世界記憶遺産を目指す上毛3碑

世界記憶遺産を目指す上毛3碑

  • 世界記憶遺産を目指す上毛3碑・・・熊倉先生は「趣旨は山上碑・多胡碑・金井沢碑を世界記憶遺産にしましょう。そのためには、上毛3碑を読み、内容を理解し、・・・。」と おっしゃった。はじめにいきなり、「5分で碑文の漢字を書いてね。」
から始まった。3碑について、熊倉先生の独自の解釈は非常に納得しえる。オリジナリティがあって感動した。山上碑・金井沢碑は賛同者が多いだろう。しかし、実は私も以前から思っていた熊倉先生の「給羊」説=「羊を給う=動物の羊を給わった。」説は反論や批判の多いだろう。旧吉井町などの人は漫画「吉井の歴史」などで「羊」は多胡郡を任された人間であり、部下は腋から羽が生えていて、飛ぶがごとき超能力を持っていたという羊太夫伝説を信じている?信じ込まされている?のである。また、尾崎先生の「羊」人名説を多くの高崎市民や国民が有力説と思っている。熊倉先生の戦い=定説を覆す旅が始まった。歴史学者&文学者って・・・大変だ。
箕輪初心:生方▲熊倉浩靖先生【世界記憶遺産を目指す上毛3碑】&新解釈 より
 
    kumakura01.jpg
 

 ★上毛3古碑を年代順に追うと、以下のようになる。

  • 【1】681年の高崎市山名:山上碑
    yamanouehi03.jpg
 
    【銘文】
   辛己歳集月三日記
   佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
   新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
   長利僧母為記定文也 放光寺僧

    【現代語訳】
   辛巳年10月3日に記す。
   佐野三家(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)
   の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。これが、新川臣(にっかわのおみ)
   の子の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である大児臣
   (おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である長利僧(ちょうりのほ
   うし)が、母の為に記し定めた文である。放光寺の僧。

 ○通説・・・放光寺の僧:長利が、自分の系譜を記し、母の黒売刀自を供養したものである

▲熊倉先生の新説や解釈や価値観
    kumakura02.jpg
     (★熊倉先生の問題集)・・・★目茶むずい。
   ①辛巳歳・・・完全な形で存在する日本最古の石碑
   ②文字を並びのままに訓読みできる→日本最古の日本語の石碑
   ③日本最古の墓碑あるいは供養碑
   ④母の強調した石碑・・・★母系社会ってことが分かる石碑
   ⑤オール群馬を表した石碑・・佐野・新田・大胡・山名・

 

  • 【2】711年の高崎市吉井:多胡碑
    tago16.jpg  tago01.jpg
 
    tago55.jpg
    通説・・・羊(ひつじ)という渡来人が東国移住し、 多胡郡を建郡
    ・・・朝廷は羊に支配を任せる。
 
  • ▲熊倉先生の新説や解釈や価値観

    kumakura02.jpg
 
    (★熊倉先生の問題集)・・・★結構書ける。
   ★つまり、後世の人でも読める文字なのだ。
    ここに熊倉先生は重要性を見いだしている。
   ①日本3古碑・・書として優れた石碑・・・
    沢田東郊の拓本→朝鮮通信使→中国の楊守敬の世界的
   ②『続日本紀』の和銅4年3月の朝廷命令の「多胡郡建郡碑」であるが、
    建郡した人間が積極的に解釈して「文面を考えた。」石碑。
    地域の人々の目線で書いた石碑と価値を強調している。

    ◆◆◆『続日本紀』◆◆◆
   「和銅4年3月の辛亥の条の読む下し文面
   熊倉先生の符の習わしから推定・・符の習わし
   太政官 上野國の司に符す。・・・※熊倉先生の推測
   「上野の國甘良郡(かんらこおり)の織裳(おりも)・韓級(からしな)
   ・矢田・大家・緑埜郡(みどのこおり)の武美・片岡郡の山等(現山名)
    六郷を割て(さいて)、別に多胡郡を置く。」・・・文面
    符到らば、奉行せよ???・・・★分かりません。※熊倉先生の推測
    左中辨 正五位下 多治比真人三宅麻呂  ????
    和銅4年3月の辛亥          ????
    鈴剋 

