上野長野氏の研究

上野長野氏の研究

  • 上野長野氏の出自に関する研究 
箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森・久保田 より
箕輪初心:生方▲箕輪城189『古文書史料に基づく長野氏・箕輪城の関連年表』

  1. 近藤先生は「1190年に石上=長野氏が国衙領に入ったが、鎌倉時代に無用の長物になり、東山道ぞいの浜川に館を作って、・・安全な場所:鷹留城→箕輪城を造った。」という説を述べた。
  2. 山崎一先生は、古城の研究で、「高崎浜川の寺内館→乙業館→隆業館→鷹留城→箕輪城」と考えているようである。
  3. 高崎市史では「長野氏は、大胡長野氏を含め4つの流れがあった。」という。
  4. 山田邦明氏は「大永7年(1527)、箕輪城に長野方業が在城した。(上杉文書)」と発表した。この説を受け、飯森先生は、4つの流れのうち、「名前&押印から、長野方業(まさなり)=長野業政(なりまさ)であり、厩橋(前橋)長野氏が本流となった。」というような説明をされていた。
  5. 久保田先生は、「長野郷は上野国最大の摂関家:藤原氏の荘園であり、石上氏=長野氏は交通の要所:現在の箕輪城の東近くを本拠とした。結果的に浜川は長野郷の一部で、鎌倉時代に長野氏は御家人となった。室町時代に所領が上杉家に没収された。危機的状況から脱出し、復活した。」という説を展開している。
  6. ※諸先生方、もし、説に間違っているようならば、お知らせ下さい。

  『古文書史料に基づく長野氏・箕輪城の関連年表』により、 追加・変更が伴ったため
  リニューアルして、該当箇所はこの色で記す。

 新着研究
箕輪初心:生方▲箕輪城208【久保田順一先生20160827「長野業正:新系図発見」】
   平成28年(2016)8月27日、久保田順一先生の「長野業正の実像に迫る」という
   テーマで群馬県立博物館での講演会があった。

   久保田順一先生28年8月27日の講演会にて初心氏は、その内容の一部を次のよう
   な項目にまとめた。
 

「箕輪城の歴史詳細編 ① 」 平成20年6月9日作成

【0】長野氏の先祖

  • ■物部氏…石上…の子孫(群馬県史の近藤義雄先生・峰岸純夫先生)
    • 石上麻呂(いそのかみ の まろ)の氏姓は、物部連、のち物部朝臣、石上朝臣。大華上・物部宇麻乃の子。官位は正二位・左大臣、贈従一位。(Wikiより)
    • 長野家系図に、「石上朝臣長野上野介始めて石上性を賜る、在原姓を改め石上姓の元祖也」とある。
    • 連歌師宗長の記録「東路の津登」に、「長野氏の姓は石上であり、多胡碑に見える石上尊がその祖である」と記している。
    • 宗長はこの他に「布留社あり」と記しており、布留社の本社は古くから物部氏が祀る石上神宮である。
    • 長野氏が、浜川の道場に移る前は、御布呂(布留)にいたが、石上神宮を祀っていたからであり。石上寺はその別当寺であろうとしている。
※現在 棟治もこの説を支持している。

  • ■平城天皇→阿保親王→在原業平→在原業重(上野国司)…{??代}…子孫(群馬県史の近藤義雄先生)
    • 在原業平と長野氏の関係・・・長野氏の祖先は、在原業平(ありわら の なりひら)とされている。『伊勢物語』の主人公であるとされる在原業平が、関東に下向したことが始まりであると伝わるが、もとより伝説の域を出ない。
    • 在原氏は、平城天皇皇子の阿保親王・高岳親王の王子が臣籍降下したことに興る皇別氏族。上野太守に、阿保親王(834年〈承和元年〉3月21日〜38年頃) が叙任されている。しかし、当時の慣例は、遙任と言って、太守が上野へ下って職務に就くことはなかった。
    • 在原業平の生誕:825年(天長2年)、死没:880年7月9日 。数ある長野家系図に、業平が上野の国主に叙任されたとある。だが著書の中では、そのことを裏付ける史料は見つかっていないとしている。
    • 先祖は上野国衙の役人か・・・律令の時代、前橋市元総社地区の周辺に、国府が置かれていた。国府には、国衙と呼ばれた、国の出先機関があった。これは現在の県庁のようなもので、都から派遣された役人により運営されていた。また出先機関とその地域全体を、国衙とも呼んでいた。長野氏は、その在庁官人の末裔とも考えられている。

  • 多胡の碑と竹取物語りに見る石上氏・・・物語の概要・・・ひとりの老人が竹を取りに行くと光輝く竹があり、怪しく思って切ってみた。すると中には、小さなお姫様がいた。光はそのお姫様から出ていたの。このお姫様は老夫婦に育てられ、・・・やがて美しい女性に成長した。するとその噂を聞きつけて、たくさんの求婚者があらわれた。最期に5人の貴族が残った。5人は石作皇子、車持皇子(★古典文学全集では「くらもちの君)」、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂である。

  • 多胡碑にある以下の2人
    • 左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様・・・・佐野屯倉(ミヤケ 宮毛=天皇の食物倉)は、物部氏(石上)が支配していた。その地域は、佐野・石原・山名郷周辺である)
    • 右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様・・・上毛野氏系の車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人を母として生まれた説が有力である。車持の君は、榛名山の南麓一帯の、旧榛名・旧箕郷町など、高崎北部から東は榛東村までの支配者であったらしい。
    • この2人は、上毛野国府より西側の地域で、東山道を挟んで北と南に支配地域を持つ車持氏と物部氏に深く関わりあいを持っていたと想像される。
    • このうち石上氏は屯倉の役人であるなら、そのまま国衙の役人として後に上野国の国府にあっても何ら不思議ではない。この流れの石上氏から長野を名のる一族が出たのであろう。

※中世に入ると、源・平など天皇を父祖とする武門の家が躍進してきた。これに伴い長野氏も、平城天皇→阿保親王→在原業平とした方が、時代の流れに沿っていると考えて改姓したのではあるまいか。棟治はこう考えた(決してでっち上げではなく、流れは汲んでいると思うわれる)
 さらに以上のことから仮説として、阿保親王が上野太守であった縁で、業平以降の一族と、在庁官人の娘との間に、子が出来た。そしてその子は、そのまま石上姓を名乗る在庁官人の一族として上野に留まり、長野氏を名乗るようになったと考えるとすっきりする。これなら「石上姓」であったり「在原姓」であったりした事の理由づけと成るのではなかろうか。
師のブログよりまとめてみた 要検討事項 棟治
 
