上杉氏の守護所:板鼻
◆上杉氏の守護所:板鼻と海龍寺
箕輪初心:生方▲箕輪城179●20151126森田真一先生講演会『上杉氏・長野氏・里見氏』
新潟大学大学院の出身の森田真一先生は『上杉顕定~上杉謙信』研究の新進気鋭の
第一人者であろう。群馬県立博物館の学芸員として『よろいとかぶと』『関東の戦国大乱』
などを企画・運営されていた。
平成14年(2014)森田真一先生は「富岡実業高校」に配属になった。学校にいると、
論文や本を書いている暇はないだろう。★おやげねえ(群馬弁)。
★文章・写真の掲載を森田先生に許可をいただいた。森田先生、ありがとうございます。
【0】はじめに
1)西上野の重要性
●資料・・・多胡碑
●資料・・・荘園&公領(久保田)
●資料・・・西上野(峰岸)
2)歴史区分
●資料・・・4つの区切り&中世の区分け
【2】鎌倉公方と上杉氏
1)室町時代の東国
①室町幕府
②鎌倉府
③都鄙(とひ)の両公方
2)上杉氏
①上杉氏のルーツ
②京都上杉氏と関東上杉氏
③上杉氏と長尾氏
【3】山内上杉氏と上野国
1)上杉顕定とその時代
●年表
2)上杉氏の守護所:板鼻
群馬県安中市板鼻
古代・・・東山道が信濃国から奥州に向かって伸びていた。
後に鎌倉に向かう鎌倉街道が板鼻から分岐するようになり、碓氷川・烏川
(板鼻の北を流れる)の水運も含めた交通の要所となった。
・平安中期・・・
かつては上野国片岡郡、後に碓氷郡に属していた。歴史地名としての「板鼻」は
現在よりも広く、安中市東部から高崎市の一部を含む地域を指していたとみられている。
・長保元年(999) 9月2日、源頼信上野介に任官。
●久保田先生「八幡荘」・・・
この時、八幡庄を切り開いたのではないだろうか」
八幡荘は、上野国碓氷郡(現群馬県高崎市八幡町付近)にあった
荘園である。古くから信濃国と結ぶ交通の要所に位置していた。
交通の要所であった。鎌倉上道&東山道が交わる場所であった。
源頼信が上野介任官時に摂関家領として立券された。
源頼義→源義家→源義国→源義重が相続した。
新田荘とともに新田氏の根拠地となった。
新田氏一族の里見氏、山名氏は八幡荘内の里見郷、山名郷よりそれぞれ発祥した。・・・
2014年11月29日には、「山名郷は多胡荘かなあ?」とおっしゃっていた。
また、義重の猶子(利権の相続がない)で娘婿:矢田義清の所領の
矢田郷も八幡荘内(多胡荘の気がする:字矢田=多胡碑のすぐ南だから)に存在する。
●久保田先生「上野國一社八幡宮うえのこくいっしゃはちまんぐう」が正式の名前です。
・・・群馬県高崎市八幡町にある神社である。
碓氷八幡宮と呼ばれていたと言われている。
八幡八幡宮と呼ばれている。
すなわち、高崎市の上野國一社八幡宮は元は「板鼻八幡宮」の別称があったからである。
・平安末期 八幡荘・板鼻荘に属していた。
源義経と伊勢義盛が出会ったのも板鼻とされている。
板鼻は信濃軍勢が関東を侵攻する際の拠点、あるいは関東軍勢が信濃の軍勢を
食い止める際の拠点ともなった。
・鎌倉時代
板鼻には一遍が建立した聞名寺がある。
「板鼻道場」として時宗の拠点の1つにもなった。
・建武4年(1337) 板鼻を含む八幡荘が守護領とされた。
上野国の守護所は板鼻に設置された。
・南北朝時代山内上杉憲顕の守護所や菩提寺:海龍寺がなどが造られた。
★上杉氏関連の遺構は見つかっていない。地名として海龍寺が残っている。
◆上杉顕定
・享徳3年(1455)享徳の乱
・文明14年(1483) 11月27日(1483年1月6日)享徳の乱の集結享徳の乱以降、
関東管領:山内上杉顕定の本拠地は鎌倉から板鼻に移されたとみられている。
(★森田真一先生説)
★私見は平井城である?。
①海龍寺と月山妙皓
◆【史料1】『談柄(だんぺい)』『談柄』=写本
『関東管領:上杉顕定、文亀二年八月廿八日、於上州板鼻庄海龍寺、
