上杉憲政
第28代関東管領:山ノ内上杉憲政 川越城包囲まで
◆上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)
(Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの)
戦国時代の大名。室町幕府の関東管領を務めた山内上杉家の当主である。
憲当(読み同じ、旧字体:憲當)、光徹とも名乗っているが、憲政の名で統一する。
「九月二十二日 上杉憲寛部下西氏・小幡氏等叛、立故管領憲房子憲政、時称竜若、
継山内家、而破憲寛安中陣、憲寛移上州程田(★旧群馬町保渡田)陣、長野一族従之」
(★『続本朝通鑑』:久保田順一)
享禄4年(1531) 関東享禄の内乱の終結に伴い
上杉憲政は、28代関東管領に就任、家宰は足利長尾憲長(当長)
天文20年(1551)10月、藤岡の平井城から常光寺の秀龍和尚と逃げた。
11月か12月頃、水上の粟沢に隠れた。しかし、和尚は高齢のため、本尊の
延命地蔵を持って、多雪の清水峠越えはで きないと考えた。
そこで、建明寺を建てることにした。
◆戦国期における関東管領山内上杉氏・越後上杉氏の相関図(顕定以降)
『戦国期山内上杉氏の研究』黒田基樹氏著(岩田書院)とWikiよりまとめたもの
・上杉定憲(上条上杉定明の養子へ・定憲は、房実子or孫と諸説あり)
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・上杉頼房(上条上杉定憲の養子へ)
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|(足利成氏の子)
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(上杉憲実の孫)|(足利高基の子)
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・-28上杉憲政-・-龍若
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(府中長尾氏) |(憲政の養子へ) (長尾景虎) |(北条氏康の七男)
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・仙桃院--・ |
|-----------・=上杉景勝
長尾政景-・ (謙信の養子へ)
(上田長尾氏)
凡例 ─は実子
=は養子
数字は関東管領就任の順
◆長尾景春の乱以来すっかり権力を失った白井・総社長尾家は復権を狙った。
- 大永3年(1523)
上杉憲政は、関東管領:山内上杉憲房の子として生まれた。
- 大永4年(1524)
1月13日 氏綱、上杉朝興を江戸に破る。
10日 扇谷上杉・山内上杉は和睦同盟す
14日 上杉朝興は、河越~松山城と退却した
15日 上杉朝興は、上杉憲房が進出していた藤田陣(寄居町)に合流した
※氏康の執拗な攻撃で江戸・岩槻と北条方へ寝返らせて北上した。追われた扇谷朝興
は、寄居の藤田陣まで退却したとある。このとき上杉憲房も在陣していたと思われ
協力して氏康と追い返した。この寄居に在陣していたのは、長尾氏の謀反が原因で
これを征伐せんとして攻め寄せたのではなかろうか? 要研究
2月11日 武田信直(信虎) 、関東に出陣。
関東管領上杉憲房と相模の北条氏綱との合戦に介入。
2月 両上杉氏支援のため都留郡猿橋(大月市猿橋町猿橋)に軍勢を集め
相模国奥三保(神奈川県相模原市)へ侵攻する。
3月 信直(信虎)は、武蔵国秩父へ出兵し、関東管領の上杉憲房と対面している。
6月 上杉憲房の援軍を得て反撃に転じた朝興は、河越を回復・復興して居城した。