    ◆◆◆『多胡碑』◆◆◆
    【読み方】
   弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘
   良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて
   多胡郡と成せ。
   和銅四年三月九日甲寅に宣る。
   左中弁・正五位下多治比真人。
   太政官・二品穂積親王、左太臣正二位石上尊、右太臣正二
   位藤原尊。

    【現代語訳】
   朝廷の弁官局(べんかんきょく)からの命令があった。
   上野国の片岡郡・緑野郡(みどのぐん)・甘良郡(かむらぐん)
   の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊(ひつじ)という
   人に支配を任せる。
   郡の名前は多胡郡としなさい。
   和銅4年(711年)3月9日の甲寅(きのえとら)の日に宣(の)
   べられた。
   左中弁正五位下:多治比真人(たじひのまひと)の宣旨である。
   また、多胡郡を作ることを決めたときの太政官は
   二品(にほん)位:穂積親王(ほづみのみこ)、
   左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様、
   右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様。  
(★多胡碑博物館の説明書き)


  • 熊倉先生の根拠は6項目ある。
   ・理由①『続日本紀』では、六里
    →『多胡碑』では、300戸(1里=1戸)
   ・理由②『続日本紀』では、「六里を割て・・別の郡を置く」
    →『多胡碑』では、「300戸併せて・・郡を成す」
   ・理由③『続日本紀』では、符式が厳格に決まっている。
    →『多胡碑』では、符の発給者・年月日の順が逆
   ・理由④『続日本紀』では、発給年月日は和銅4年3月6日の辛亥
    →『多胡碑』では、発給年月日は和銅4年3月9日の申寅
   ・理由⑤『続日本紀』では、発給者:公卿(太政官・左大臣)がない。
    →『多胡碑』では、多胡郡を作ることを決めたときの太政官は
    二品(にほん)位:穂積親王(ほづみのみこ)様、
    左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様、
    右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様。
   ・理由⑥『続日本紀』では、「給羊」の記載なし
    →『多胡碑』では、「給羊」の記載あり

   ③熊倉先生は「羊」は動物の「羊」であるとう新説を打ち立てた。
    ★私も以前はそう思っていた。 
    「給羊」・・・羊を給うの意味になる。でも、現実には失敗して、
    下野に羊を賜った。
    下野の三毳(毛が3個で「かも)地区(現栃木県栃木市岩舟町下津原
    三毳)では羊毛から毛氈が作られていた可能性がある。
    多胡郡・・・羊毛の産地として、氈を作らせたかったのではないか
    と解釈している。
   ・推古7年(599) 9月 『日本書紀』
    「百済がラクダ1匹、ロバ1匹、羊2頭、白いキジ1隻を献上してきた。」
    ★熊倉先生・・・羊はオスメスの可能性がある。
   ・6C 『下野国で「計牟志呂(けむしろ)」という毛織物を織った。」
    この布は「之母都家野加毛志加(しもつけのかもしか)」とも書
    かれていた。使ったのは牛科の羚羊(カモシカ)であった。
    欽明天皇に日本初の羊の毛を最初に織物を献上したのである。
   ・弘仁11年(820)『日本紀略』
    の時代、「新羅の李長行が(嵯峨天皇に)羊2頭、山羊1頭などを献上
    した。
    ★ちなみに館林多々良中学校の裏山は毛氈山という名前である。