御老母青蔭庵月山妙皓禅定尼十三回忌仏事之次第』
と記されている。三回忌の誤りで写し間違いであろう。
(★森田真一先生記・言)
板鼻に、かつて海龍寺という寺があった。板鼻に勢力を張った関東管領:上杉顕定の
菩提寺と見られている。
・文亀2年(1502)8月28日、海龍寺で顕定の亡き母の法要が営まれた。
長尾定昌を仏事奉行に任じ、建長寺の玉隠英璵(えいよ)=「王」
へんに「與」・・達の高僧を鎌倉から招いての盛大な儀式であった。
●群馬県立女子大学専任講師:大石利雄著
写本の一部「懺法ノハナベラヲハ貧楽斎啓書記カ々ル々也」すなわち、懺法散華の
花びらは、祥啓が描いたというのである。
画僧:祥啓(しょうけい)は鎌倉建長寺の僧である。京都で将軍家の同朋衆:芸阿弥
のもとで修業し、関東画壇のトップクラスの画家となった。祥啓(貧楽斎)は玉隠に
随伴して板鼻まで赴いた。
上杉顕定にとっては、仏事は権威を知らしめる一大イベントであった。
祥啓を呼んだことは大事な意味があった。
玉隠英璵(えいよ)・祥啓&上杉顕定との関係は師匠と弟子の関係であった。
★上杉顕定は書・絵画や連歌を能くした武人であった。
◆【史料2】『玉隠和尚語録』建長寺の玉隠英璵(えいよ)
『尽芙蓉・・・上杉顕定相公、今■永正丙寅三載秋八月廿八日、
伏値 皇慈母青蔭庵月山妙皓大師 七回忌、就乎上陽板鼻海龍
禅寺、請 牧隠和尚・・・後略・・・』
※玉隠和尚は信濃国小県郡の滋野氏の出身と言われている。
鎌倉禅興寺明月院の器庵僧璉に学び、その後継者として宗猷庵に居住した。
漢詩や書に優れている。
また、太田道灌や万里集九とも親しくした。
・明応7年(1498)には将軍足利義高によって建長寺164世住持に任ぜられた。
後に明月院に退いて禅興寺の再建に尽くした。
★明月院には初代:上杉重房の像がある。
また、安房国の里見義豊の器量を高く評価して親交を深めた。
晩年までの自分の言行を『玉隠和尚語録』を遺した。
・大永4年(1524) 93歳の高齢で死去した。
◆7【史料3】『春日山林泉曇英禅師語録』
●明応3年(1494) 上杉顕定の実父:上杉房定が死亡した。
●明応9年(1500) 上杉顕定の実母:青蔭庵月山妙皓禅定尼顕定母。
上杉顕定は父の7回忌&母の49日を行った。
●文亀2年(1502)8月28日、上野国板鼻海龍寺で亡母青蔭庵:月山妙皓の仏事を行った。
森田真一先生は従来13回忌とされていた文亀2年の仏事は、
3回忌の誤りであると指摘している
(★『群馬県立歴史博物館紀要』29号「山内上杉氏の拠点について」
2008年&2015年11月21日の講演会にて)
※仏事奉行は長尾能登守定明、布施奉行は尻高左京(高山村)
法座の幕担当は力石氏・・・7日間の法要があった。
僧侶の宿舎は依田徳昌軒の館であった。酒宴は長尾能登守定明が仕切った。
【談柄:上野武士団の中世史P110:久保田順一著】
●永正3年(1506)8月28日、上野国板鼻海龍寺で亡母青蔭庵
:月山妙皓の7回忌を行った。
※森田真一先生説
「玉陰和尚語録」「春日山林泉曇英禅師語録」の記事より
青蔭庵月山妙皓を顕定の実母=房定妻としている。
★森田真一先生のこの提示が有力な手がかりとなる。
※久保田順一先生説
青蔭庵月山妙皓を実母ではなく養母の上杉房顕妻と推測する説
(★『安中市史 第二巻通史編』第一編第六章第四節「室町時代の
安中地域」2003年久保田順一著)
●永正元年(1504)、芳賀大方(芳賀某の娘。房能の母)の命により
長尾能景は長尾小法師丸(長尾房景)に、普済寺領:栖吉の安堵
状と普済寺の修復を命じる書状を出している。
◆【史料4】『園塵』第三
『・・・管領の亭にて、九月廿五日、花さかん 数や真砂の 庭の菊 』
◆【史料5】永正6年(1509)『東路の津登』
※上杉顕定実父:上杉房定・・・京との交流と越後府中文化
