上野3碑と多重塔

上野3碑と多重塔

  • 上野3碑と多重塔・・・★上毛3古碑を年代順に追うと、以下のようになる。
    • ①681年の高崎市山名:山上碑・・・放光寺の僧:長利が、自分の系譜を記し、母の黒売刀自を供養したものである。
    • ②711年の高崎市吉井:多胡碑・・羊(ひつじ)という渡来人が東国移住し、 多胡郡を建郡・・・朝廷は羊に支配を任せる。
    • ③726年の高崎市山名:金井沢碑・・・・石碑を建てて神仏に誓った。=先祖供養の仏教碑なのである。群馬への仏教の伝来が東大寺・国分寺建立以前にあったことを意味している。
    • ④801年の山上多重塔(群馬県みどり市山上)道輪という僧が、朝廷や衆生の安楽のために法華経を安置する塔を建てたものである。平安時代初期の東毛ねの仏教文化伝来を知る上で、重要である。
   ★今回は4碑を1ヶ所にまとめてみた。
箕輪初心■山上碑・多胡碑・金井沢碑+山上多重塔より

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   (★高崎市旧吉井町の多胡碑)

  • ★関東ふれあいの道「石碑の路」=高崎散策路山名編へGo~~。「金井沢の碑~根小屋城址~山名城址~山ノ上の碑~山名八幡宮~(光台寺=山名義範館)~(木部館)~(北館=玄頂寺)・多胡碑」、新しい発見があるかもしれないよ。
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  • ■日本3古碑
  1)700年の栃木県の那須国造碑。
  2)711年の 群馬県の多胡碑。
  3)762年の宮城県の多賀城碑。

 

  • 【1】●▲■ 山上碑 ■▲●
 
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    【銘文】
   辛己歳集月三日記
   佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
   新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
   長利僧母為記定文也 放光寺僧

    【現代語訳】
   辛巳年10月3日に記す。
   佐野三家(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)
   の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。これが、新川臣(にっかわのおみ)
   の子の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である大児臣
   (おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である長利僧(ちょうりのほ
   うし)が、母の為に記し定めた文である。放光寺の僧。

    【解説】
   ①「辛已歳」は天武天皇10年(681)に建碑と考えられている。
    上野三碑の中で一番古い碑である。
   ②佐野三家は高崎市南部の烏川両岸(現佐野・山名一帯)に
    またがっていたとみられている。
    三家(みやけ、屯倉)は、6世紀~7世紀前半のヤマト政権の
    直轄領で、経営拠点である。
    (★)
   ③健守命が佐野三家の始祖に位置づけられている。
   ④健守命の子孫の「黒売刀自「(現前橋市富士見?)
    「新川臣」(現桐生市の新川?)の子孫の「大児臣」(現前橋市の
    大胡?)と結婚して生まれた子が僧:「長利」である。
   ③僧:「長利」放光寺に務めていた。
    「放光寺」の文字瓦は山王廃寺(前橋市総社町)から出土した
    ので、山王廃寺と推定されている。

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  • 【山上古墳】
   山上碑は隣接する山上古墳の墓誌であると考えられている。
   放光寺の僧侶長利(ちょうり)が母の黒売刀自(くろめとじ)のた
   めに墓を建てたことがわかる。
   直径約15mの円墳で、精緻な切石積みの横穴式石室を持っている。
   古墳としては終末期古墳の7世紀後半の築造と考えられている。
   築造時期は、山上碑よりも20~30年古いため、黒売刀自の父の
   墓として造られ、後に黒売刀自を追葬したものと考えられている。

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   大正10年(1921) 国の指定史跡。
   昭和29年(1954)国の特別史跡「山上碑および古墳」に指定された。
 

  • 【2】●▲■ 『多胡碑』 ■▲●
   箕輪初心■群馬「多胡碑シンポジウム」
   上毛三碑(①多胡碑、②山上碑、③金井沢碑)+④山上多重塔には、
   見学に行っている。しかし、内容は未だに把握していない。多胡碑
   シンポジウムは、4人の大先生が講演会をした
   ★結果的には「5C~8Cにかけて、群馬は韓国・中国からの
   渡来人の宝庫で、朝廷の東国支配の拠点であることが分かった。」

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    【銘文】 多胡碑・・・シンポジウムの冊子P48より
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   弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
   良郡并三郡内三百戸郡成給羊
   成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
   宣左中弁正五位下多治比真人
   太政官二品穂積親王左太臣正二
   位石上尊右太臣正二位藤原尊

