信州青柳城

青柳城(あおやぎじょう)
Wikiと青栁家文書他より引用して編集
   長野県東筑摩郡筑北村坂北にあった日本の城。
   青柳城はこの地の豪族で、麻績氏の一族である青柳氏の城であった。
   信濃守護の小笠原長時が武田晴信に敗れた後、小笠原氏に臣従していた青柳清長は武田
   氏に従った。

青栁氏系図(上野青栁家文書・郡馬県立文書館より)
  ※青柳城主は、麻績氏より養子に入ったとする清長が有名であるが、それ以前の情報は
   見当たらない。そこで『青栁家文書』を当てはめてみると、下記のようになると思う。
   何れ現地へ赴いて何か情報がいただければよいが、今は仮説として記しておく。

               ・=青柳清長―・-青柳頼長(系図に無く想像)
               |(麻績清長)
信濃青柳城主)       |
●青栁正忠――・―青栁昌弘――・―青栁昌弘―・―青栁昌茂(小笠原長時に従)
(源太夫)   (伊勢守)  |(彦太郎) |(伊勢守)
               |      |
               ・―夏目髙信 ・―青栁康茂(村上義清に従)
               |(源兵衛尉) (源次兵衛尉)
               |
               |(箕輪青柳氏
               ・―青栁昌信―・―青栁昌貞
               (六郎左衛門)|(豊前守)
                      |
               ・―女昌信室―・―青柳忠家―・―青柳満忠
               |       (治部正金王)(治部太夫)
               |
         長野伊予守―・―長野信濃守
        (長野信業?) (長野業政?)
 
  天文22年(1553年)
   第1次川中島の戦いでは、晴信が一時ここに居城した。また、この合戦では長尾景虎
   (上杉謙信)は更級郡から筑摩郡へ進出し、青柳城に放火した。

   武田氏滅亡後、青柳頼長は上杉景勝に従い、信濃府中を回復した小笠原貞慶と青柳城・
   麻績城を争い、後に和議を結んだ。
  天正15年(1587年)
   青柳頼長は、には深志城(松本城)で誅殺される。その後は小笠原氏の家臣の松林氏が
   在番したが、慶長年間には廃城になった。

   現在は青柳城址公園として整備され、模擬城門などが復元されている。曲輪、堀切など
   遺構もよく残っており、一の曲輪には小笠原貞慶時代の布目積みの石垣を見ることがで
   きる。

   頼長の息子・青柳清庵はのちに真田家臣となる。1600(慶長5)年の真田昌幸の九度山
   行きに随行した16名のうち、真田幸村とともに大坂入城した数少ないひとりである。
   昌幸死後、他の家臣が上田に戻っていったのに対して、高梨内記と青柳清庵の二人は
   幸村と共に九度山にとどまり大坂の陣に出陣。 最後は大坂夏の陣にて幸村と共に討死し
   たとみられている。

  ●館跡
   現在の清長寺付近が館跡である。
  天正元年(1573年)
   清長寺は、青柳城主・青柳頼長が父・清長の菩提を弔うために創建した。 小笠原氏が
   青柳氏を滅亡させた後、居館跡の現在地に寺を移して整備した。

  ●切通し
  天正8年(1580年)
   青柳頼長が切り開き、麻績宿から青柳宿への通行を容易にした。
 

信州青柳城

余湖くんのホームページ様より
  • 青柳城(筑北村青柳)

   青柳城の城主青柳氏は、もともとは伊勢神宮の麻績御厨(おみみくりや)の管理者
   として当地の支配を任されていた人物だという。もともとの居館は山麓にあり
   戦国期には小笠原氏に属していたらしい。

   林城のところで述べている通り、天文19年(1550)、武田信玄の侵攻によって
   小笠原氏は没落、小笠原領は、武田の支配下となる。

    aoyagityo02.jpg  aoyagityo01.jpg

   『高白斎記』天文22年4月11日、葛尾城自落の後、苅屋原の城を出た武田典厩信繁は
   「青柳へ御着陣、泊まる」とある。さらに17日には「典厩、青柳の城の御鍬立て」と
   あり、武田氏によってこの時期に、青柳城はかなり手を加えられているようである。