享徳の乱や都鄙合体の交渉の過程で京都との関係は深まり、将軍家や在京公家との
交流も盛んになった。
・文明18年(1486)3月、上杉房定は守護としては破格の待遇である従四位下相模守
に任じられた。この官位を得るために近衛政家と接触して吉田神社の造営費を送り、
足利義政や関係者にも莫大な金品を贈っている。
応仁の乱で荒廃した京都からは飛鳥井雅康や聖護院道興といった一流の教養人として
知られた公家・僧侶が越後に下向するようになった。
連歌師宗祇や歌人:尭恵、太田道灌の死で扇谷上杉家のもとから離れた万里集九も越後
を訪れた。上杉房定は文化を保護したため、越後の文化発展にも貢献すした。越後府中や
上杉房定の様子は『梅花無尽蔵』などに記されている。
こんな中、上杉顕定も連歌や絵を嗜んだのだ。
この時、上杉顕定は養父の弔い合戦の為、上杉謙信の父:長尾為景を退治しようと
越後の長者森(八海山の麓)にいた。
9月~~~~~~~~~~~~
●青柳(前橋市青柳)
●荒蒔(前橋市荒牧)
●浜河(高崎市浜川町)
「松田加賀守・・重陽(旧暦9月9日)の連歌会」 宗長は松田加賀守とは文通していた。
●大戸(東吾妻町)
●草津・・10日間滞在した。
●大戸
9月25日
●板鼻か後閑(安中市)
「きのふけふ(昨日今日)ふわけ出侍る。山中前後左右の紅葉の興計なるべし。
過諄九月廿五日、太守佳例の法楽の連歌 依田中務少輔泊にして、菊さきて
あらそふ秋の 花もなし 規懐紙を越後の陣へとなん。はま川並松別当(★古い字)
にして 色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」
★依田中務少輔(しょうゆう)光幸の宿所で、太守=上杉顕定主催の「法楽の連歌」に
参加した。連歌は越後上杉顕定の陣(新潟県六日町?)に送られた。
※森田真一先生は上杉顕定が板鼻に居住したと断言している。
★私見・・しかし、依田中務少輔光幸はこの段階では後閑にいた可能性のある。
後閑に新田景純が富岡丹生城から後閑に入るのはずっと後のことである。
但し、依田中務少輔光幸の館が板鼻にあった可能性もあるが、・・・。
◆◆ 後閑城の歴史 ◆◆
・嘉吉元年(1441) 信濃の芦田城主・御嶽城主:依田(あしだ)内匠頭忠政が
後閑城を築城開始。
※結城の合戦に、信濃小笠原正透3000の同心として、芦田右衛門佐=依田光玄
(=忠政=満春)は、結城氏朝と合戦。
勝利の証として、後閑に定住した説 (★富岡武蔵氏の調べ)
・文安4年(1447)後閑城が7ヶ年で完成。
(★坪井家文書)
・文安5年(1448) 依田政友(=昌朝)が長源寺を創立。
(★立科町史・重田家文書)
・文明2年(1470) 依田信濃守全棟が長源寺に、三ツ木(中後閑)・下郷(下後閑)
の所領を寄進。 (★安中市史:長源寺文書)
芦田光玄=忠政→政友=政知→光慶→全真→全賀(弟)→全真の子:信盛→虎昌
→昌忠→将監(弟)→盛繁
※長野業政が天文元年(1531)箕輪城主を継承。
・天文年間 依田光慶は、箕輪城主長野業政の女を室として嫁にした。同心になった。
・天文7年(1538)依田光慶が板鼻鷹巣城に移った(伝)。
※板鼻に「依田徳昌軒館がある。」 (★山崎一氏著)
※ 北条政時の時代は不明
・弘治元年(1555)新田信純が長源寺に寄進。
(★長源寺文書)
・弘治2年(1556)北条政時を滅ぼした新田景純の子:伊勢守信純がに在城。
※新田・・・新田義貞子孫説と新田岩松子孫説がある。新田姓→後閑姓に改称説)
※「後閑城の依田氏に新田が侵攻」
(★「丹生城の歴史」)
→そして、依田新八郎(光慶)は、鷹ノ巣城(安中市板鼻)に在城
(★安中市教委)
・永禄3年(1560)長尾景虎の第一回関東出陣は、近隣の高田氏・安中氏が従軍。
新田信純(真純と改名)と小幡信実らは武田に従属。
・永禄6年(1563)おそらく、新田は箕輪城攻めに参加?