  

【1】奈良時代

  • 長野氏の先祖の石上氏は奈良県天理市布留町の石上神宮(神社ではない。)の神官だった。※奈良天理市の石上神宮(天理教本部北)の宮司の話
    • 「神宮・・・伊勢神宮と二つだけ。」
    • 「布瑠山の「る」を「おうへん」使っていれば、確定的・・。」
    • 「群馬に行った石上一族の記録はない。」

  • ★箕輪初心私見「奈良時代の記録がないが、惣社神社の神官の可能性はある?」

        ■牛池(牛の牧の水場)
    国分寺      国分尼寺
     □        □
         国府
         □  
       :  最初の総社神社
       :    □
      :        
       :       今の総社神社
       :         □
 :::::::::東山道::::::::::::

※東山道・・・国府の北に牛池=牛の牧は上野で1か所。貴族が牛車に乗るため。
※国府の手前に東に総社神社(各社を一つにまとめた)。左に国分寺・右に国分尼寺。(★近藤義雄先生)
*万葉集の防人の歌「伊香保・・」4首読まれた。上野の国の歌は全部で25首? (★群馬町誌他)
 

【2】平安時代

  • 天喜2年(1054)「上野権介正六位石上朝臣兼親」(★除目大成抄→★峰岸純夫先生) 

  • 建久元年(1190) 榛名神社に「石上」姓が登場(★みさとの歴史)
    • ※在原業平の子孫である奈良の石上氏(後の箕輪城・鷹留城・厩橋城=前橋城の長野氏先祖)が在地国司の惣検校(国の社寺点検)・散位(上級役人)として2名の石上(いそのかみ)の名と花押があった。
    • 目代(もくだい:国司代理人)は藤原であった。「榛名神社に健児(こんでい)や検非違使を入れていけない。」という内容が榛名神社に残されている。  (★近藤先生)
    • 建久元年(1190) 在庁官人:石上氏(★榛名神社文書)
    • 建久元年(1190) 奈良の「布留(ふる)」→浜川に「御風呂」の地名あり。(★秋本先生)

  • 箕輪初心:布留山石上寺は、長野氏・井伊氏関係で3つある。
    • 1.旧箕郷町の箕輪城の鬼門
    • 2.旧群馬町の三ツ寺の堤隣
    • 3.井伊氏の移転の石上寺
    • 4.+高崎市菊地の石神砦:うなぎ神社・・・(★山崎一先生)

  • ※千葉氏の上野支配
    • 長元元戊辰年(1028) 平上総介平忠常が下総国より入国。嫡子:下総介常重→孫の千葉介常---胤。千葉常胤が蒼海城として使用。
    • 治承4(1180) 源頼朝より加勢依頼の使者→千葉常胤が鎌倉に赴任。→平家方の足利太郎俊国に総社の民家が焼き払われた。

  • 年代不詳 千葉介常胤の7人の子
    • 長男千葉胤正・・・・・・総社(前橋市)在住。家督を継
    • 2男相馬小次郎師常・・・高井
    • 3男武石三郎胤盛・・・・武石(現在の藤岡立石)
    • 4男大須賀四郎胤信・・・須賀谷(現在の高崎市旧群馬町菅谷)
    • 5男国分五郎胤道・・・・国分(現在の高崎市旧群馬町国府)
    • 6男東六郎胤頼・・・・・台村(現在の高崎市岩鼻町台新田)
    • 7男・・・・出家。
    • 築城年代は不明。 蒼海城は千葉常胤が築城。(伝)

  • 建久元年(1190) 国司在地官僚の石上氏(→長野氏)は、国府から東山道西の長野郷に移住。

  • ★箕輪初心私見「石上氏=長野氏は千葉氏の上野に勢力を持ったため、国府(前橋市総社町)から→東山道の10kmの西の長野郷に移住せざるを得なかった。そして、石上氏は南に東山道が通る長野郷浜川に住居か?長野姓に改称か?」※御風呂遺跡・・・高崎市浜川公園内
 

【3】鎌倉・南北朝時代

  • 鎌倉時代・・・国司の役人ながら、鎌倉幕府には無用な役人。→在地役人。石上氏(長野氏先祖)は鎌倉幕府の役人ではない。足利氏が役人であった。
    • 正嘉2年(1258) 永野刑部丞跡子孫の永野次郎太郎は宗尊将軍の奉公人であった。

  • 南北朝時代・・・新田氏は鎌倉幕府の倒幕に関与。石上氏は参加せず。
    • 弘安8年(1285) 安達泰盛の死→滅亡。北条得宗家の支配。長野氏の御家人化?
    • 正慶2年(1333) 楠木正成への攻撃時、新田義貞などのほか、「連一族」の名がある。
    • ★箕輪初心私見・・・「連一族」=長野氏の可能性?物部連(私見)」

【4】室町時代

  • 足利関東管領+上杉氏関東管領代理+長尾氏は上杉家執事
    • 応永23年(1416) 北条得宗家が長野郷を支配した。永野氏が没落?・・・被官?・・・(★明月院文書))意味不明?応永23年は、上杉禅秀の乱があった年、鎌倉幕府の北条得宗家?
    • 永享元年(1429)足利直義は戦功により、関八州と伊豆・甲斐・越後の行政権を獲得。
    • 足利直家臣の長尾佐衛門景忠が上野・越後守護代。                   ---4男の長尾忠房を上野国府を支配。長尾忠房は国府跡を蒼海城を城郭化。元の総社神社を今の場所に移築。~以後、総社長尾氏の本拠地。(上野国守護代総社長尾景行入城説あり。)。
    • 越後栖吉城長尾・白井城長尾・蒼海城長尾・足利両崖山城長尾。以降惣社長尾忠房→→景棟と続く。白井長尾氏、山内上杉氏と対抗するがよりを戻す。

  • 長野??氏 寺ノ内館

  • 長野乙業の時代・・・・乙業館(青木の用水池東)に居住。
    • 1)寺内館:(元高崎市浜川公園南西部300m・・・東山道に隣接北部)
    • 2)乙業館(おとなり)(高崎市浜川町道場・・火薬工場・工場北)でも、心配。
    • 3)寺内館・矢島館・北爪館・北新波砦・満勝寺砦・  

  • 長野隆業の時代・大きな浜川館=隆業館。(高崎北高西・来迎寺東200m)に在住。
    • ※来迎寺に乙業・隆業などの墓がある。一番大きいのが長野業政(伝) 
    • 隆業館(=浜川館/東西200m×南北130m)・・→蒼海城に対抗。
 

