎注進を披露せしめ、御書を
申し成し候、定めて御本意たるぺく候
この刻、御忠節簡要に候、
恐々謹言、
六月十五日 前尾張守忠景(花押)
謹上 落合三郎殿
「長野市立博物館だより92号」森田真一氏著より引用してまとめたもの
まとめ
●今回は 左衛門五郎を房業にあてて方業を業政と同一人物として考えてみる
宗春は今のところこれがしっくりくる。
長野入道⇒為業⇒房業⇒方業(業政)⇒氏業 (間に誰か入るかもしれない)
・『長尾忠景書状』に見る【長野左衛門五郎】とは、長野左衛門五郎房業である。(仮説)
・『長尾忠景書状』は、景春の乱中に上杉氏と足利成氏の間で和議が成立した文明10年から、
尭恵の北国紀行に平顕忠(忠景嫡子:長尾修理亮)陣所とあり、翌年には家宰を顕忠へ
譲っているので文明18年までの間に出されたと推測される。
・文明13年(1481年)に上杉憲房(14才)元服する。長尾景春は、憲房を「屋形」と称して
被官したとされている。文明14年に足利成氏と両上杉家との間で和議が成立し、成氏は幕府
から赦免された。(都鄙合体)この時期に憲房より一時拝領して房業と名乗りを変えたと考
えたらどうだろうか。景春と為業は親密な関係にあったが、房業は為業の子か孫にあたる。
景春と共に乱に加わった長野氏は上杉家に復帰した。
・長享2年(1488年)長享の乱のい真っ只中3月24日に上杉定昌は、白井で従者共々自害した。
越後上杉定昌(顕定兄)死去に伴い、上杉憲房は白井城を引き継いだ。房業とその後継者に
当たる方業(業政)は白井衆として配下に加わる。後に業政は憲房の計らいで、扇谷上杉家
より室をもらい受ける。
・問題は房業が箕輪にあったかどうかである。箕輪城は業尚・憲業により1500年ごろ築かれた
とされている。室田長野氏と最近になって呼ばれ始めた、業尚・憲業父子はむしろ長野庶家
であって、榛名神社領を任されて上杉被官と成っていたという説があるのだ。
よって景春の乱で上杉方であったため、恩賞として宗家の箕輪を任されたのかもしれない。
しかし方業は憲房に付いて、憲房が関東管領になるとその働きにより箕輪城主となる。
つまり方業と憲房は共に宗家の座に返り咲いたという事かもしれない。
以上宗春の左衛門五郎と方業に関する仮説です。
◆この書状が出された背景を考察
- 文明3年(1471年)
上杉顕定は古河御所を占領して勝利している。
上杉定昌(定方)もこの頃には、父房定より関東の軍事を任されるようになった。
上杉顕定(17才)定昌(18才)憲房(4才)
「足利義政御内書」(9月17日の足利義政の文書)
関東事、連々被忠節旨、上杉四郎註進之趣、被聞食之
訖、尤神妙、弥々可抽戦功侯也、
同日
小幡右衛門尉とのへ
長野左衛門尉とのへ
(解説)
享徳の乱中に館林城を落とした上杉軍は、更に古河を攻め、足利成氏を同地から追った。
小幡右衛門尉・長野左衛門尉は、上杉軍に加わって活躍し、その結果上杉顕定の注進に
よって将軍足利義政から、感状を下されたのである。なお、『松陰私語』には、この後
に長野左衛門尉為兼という人物がみえ、関係が注目される。高崎市史より
●文明9年に「当国(上野)中一揆長野左衛門尉為兼(業)」と見えることから
長野氏が一揆の旗頭となったことがわかる。(資4-223)。
持広謀殺から文明9年まで37年ほどの間に、長野氏は長尾氏と親密な関係を結び上州一揆の
旗頭となったのである。
●古河城に先駆けて、館林城にて激しい戦いが繰り広げられ、戦功を挙げた上杉方
の武将に対して、将軍義政から御内書が発給された。
これを受給した山内上杉氏方の武将を列挙すると、次のようになる。
関東管領上杉顕定
・家宰長尾景信・嫡子長尾四郎佐衛門尉景春
・大石顕垂・大石隼人佐・大石新左衛門尉
・長尾定景(足利)・長尾藤寿・善四郎
・武蔵守護代惣社長尾忠景・子高津長尾能登守
(能登守は、「長享二年五月二一日 長尾定明書状 赤堀上野介宛 切紙」
から後の上野守護代長尾定明)
- 文明4年(1472年)
2月 公方成氏方の攻勢により、古賀御所は回復された。
- 文明5年(1473年)
上杉顕定(19年才)定昌(20才)憲房(6才)
4月 越後上杉定昌はこの頃から、父に代わって関東へ出陣していた。五十子在陣。
定昌についての記載がみられる『道濯状』『松陰私語』では、定昌のことを「典厩」