7月20日 信直(信虎)は、武蔵岩槻城を攻める。『高白斎記』
11月23日 信直(信虎)は、氏綱と和睦。
12月2日 徳雲軒の文書 長尾顕景の謀反
箕輪長野方業(業政)厩橋長野賢忠と総社長尾氏を挟撃する
- 大永5年(1525)
2月氏康は、両の上杉家と交わした和睦を破り、岩槻城を攻略した。
これに対し朝興は、再び山内家に援軍を求めた。
それを受けた上杉憲寛は、配下の軍勢を率い武蔵野国へ出陣して行った。
憲寛は、北条方になびいた、金田氏(菖蒲佐々木氏)の篭る菖蒲城を攻めた。
氏綱はこれに対し援軍を送り、大石石見守の守る葛西城を攻撃した。
真里谷信嗣は北条と手切れをして、小弓公方ともに上杉方になった。
3月25日、上杉憲房はに死去し、家督相続を巡り混乱が生じている。
27代関東管領に上杉憲寛が就任
家臣の古幡良家=畑将監の娘を養女とした。
上杉朝興 VS 北条氏
扇谷上杉朝興は、山内上杉憲房と対北条同盟結んでいたので憲寛もこれに従った
4月金刺昌春が信直(信虎)を頼る。この年、信直は氏綱・駿河の
今川氏親と戦い、相模津久井城を攻める。
信直(信虎)北条氏綱と和睦する。
まもなく氏綱は越後国の長尾為景と連携して上野侵攻を企図し信虎に
領内通過を要請するが、信虎は山内上杉氏に配慮してこれを拒絶し、和睦は破綻する。
『勝山記』によれば、信虎は山内上杉氏の家督を預かった上杉憲寛とともに
相模津久井城(相模原市緑区)を攻撃している]。
『勝山記』『神使御頭之日記』によれば、同年4月1日には諏訪頼満に追われた
諏訪大社下社の金刺氏と推定されている「諏訪殿」が甲府へ亡命する。
信虎はこの「諏訪殿」を庇護して諏訪へ出兵し、8月晦日に諏訪勢と甲信国境で
衝突するが、武田方は荻原備中守が戦死し大敗した。
8月には朝興は、武蔵白子原にて北条方と野戦に及び、激戦の末多くを討ち取り
敗走させた。
長野業政の次男吉業が誕生?
- 大永6年(1526)
長野信業は長子:業氏に鷹留城を与えた。(★群馬県史)
長野憲業=信業同一人物説もある。
古河公方・小弓公方・扇谷・山内両上杉の各陣営は対北条に置いて一時的に同盟した
5月、扇ヶ谷上杉朝興と盟約を結び、その要請を受けた安房里見氏の
の三浦半島に渡った。その方面へ進出してきた北条氏に対抗するため、
品川・鎌倉を攻撃して当主としての器量を示した。
そのさい、軍勢が鎌倉を襲撃したことにより、鶴岡八幡宮が焼失してしまった。
この時朝興は、余勢をかって蕨城を攻め取った。
6月3日には、信濃佐久郡の伴野貞慶の要請により信濃へ出兵する。
『勝山記』によれば信虎の出兵に対して佐久郡の国衆・大井氏らは
和睦を受け入れたという。
6月19日 将軍義晴、信直(信虎)を上洛させようとする。
6月23日 今川氏親が没し、氏輝が嗣ぐ。
7月には 氏輝が家督を相続すると、今川氏と一時的に和睦する
7月30日 信直(信虎)、氏綱の兵を駿河梨の木平に破る。
氏綱と和睦がならず上洛できず。
9月 朝興は、再び憲寛の援軍を得て、武蔵小沢城を攻略
11月には相模玉縄城まで進撃を見せたが、北条方は守り切った。
山内上杉軍の一手をなす長野勢にあった長野方業(後の業正)は
知略にたけその勇猛な戦いぶりから「上州の黄斑」と称えられて行くのであった。
さらに朝興は、江戸湾の支配を巡って後北条氏と対立関係に陥っていた
小弓公方足利義明と、その同盟関係にある安房里見氏とも連携を図っていった。
根拠の薄い棟治想像 この時業政は、安房里見氏から室を貰い受けた?
- 大永7年(1527)
- 長尾顕景の謀反(惣社城:現前橋の総社神社付近)北条氏綱(2代目)に内通した
徳雲軒の文書 大7永年説 ここで完璧に挟撃される?