【5】2つの長野家

  • ★箕輪初心私見「長野氏には、2つの流れがあったのではないか?」
    • ★箕輪初心私見「乙業・業尚父子と為兼(業)・房兼(業)とは、同時代の人物である。」

  • ①山内上杉氏に仕える「本家筋属系」・長野乙業・隆業・業尚系が長野氏の「業」がつく主流。
    • ※最近の研究では、長野左衛門尉為業は長野家本流であるとされた説がある。
    • 上記の説からすると為兼(業)は、長野乙業・隆業いづれかの嫡子に当たるのではないだろうか?あるいはもっと前から分かれていた (棟冶私見
    • ■嘉吉元年(1441) 結城の合戦の終結 長野周防守・・「守」がつくので本家筋。乙業では?
    • 長野乙業の子業尚(尚業?)は、関東管領上杉顕定の執事に抜擢。(長尾景春の乱で管領側に与したから?棟冶私見
    • ★箕輪初心私見「1位長野業尚 2位小幡一族、いじけた長尾一族は足利成氏に味方?」(いじけた景春ちゃんが、為兼(業)を巻きこんで古河公方に与した。その後もいじけ続けた長尾のび太君は、後北条・長尾為景に通じた所を、方業(業政)ジャイアンに退治された?棟冶私見
    • 長野業尚は浜川から下室田に居を移し鷹留城を築いたと伝えられている。しかし、業尚に関しては系図以外にその存在を語る確実な史料はない。(★群馬県史)

  • ②山内上杉氏に仕える一揆旗頭「分家系」・・・長野為兼(業)、1477に年針谷原の戦にて戦死・長野房兼(業)、1504年に立河原の戦いにて戦死。分家の地位へと転落したという説あり。        
    • 将軍足利義政から御内書を発給された長野左衛門尉は為兼。※峰岸純夫先生の説・・・「兼」→「業」への下克上説。逆に尚業系の人たちが下克上説?した説あり。
    • ※棟治私見はこうです。為業は長尾景春の乱で景春側に与していた。乱が鎮圧されてしまった。尚業(業尚)は、管領側にあったため、覚え目出たく上杉家の執事となった。そして長野宗家の座を手に入れた。房業の時代には管領側に復帰したが、分家の地位に降ってしまった。これはどうだろうか?夏に出る久保田先生の本が楽しみです。
    • @永享10年(1438)に起った永享の乱後の結城合戦(1440)。長野氏は上野一揆の一員として、周防守・宮内少輔・左馬介の3名が参陣し、結城方武士の首をとる戦功をあげた。
    • ★箕輪初心私見「長野周防守は、長野乙業(守がつくので本家筋)では?
    • 長野宮内少輔は厩橋系の2代目(★「前橋の風土記」)長野氏は上野一揆として編成。関東管領の上野守護山内上杉氏の軍事力の一翼を担っていた。(★近藤先生)
    • 永享12年(1440)~嘉吉元年(1441)結城合戦「長野周防守」・「長野宮内少輔」・長野左馬助」は上杉方で参加した。(★足利持氏文書)★「長野宮内少輔」・厩橋長野氏の成立?
    • 棟冶私見・・・このあたりの解釈面白いよね。この当時箕輪・厩橋に長野氏の拠点があったとしても何ら不思議ではない。その理由はどちらも街道の宿駅になっていた、または該当する施設があった。そこには現在の為替や相場に該当する商業活動が行われていた。銭が動くので税収入が見込めた。こう言った商業に関する既得権があって台頭した豪族に、倉賀野・木部氏などが知られている。そこで棟冶の説として、箕輪・厩橋には長野氏の拠点が結城合戦の頃にはあったのではないか。しかしまだ箕輪長野氏・厩橋長野氏と呼ばれるまでには分家しておらず、どこに本拠を置いたかはわからないが宗家に当たる家が仕切っていた。今風に言うと、箕輪営業所と厩橋営業所があったって感じかな。そして後に為業と呼ばれる代になって、長尾景春の乱に巻き込まれて為業宗家は没落した。なぜ与したかと言うと、厩橋の既得権は利益も多かった。その権利を安堵してくれたのは、上杉家家宰であった白井長尾家であった。そりゃ味方せねばならんよね。素人の途方もない想像ではある。
    • 応仁の乱・永享の乱→戦国時代「上州旗揚げ一揆→下克上の時代」
    • 文安5年(1448) 「長野入道」は長尾景仲に何か申し上げる。舞木に変わって、上杉の傘下になった。
    • これって舞木(佐貫)氏が没落したって事かな?だとするとこの頃前橋青柳へ来たという事も考えられる。佐貫⇒赤岩⇒青柳と名を変えたのもこの頃のはず。
    • 享徳3年(1454)年~文明14年(1482) 享徳の乱

  • 文明3年(1471) 上杉顕定は古河御所を占領して勝利している。
  ①9月17日の足利義政の文書
   「足利義政御内書」・・
    小幡右衞門尉とのへ
    長野左衞門尉とのへ
    享徳の乱で功績のあった長野左衛門尉(為業)は足利義政から感状(感謝状)をゲット。
  ※久保田先生・・・長野氏は上州の代表になっていた。

  ②「享徳の乱後」の長野氏の分立
   ???年、「実相院諸国旦那帳」
   「上野国まえはし殿 名字なかのと御なのり候えども
    いその上氏也、箕輪殿・大こ殿・・」
   (★那智大社文書)

  ※久保田先生・・・熊野神社が有力であった。伊勢神宮は
   それから後の時代である。
    まえはし殿・・・厩橋長野氏(宮内小輔の冠途・・)
    みのわ殿・・・・箕輪長野氏、庶流に室田長野氏
    大こ殿・・・・・大胡長野氏(左馬介の冠途、厩橋長野氏の連枝)

  ※久保田新説①長野宮内少輔系方業などの厩橋が本家ではないか?
   ・・・那智大社文書には長野3家
   「まえはし殿、箕輪殿、大こ殿」とあるからである。

  • ★箕輪初心私見「1470年代には、長野氏(左衛門尉)と小幡氏(右衛門尉)は上野国人層の有力武将に成長。」

  • 新情報:文明 5年 1473 ・長尾景春、橋林寺開基「上毛剣術史(中) 剣聖上泉信綱詳伝」 より
   てことはこの頃すでに、厩橋城の形はあったことになる。
   橋林寺は厩橋長野家の菩提寺であり、鬼門の寺である。
   長野家を2つに割り、景春に従った長野為業が築城して居城したのではないだろうか。
   尚業もこの頃すでに箕輪城の形を作っていた?