  • 熊倉先生は「給羊」は羊をいただいた。であろうと考えている。
    ★私も同感である。
    
   現在、尾崎喜左雄氏(元群馬大学教授)が唱えた人名説が最有力となっ
   ている。尾崎氏は「羊」とは吉井在住の新羅系の渡来人豪族の名前であ 
   るとと考えている。これが現在まで続いている。
   羊人名説の根拠は①羊太夫伝説&②国分寺出土瓦「羊子三」
   である。しかし、「羊子三」羊=辛級の新羅人:子午足とも考えら
   れる。吉井連=「新羅人子午足」であろうと熊倉先生は推測している。
   また、多胡碑は、吉井の人によって、羊太夫伝説の羊太夫の墓と信じ
   られ神様として祀られてきた。

   漫画「吉井の歴史」によると、
   江戸時代の羊太夫伝説によると、羊太夫が都へ日参するときの従者:
   八束小脛には羽が生えており、戦に破れた羊太夫は蝶に化して逃げると
   いう。羊太夫の家臣と朝廷討伐軍の戦いも記されている
   しかも、羊太夫の子孫:小幡氏説や羊太夫を誅伐した小幡氏説もある。
   吉井の方は子どものころから「羊太夫伝説」を信じている?信じ込ま
   されている?・・・・高崎の方・有識者から批判が出そう。非難ごう
   ごう・・・かな?熊倉先生、大変。
 

  • 【3】726年の高崎市山名:金井沢碑
    kanaizawahi03.jpg  kanaizawahi01.jpg
 
 通説・・・・石碑を建てて神仏に誓った。=先祖供養の仏教碑なの
       である。群馬への仏教の伝来が東大寺・国分寺建立以前にあった
       ことを意味している。
 
  • ▲熊倉先生の新説や解釈や価値観
    kumakura04.jpg
 
  • (★熊倉先生の問題集)・・・★5分で3つは無理。
   ①価値は行基の思想「大乗菩薩=ボランティア」をして下さった石碑。
    「知識を結びて・・」は瓦などのできる寄進を指す。
   ②知識を率いる人々を列記している石碑
   ③馬へんに爪で「ひづめ」と書かれている。
    蹄刀自=パソコンででないので・・・
    馬を=午を大切にした石碑
    馬は大切な物なので「ひずめ」という女の子の名前にした。
    文明の力だった。現在の車・トラック・・宝物なのだ。
   ④「群馬郡」 上に君、下に羊+郡   
    群馬の紋章。県旗に通ずる石碑。
   ⑤くるまの評(こおり)・・・大宝律令701年以前のことなので、
    701年以降となる石碑
   ★那須国造の碑も「評(こおり)」使用。