    【読み方】
   弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘
   良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて
   多胡郡と成せ。
   和銅四年三月九日甲寅に宣る。
   左中弁・正五位下多治比真人。
   太政官・二品穂積親王、左太臣正二位石上尊、右太臣正二
   位藤原尊。

    【現代語訳】
   朝廷の弁官局(べんかんきょく)からの命令があった。
   上野国の片岡郡・緑野郡(みどのぐん)・甘良郡(かむらぐん)
   の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊(ひつじ)という
   人に支配を任せる。
   郡の名前は多胡郡としなさい。
   和銅4年(711年)3月9日の甲寅(きのえとら)の日に宣(の)
   べられた。
   左中弁正五位下:多治比真人(たじひのまひと)の宣旨である。
   また、多胡郡を作ることを決めたときの太政官は
   二品(にほん)位:穂積親王(ほづみのみこ)、
   左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様、
   右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様。  
(★多胡碑博物館の説明書き)

  • ●『東国における渡来人の位相と多胡郡の建郡』 
   土生田純之(はぶた よしゆき)氏・・・大阪出身で、専修大学教授。
   ①はじめに・・・シンポジウムの意図。パネラー紹介。
   ②東国における渡来人の位相・・・古墳の種類
   ③西毛におけるその後の倭人・・・高崎剣崎西遺跡
   ④欽明~推古朝期における西毛の威信財・・・古墳出土品は朝鮮・中国製。
   ⑤考古学からみた多胡碑建碑の問題・・甘良(かむら)=加羅=加那
   ・西毛&東毛 ・多胡は多くの渡来人の意味。・新羅人は「吉井」姓

  • ●『多胡碑の輝き』
   平川南氏・・山梨県出身。多賀城発掘→国立歴史民俗資料館館長。
   ①上野国の広域行政・・・14郡102郷で、大国。
   ②西部6郡の特質・・・・多胡(多い外国人)
    胡麻(ごま)・胡椒(こしょう)・胡桃(くるみ)=呉桃:中国語
    胡(ご)・呉(くれ)・漢(かん)・韓(から)で表記。
    先進的技能が多胡郡に集中。
   ③多胡郡建郡・・・3郡6郷の異例の措置。
   ④日本古代の古碑・・・東山道で北上。
   ⑤多胡碑の輝き・・・・・東国の拠点。

  • ●『渡来人の東国移住と多胡郡建郡』
   亀田修一氏・・・福岡県出身で、岡山理科大学教授。
   ①はじめに・・・屯倉と渡来人
   ②西国における渡来人の移住・・・日本最大:造山古墳
   ③上野地域における渡来人の移住と多胡郡建部」
   ○おわりに・・・・大和以外では吉備(岡山)、上毛野国(群馬)最先端の国。
   ★岡山県の吉備の古墳の説明が85%。でも、3位の造山古墳近辺
    を散策したことがあるので、全然抵抗がなかった。

  • ●『多胡郡成立前夜ー古墳時代の多胡郡域』
   右島和夫氏・・群馬県境町→太田高校→群大→県文化財審議委員。
   ①はじめに・・7Cの日本  西毛&東毛は古利根川が境。
   ②群馬の古墳時代の概観・・・★長すぎ。3分の2が古墳紹介。
    3鏑川の古墳・・・東山道との関わり
   ④多胡郡の古墳・・山名古墳・矢田古墳・神保古墳など
   ⑤まとめ・・・・・多胡碑は古墳の渡来人の技術の結晶。 
   ★右島先生は群馬の古墳の説明が80%であった。
   ★群馬の古墳に関わる渡来人の力は毛野国にずっとあったらしい。

  • ●「高崎千年物語」(若狭徹著)1000円・・★分かりやすい。
   「羊」は、「羊太夫藤原宗勝」のことで、秩父で和銅を発見
   した功績が認められたことから、多胡郡を賜ったそうだ。
   (★若狭先生の「高崎千年物語などより)

   ・多胡碑博物館の写真集 400円・・・★安い。

  • ●シンポジウム  
   司会:土生田 パネラー:平井・右島・亀田。
   1時間半の内、1時間聞いた。
   ここでは、多胡碑の歴史的価値や意義などの検討が行れた。
   ★やっとテーマの話が話し合われて、よかった。