  • 文明6年(1474)、石上寺&八幡神社が造られた。 
   箕輪城築城は通説は1500年頃となっている。
   しかし、●文明6年(1474)、石上寺&八幡神社が造られた。
   東明屋の石上寺:長野氏の菩提寺である。

   文明6年(1474) 六地蔵石幢(せきどう)・八幡神社(現東向観音)
   の石幢(せいどう)が根拠である。
  ★城より先にお寺を造る人はなずいないだろう。
   しかも、長野時代の箕輪城から見て鬼門にあたる。
   通説は菩提寺を来迎寺・長純寺・長年寺と前提としているので
   1500年頃説になってしまうのだ。
   鷹留城には鬼門の寺がない。菩提寺:長年寺のみである。
   長年寺には①7つの墓と②長年寺記、③壁書がある。
   長野氏が箕輪城を文明6年(1474)以前に造ったとすれば、
   箕輪城は平山城で、1500人規模で守るには守りに不安がある。
   だとすれば、一城別郭として、山城の鷹留城が必要になろう。

  ①箕輪城~金敷平~下善地砦(福島氏)~上善地砦(後藤氏・生方氏)
   ~見返り坂(信玄伝説)~愛宕山(信玄腰掛石伝説)~十文字
   (後、本郷氏・新田景純系後閑氏)~鷹留城までは、約6km・・・
  ②箕輪城~童子砦(長野憲業の車郷小学校全体説もあるが)
   ~白岩砦(??氏)&長谷寺~高浜砦・・・或いは遠北の砦?
   ~三つ子沢砦(新井氏?)~神戸砦~長年寺~鷹留城までが約8km・・・

   鷹留城は堀・郭が大きいが、縄張りは連郭式で単純で、戦国時代初期
   の構造であると想像できる。

  • 文明8年(1476)関東管領山内上杉氏の家臣長尾景春(群馬白井城主)が鉢形城を築城
    • 長尾景春の乱・・・鉢形城に立て籠もり、上杉氏と対立
    • 山内上杉(平井城) VS 古河側長尾景春(白井城:旧子持村)+長野為業(厩橋城)6月、長尾景春は五十子を襲った。長尾景春は鉢形城に戻った。
    • 文明9年 1477年橋林寺建てられる。厩橋城このころ築城ともいわれる。景春に与した長野左衛門尉為兼(業)は、針谷原の戦にて討死する。

  • 文明9年(1477)
   正月18日 上杉顕定は五十子城を放棄し、越後の上杉定昌は白井城、
   上杉顕定は阿内城、扇ヶ谷上杉定正は細井に陣を移し、岩松明純は
   武士の城山に陣を敷いた。
 
   3月8日 ▲針谷原の戦い
   太田道灌は手兵を率いて長尾景春を破った。
   大石源左衛門、長野左衛門尉為兼(業)が討死した。 
   長野左衛門尉為兼は上杉顕定を裏切って討ち死にした。
                     (★関東古戦録・松陰私語)
                      ★長野左衛門尉為兼の2説)

  ①長野左衛門尉為兼・・長野氏は「兼」系・「業」系がいた説
  ②長野左衛門尉為兼=長野為業 (★飯森康弘先生)

   12月広馬場(榛東村:箕輪城から北北東4km)の戦い
   山内上杉顕定(平井城) VS 長尾景春+古河公方
   旧榛名町白岩砦:長谷寺→×(旧榛東村)←渋川:白井
   上杉の挟み撃ち作戦
   (★「関東古戦録」久保田順一先生訳→秋本太郎先生)

   山内上杉(平井城) VS 古河側長尾景春(白井城)+古河公方
   旧榛名町白岩砦:長谷寺→×←旧榛東村←渋川:白井)
                  (★「関東古戦録」久保田順一先生訳→秋本太郎先生)
  ■戦国時代・・近くて安心な城=箕輪城の築城。
   詰め城として鷹留城(★近藤義雄先生の講演会での説)

   烽火城として金古城。=惣社長尾氏対策
   東毛本面拠点として厩橋城=前橋城(現在の前橋の県庁)

  ★箕輪初心私見「箕輪城は1477年、以前に存在した可能性もある。
   浜川からみると、そこしかないと地形から考えられる。 2008年の私の考え。

  ※久保田順一先生は、2012年から、長野氏はこの時には
   箕輪城付近にいたのではないかという説を展開している。

  ▲近藤義雄説・山崎一氏説
   長尾景春の乱(1476~1480)など戦い、さらに扇谷上杉との対立で
   山内上杉氏の力は年々衰えていった。
   このような情勢の中で長野郷(現高崎市浜川町周辺)で勢力を
   張っていた長野氏が勢力を持った。

  ▲秋本太郎先生の2009年頃の考え
   箕輪城築城・鷹留城築城は1480年代か?
   一時の秋山太郎説・・・であるが、2014年、箕輪城パンフレットで1500年頃と戻した。
 
  ★私みたいに、残された墓石から1474年説をとる人はおらんかに・・・
   棟冶ちゃんは、さらにその前より館(営業所)くらいあったと思ってる。

   文明18年(1486) 堯恵は上野国国府の長野陣所に行った。
   関東管領:藤原(上杉)顕定に会った。

   文明19年(1487) 堯恵の「北国紀行」長野陣所小野景頼も元に寄った。
  ★この段階で、長野氏は上杉顕定の有力被官になっていることが分かる。
   ・・・箕輪城あるいは鷹留城がないというのが変である。
 

【6】戦国時代

  • 近くて安心な城=箕輪城の築城。詰め城として鷹留城
    • 烽火城として金古城。=惣社長尾氏対策
    • 東毛本面拠点として厩橋城=前橋城(現在の前橋の県庁)。
    • ★棟治私見、1477年橋林寺建てられているので、この頃既に長尾景春の命(乱を起こすから要害築いておけ?)で厩橋城は、長野為業により建てられていた可能性が高い。
    • ★箕輪初心私見「箕輪城は1477年、以前に存在した可能性もある。浜川からみると、そこしかないと地形から考えられる。」2008年の私の考え。
    • ※久保田先生は、2012年から、長野氏は箕輪城東にいたのではないかという説を展開している。

  • 箕輪城築城・鷹留城築城は1480年代か?・・・(★秋本先生)
  • 長享元年(1487)~長享の乱。山内上杉(平井城) VS 扇谷上杉(川越城)