4月27日 信直、将軍足利義晴を訪問、従五位下に叙される。信直、信虎と改名する。
6月3日 信虎、信濃に出兵し、後に大井氏と和睦する。
7月8日 信虎 帰途に善光寺に参詣。この年、今川氏輝と和睦。
11月27日 箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景・
白井長尾景誠の排除を徳雲軒と謀る。
12月16日 箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔とともに総社城を攻めすすめる。
(戦国史-上州150年)
(★上杉家文書:山田邦明2002)
「長尾孫四郎景誠者、景英嫡男、母ハ箕輪ノ城主長野信濃守業正の姉也、
大永七年十二月五日景英卒シテ、四十九日於法事ノ席、野心之家臣有テ、
景誠害ス、長野信濃守聞之、白井エ来リ、長尾ノ陪心ト志ヺ合、総社長尾景房を招キ、
白井長尾の正統を継、景誠大永八年(1528)正月廿四日生害ス・・・(後略)」
(★そう林寺伝記:久保田順一)
◆長野憲業(方業=業政?)は白井長尾氏の家督相続に介入。
- 大永8年(1528)正月廿四日 景誠生害
(★そう林寺伝記:久保田順一)
- 享禄元年(1528)
「正月二十四日 長尾八郎忌同族長尾景誠(かげのぶ)振権窺令矢野氏害之」
(★『続本朝通鑑』:久保田順一)
1月24日 山内上杉家家臣:白井長尾景誠が長尾八郎に謀殺される
(『続本朝通鑑』:黒田基樹)
白井長尾景誠が家臣に殺害された。
★長野方業の陰謀か?
※筋書きを推察・・・景誠は長尾家を盛り返そうと後北条+長尾為景と
結ぶ画策(誘いがあった)をした。長野派の家臣(嫁について行った)
が業政に密告した。業政は憲寛に相談した。憲寛は長尾家の粛清を命じた。
業政は長尾家臣に命じた。考えすぎかな・・・ 棟治
長尾景誠には男子がないために、跡継ぎ争い。
(※長尾景誠は長野業政の姉が景英に嫁いで生んだ子で業政の甥)
惣社長尾氏から長尾景房を迎え白井長尾氏を継がせた。
①白井城長尾景房は惣社城長尾氏とともに山内上杉氏に復帰説。
②長尾顕景次男:憲景を白井長尾氏当主に擁立説
★長野憲業(事実上は方業=業政)が。両長尾氏の復帰について、関東管領
上杉憲寛を動かしたのでは?
長野憲業(事実上は方業=業政)は両長尾家に恩を売る形で上に立ったのでは?
※この当時上杉憲房を支えてきたのは、厩橋長野家でありその中心には方業があったと
考えられる。そして憲業在命中であっても上野長野家の実権は、方業にあったと考えら
れる。ゆえに跡を継いだ上杉憲寛も相当頼りにしていたのではないだろうか。 棟治
長野信濃守業正、これを聞き白井を攻略し、惣社長尾に景房を招き正統をを継承させる。
長尾景誠の母は長野信濃守業正の母と記されている
(★史跡箕輪城発掘調査報告第8集:一般には限定100部)
★でも、長野業正の母ではなく、?
長野一族は山内上杉氏家の最有力者に台頭したと思われる。
その地位においては、上杉家家宰の足利長尾氏に譲るが
実力(軍事力)おいては抜きんでた存在となった。
8月30日 信虎、諏方頼満と信濃神戸・境川の戦いで敗れ、荻原備中守らが討死する
- 関東享禄の内乱 享禄2年(1529)~享禄4年(1531) ・・・黒田基樹
第3代古河公方:高基から第4代・晴氏に継承される時にも永正の乱
よりは小規模だったものの、再び新たな抗争が生じた。
関東管領:山内上杉家でほぼ同時に家督相続争いが発生した。
- 享禄元年(1528)12月27日 古河公方家嫡男:足利晴氏が元服した。
- 享禄2年(1529)
安房里見義豊が古河公方足利家当主として、足利晴氏を挙げた。
古河公方:足利高基と晴氏の抗争が始まった。
5月晦日 足利晴氏が高基の古河城を攻撃した。
8月14日 上杉憲寛が上野国碓氷郡:安中城の安中氏討伐を開始
した。同盟関係にあった扇ヶ谷上杉朝興からは制止されたが、これを無視した。
(★『続本朝通鑑』黒田基樹)
9月22日 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立した。
「九月二十二日 上杉憲寛部下西氏・小幡氏等叛、立故管領憲房子憲政、時称竜若、
継山内家、而破憲寛安中陣、憲寛移上州程田(★旧群馬町保渡田)陣、長野一族従之」
(★『続本朝通鑑』:久保田順一)
上杉憲寛に対して謀反を起こした。
・・・・山内上杉家の内紛が発生した。
上杉憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立があったと考えられる。
(★『続本朝通鑑』黒田基樹)
※山内上杉家の派閥争いであり、台頭する長野家に脅威を感じた安中・小幡等諸氏が
憲政を担ぎ上げて対抗したのではないだろうか?ただ長野氏と安中氏の争いに憲寛が
出張ってきて、しかも管領職を脅かされるなんて考えられない。 棟治
長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
VS
小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政
安中城付近で交戦
上杉憲寛は長野方業(業政)を随行させながら
安中城から程田(高崎市保渡田)に後退した。負けた?やらせ?