    yamanoue01.jpg  yuuhodou02.jpg
右側の遊歩道マップは、非常に美しい。その才能はうらやましい限りである

   ★関東ふれあいの道「石碑の路」=高崎散策路山名編へGo~~。
    「金井沢の碑~根小屋城址~山名城址~山ノ上の碑~山名八幡宮~
    (光台寺=山名義範館)~(木部館)~(北館=玄頂寺)・多胡碑」
    新しい発見があるかもしれないよ。
 
~~~熊倉先生の結論のみを書きました。
   許可してくださってありがとうございました。~~~~~~~
 

●世界記憶遺産(★ウィキペディアより)
   『ベートーベンの交響曲第9番』、フランスの『人権宣言』、オランダの
   『アンネの日記』、ドイツの『詩人ゲーテ直筆の作品等』など299件が
    登録されている。

●日本の世界記憶遺産
   ①2011年 山本作兵衛による筑豊炭鉱の記録画 ・・・福岡県
   ②2013年 慶長遣欧使節関係資料・・・・・・宮城県
    支倉常長像(慶長遣欧使節関係資料)
    ローマ市公民権証書(慶長遣欧使節関係資料)
   ③2013年 御堂関白記・・・・・京都府

●日本の世界記憶遺産2017年候補地
   日本UNESCO国内委員会は2017年のIACで登録を目指す2件を選出
   するために2015年3月2日~6月19日まで候補物件を公募していた。
   16件の申請があった。

●日本の世界記憶遺産候補地「上野三碑」
   Ⅰ、趣旨
     国特別史跡「山上碑」「多胡碑」「金井沢碑」の三碑=「上野三碑」
     をユネスコの記憶遺産登録実現に向けて、「上野三碑世界記憶遺
     産登録推進協議会」を設立し、官民一体で取り組みを推進する。
   Ⅱ、推進協議会
     地元高崎市を中心に、民間活動団体や企業、古代史研究家など幅広い
     メンバーを構成員とする。
  ●名誉会長:福田康夫(元内閣総理大臣)
  ●顧問:群馬県知事、高崎市長、群馬県議会議長、高崎市議会議長
  ●会長:横島庄治(上野三碑顕彰会会長)
  ●副会長:群馬県副知事、高崎市教育長、高崎商工会議所会頭
  ●委員
    <有識者>
   平川南(前国立歴史民俗博物館館長・人間文化研究機構理事)
   前澤和之(館林市史編さんセンター専門指導員)
   熊倉浩靖(群馬県立女子大学教授・群馬学センター副センター長)

    <地元住民代表>
   久保信太郎(初代多胡碑記念館館長)
   神保侑史(辛科神社宮司)
    <民間活動団体>
   堀越一郎(ひつじ大学運営委員会委員長)
   本城亮俊(一社:群馬県書道協会会長)

    <民間企業等>
   上信電鉄(株)、(株)上毛新聞社、高崎信用金庫、
   日本放送協会前橋放送局、東日本旅客鉄道(株)高崎支社、産
   (株)ヤマダ電機、(公財)群馬県埋蔵文化財調査事業団
   さらに、県民運動と推進サポーターとして活動に賛同する民間企業
   や県民の参加を募る。

   Ⅲ、設立記念総会&シンポジウムの開催
     協議会の設立を記念したシンポジウムを高崎市において開催する。
     「世界記憶遺産登録実現」をPRする。
     平成26年11月1日

   Ⅳ、上野三碑一般公開
     解説員とともに、三碑を見学することができるようにする。

     ★マムシ注意
    (★上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会Hpより引用)

     上野三碑を世界記憶遺産に申請 登録推進協

   Ⅵ、平成27年(2015)6月17日(水) 上毛新聞
     高崎市にある三つの古代碑「上野三碑」のユネスコの世界記憶遺産
     への登録を目指す「上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会」(横島
     庄治会長)は6月16日、三碑の文化的価値をまとめた申請書を
     ユネスコ国内委員会に発送した。横島会長らは多胡碑記念館で
     会見を開き、「郷土への誇りを再発見する機会にするとともに、
     東アジア文化交流の新しいメッセージを発信したい。」と期待を
     込めたメッセージを発表した。・・・
     (★上毛新聞) 
 

●日本の世界記憶遺産2017年候補地一覧:五十音順