  ▲明応年間(1492~1500)室田に鷹留(たかとめ)城を築き、
   長野郷浜川(高崎市浜川町)から移り、 その子憲業が箕
   輪城を築き本拠を移したといわれる。
  (★『長年寺記』・群馬県古城累祉の研究下巻)
   ★群馬県古城累祉の研究下巻や現地案内板などに書いてあるから、
   全てのブログは右から左、同じ文章である。
   「境目の城上野国編(宮坂武雄著)に宮坂武雄氏がもっと以前に
   鷹留城が造られたのではないかと疑問視している。
 
  ★榛名町誌:久保田順一先生は、同時期といっているが、築城
   年代を榛名町誌にも明確に示していない。
  ※久保田先生は講演会では「
   「鷹留城→箕輪城に行った可能性もある。信憑性が高い。」と言っている。

   しかし、私は箕輪城築城は1474以前説を採っている。

   根拠①菩提寺:石上寺に石憧は1474年、東向観音も1474年であることから、
   1574年以前に箕輪城、或いは屋敷が造られたのであろう。鬼門寺としての方角
   を考えると、現箕輪城にあったと考えられる。確かに石上寺には長野氏の墓はない。
   来迎寺・長純寺・長年寺だけであるが、・・・
   箕輪に菩提寺・祈願神社が造られているのは確かである。

   根拠②長尾景春 VS 上杉顕定の対立が続いていたことを想定すると、上杉顕定が
   文正元年(1466)平井城を拡張工事した。詰め城:金井城を築城したという。
   であるとすると、有力家臣となった長野氏の城があってもおかしくはない。 

   「浜川長野正弘所蔵系図」に従えば、浜川道場に乙業館→隆業館(200×130m)
   →尚業(業尚)は箕輪・鷹留両城は一城別郭とした可能性がある。

   つまり、箕輪城が造られ、後に詰め城:鷹留城が造られたと考える。
   鷹留城の里城:平時の居城は「堀之内」(松山城の南西部)である。
  (★久保田順一先生講演会)城下町があった。

  • 延徳4年(1492)伊予太守長野業尚が榛名に長年寺を創建?(★長年寺縁起并由来記:高崎市史)
  • 明応6年(1497 ) 長野業尚が長純寺を創建(★みさとの歴史)
  • 文亀元年(1501) 長野業尚か憲業が雲英(+恵応)和尚を招いて長年寺を創建?(★秋本太郎先生)

  • 文亀3年(1503) 長野業尚が死亡。(★みさとの歴史)
    • 長野乙業→長野隆業・・・→①長野業尚(尚業)→②信業(=憲業)
    • →業氏(鷹留城)→業通
    • 方業(厩橋城)(=)③業政(方業=業政説あり)
    •             →吉業
    •             →④業盛(=氏業:近藤説)→亀寿丸:鎮良

  • ★棟治私見。当時は分家と成り下がっていた厩橋長野左衛門尉方業は、上杉憲房の覚え目出たく上杉家執事となった。前後して憲房の命により、箕輪長野家に養子に入っていた。そして上杉憲政が管領に着いた時、業政と改名した。     

 久保田順一先生の講演会「箕輪城と長野氏」ーー長野郷の中世史ーー

  • 講演会の講義を元に、初心氏がまとめたものである。
 

【1】長野郷の構造

  • 0)はじめに
    • ※中世の概念・・・「通説は武士の時代とされていたが、今は、院政期から中世と考えられている。」
    • ※武士も貴族の一部である。
    • ※荘園=私領・公領=郷の違い・・・院政期に成立
    •  荘園・・・新田荘・桃井荘は私領である。
    •  郷・・・・長野郷・甘楽郷などは国が支配した。

  • (1)中世長野郷を称する地域
    • ①「・・長野郷内寺内」(熊野本宮大社文書)・・・応安7年 ※久保田先生・・榛名町本郷にある地名である。★箕輪初心・・・高崎市浜川の寺内砦遺跡では?
    • ②「・・長野郷内西芝村」(明月院文書)・・・応永10年 ※久保田先生・・東芝があってもいい。★箕輪初心・・・現在は上芝&下芝
    • ③「・・長野郷内簸輪本郷村」(明月院文書)・・・応永23年 ※久保田先生・・箕輪城周辺地区と旧榛名町本郷であろう。★箕輪初心・・・高崎市沖町&高崎市箕郷町白川に隣接。
    • ④「・・長野郷内東荒波村」(鶴ヶ岡八幡宮文書)・・・応永31年 ★箕輪初心・・・現在は高崎市北新波&南新波がある。北新波には、北新波の砦&満勝寺砦がある。
    • ⑤「・・長野本郷増長寺」(八幡宇佐宮御託宣集)・・・応永4年 ※久保田先生・・東芝があってもいい。★箕輪初心・・・現在は上芝&下芝
    • ⑥「・・長野郷浜河村薬音寺」(鰐口銘文)・・・応永29年 ★箕輪初心・・・高崎市沖町&高崎市箕郷町白川に隣接。
    • ⑦「・・長野荘之内行力村中里村」(彦部文書)・・・戦国期 ★箕輪初心・・彦部家は太田市にある古武家屋敷である。この頃になると、郷→荘=私領に変化している。
    • ⑧「室田・三ノ蔵・権田」(頼院大僧正絵伝)
    • ※久保田先生・・榛名神社の神領は長野郷内の可能性がある。院政期の上野国の有力な郷であっただろう。長野郷・・広い範囲だったのであろう。
    • ★東は箕郷町箕輪城周辺地区&旧群馬町中里~井出~保渡田。
    • ★南は東山道沿いの今の高崎北部:浜川町~小塙町~新波町~沖町・我峰町~
    • ★西は旧榛名町本郷~榛名町室田~旧倉渕村の三の倉・権田
    • ★北は榛名神社~榛名湖南半分=旧榛名町・旧箕郷町唐松~
  

  • (2)長野郷の支配
    • 郷司・・・石上姓の豪族が長野郷の苗字と「長野氏」を名乗った。しかも、国衙在庁の構成員。
    • ★箕輪初心・・・近藤義雄先生の説では、「源頼朝の支配下では、国司は無用の長物になり、国府にいられなくなり、東山道沿いの現高崎市浜川町の浜川運動公園内に屋敷を建て、住み始めた。浜川寺内遺跡は古い遺跡である。」
    • また、近藤先生は「青木荘に在原業平の子孫が住んだという伝説から、箕郷町の下芝:カインズホーム周辺・楽間町北・浜川町道場と考えている。」のである。
    • もちろん、私などに長野郷の範囲を知るよしもない。また、青木荘=長野氏の私領になっていることから、久保田順一先生の説では、削除している。近藤義雄先生の説では、成り上がりの説を採っている。→★もちろん、素人の私には分からない。