憲寛に管領職を辞してもらうための陰謀とか勘ぐってしまう。もし白井長尾景誠が長尾
八郎に謀殺されるとこから、憲寛引退までの内乱が方業の欲に起因する計略だとしたら、
誠にもってあっぱれである。是非もなし我らがじっちゃんである。これはないな 棟治
(★『続本朝通鑑』)
- 享禄3年(1530)
1月21日 長尾景虎(上杉謙信)誕生。
4月 氏綱が甲斐郡内に乱入。
4月23日 小山田信有が防戦するが敗れる。
この年、信虎は上杉憲房の後室を側室とする。
5月
「左衛門尉」(小幡)が上野国多胡郡仁叟寺(吉井町)に対して禁制を与えた。
棟治はここを長野業政(左衛門尉)が、小幡攻めした時に意地悪しないよと
禁制を与えたんじゃないかなと考えた。
甘楽郡高田城(富岡市旧妙義町)周辺で合戦があった。
5月21日 上杉憲寛が高田憲頼の注進により、被官:守山与五郎の戦勲に対して
感状を発給した。
10月25日 上杉憲寛が用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜を被官
三富平六に与えた。
吾妻の戦いにて、長野憲業が戦死説。長野業政40歳?が家督相続した。
(★箕郷町誌・みさとの歴史)
- 享禄4年(1531)
28代関東管領に上杉憲政が就任、家宰は足利長尾憲長
1月21日 栗原兵庫・飯富虎昌らが、信虎に叛く。
2月2日 信虎、大井信業・今井尾張守らと戦い敗死させる。
4月12日 信虎、諏方頼満・栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌と塩川端で戦い大勝する。
6月1日
足利晴氏が下野宇都宮城から古河城への帰座を検討した。
足利政氏から足利基頼宛の書状が届いた。
6月6日 足利晴氏が古河公方として、奉公衆・田代三輝斎に対し、
足利政氏の治療を指示した。
6月9日 足利高基が小山小四郎に対して隠居を知らせた。
9月3日「享禄四年(1531) 九月三日の条 山ノ内上杉憲政、憲広ニ代テ管領職ト
成ル、憲広、晴直ト改ラル、宮原ノ祖ナリ」
(★『喜連川判鑑』:久保田順一)
上杉憲政が関東管領を継ぎ、憲寛は上総国の宮原(市原市)に退去して
晴直と名を改めた。
- 参戦武将・・・黒田基樹著
①勝者側・・・
第4代古河公方:足利晴氏(下野宇都宮城)
第2代公方足利政氏、
足利基頼(高基の弟)
宇都宮興綱(下野宇都宮城)&芳賀次郎高綱?