  • ●高橋道斎・・・江戸中期、多胡碑を世間に広めた人物
   享保3年(1718)下仁田で生まれた。
   陽明学者、書道家、俳人である。
   陽明学を中根東里・井上蘭台に学んだ。
   書は唐様の書家:高頤斎に学んだ。
   俳人・・西毛俳壇の中心人物。芭蕉句碑を建てた。
   高橋道斎が興味を持ったのは多胡碑の書体=丸みを帯びた楷書である。
   六朝?中国北魏?ではないかと考えたそうだ。そして、上野国に何故
   こんな文字を書く人がいたかという疑問を持った。道斎は帰化人の文化
   ではないかと考えた。多胡碑(高崎市吉井町)の歴史的・書的価値を
   見出し広く世に紹介し、多胡碑研究の出発点となった。道斎の功績は
   大きい。   (★下仁田町教育委員会)
   
   ★高橋道斎の墓下仁田町下仁田の西山常住寺境内にある。
   昭和38年群馬県指定文化財
   高橋道斎の弟子の市河寛斎は南牧出身で、「幕末三筆」と呼ばれた。
   陽明学は王陽明の「知行合一」などを説く儒教の一派である。
   有名な陽明学者として中江藤樹、熊沢蕃山、大塩平八郎、吉田松陰、
   高杉晋作、佐久間象山が有名である。
     

  • 【3】●▲■ 『金井沢碑』 ■▲●
   箕輪初心●群馬金井沢の碑=群馬の地名の由来
   古碑は群馬県に4つある。
   ①山ノ上碑 ②金井沢碑 ③多胡碑 ④山上多重塔である。
   金井沢碑の碑文には、『神亀3年(726年)』に建立の銘がある
   ので、奈良時代のことである。
   また、『上野國群馬郡』とあるので、初の文字による「群馬」とい
   うことになる。そして、『下賛』(しもさぬ:現高崎市下佐野町)
   の朝廷の屯倉の関係者が先祖・両親を供養する為に建碑した』
   とあるので、群馬への仏教の伝来が東大寺建立以前にあったこ
   とを意味している。→貴重な文化財なのである。

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    石碑(ガラス越しに撮影)
 
  • ■訪問記・・・平成20年7月? 
   金井沢の碑の場所は現高崎市山名町金井沢2334である。

  ・高崎駅方面から南西部の寺尾散策に出かけた。
   新田義重の築城の茶臼山城(伝)見学後、金井沢の碑に向かった。
   寺尾~藤岡線の金井沢川手前を右折した。
   金井沢川にかかる小橋を渡り、さらに金井沢川上流へ向かう。
   再び金井沢碑入口の案内がある。
   金井沢碑入口の案内と道が分岐する。
   トータルで、川伝いに500m程進むと、駐車場があった。
   10台ってとこかな?
   金井沢碑の覆屋があった。
   金井沢碑は覆屋の中にあり、ガラス窓越しに見ることが出来る。 

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    【碑文】の写し・・・多胡碑博物館のパンフレット&高崎カルタ   
   上野国群馬郡下賛郷高田里
   三家子■為七世父母現在父母
   現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加
   那刀自孫物部君午足次蹄※刀自次乙蹄※
   刀自合六口又知識所結人三家毛人 
   次知万呂鍛師礒マ君身麻呂合三口
   如是知識結而天地誓願仕奉
   石文
   神亀三年丙寅二月廿九日   
    (■は欠字  蹄の元の文字は「馬+爪」)
 
  • ■「3月6日
    【銘文】・・・多胡碑シンポジウムP48より
   上野國群馬郡下賛郷高田里
   三家子■為七世父母現在父母
   現在侍家刀自■■(他田力=他男)君目■(=頬)刀自又児加(=加力)
   那刀自孫物部君午足次日 馬爪 刀自次乙■ 馬爪
               (※馬爪=ひづめ・・・で一字)
   刀自合六■又知識所結人三家毛人
   次知万呂鍛師礒ア君身麻呂合三■
   如是知識結而天地誓願仕奉
   石文
   神亀三年丙寅二月廿九日

    【読み方】
   上野国群馬郡(くるまごおり)下賛郷(しもさぬきごう)
   高田里(たかだのさと)の三家子孫(みやけのしそん)が、七世の父母
   現在の父母の為に、現在、侍(はべ)る家刀自(いえとじ)の他田君
   目頬刀自(めすらとじ)・又児加那刀自(かなとじ)・孫の物部君午足
   (もののべのきみうまたり)、次に馬爪刀自(ひずめとじ)・次に
   馬爪刀自(おとめひずめとじ)の合わせて
   六■(ろくにん)、又知識(またちしき)結びし所の人、
   =三家毛人(えみし)、
   次に知万呂(ちまろ)・鍛師礒ア君身麻呂(かぬちいそべきみみまろ)、
   合せて三口、是(こ)の如く知識を結びて、しこうして
   天地に誓願し仕え奉る石文(いしぶみ)。
   神亀3年丙寅(ひのえとら)二月廿九日
 