  • (3)宗教的な聖地
    • ①榛名神社 「正一位 榛名大明神 」(上野国神名帳)※人間ランクは30ランクだった。
    •  長野郷の鎮守だったかもしれない。榛名神社は現在の場所になかった。「長野地区にあった。」かもしれないとおっしゃった。
    • ★久保田先生のこの説はちょっと苦しいのでは?現在の長野地区=浜川・北新波・南新波・菊地・我峰・沖・楽間・行力の8地区には、3つの榛名神社が存在するのだ。
    • ②旧榛名町「長谷寺:白岩観音」・・板東33観音札所 ※鎌倉時代に観音信仰が流行った。
    •  ★箕輪初心・・・「この時、秩父34観音・板東33観音ができた。」
    • ③中世の街道&宿
    •  *府中街道・・・・鎌倉上道(うわつみち)。中道・下道
    •  *越後街道・・・・箕郷明屋~~榛東村~渋川~~だろう。
    •  *榛名巡礼道・・・箕郷明屋・・中善地・・唐松分岐・・
    •   久保田説・・・今の榛名街道ではないのである。本通りはこっちだった。つまり、榛名神社に行くには、箕郷西明屋~だった。
    •  ★箕輪初心・・・基本的には同感である。何故なら、箕郷町:箕輪城西~金敷平~善地~駒寄~唐松分岐がある。唐松分岐には、平安時代の「唐松廃寺」(★現救世新教)があった。西に行けば、天狗山経夕で、榛名神社に着くのだ。
    • ④中世の宿・・・宿地名
    •   浜川・・・本宿
    •   西明屋・・上宿・内宿 ★矢原宿・裏宿
    •   菅谷・・・中ノ宿・西宿
    •   保渡田・・・田宿・新宿
    • ※久保田先生・・・宿屋が数軒。50~60人規模だったろう。
    • ※久保田新説①・・・長野郷は、広かった。



【2】長野氏の成立と展開

  • ※久保田先生・・・長野氏は滅んだので、資料が少ない。
  • ※久保田先生・・・長野業盛=氏業である。

  • (1)平安時代の長野氏=石上(いそのかみ)姓&在原姓
    • ◆①「此別当(浜川並松別当」、俗長野、姓石上也」(★宗長『東路の津登』)
    • ※久保田先生・・・別当は寺の管理の役人  俗姓・・・場所を表す。 姓・・・・物部氏→石上姓  長野氏は滅んだので、資料が少ない。
    • ◆②「上野国長野信濃守所望、利根川近き人在原氏の人になん」 (★体光句集『石苔』)
    • ※久保田先生・・・在原と称したのは、自分を高く見せる手段であったのでは、なかろうか?在原業平は平城天皇の子孫だからである。
    • *近藤義雄先生・・在原姓と考えている。石上は、奈良の石上神宮の末裔である。
    • ★箕輪初心・・・石上神宮には、上野国に子孫が行った記録がない。と言われた。高崎の浜川運動公園には布留という地名があるが、・・・
    • ◆③建久3年(1190)12月「上野国留守所下文」・・・「目代左衞門尉藤原」「惣検校石上」「散位石上」 らが、榛名寺領への健児(こんでい)・検非違使(けびいし)の入部を止める。」 榛名神社文書
    • *近藤義雄先生・・・藤原某の所領で・・・現地に、№2の石上&№3の石上が来た。しかし、2年後の鎌倉幕府の成立に伴い、石上は無用の長物になった。(★近藤義雄先生)

  • ★★★久保田先生の新説
    • 「2年後の鎌倉幕府の成立に伴い、石上は無用の長物になった。(★近藤義雄先生)という解釈ではない。直接、近藤先生の名前を挙げているわけではないが・・・・。
    • ①八幡庄・・・・・新田一族の私領=荘園 (新田義重→新田義兼・里見義俊・山名義範・豊岡??)
    • ②長野郷・・・・・摂関家:藤原氏の荘園で上野国最大(★上記に記載)高崎の浜川・烏川の左岸~倉渕~榛名神社~榛名山南部 ~箕郷町~・・・
    • ※「惣検校石上」・「散位石上」・・石上=長野氏はが現地で年貢を徴収する役人だった。国衙・・・・・・天皇家の所領。

  • (2)鎌倉時代の御家人:長野氏・・・
    • ※久保田先生・・・吾妻鏡に2回しか、登場しない。
    • ①正嘉2年(1256) 3月1日「永野刑部丞跡永野次郎太郎」・・(★吾妻鏡)
    • ※久保田先生・・・跡とは子孫の意味である。
    • *近藤先生は「出家し、坊主になった意味。」と言っていた。
    • ②健治元年(1275) 5月 「六条八幡宮造営注文」「長野刑部丞跡 八貫 」・・・8貫を寄付した。
    • ※久保田先生・・・刑部丞は6位であり、下級貴族である。しかし、寄進により、中央政府と結び着いている。

  • ※久保田新説②・・・箕輪長野氏は最初から、東山道よりではなく、板東の寺:長谷寺&水沢寺の間、すなわち、箕輪の西明屋か東明屋に住んだのではないか?
    • ★久保田先生には、近藤義雄先生や山崎一氏の説の高崎市浜川定住説がでてこないのが特徴である。
    • ★しかし、高崎市来迎寺には35基~36基の長野氏の累代の墓がある。ちなみに、近藤先生は、無用の長物になったので、東山道沿いの「寺内」=★高崎市浜川グランド南西200m付近が一番先に済んだと、3回の講演会で聞いている。この辺は、微妙なところであろう。
    • ★★個人的(初心氏)には、新田義貞の楠木正成攻撃に「物部連」が参加しているが、「物部連」は長野氏ではないかと考えている。石上は物部氏の末裔だからである。