山内上杉氏 :上杉憲政
安中氏:宮内少輔?(上野安中城)
小幡氏:小幡顕高?(上野国峰城)
藤田業繁
用土業国(武蔵国:用土城)
成田親泰(武蔵国:忍城)
*この時憲政を担ぎ上げて、後に北条氏に与して真っ先に陥れたのは
この勝ち組の誰かさんであるが、これは何の因果であろうか・・・棟治
小弓公方:足利義明
里見義豊(安房国:)
上杉朝興(武蔵国:川越城)
②敗者側
第3代古河公方:足利高基(古河城)
小山小四郎(小山政長の嫡子)(下野小山城)
山内上杉氏 :上杉憲寛(古河公方家からの養子:高基の次男)
長野氏:長野方業(業政)?(上野箕輪城)
高田憲顕(上野高田城)
三富平六(子孫は赤城村)
守山与五郎(★長野県の森山氏?)
寺尾左京亮
沼田顕泰
- 結果
1)古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、高基は隠棲。
2)山内上杉家では上杉憲政が家督を継ぎ、憲寛は敗れて上総宮原(市原市)にて隠棲。
結果:足利晴氏が古河公方、上杉憲政が関東管領の地位を確立した。
※箕輪長野方業(業政)が敗れている。上杉憲寛方の諸氏は許された。
※普通にやりあったら、小幡・安中・藤田勢にやられるはずはないと踏んでいる。
同盟国の小弓公方・里見・扇谷上杉から、手を引けば無罪放免と話が付いていた
また憲寛も里見が面倒みると交渉があり折れたのかもしれない。
長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹)
あるいは長野方業の娘を小幡憲重に嫁がせた。
その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を
安中重繁に嫁がせた。
さらに、安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。
これによって、和解が図られている。 (★黒田基樹)
結果的に嫁を配って取り込み、業政が勝ってる格好になってるのはなぜ?
Ans.「上州の黄斑」「表裏卑怯の者」←だから箕輪長野氏の養子にした?
答えは暫く保留にしておこう
◆真田幸隆と箕輪城
- 天文年間(1532~1555)
上杉憲政は小田原北条氏と度々戦った。
- 天文10年(1541)
真田幸隆、故郷を追われて箕輪城に来る
厩橋長野氏と由良氏が対立、山上氏は長野氏側へと離反
海野平の戦い(神川合戦)
5月海野平の戦い ・・・武田信虎と諏訪頼重・村上義清氏とともに信濃佐久郡
小県郡へ侵攻した。
13日 信虎、頼重・村上義清と共に小県郡の海野棟綱を破る。
①祢津は、武田信玄家臣「娘禰津姫が信玄の妾2号」
②望月氏は諏訪氏に降伏。その後武田信虎の家臣になった。
③海野氏(海野棟綱・真田幸隆)は、村上義清らに挟み撃ちにされ、敗北。
●海野幸義(棟綱の子)の墓・・・上田市蒼久保
④矢沢氏(幸隆弟頼綱)は村上義清の家臣へ・・
侍大将で100人の家来がいた。(後、砥石城の間者)
真田幸綱(幸隆)ら滋野一族が敗北。
真田幸綱は羽根尾城(羽根尾幸全 ゆきまさ)に逃亡した。
★羽根尾幸全は箕輪城主:長野業政の娘を妻にしていたので、紹介されたらしい。
武田信虎は諏訪頼重とともに大井貞隆の本拠:長窪城を陥れ諏訪領とした。
6月14日、晴信は信虎を駿河に追放、強制隠居させる。その後武田晴信が家督を継承した。
武田晴信が父:信虎が追放→武田氏と村上氏の同盟関係は終焉。
村上義清は信虎追放事件に乗じて佐久方面への侵攻を目論んだ。
19日 晴信、小笠原長時・頼重らを韮崎に破る。
28日 晴信は家督相続の儀を行い、甲斐守護職を嗣ぎ大膳大夫を称す。