「典厩様」と記しており、「山内・典厩・河越」が五十子陣における「三大将」であった
・山内:関東管領上杉顕定(弟) ・典厩:越後上杉定昌(兄) ・河越:扇谷上杉定正
『上杉顕定』森田真一氏著より
6月 白井長尾景信が死去。
長尾景春は、父の死と共に白井長尾家の家督と右衛門尉の官途名を頂く。
しかし、山内家の家宰の地位を引き継げなかった事は、知っての通りである。
★山内上杉顕定の家宰の地位は、叔父の長尾忠景(総社長尾氏)が継ぐことになった。
つまり、上杉顕定は白井長尾家の力が強くなりすぎることを嫌ったのである。
当時顕定は20(1454生)前後であり、寺尾豊後守(高崎市)の助言とする説もある。
・長尾景春、橋林寺開基。「上毛剣術史(中) 剣聖上泉信綱詳伝」 より
※前橋市史では、文明8~9年(1477)橋林寺建てられるとしている。
長野氏により厩橋城このころ築城ともいわれる 。金井曲輪(市立図書館の北側)に創建。
※また、長尾景仲と長野入道の時代にあるように、国府周辺には以前から長野氏の宿所・陣所
は存在していたようだ。戦いの激化のより利根東岸の砦を強化する形で拡張・改築されたの
ではあるまいか。
- 文明6年(1474年)
4月
上杉定方は、名乗りを定昌と改めるが、「昌」の字は上杉朝昌の偏諱であり、房定が同時期
の扇谷上杉家の後継選びに介入しようとしていたと推測されている。その後も五十子に在陣
して弟の関東管領上杉顕定とともに享徳の乱を戦い続けた。
- 文明7年(1475年)
長尾景春が 武蔵:鉢形城を築城(伝)
後に謀反の時景春に味方した諸氏
・足利長尾氏・葛西大石氏(葛西城 )・二宮大石氏(滝山城)
・上野長野氏・武蔵両長井氏・成田氏・豊島氏・毛呂氏・千葉氏
・相模金子氏・海老名氏・本間氏・甲斐加藤氏
・犬懸長尾景利(景春の従兄弟・景連?)(秩父郡内に所領在り)武蔵日尾城
秩父の薄地域(小鹿野町)を領していた犬懸長尾氏(鎌倉長尾氏の系列)とは縁戚関係
があり、景春の妻も犬懸長尾の出身でありました。
・安保氏(秩父郡内に散在した所領在り・また公方より郡内の惣成敗権あり)
このように、景仲・景信と二代に渡って従ってきた諸氏は、白井長尾氏から惣社長尾氏
へ家宰の地位移行に伴い、領国における既得権喪失を危惧した。そのため、これを守る
ために景春に味方と言うよりか、担ぎ上げて強訴に及んだという事であろうと想像する。
- 文明8年(1476年)
6月 長尾景春の乱が勃発、道灌が今川氏の内紛介入のために駿河に滞在していた。
景春は武蔵鉢形城に拠って反旗を翻す。
顕定・忠景は未だ景春の力を軽視していた。
景春は優れた武勇の士であり、2代続けて家宰職を継いだ白井家の力は
他の長尾氏一族よりも抜きん出ていた。
五十子陣の上杉方の武将達は動揺し、勝手に帰国する者が続出する。
- 文明9年(1477年)
正月 長尾景春の攻撃で五十子陣が崩壊すると上野国白井城へと引いた。
上杉定昌は、その後より白井城に駐在するようになる。
長野業政の父方業(まさなり)説をとるならば、方業はこの頃生まれていたことになる。
上野は戦乱の真っ只中、浜川・白井・厩橋のいずれかの城中で生まれたのだろう。
上杉顕定(23年才)定昌(24才)憲房(10才)
景春方「長野左衞門尉為業」武蔵針谷原の合戦で死亡。
- 文明10年(1478)
1月 足利成氏が簗田持助を通じて山内上杉家家宰:長尾忠景へ和議を打診した。
20年以上の戦いに飽いた足利成氏は足利幕府の関東管領
との有利な条件での和睦を望んでいた。
上杉氏と足利成氏の間で和議が成立。
- 文明11年(1479)
太田道灌は甥:資忠と千葉自胤(千葉氏の上杉方)を房総半島へ派遣した。
千葉孝胤の籠る臼井城(千葉県佐倉市)を攻略した。
- 文明12年(1480)
1月 長尾景春が八幡山(雉ヶ岡城付近)で蜂起した。
(★太田道灌状・・)
忠景の嫡男:長尾顕忠は、秩父郡で上杉軍の将として長尾景春と交戦した。
総社長尾氏の家督を継いだとみられている。 (「太田道灌状」)
鉢形城落城後も児玉郡付近には長尾景春の勢力が残っていた雉ヶ岡城が長尾景春方の
城であったのか不明であるが、児玉郡は山内上杉氏の所領である。
★山内家には相当数の長尾景春の支持者(安保氏?)がいたのではないだろうか?