   こうして青柳氏は武田氏に降伏したため、青柳城と周辺の所領を維持することはできた
   という。しかし、後にの地域には越後の上杉謙信が何度か侵攻してくるので、青柳城は
   何度も戦乱に巻き込まれることとなる。

   『高白斎記』天文22年9月3日には「青柳を敵放火」とあり、荒砥城を落とした上杉勢
   がその余波を駆って、青柳城にも攻撃を加えてきた。しかし、武田方もすぐに反撃を
   開始し、上杉勢力を追い払うことに成功する。

   しかし、その武田氏は天正10年(1582)、織田信長によって滅ぼされてしまう。
   しかし、変わり身が早いというかなんというか、青柳氏は織田氏に属し、またまた所領
   を維持することができた。

   青柳氏の変転はその後もめまぐるしい。武田を滅ぼした信長は、そのわずか3ヶ月後には
   本能寺において暗殺されてしまう。

   それと同時に信濃の織田勢力も撤退を余儀なくされた。すると、それにつけこんでこの
   地域に侵入してきたのは越後の上杉景勝であった。青柳氏はこの時上杉氏に属し
   またまた所領を維持した。

   ところが、その後、南信濃から徳川氏の勢力が伸張して来て、かつて属していた
   小笠原氏が松本に復活を遂げる。すると今度は小笠原氏に属して、またもやピンチ
   を潜り抜ける。

   このように不安定な時代を何度もたくみに乗り越えてきた青柳氏であった。このまま
   最後までうまくいけば近世大名として存続することも可能だったのではないかと
   思われるが、人生、そううまくはいかないものである。

   天正15年(1587)、小笠原氏の呼び出しを受けて松本城に赴いた青柳頼長は、そこで
   小笠原氏の手のものにかかり、落命してしまう。いったいどうしたことか、
   小笠原氏は、青柳氏が上杉氏と密命を結んでいるとでも思ったのであろうか。
   このような境目の領主と言うのは青柳氏に限らず、その時その時に強い方にしたがって
   所領の維持に努めるというのはごくごく当たり前のことであり、かつて上杉氏に
   属していたことがあったからといって、それほど目くじらを立てるほどのことではない。
   あるいは、それ以外に何か、疎まれるよな理由があったのであろうか。
   今となっては知る由もない。

   城主の急死によって、さしもの青柳城も接収されてしまうのである。
   戦乱の時代をさんざんうまく生き抜いてきた青柳氏だというのに、
   最後の最後でこけてしまったのであった。合掌!


  ・本家筋は滅亡したと思われるが、武田氏に従い真田氏とともに
   中之条}へ住み着いた青柳氏がある。

  ・藤岡市本動堂に、天正15年の滅亡の時逃れてきたと見られる青柳氏がある

余湖くんのホームページ様より
  • 青柳氏館(筑北村青柳)
   青柳氏の居館は、青柳城の西側山麓にある清永寺のあるところにあったという。
   現在、明確な遺構は見られないが、寺院の周囲には石垣が巡らされ、内部には
   池の跡もある。この場所には明治年間に青柳学校が置かれていたこともあり、
   現在見られる石垣は、その当時に築かれたものであるのかもしれない。


   aoyagityo04.jpg  aoyagityo03.jpg

   寺院の背後に青柳一族の墓所があるが、ここには大量の墓石が並んでいる。
   本家やら分家やら、かなりの氏族がいたようで、往時の青柳氏は、かなり反映
   していたものと想像される。

   寺院の前面にはゲートボール場があるが、その下には「侍屋敷跡」といった石碑が
   建てられている。周辺の畑地には、かつて武家屋敷が立ち並んでいたのであろうか。

   館跡の南西側にかつての青柳集落の跡がある。立ち並ぶ民家の土手には石垣が築かれ、
   東西に通る街道は、いかにも昔の宿場町を思わせるないい雰囲気である。ゆっくりと
   散策してみても面白いかもしれない。

  • 最終更新:2017-05-13 21:06:14

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