7月 上杉憲政の兵、信濃に侵入する。関東管領:上杉憲政が海野棟綱&真田幸綱
(幸隆)の要請を利き、 長野業正を信濃佐久郡・小県郡へ派兵した。
海野棟綱・真田幸綱は長野業正・上杉憲政に海野奪還を要請・・・長野業正が出陣。
諏訪頼重と和睦・・・海野平・真田の里に行かず、帰還した。
(★真田三代:平山優・真田四代と幸繁:丸島和洋著)
帰還理由は深谷上杉憲賢・長野賢忠・那波宗俊・成田親泰・桐生助綱とともに金山城主
:横瀬泰繁を攻めて敗退した。上杉憲政は北条氏綱の侵攻が気になっていたのだ。
(★由良成繁事書案)
17日 氏綱が没し、氏康が嗣ぐ。諏訪氏と上杉憲政は和睦する。
10月4日 晴信は初めて竜朱印状を発する。この年、次郎(竜宝)が誕生する。
同月 扇谷上杉氏は、河越城を攻めるが攻めあぐねて撤退した。苅田が目的とも
12月15日 北条軍は上野国境ちかく本庄まで進軍した。以後これは2~3年におよんだ。
①黒田基樹説では、大将は長野業正で、海野棟綱&真田幸綱(幸隆)も同行した
と思われるとしている。 諏訪頼重は独断で山内上杉憲政と和睦を結び、芦田郷
を支配地として割譲した。
②平山優説では、大将は不明だが、★諏訪頼重が長野業正との和睦で芦田城・長窪城
を支配地とした。また海野棟綱は、家臣の深井棟広・小野沢守儀(もりよし)・
瀬戸是慶らと平井城で過ごした。海野棟綱の消息が途絶える。客死したのであろう。
上杉憲政の意向で佐久は武田の支配が弱まった。再び、大井一族が勢力を盛り返した。
この間隙をぬって、佐久の岩村田大井城にいた大井貞隆は本拠地:長窪城を奪い返した。
芦田(依田)守信(信守)芦田信守&芦田(依田)系の相木昌朝は大井貞隆に帰参した。
というより、既に武田晴信の家臣として、活動していた。
- 天文13年(1544)
武田方は後北条氏とに和睦
長野業正の子、氏業=業盛、幼名は松代、生誕
◆石井城主石井信房(現前橋市富士見)
長野信房は石井城(前橋市富士見町石井)を任され、石井信房を名乗った。
下田姓が多い
①最初から第2家老:下田大膳が富士見に(知行を持って)いた説 (★棟治氏説)
山内上杉家にかかわりのある、伊豆下田から追われて管領を頼って上野に来た。
富士見に知行を与えられた。勢いを増してきた長野家の与力に組み入れられた。
そしていつの頃からか、家老となった。初めは長野家への目付だったのかな?
棟治はかってに、このように想像したのです。
②石井が永禄元年(1558) 石井信房が鷹留城主となったので
下田大膳が富士見に入った説 (★西原巌説)
★石井信房は先に富士見→鷹留城なのか。
鷹留城→富士見→鷹留城なのか分からない。
6月 晴信 黒川金山衆に初めて朱印状を与える。
武田晴信・相木昌朝・伴野信是は村上義清方の田口城の田口長能を攻略した。
後、相木市兵衛昌朝が田口城に入った。
従兄弟の娘婿の城に入城した。長男:相木信房(武田晴信の妹婿)に治めさせた。
『相木市兵衛依田昌朝と武田信玄』依田武勝著
小田井氏は大井氏を滅ぼした村上氏に属していた。
説.真田幸綱(幸隆)}は相木・禰津らの推挙があり、山本勘助⇒小山田虎満・板垣信方
を通して武田晴信に奏上されて家臣となった。
そしてその時期は天分13年田口城攻略からから14年3月までの間と考えられる。
そして逃走経路は、箕輪城から南下して甘楽の谷を西進、下仁田から南牧へ入り
田口峠を越えて相木氏の在城する田口城、そして躑躅ケ先か信濃の出先で対面。
13年冬に小田井城を攻めているので、すぐ南の前山城あたりがそれらしく思われる。
①長倉城・・・小田井城の北の大手口(1つしかない)を監視していた。
長倉猿助(★おそらく依田一族)が守っていた。★「相木市兵衛依田昌朝と武田信玄」