   ① 伊能忠敬測量記録・地図(千葉県香取市)
   ②黄檗版大蔵経版木群(京都府宇治市、宗教法人萬福寺)
   ③菊陽町図書館少女雑誌村﨑コレクション(熊本県菊陽町図書館)
   ④ 上野三碑
    (上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会)

   ⑤国宝:紙本著色北野天神縁起 八巻 附
    紙本墨画同縁起下絵 一巻
    梅樹蒔絵箱 一合
     (北野天満宮)

   ⑥重文:徳川家康関係資料 革箱付洋時計
    (宗教法人久能山東照宮)

   ⑦信長公記
    (建勲神社・織田裕美子)

   ⑧杉原リスト 「1940年、杉原千畝が避難民救済のために大量発給
    した日本通過ビザ発給の記録」
    (岐阜県八百津町)

   ⑨全国水平社創立宣言と関係資料
    (崇仁自治連合会・公益財団法人奈良人権文化財団)

   ⑩智証大師円珍と唐代の過所
    (宗教法人園城寺)

   ⑪知覧に残された戦争の記憶「1945年沖縄戦に関する特攻関係資料群」
    (鹿児島県南九州市)

   ⑫東慶寺文書  (宗教法人東慶寺)

   ⑬広島の被爆作家による原爆文学資料
    栗原貞子「あけくれの歌」
    原民喜「原爆被災時の手帖」
    峠三吉「原爆詩集[最終稿]」
    (広島文学資料保全の会・広島県広島市)

   ⑭普勧坐禅儀[付 普勧坐禅儀撰述由来] (大本山永平寺)

   ⑮水戸徳川家旧蔵 キリシタン関係史料 (公益財団法人徳川ミュージアム)

   ⑯水戸徳川家旧蔵『大日本史』編纂史料  (公益財団法人徳川ミュージアム)

(★ウィキペディアより)
 

◆◆◆以前のブログ内容

 
  • 多胡碑シンポジウム~~~~~~~~~~~~~~熊倉先生・前澤先生などのシンポジウムではない。

  • 【1】●▲■ 山上碑 ■▲●

    【銘文】
   辛己歳集月三日記
   佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
   新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
   利僧母為記定文也 放光寺僧

    【現代語訳】
   辛巳年10月3日に記す。
   佐野三家(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)
   の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。これが、新川臣(にっかわのおみ)
   の子の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である大児臣
   (おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である長利僧(ちょうりのほ
   うし)が、母の為に記し定めた文である。放光寺の僧。

    【解説】
   ①「辛已歳」は天武天皇10年(681)に建碑と考えられている。
    上野三碑の中で一番古い碑である。
   ②佐野三家は高崎市南部の烏川両岸(現佐野・山名一帯)に
    またがっていたとみられている。
    三家(みやけ、屯倉)は、6世紀~7世紀前半のヤマト政権の
    直轄領で、経営拠点である。
    (★)
   ③健守命が佐野三家の始祖に位置づけられている。
   ④健守命の子孫の「黒売刀自「(現前橋市富士見?)
    「新川臣」(現桐生市の新川?)の子孫の「大児臣」(現前橋市の
    大胡?)と結婚して生まれた子が僧:「長利」である。
   ③僧:「長利」放光寺に務めていた。
    「放光寺」の文字瓦は山王廃寺(前橋市総社町)から出土した
    ので、山王廃寺と推定されている。

    【山上古墳】
   山上碑は隣接する山上古墳の墓誌であると考えられている。
   放光寺の僧侶長利(ちょうり)が母の黒売刀自(くろめとじ)のた
   めに墓を建てたことがわかる。
   直径約15mの円墳で、精緻な切石積みの横穴式石室を持っている。
   古墳としては終末期古墳の7世紀後半の築造と考えられている。
   築造時期は、山上碑よりも20~30年古いため、黒売刀自の父の