・永禄9年(1566) 箕輪城落城。
・永禄10年(1567) 新田真純を後閑城に入城。
後閑城に入城して「後閑」を称したと伝える説 (★『上州故城塁記』)
◆◆ 箕輪初心●安中の城35城一覧 ◆◆
★安中の城35城一覧
★①長源寺で山本勘助が真田幸隆に助けられた。(2007年のNHKドラマ「風林火山」)
従って、真田幸隆が開基した長国寺に長源寺のお嬢様を呼んだ。
★②長源寺の和尚様が真田幸村(幸繁)の父:昌幸&祖父:幸隆&妻(河原氏娘)の墓
のある上田市真田の長国寺を開山した。
◆【史料6】『園塵』第一
『上杉の亭にて。・・連歌 あひにあひ 五葉の松に 八重の梅 』
【3】長野氏
1)長野氏
◆【史料7】曇英慧応の『春日山林泉開山曇英禅師語録』
●林泉寺の和尚さんの話
林泉寺が越後国主によって維持されてきたことを物語る展示資料を収蔵・公開する
資料館です。長尾家時代のものから上杉家・堀家
・松平家・榊原家へと、連綿と受け継がれてきた歴史資料があります。
500年以上の昔・・・越後守護代長尾重景と諸国を行脚していた曇英慧応という
僧侶が、柿崎の地で出会った。長尾重景は曇英和尚を越後に留まってもらうために
下小野に庵を建てた。その庵こそが林泉寺のもとになります。
長尾重景が亡くなった時。息子の長尾能景は、父の17回忌までには春日山城の麓に
曹洞宗の修行道場:林泉寺を建立すると宣言し、落慶式に迎えに行くと約束をして
別れました。
・明応6年(1497) 長尾能景が完成させた七堂伽藍の落慶のため、80歳をすぎた
曇英は群馬から足を運び、開基となった。長尾能景との過去の約束を果たしたので
あった。
★ちなみに、曇英が群馬県高崎市の長年寺住職の双子の弟だという。
開山約40年後、長尾能景の孫でまだ7歳の幼い少年が、林泉寺の門をくぐり、
そののち7年間、6代目の住職天室光育のもとで薫陶を受け育てられた。
その少年が後の上杉謙信であったのだ。・・・・・
『春日山林泉寺開山曇英禅師語録』「長年寺開堂之仏事」
『・・・信州太守長野業尚公、・・・私財を投げ打って・・・
・・嫡嗣:憲業左金吾氏、庶子:金刺明尚諏訪公、ならびに慈母松畝正貞婆夷、
家臣下田近江守家吉、・・・一宇を建立し、・・・文亀元年(1501)八月念八日。』
※黒田基樹先生説
『春日山林泉寺開山曇英禅師語録』「長年寺開堂之仏事」の記述より、
諏訪明尚以外に憲業の弟はいなかったとする。
黒田基樹先生は、長野方業が長野憲業の弟である可能性については、父:長野業尚が
建立した室田長年寺に関する記録には長野憲業の弟として松井田諏訪氏を継いだ
諏訪明尚のみが記載されており、諏訪明尚以外の弟の存在を否定している。
・文亀3年(1503) 長野尚業(業尚)が没し、長野憲業は家督を継承した。
長享の乱では、関東管領である山内上杉顕定に合力して、扇谷上杉朝良を屈服させる
ことに貢献した。惣社長尾氏、白井長尾氏との抗争をくりひろげ、上州一揆の中心
として長野氏の戦国大名化を図った。
大永年間の後半においては両長尾氏を凌駕する勢力を築いた。
・永正11年(1514)長野憲業が永正の乱で死亡説・・少数説
(★『長野稔氏本長野系図』)
・大永4年(1524) 長野方業(左衛門大夫)が箕輪城主として文書を発給している。
・享禄3年(1530) 長野憲業が吾妻において戦死。
(★『長年寺本長野系図』)・・・正しい没年。通説。
【史料8】『長尾忠景書状』(★落合文書):森田真一著
長尾忠景書状(森田真一2014年)
・15C後半、藤岡の落合氏が長野左衞門五郎の配下になる。
被復先忠之由長野左衛門
五郎注進令披露、御書
申成候、定可為御本意候、
此刻御忠節簡要候、
恐々謹言、
六月十五日 前尾張守忠景(花押)
謹上 落合三郎殿
★長野市立博物館だより第92号で2014年12月30日紹介された
巻頭カラー写真で紹介されている。
紹介文森田真一先生が書かれている。
・文亀元年(1501)閏6月29日(8月5日)
長尾忠景が死亡した。
★森田真一氏は関東の名城を歩く北関東編の五十子の陣を書いておられる。
◆長野方業&長野業正
長野方業(ながの まさなり)・・・戦国時代の上野長野氏一族。
ただし、戦国時代の長野氏の系譜は錯綜しており、方業の系譜上の