  • (3)室町時代初期の長野氏=上州白旗一揆の有力構成員
    • ★久保田先生の説・・・南北朝に長野氏はどう関与したか不明としながらも、長野氏の勢力は弱くなった。・・・次第に管領:上杉氏に従属し、勢力を盛り返し、上州白旗一揆の有力構成員びなった。
    • 観応年間(1350~1352)観応の擾乱・・・南北朝時代の室町幕府の内訌。足利政権だけでなく、南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの争いになった。
    •    足利尊氏 VS 弟:足利直義+新田義興
    • 今川範国施行状:鎌倉市立図書館所蔵文書新田義興側の榛名山座主:快尊&忠尊が更迭→鶴ヶ岡八幡宮の「頼院」が榛名山座主になった。(★今川範国施行状:鎌倉市立図書館所蔵文書)(★頼院???)
    • 応永3年(1397)幕府管領:斯波義将よしまさ施行状:上杉家文書 「上野国鳥屋郷(とや)、南雲、長野郷、八幡荘、春近領、ならび同国道珎跡所々事、任去年七月廿四日安堵、被沙汰付上椙安房守憲定代之様、可有る申沙汰之由、所被仰下也、?執達如件 応永三年七月廿三日 沙弥(押印)・・(斯波義将)上椙中務少輔入道殿(上杉朝宗)」(★幕府管領:斯波義将よしまさ施行状:上杉家文書)
    • つまり、長野郷内西芝村、東荒浪村、箕輪本郷賀嶋左衞門太郎跡」などが上杉朝宗は、所領となった。現在の高崎市浜川、高崎市旧榛名町本郷である。
    • ★実質的な在地管理は長野氏にゆだねられたのであろう
    • 応永10年(1404)上杉憲定が「西柴半分」を鎌倉「明月院」に寄進した。(★明月院文書)・・・箕郷町誌
    • 応永23年(1417) 「寄進明月院・・長野郷内簸輪本郷村駕島左衞門太郎跡が寄進した。  前安房守憲基(押印)」(明月院文書) 山内上杉の上杉憲定の子は憲基である。(★明月院文書)
    • ★簸輪=箕輪で、西柴や本郷を、足利氏満が中興した明月院に寄進したのである。個人的には、西柴や本郷の東は現在の高崎市浜川と高崎市箕郷町生原・上芝である。
    • ①永享13年(1441) 『結城戦場記』「上州一揆分取頸・・・長野周防守・長野宮内小輔相討頸・・不知名字多賀谷彦太郎頸・臼井五郎頸、彼の二ッは、長野左馬助取之・・・」
    • ※久保田先生説・・・一揆は武士のものであり、「強い者に就く。」というものである。百姓一揆は後のもので、命のやり取りを意味していた。★思わず、そうなのか?

  • (4)室町時代の「享徳の乱」時代の長野氏
    • ①文明3年(1472)9月17日の足利義政の文書 「足利義政御内書」・・
    • 「小幡右衞門尉とのへ長野左衞門尉とのへ」
    • ※久保田先生・・・長野氏は上州の代表になっていた。
    • ★群馬県史のこの辺を書いていたのは確か、久保田先生だった。もめたんでしょうね。たぶん?????近藤義雄先生 VS 峰岸純夫先生 VS 久保田順一先生。「たぶん、無茶苦茶で、喧々がくがくと想像できる。」
    • ②文明9年(1477)「長野左衞門為業」武蔵針谷原の合戦で死亡。
    • 五月八日、・・・山内・河越(扇谷)の同心なり、・・・山内には大石源左衛門尉討ち死に、長尾景春には、長野左衞門(為業)討ち死に、・・・・(★松陰私語)
    • ③永正元年(1504) 武蔵立川原の戦い「長野孫太郎房業、上杉顕定に従い、戦死・・・」(★松陰私語)
  • (5)「享徳の乱後」の長野氏の分立
    • ???年、「実相院諸国旦那帳」「上野国まえはし殿 名字なかのと御なのり候えども、いその上氏也、箕輪殿・大こ殿・・」 (★那智大社文書)
    • ※久保田先生・・・熊野神社が有力であった。伊勢神宮はそれから後の時代である。
    • まえはし殿・・・厩橋長野氏(宮内小輔の冠途・・)
    • みのわ殿・・・・箕輪長野氏、庶流に室田長野氏(★久保田先生)
    • 大こ殿・・・・大胡長野氏(左馬介の冠途、厩橋長野氏の連枝)
    • ※久保田新説③長野宮内少輔系方業などの厩橋が本家ではないか?・・・那智大社文書には長野3家「まえはし殿、箕輪殿、大こ殿」とあるからである。
    • ★ちなみに、近藤先生:「浜川、室田、厩橋」の3家である。
    • 高崎市史、飯森先生は、4家「浜川、室田、厩橋、大胡」である。
    • 飯森先生も久保田先生も厩橋長野氏が本家と考えている。しかし、飯森先生は、「長野業政=長野方業である。」と考えている。久保田先生も一時、そう考えていたが、断言はしていない。
    • ★棟冶ちゃんが毎日想像している事。長野乙業・隆業系の嫡流長野左衛門尉為業は、景春の乱時に厩橋へこもっていた。負けて尚業が上杉家執事となり宗家の座が移った。為業の孫か曾孫である方業(業政)が箕輪宗家を継ぐ。めでたし目出度しと言う物語。きっと順一先生が叶えてくれるきっと・・・
 

【3】戦国時代・・・箕輪長野氏の歴代とその立場

  • ※長野系図・・・長野稔氏系図を採用。★長野氏系図は実は16~17あるのだ。17番目は「元総理大臣:羽田孜氏の関係の系図である。」

  • (1)長野乙業
    • ※久保田先生・・・「長野氏の系図:長野稔系図・・・」「伊勢国より来て上野国群馬郡長野郷箕輪に在住す、浜川村 来迎寺に葬らる。」とある。
    • ※久保田先生・・・※信憑性に欠ける。
    • ★箕輪初心調べ・・・伊勢長野氏の末裔は戦国時代に織田信雄に滅ぼされ、伊勢の津付近を乗っ取られた。(★織田信雄の生涯)その末裔が井伊直弼の側近:長野主膳である。(★彦根城博物館の学芸員より)
    • *近藤義雄先生・・寺内館→隆業館(乙業父の館)→乙業館→箕輪城を築城という説を採っている。
    • ★伝乙業館は、かみつけの里の二子山古墳の井野川を挟んだ火薬工場の敷地内にあるのだ。しかし、砦跡はあるのだ。土塁がみえちゃうのである。・・・井野川の洪水で流れは変わっていても、一部に遺構が残っているのだ。

  • (2)長野業尚=長野尚業
    • 文亀3年(1501) 長年寺(室田)を開基。伊予守、または信濃守と称す。憲業の父。長野氏系図には、鷹留城を築くとある。箕輪城も築くともある。
    • ※久保田先生・・鷹留城→箕輪城に行った可能性もある。信憑性が高い。