   墓として造られ、後に黒売刀自を追葬したものと考えられている。

   大正10年(1921) 国の指定史跡。
   昭和29年(1954)国の特別史跡「山上碑および古墳」に指定された。

  • 【2】●▲■ 『多胡碑』 ■▲●
   箕輪初心■群馬「多胡碑シンポジウム」
   上毛三碑(①多胡碑、②山上碑、③金井沢碑)+④山上多重塔には、
   見学に行っている。しかし、内容は未だに把握していない。多胡碑
   シンポジウムは、4人の大先生が講演会をした
   ★結果的には「5C~8Cにかけて、群馬は韓国・中国からの
   渡来人の宝庫で、朝廷の東国支配の拠点であることが分かった。」

    • 多胡碑・・・シンポジウムの冊子P48より
    【銘文】
   弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
   良郡并三郡内三百戸郡成給羊
   成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
   宣左中弁正五位下多治比真人
   太政官二品穂積親王左太臣正二
   位石上尊右太臣正二位藤原尊

    【読み方】
   弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘
   良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて
   多胡郡と成せ。
   和銅四年三月九日甲寅に宣る。
   左中弁・正五位下多治比真人。
   太政官・二品穂積親王、左太臣正二位石上尊、右太臣正二
   位藤原尊。

    【現代語訳】
   朝廷の弁官局(べんかんきょく)からの命令があった。
   上野国の片岡郡・緑野郡(みどのぐん)・甘良郡(かむらぐん)
   の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊(ひつじ)という
   人に支配を任せる。
   郡の名前は多胡郡としなさい。
   和銅4年(711年)3月9日の甲寅(きのえとら)の日に宣(の)
   べられた。
   左中弁正五位下:多治比真人(たじひのまひと)の宣旨である。
   また、多胡郡を作ることを決めたときの太政官は
   二品(にほん)位:穂積親王(ほづみのみこ)、
   左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様、
   右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様。  
   (★多胡碑博物館の説明書き)

●『東国における渡来人の位相と多胡郡の建郡』 
   土生田純之(はぶた よしゆき)氏・・・大阪出身で、専修大学教授。
   ①はじめに・・・シンポジウムの意図。パネラー紹介。
   ②東国における渡来人の位相・・・古墳の種類
   ③西毛におけるその後の倭人・・・高崎剣崎西遺跡
   ④欽明~推古朝期における西毛の威信財・・・
    古墳出土品は朝鮮・中国製。
   ⑤考古学からみた多胡碑建碑の問題・・
    甘良(かむら)=加羅=加那
   ・西毛&東毛 ・多胡は多くの渡来人の意味。
   ・新羅人は「吉井」姓

●『多胡碑の輝き』
   平川南氏・・山梨県出身。多賀城発掘→国立歴史民俗資料館館長。
   ①上野国の広域行政・・・14郡102郷で、大国。
   ②西部6郡の特質・・・・多胡(多い外国人)
    胡麻(ごま)・胡椒(こしょう)・胡桃(くるみ)=呉桃:中国語
    胡(ご)・呉(くれ)・漢(かん)・韓(から)で表記。
    先進的技能が多胡郡に集中。
   ③多胡郡建郡・・・3郡6郷の異例の措置。
   ④日本古代の古碑・・・東山道で北上。
   ⑤多胡碑の輝き・・・・・東国の拠点。

●『渡来人の東国移住と多胡郡建郡』
   亀田修一氏・・・福岡県出身で、岡山理科大学教授。
   ①はじめに・・・屯倉と渡来人
   ②西国における渡来人の移住・・・日本最大:造山古墳
   ③上野地域における渡来人の移住と多胡郡建部」
    おわりに・・・・大和以外では吉備(岡山)、
    上毛野国(群馬)最先端の国。

   ★岡山県の吉備の古墳の説明が85%。でも、3位の造山古墳近辺