    【現代文訳・・シンポジウム&多胡碑博物館】
   上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子■と他田君目頬刀自と
   その娘加那刀自が、孫の物部君午足ら3名を加えた計6名が行
   なう先祖供養のための請願に、願主と同族3名の寄進者を加え
   て合計9人の人々が、神亀3年(726)2月29日に石碑を
   建てて神仏に誓った。

  • ■金井沢の碑の価値
   ①では、なぜ特別史跡なのだろうか?
    奈良時代の開始710年以前に建碑された石碑は日本中に
    約10例しかない。
    山上碑・多胡碑はそれに該当するのである。
    飛鳥時代に中国大陸の思想を取り入れ石碑を建て始めた頃の石碑
    なのである。

    でも、金井沢碑・・・神亀3年(=726年)2月29日である。
    しかし、石碑を建てて神仏に誓った。=先祖供養の仏教碑なのである。
    『知識』(造寺・造仏に協力する人々)を結び、天地に誓願して建てた。  
    715年から740年頃までの郷里制の制度下にあったのである。
    754年、日本中に国分寺を建設する詔が発せられて、
    →仏教文化が日本中に行き渡たった。→仏教思想が浸透したのである。
    →石碑を建碑する文化が定着した。
    ★従って、東大寺や国分寺以前の仏教文化の信仰が伺えるのである。  

   ②9人の人物
    ○→○→①三家子■
      =三家(=屯倉)の娘:③加那刀自
      ②他田君目頬刀自 ↓ ・・・④物部君午足
              ↓ ・・・⑤(物部君):ひづめ刀自
              ↓ ・・・⑥(物部君):若ひづめ刀自
   
     ⑦三家毛人
     ⑧(三家)知麻呂
     ⑨鍛師:礒部君身麻呂・・・安中市磯部       

    碑文中の9名のうち5名(②③④⑤⑥)が女性である。
    ★当時の家族が女系社会であったことが分かる。

 
   ③上野国群馬郡下賛郷高田里
   ★「群馬(くるま)」の地名の発祥=一番はじめを意味する。

  • ■参考文献
   ①多胡碑シンポジウムの冊子
   ④「高崎千年物語」(2011年3月1日の発刊)・・・
   ★若狭徹氏の本が最高だ。
    こんな分かりやすい高崎の古墳や史跡の説明書があるのか?と思った。
    →難しい内容をさらりと簡単に説明している。
    私は若狭先生の信奉者になった。
    若狭先生を群馬町教育委員会時代から顔は見ている。
    そして、話の何回かしている。箕輪城説明会・
    かみつけの里の「大王の祭り」でも話した。
    ブログの許可もえた。
    でも、こんなロマンのある凄い人だったのかと思った。
 

  • 【4】●▲■ 『山上多重塔』 ■▲●
山上多重塔(国重文)=塔婆(石造三層塔) 桐生市新里町山上2555
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    ○「塔婆(石造三層塔)」
 
 

  • ○解説文の内容
    【銘文】
   碑文が45字で刻まれている。・・・★書けない。 
 
    【訳】
   「絶えることのない地獄の苦しみから、全てのものを救い、永く安らぎ
   の地へ往くことができるように、ここに如法経を安置する塔を建てた。
    ・・・・(省略)・・・
   これは小師である道輪が関わった。」  (★現地説明板)
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    【現地解説板】 
   延暦20年( 801)、道輪という僧侶が法華経を安置するた
   めに建立した石製の塔である。塔の四面には、朝廷・神祇
   ・父母・衆生の供養のために建てたとする旨の碑文が45
    字で刻まれている。

   塔は高さ1.85m、安山岩製の三層構造で朱塗りの痕跡が
   ある。塔身上部には経典を収めたとされる深さ20㎝ほど
   の窪みがある。・・・・
 
    yamagami05.jpg
    ★赤城山を望む。・・・「裾野は長し赤城山」 雄大なビューポイントである。
 

  • 最終更新:2016-05-31 14:57:16

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