  • (3)長野憲業
    • 永正9年(1512) 長野憲業壁書(★長年寺文書)
    • 一、
    • 一、
    • 一、
    •   前伊予守憲業(花押印)
    • ※久保田先生・・信憑性が高い。制札のような物で、支配者デビューを意味している。伊予守・・・自称。自分で勝手に名乗っている。
    • 永正10年(1513) 長野憲業立願状写(榛名神社文書)大戸要害令落舎、憲業属本意候者、百疋之下地お、・・・(後略)・・・末代可奉寄進候 奉懸 巌殿院
    • ※久保田先生・・・(現東吾妻の)大戸城を攻め落とし、憲業の本意に属しそうらえば、百疋=1000文の土地=お金をあげます。・・・末代まで寄進奉りべくそうろう、巌殿院・・・榛名神社も神仏習合である。

  • (4)長野方業
    • A大永4年(1524)「徳雲軒性福状」(上杉文書)・・・
    • 久保田先生・・・10年前に発見された文書  密書で10cm×15cm位の大きさ 総社城の徳雲軒=家老クラスが長野方業にあてた密書  其夜可被仰付事 
    • 一、彼のくるわへ引入れ申時、らんはうの事、
    • ※久保田先生・・総社城の曲輪に引き入れ申す時、 乱暴はしないでくれ。
    • 一、其身討捕申時、おのおのたしなみの事、
    • ※久保田先生・・総社城の誰かの身を討捕し申す時、各自、たしなみ=武器をきをつけてくれ。つまり、夜なので、長い槍などは使えない。
    • 一、
    • 一、
    • 一、まやはし殿御人数いそき東口へ・・・
    • 一、
    • 12月2日
    • B、群馬県史の「徳雲軒性福宛長野方業書状」・・・・略・・・11月17日 左衞門太夫方業(花押) 徳雲軒
    • ※久保田新説③・・・長野方業=業政は同一人花押から推測できる。と、おっしゃっていたが、今回は久保田先生は、言葉を濁している。「・・・という説もあるが。」とおっしゃった。つまり、群馬県埋蔵文化財:飯森康広氏の考えと近かったが、必ずしもそうではない。」というのである。
  • ★★ 箕輪初心★飯森康広先生「長野業政=長野方業」 ★★
  • ◆◆ 箕輪初心●吾妻の城・・飯森氏の調査6城 ◆◆
  • ◆◆ 箕輪初心●箕輪城関係の本4冊飯森氏 ◆◆
  • ◆◆ 箕輪初心●三島根小屋城&浦野一族 ◆◆

  • 飯森康広先生説 [#p019837d]
  • 飯森説の系図
    • ①浜川・・・長野為兼=為業   
    •          ↓
    • ②室田・・・   業尚=尚業→憲業・・・・・業氏?
    •                ↓
    • ③箕輪           方業=?・・・業政→氏業
    • ④厩橋:長野周防守?・宮内少輔→賢忠→・・・・・道賢
    • 「長野左衞門尉為兼=長野左衞門尉為業である。」

  • ★箕輪初心私見「乙業・業尚父子と為兼・房兼とは、同時代の人物である。長野氏には、2つの流れがあったのではないか?」と考えている
    • ①山内上杉氏に仕える「本家筋属系」・長野乙業・隆業・業尚系が長野氏の「業」がつく主流。
    • ■嘉吉元年(1441) 結城の合戦の終結 長野周防守・・「守」がつくので本家筋。乙業では?
    • 長野乙業の子:業尚(尚業?)は、関東管領:上杉顕定の執事に抜擢。
    • ★箕輪初心私見「1位長野業尚 2位小幡一族、いじけた長尾一族は足利成氏に味方した。」
    • 長野業尚は浜川から下室田に居を移し、鷹留城を築いたと伝えられている。しかし、長野業尚に関しては系図以外にその存在を語る確実な史料はない。(★群馬県史)
    • ②山内上杉氏に仕える一揆旗頭「分家系」・・・長野為兼・房兼系の長野氏勢力→1477年戦死・1504年戦死で没落?将軍足利義政から御内書を発給された長野左衛門尉は為兼。

  • ※峰岸純夫先生の説・・・「兼」→「業」への下克上説
    • @永享10年(1438)に起った永享の乱後の結城合戦(1440)。長野氏は上野一揆の一員として、周防守・宮内少輔・左馬介の3名が参陣し、結城方武士の首をとる戦功をあげた。
    • ★箕輪初心私見「長野周防守は、長野乙業(守がつくので本家筋)ではないかと考えている。
    • 長野宮内少輔は厩橋系の2代目(★「前橋の風土記」)

  • ※近藤義雄先生説
    • 長野氏は上野一揆として編成。 関東管領の上野守護山内上杉氏の軍事力の一翼を担っていた。

  • (5)長野業政
  • A、「そう林寺伝記」・・・★子持の長尾一族 長尾孫四郎景誠は、長尾景英の嫡男である。母は長野信濃守業正の姉である。・・・

  • B、天文4年(1535)「其制札写」(榛名神社文書)
    • 一、喧嘩之事・・・・・・榛名神社・社家町で喧嘩をするな。
    • 一、相伝之事・・・・・・拐かし禁止
    • 一、押買狼藉之事・・・・安く買うことを禁止する。
    • *久保田先生と近藤先生の解釈は②③が違う。

  • C、武田晴信書状写(極楽院文書)・・★高崎市箕郷町和田山
    • 笛吹峠=碓氷峠の戦いの時、上杉に付かなかったことを小幡尾張守・真田弾正忠から聞いています。だから、私の味方になりませんか?・・・と武田信玄が誘った。11月15日

  • D、永禄4年(1561)「近衛前嗣書状」
    • ・・・略・・・・
    • ミのわハわつらい候よし申候・・・後略・・・6月10日

  • E,永禄4年(1561)6月21日他界
    • 「木彫背銘」(長純寺所蔵)・・・★高崎市箕郷町原山

  • (6)長野氏業 [#vf0f351a]
  • 永禄9年(1566)「長野氏業書状」(奈良原文書)
    • 箕輪城落城により、氏業は討ち死に。
    • ※久保田先生新説④・・・氏業の「氏」は北条氏から貰ったものではないだろうか?
 

【4】箕輪城の築城

  • なぜ、西明屋が選ばれたのか?
    • ①「宿」があった。
    • ②安国寺利上塔の造営・・・足利尊氏の供養塔=上杉家との関係
    • ★ちなみに、箕輪小学校東の椿山にあったが、高崎に移された。西明屋の徳田屋敷の伝承
    • ★ちなみに、箕輪小学校の西
    • ③中世の石造物の存在 箕輪城御前曲輪の井戸の石 康元元年(1252) など

  • ★近藤先生、山崎先生、飯森先生、久保田先生、ありがとうございました。


 

  • 最終更新:2016-10-08 23:27:49

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