位置づけも混乱している。
①『群馬県史 通史編3』:近藤義雄先生か峰岸純夫先生説
長野方業は長野業尚の子で憲業の弟、かつ厩橋の長野氏系の祖と位置づけている。
②『日本城郭大系』:山崎一先生説
長野方業=厩橋長野賢忠と同一人物とする。
③『群馬県人名大百科』:近藤義雄先生説
長野方業は厩橋長野賢忠と同一人物とする。
『箕輪城と長野氏』近藤義雄先生説
長野方業と同一人物とされる長野方斎は別人物である、
長野方業は延徳元年(1489)死去(★「橋林文書」)
長野方斎は長野方業の孫(業尚の子で憲業の弟)と主張している。
④『戦国人名辞典』:久保田順一先生著
長野方業(ながのかたなり)」は方業は箕輪長野氏の家督で、
長野憲業の後継者で、長野業正の兄とする。
⑤山田邦明説2010年
大永7年11月17日付「箕輪宛徳雲軒性福書案」(上杉文書所収)
「方斎」の人物名は「方業」が正しい判読である。
⑤講演会等:飯森康広先生説2011年
長野方業(まさなり)=長野業正(なりまさ)としている。
「方業」の名前に関して山内上杉家では『方』を「まさ」と読む
慣例があるため、読み方は「まさなり」であるとしている。
根拠は花押も同じである。
●『方業=業政』であるとする説(飯森康広2011)
箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森・久保田
⑤「戦国期上野長野氏の動向」黒田基樹先生説2012年?
長野方業が厩橋長野賢忠の弟で長野憲業の没後に後継者の某
(実名不詳)に代わって箕輪長野氏を継いだ。
『西上州の中世』(★安中市ふるさと館:黒田基樹先生説
長野方業が箕輪長野氏の当主とするこどは同じであるが、長野
業正の父にあたるとしている。
つまり、長野憲業→養子=長野方業→実子:長野業正となる。
・『方業』は厩橋長野氏からの箕輪長野氏への養子説
(★戦国期の上野長野氏の動向:黒田基樹2011)
黒田基樹先生は山田邦明説を支持するとともに「橋林文書」に記載の人物は長野為兼
が正しく、長野方業は草書における誤記であるとした。
・延徳元年は長野憲業の没年ではなく長野為業の十三回忌の年である
と捉えている。黒田基樹先生は官途名の一致と本拠地石倉城をあげる。
「方業」の名前に関して山内上杉家では『方』を「まさ」と読む慣例
があるため、読み方は「まさなり」であるとしている。
・大永4年(1524)
惣社長尾家の長尾顕景と白井長尾家の長尾景誠が北条氏綱・長尾為景
と結んで関東管領上杉憲寛に叛旗を翻した。
長野方業が惣社長尾氏の重臣:徳雲斎を調略したことが知られている。
ところが、内応が発覚した徳雲斎は長尾顕景に殺害されたために、
長野宮内大輔(賢忠?)とともに惣社長尾家を攻めた。
追い詰められた長尾顕景が既に上杉憲寛と和睦をしていた長尾為景
の仲介で降伏した。
なお、長尾景誠の妻は長野業正の姉とされていることから、長野方業
と長野業正が父子とすれば、長尾景誠室の父は長野氏業ということに
なるとともに、事件(長尾景誠の離反・降伏)との関係も考えられる。
・享禄年間 関東享禄の内乱=山内上杉家の内紛
長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
VS
小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政
結果・・箕輪長野方業が上杉憲寛陣営の中心的存在であったとみられて
いるが敗れている。
上杉憲寛方の諸氏は許されて、長野方業の後継者とみられる長野業正の
娘を小幡憲重に嫁がせ、その後、箕輪長野方業の養女になっていたと
みられる沼田顕泰の娘を安中重繁に嫁がせた。
安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせることで当事者間の和解が図られている。
(★西上州の中世:黒田基樹著)
★これが、黒田基樹先生の特徴のある説である。
【4】里見氏
○鎌倉時代・・御家人 室町時代・・鎌倉府奉公人
○戦国時代・・安房で活躍
○享徳の乱と南総里見八犬伝
【5】まとめ
- 最終更新:2016-07-17 00:04:53