    を散策したことがあるので、全然抵抗がなかった。

●『多胡郡成立前夜ー古墳時代の多胡郡域』
   右島和夫氏・・群馬県境町→太田高校→群大→県文化財審議委員。
   ①はじめに・・7Cの日本  西毛&東毛は古利根川が境。
   ②群馬の古墳時代の概観・・・★長すぎ。3分の2が古墳紹介。
    3鏑川の古墳・・・東山道との関わり
   ④多胡郡の古墳・・山名古墳・矢田古墳・神保古墳など
   ⑤まとめ・・・・・多胡碑は古墳の渡来人の技術の結晶。 

   ★右島先生は群馬の古墳の説明が80%であった。
   ★群馬の古墳に関わる渡来人の力は毛野国にずっとあったらしい。

●「高崎千年物語」(若狭徹著)1000円・・★分かりやすい。
   「羊」は、「羊太夫藤原宗勝」のことで、秩父で和銅を発見
   した功績が認められたことから、多胡郡を賜ったそうだ。
   (★若狭先生の「高崎千年物語などより)

   ・多胡碑博物館の写真集 400円・・・★安い。

●シンポジウム  
   司会:土生田 パネラー:平井・右島・亀田
   1時間半の内、1時間聞いた。
   ここでは、多胡碑の歴史的価値や意義などの検討が行れた。
   ★やっとテーマの話が話し合われて、よかった。

●高橋道斎・・・江戸中期、多胡碑を世間に広めた人物
   享保3年(1718)下仁田で生まれた。
   陽明学者、書道家、俳人である。
   陽明学を中根東里・井上蘭台に学んだ。
   書は唐様の書家:高頤斎に学んだ。
   俳人・・西毛俳壇の中心人物。芭蕉句碑を建てた。
   高橋道斎が興味を持ったのは多胡碑の書体=丸みを帯びた楷書である。
   六朝?中国北魏?ではないかと考えたそうだ。そして、上野国に何故
   こんな文字を書く人がいたかという疑問を持った。道斎は帰化人の文化
   ではないかと考えた。多胡碑(高崎市吉井町)の歴史的・書的価値を
   見出し広く世に紹介し、多胡碑研究の出発点となった。道斎の功績は
   大きい。   (★下仁田町教育委員会)
   ★高橋道斎の墓下仁田町下仁田の西山常住寺境内にある。
    昭和38年群馬県指定文化財

   高橋道斎の弟子の市河寛斎は南牧出身で、「幕末三筆」と呼ばれた。
   陽明学は王陽明の「知行合一」などを説く儒教の一派である。
   有名な陽明学者として中江藤樹、熊沢蕃山、大塩平八郎、吉田松陰、
   高杉晋作、佐久間象山が有名である。   

  • 【3】●▲■ 『金井沢碑』 ■▲●
   箕輪初心●群馬金井沢の碑=群馬の地名の由来
   古碑は群馬県に4つある。
   ①山ノ上碑 ②金井沢碑 ③多胡碑 ④山上多重塔である。
    金井沢碑の碑文には、『神亀3年(726年)』に建立の銘がある
    ので、奈良時代のことである。
    また、『上野國群馬郡』とあるので、初の文字による「群馬」とい
    うことになる。そして、『下賛』(しもさぬ:現高崎市下佐野町)
    の朝廷の屯倉の関係者が先祖・両親を供養する為に建碑した』
    とあるので、群馬への仏教の伝来が東大寺建立以前にあったこ
    とを意味している。→貴重な文化財なのである。 

■訪問記・・・平成20年7月? 
   金井沢の碑の場所は現高崎市山名町金井沢2334である。
   ・高崎駅方面から南西部の寺尾散策に出かけた。
    新田義重の築城の茶臼山城(伝)見学後、金井沢の碑に向かった。
    寺尾~藤岡線の金井沢川手前を右折した。
    金井沢川にかかる小橋を渡り、さらに金井沢川上流へ向かう。
    再び金井沢碑入口の案内がある。
    金井沢碑入口の案内と道が分岐する。
    トータルで、川伝いに500m程進むと、駐車場があった。
    10台ってとこかな?
    金井沢碑の覆屋があった。
    金井沢碑は覆屋の中にあり、ガラス窓越しに見ることが出来る。

    【碑文】の写し・・・多胡碑博物館のパンフレット&高崎カルタ   
   上野国群馬郡下賛郷高田里
   三家子■為七世父母現在父母
   現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加
   那刀自孫物部君午足次蹄※刀自次乙蹄※
   刀自合六口又知識所結人三家毛人 
   次知万呂鍛師礒マ君身麻呂合三口
   如是知識結而天地誓願仕奉
   石文
   神亀三年丙寅二月廿九日   