6月 長尾景春の最後の拠点:日尾城(埼玉県秩父市)を太田道灌に攻め落とされた。
長尾景春は足利成氏を頼って落ち延びた。
古河公方:足利成氏と長尾景春は、室町幕府に「両上杉家」との「和睦」調停を申し出た。
足利幕府も命により、「両上杉家」と「古河公方」の対立&「長尾景春の叛乱」は、
和睦で、終焉することになった。だが、まだ乱はくすぶる。
- 文明13年(1481年)
上杉憲房(14才)元服する。長尾景春は。憲房を「屋形」と称して被官していた。
上杉顕定(27年才)定昌(28才)憲房(14才)
- 文明14年11月27日(1482年1月6日)
足利成氏と両上杉家との間で和議が成立。
足利成氏は幕府から赦免された。(都鄙合体)
※30年にも及んだ享徳の乱は終結した。
だが、定正は山内家主導で進められたこの和睦に不満であり、定正と顕定は不仲になる。
上杉顕定&上杉定正は、その後も対立したままだった。
- 文明15年(1483年)
「白井の殿様」(上杉定昌)
連歌師の宗祇の連歌句集『老葉(再編本)』には、次の詞書と旬がある。
上杉典厩の亭にて
二声のいまぞききしもほととぎす
『老菓(再編本)』は文明十七年(1485)八月上旬までの成立で(奥田1998)、それ以前の
宗祇の動向から、この句は文明十五年夏頃に上野国北部の白井(渋川市)で詠まれたものと
推定されている(金子1993)。
『上杉顕定』森田真一氏著より
- 文明18年(1486年)
上杉定昌は、越後上杉房定の官途である民部大輔を譲り受け、翌年には家督を譲られた。
太田道灌は、群を抜く大きな江戸城:扇谷の石垣修理しようとした。
主君の扇谷上杉定正は「謀反だ。」と思った。
そこで、扇谷上杉定正は糟屋邸(相模国糟屋現:神奈川県伊勢原市)に誘い出し、殺害。
10月 下野国足利庄勧農城へ出撃前の様子か?(長享の乱勃発)
神無月廿日あまりに彼国府長野の陣所に至る事晡(夕方)時になれり、此野ほ秋の霜をあ
らそひし戦場いまだはらはずして、軍兵野にみてり、かれたる萩われもかうなどをひき
むすびて夜をかさぬ、(上杉)定昌の指南によりて、藤原顕定(関東管領)の旅、哀の
こゝろありて、旅宿を東陣にうつされし後は、厳霜もをだやかなり、平顕忠(長尾修理亮)
陣所にて会、羇(旅)中雲、・・・ 尭恵の北国紀行に見る長野氏の動向を参照されたし
●長尾忠景書状(落合氏)落合又九郎は長野左衛門五郎の家臣となることを尾張守忠景の
取次により顕定に承諾された。翌長享元年に忠景の嫡男顕忠が家宰を継いでいることから
文明18年以前の文書と考えられる。すると長野左衛門五郎に該当する人物を考えてみると
室田長野尚業・厩橋長野顕業もしくは以前厩橋家と考えられていた長野房業があげられる。
宗春的には白井の御屋形様である憲房(19才)より一字拝領したと考えて房業をこれに
当てたいと思う。そして房業の嫡子か養子に方業を充てて、房業没後(1504)に憲房
の近習(人質:方業5才)として差し出したと考えると、その後の活躍が説明されるのでは
ないだろうか。この辺りの事は、古文書などの出現により早々に解明されるのを期待する。
箕輪城主であったはずの方業が、何時没したのか全く分からないのが不思議でならない。
方業=業政説がその事を解決する唯一の説であったりするのである。
- 白井長尾氏の旧臣が残した「永井権兵衛書状」によれば、長尾伊玄(景春)の娘が“永野信濃守様の御惣領永野五郎”に嫁ぐとあり、同氏の系譜を記した「長尾正統系譜」には長尾景英(景春の嫡男)の娘が“長野業正嫡男長野右京妻”であったと記されている。通説では、永野右京=長野左京は業正の跡を継いだ氏業(業盛)と考えられてきたが、景春・景英の生没年と氏業の生没年が大きくずれる(氏業は景英死去の16年後の誕生)ため、長野氏・白井長尾氏の婚姻は夫妻ともに比定が誤っているとみられている。黒田基樹は、長尾景誠の娘(景春には曾孫・景英には孫にあたる)が、当時健在だった長野吉業に嫁いだのが誤伝されたと推定するのが妥当としている。Wiki 長野吉業より
※『長尾伊玄(景春)の娘が永野信濃守様の御惣領永野五郎に嫁ぐ』これが、ここにある
長野左衛門五郎であれば世代的につじつまが合う。
長尾景信と長野為業が同世代であり、景春と左衛門五郎(房業)とすればそれほど無理は
ない。また、左衛門五郎の名乗りが世襲であったとすれば方業を永野五郎に当てても良い
と思う。いずれの長野も上野長野氏本流の家系であったと考えたい。
- 最終更新:2018-11-28 20:46:38