では、「長倉城」は依田の城とある。 小田井長倉城説&軽井沢長倉城説がある。
②戸谷城は小田井城の西(現小田井宿西)を守っていた。
③金井城は小田井城の南(現小田井宿南端)を守っていた。
冬、 武田晴信軍が小田井城を攻めた。小田井城主:小田井又六郎信親・
二郎左衛門(又七郎)信治は武田信玄が佐久に進行した際に佐久の諸城がことごとく
落城する中で孤軍奮闘した。武田晴信は武勇を惜しみ、臣下になるように勧めたが、
徹底抗戦の構えを崩さなかった。
10月29 晴信 頼親が反旗を翻したため、荒神山城を包囲したが、小笠原長時・頼継
に 背後を衝かれる。
11月5日 晴信 甲斐府中に帰陣するが、その後、頼継が諏方に乱入して暴れる。
12月15日 板垣信方を先鋒として再び城を攻めた。小田井又六郎は弟・
次郎左衛門とともに城を枕に討死した。(★甲陽軍鑑・御代田町誌)小田井城主:
小田井又六郎信親の長男:小田井弾正は遠江の渥美郡市村に逃げて、市村姓を名乗った
小田井弾正=市村弾正は戻ってきて、武田晴信に臣従した。
★真田幸綱(幸隆)も志賀城から小田井城に行ったのであろう。
真田幸綱は内山城代:小山田虎満の配下だったので、小田井城に一時いたかもしれない?
その後、武田晴信の巨大な縄張りに拡張した。 約20haある。★でか過ぎるもんね。
曽根館も近いし、・・・曽根昌世が一時入ったとみるべきであろう。
古東山道の要所:小田井・・20haは北信濃・上野国攻めの駐屯地になったのであろう。
- 天文14年(1545)
4月17日、武田方は上伊奈郡の高遠城を攻略、高遠頼継を滅ぼす
武田方は今川・北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁
4月には、武田晴信は小諸城にあって、岩尾城代:真田幸隆を使者として六ヶ城に籠っ
ていた 望月盛時(望月遠江守)を調略させている。武田晴信も、武威を高めていた望月
盛時(源三郎の父)の降伏を喜び、望月盛時には太刀や馬を贈っている。
こうして望月一族が武田晴信に降ったことにより、佐久郡の諸将も武田氏に降り、
自己の安堵をはかっていく。「小助の部屋」様より
6月1日 板垣信方が竜ヶ崎城を落とす。福与城主:藤沢頼親を追放した。
11日 福与城を攻略し、頼親・頼継が降伏する。
13日 武田勢 信濃府中に乱入し、放火する。
7月 第2次河東一乱 ※河東:静岡県駿東郡(富士川~黄瀬川)
応戦した。北条氏康は危機的状況になった。前門の虎・・今川・武田が駿河から
8月 義元、氏康と駿河狐橋で戦う。
9月初旬 今川軍+武田軍が合流駿し河吉原に布陣する。北条軍は、吉原城を放棄し三島
に退却。今川軍は北条幻庵・葛山氏元の長久保城(駿東郡長泉町)を包囲した。
河東の乱を機に河越城を上杉・公方連合軍に包囲された。
後門のライオン?・・扇谷上杉からせっかく盗った河越城が、挟み撃ち状態になった。
10月24日 晴信の仲介により、義元・氏康・上杉憲政の和議が成立する。
武田晴信が仲裁したことで両家に大きな「貸し」を作った。 しかし上杉憲政はこの和議を
不服としていた。
11月初旬、北条氏は長久保城(静岡裾野)を今川氏に明け渡した。(★『高白斎記』)。
北条氏康は西方に安堵を得た河越城の救援に向かった。
※ 祢津政直も武田晴信(信玄)の家臣となった。
武田晴信の重臣:原隼人正の配下の信州先方衆となった。
その後は祢津政直は武田晴信の勢力拡大を支えた。
祢津元直の娘(祢津政直の妹)を武田晴信の側室となったので、武田晴信との
関係を深まった。この禰津御寮人は後に武田信清の生母となっている。
- 最終更新:2017-03-09 18:33:30