   (■は欠字  蹄の元の文字は「馬+爪」)  

■「3月6日
    【銘文】・・・多胡碑シンポジウムP48より
   上野國群馬郡下賛郷高田里
   三家子■為七世父母現在父母
   現在侍家刀自■■(他田力=他男)君目■(=頬)刀自又児加(=加力)
   那刀自孫物部君午足次日 馬爪 刀自次乙■ 馬爪
    (※馬爪=ひづめ・・・で一字)
   刀自合六■又知識所結人三家毛人
   次知万呂鍛師礒ア君身麻呂合三■
   如是知識結而天地誓願仕奉
   石文
   神亀三年丙寅二月廿九日

    【読み方】
   上野国群馬郡(くるまごおり)下賛郷(しもさぬきごう)
   高田里(たかだのさと)の三家子孫(みやけのしそん)が、七世の父母
   現在の父母の為に、現在、侍(はべ)る家刀自(いえとじ)の他田君
   目頬刀自(めすらとじ)・又児加那刀自(かなとじ)・孫の物部君午足
   (もののべのきみうまたり)、次に馬爪刀自(ひずめとじ)・次に
   馬爪刀自(おとめひずめとじ)の合わせて
   六■(ろくにん)、又知識(またちしき)結びし所の人、
   =三家毛人(えみし)、
   次に知万呂(ちまろ)・鍛師礒ア君身麻呂(かぬちいそべきみみまろ)、
   合せて三口、是(こ)の如く知識を結びて、しこうして
   天地に誓願し仕え奉る石文(いしぶみ)。
   神亀3年丙寅(ひのえとら)二月廿九日

    【現代文訳・・シンポジウム&多胡碑博物館】
   上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子■と他田君目頬刀自と
   その娘加那刀自が、孫の物部君午足ら3名を加えた計6名が行
   なう先祖供養のための請願に、願主と同族3名の寄進者を加え
   て合計9人の人々が、神亀3年(726)2月29日に石碑を
   建てて神仏に誓った。


■金井沢の碑の価値
   ①では、なぜ特別史跡なのだろうか?
    奈良時代の開始710年以前に建碑された石碑は日本中に
    約10例しかない。
    山上碑・多胡碑はそれに該当するのである。
    飛鳥時代に中国大陸の思想を取り入れ石碑を建て始めた頃の石碑
    なのである。

    でも、金井沢碑・・・神亀3年(=726年)2月29日である。
    しかし、石碑を建てて神仏に誓った。=先祖供養の仏教碑なのである。
    『知識』(造寺・造仏に協力する人々)を結び、天地に誓願して建てた。  
    715年から740年頃までの郷里制の制度下にあったのである。
    754年、日本中に国分寺を建設する詔が発せられて、
    →仏教文化が日本中に行き渡たった。→仏教思想が浸透したのである。
    →石碑を建碑する文化が定着した。
    ★従って、東大寺や国分寺以前の仏教文化の信仰が伺えるのである。  

②9人の人物
○→○→①三家子■
     =三家(=屯倉)の娘:③加那刀自
    ②他田君目頬刀自  ↓ ・・・④物部君午足
              ↓ ・・・⑤(物部君):ひづめ刀自
               ↓ ・・・⑥(物部君):若ひづめ刀自
   
   ⑦三家毛人
   ⑧(三家)知麻呂
   ⑨鍛師:礒部君身麻呂・・・安中市磯部       

  碑文中の9名のうち5名(②③④⑤⑥)が女性である。
  ★当時の家族が女系社会であったことが分かる。

 
③上野国群馬郡下賛郷高田里
  ★「群馬(くるま)」の地名の発祥=一番はじめを意味する。

■参考文献
   ①多胡碑シンポジウムの冊子
   ④「高崎千年物語」(2011年3月1日の発刊)・・・
   ★若狭徹氏の本が最高だ。
    こんな分かりやすい高崎の古墳や史跡の説明書があるのか
    ?と思った。
    →難しい内容をさらりと簡単に説明している。
    私は若狭先生の信奉者になった。
    若狭先生を群馬町教育委員会時代から顔は見ている。
    そして、話の何回かしている。箕輪城説明会・
    かみつけの里の「大王の祭り」でも話した。
    ブログの許可もえた。
    でも、こんなロマンのある凄い人だったのかと思った。
 

  • 最終更新:2016-05-31 21:02:03

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード