信玄の西上野侵攻2
年表へ落とし込む為のメモ
箕輪初心:生方▲【武田信玄の上野侵攻】②永禄4年~永禄9年:箕輪城攻略
※永禄4年(1561)9月 第4次川中島合戦を契機に武田信玄の
信濃侵攻は一段落し、11月からは西上州(上野国)の出兵を
本格化した。武田信玄と上杉輝虎の戦いは川中島から関東に
舞台を変えていったのである。この段階での、武田信玄に臣従
していた上野国武将は長尾景虎の「関東幕注文」に名前のな
い武将・・・①鎌原幸重、②小幡重貞(→信貞・信実)③市川一族、
④木部範虎、 &⑤新田景純(丹生城)?であろうか?
(★典厩寺の絵)
【6】武田信玄の西牧・高田・諏訪侵攻&国峰城奪還
箕輪初心●群馬:富岡の城:「丹生城」
9月 武田信玄は小幡重貞を砥沢の羽沢城に(南牧村砥沢
:旧羽沢小学校)に転勤させた。 (★上毛古戦記28話) 市川馬之助兄弟など南牧地衆を配下とした。 10月11日付 武田晴信書状写 「市川右馬助殿・市川右近助殿・市川縫殿助殿 其地出陳之由、辛労察入候、年来小幡殿申談義云々」 市川氏は小幡憲重・信実の同心衆に編成替えされた。 (★黒田基樹) 武田信玄命令で市川一族を家臣団に取り入れた。 (★真田三代:平山優著)
11月 西上州への本格攻撃開始⑥
11月2日 武田信玄が佐久松原神社で祈願状奉納
「・・・・その意趣は、殆ど西牧・高田・諏訪の三城二十有日 を経ずして或いは幕下に降り、或いは撃砕散亡せば、偏に
当社の保護あるべし。」
武田信玄は佐久郡松原社(小海町)で高田・諏訪(松井田)の
撃砕の祈願文を捧げた。
▲①西牧・・・西牧城か根小屋城 ★下仁田の小幡三河守か家臣の城か?高田氏の城か?
・武田信玄は西上州の根小屋城(西牧)築城説もあるが?
▲②高田・・・高田城・菅谷城 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 箕輪初心●群馬の城:富岡(旧妙義)菅原城&高田館
箕輪初心●群馬の城:「旧富岡27・旧妙義5」①城一覧表
箕輪初心:生方▲真田●59【志賀城】:笠原清繁&高田憲頼
/大虐殺&人身売買
▲③諏訪・・・★おそらくは松井田西城(金剛寺)
長野憲業の弟:諏訪明尚であろう。 (★『春日山林泉寺開山曇英禅師語録』)) 諏訪明尚以外に長野憲業の弟はいなかったとする。 (★黒田基樹説) ・
小幡信実(重貞・信貞:天正16年から~臣従?)も
当然、加わっていたのだ。小幡氏の分家筋?本家筋かも
しれないが一の宮氏(貫前神社宮司系)も加わっていた。
小幡三河守・高田繁頼・高田信頼も参戦した。・・
高田憲頼の実子は武田信玄の一字をもらって高田信頼
となった?。
▲安中八幡陣城・磯部城拡張+文殊寺城築城
★松井田城・安中忠政 と 安中城:安中忠成の分裂を
図った。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 箕輪初心●安中の武田信玄築城【磯部城・八幡平陣城】
★安中→宇田城・(貫前神社)・宮崎城→富岡→甘楽国峰城 貫前神社の南西部500mが宮崎城である。
箕輪初心●群馬の城:富岡「宇田城」
箕輪初心●群馬の城「宮崎城→神成城」=小幡図書之介の城
11月?日 武田信玄は小幡信貞の従兄弟の小幡図書之介に
乗っ取られた国峰城を奪い返して、小幡憲重・信実
(重貞→信実→信貞)に復帰させた。
※霜月(11月)24日
小幡に晴信様が御出張の時、直ちに参上し申し出て受け取った。 (★「長年寺文書」の「天産受連覚書」) 武田信玄は国峰城:長野業政2女の娘婿の小幡図書介を攻略 した。 →①長野業政長女の娘婿:小幡重貞(図書介従兄弟)が国峰 城主に返り咲いた。 小幡信貞は国峰城を取り戻して貰ってからは、武田信玄の
上野国の家臣団として、南牧の市川一族を同心として
配下に加え、山県昌景同等クラスの騎馬軍団に成長して
いった。市川家は佐久で馬の管理をしていたからである。
当時、モンゴル馬も唯一管理していたそうである。 モンゴル馬は日本馬より大きく、タフで速かった。 (五郎兵衛記念館:根沢氏の話・・・根沢氏も南牧出身)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 箕輪初心●群馬の城:旧甘楽町②国峰城=武田24将:小幡重貞
★24将ではなかった。根澤館長は武田晴信の騎馬軍団では
小幡信貞が最強であった。馬が圧倒的に多かった。
武田信玄は貫前神社に制札を出した。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 箕輪初心■群馬パワースポット②「貫前神社 」
・
・永禄4年(1561)武田信玄の平井城攻撃
武田信玄→小林監物宛の手紙
「味方になれば、所領安堵する。」 高山行重・高山定重・高山衆・
小林平八郎監物は武田信玄に臣従した。
藤岡を支配下に置いた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心▲群馬:【高山館&高山城】&高山氏の戦国時代
★世界遺産:高山社は平時の館跡である。
★小林館の写真は消滅してしまった。
【7】長野業正の死去→大戸浦野氏+真田幸隆&甘利昌忠の榛名侵攻1 ・滋野系の同族:真田幸隆は大戸城の大戸浦野氏に味方に
なるように説得した。大戸浦野氏が話に乗った。
→浦野氏が室田(旧榛名町)の長年寺に放火。
・永禄4年(1562)
11月19日付 武田信玄→宛名なし
(鎌原幸重・重澄)武田信玄は小幡にいる時、
「調略故其許時宜可然様ニ候、、此表追日任存分候、就中高田降参、 今日ハ休馬、明日■向干国嶺及行候、近日分人数其筋へ可遣条、 弥相調候様無油断計策専一候、」 (★『鎌原家家譜』・『加沢記』) (★『信濃真田氏』丸島和洋編集:唐沢定市文責P98) ★意味・・・「高田城を落として味方につけました。今日は馬を
休めます。明日は(永禄3年に小幡図書介に乗っ取られた)
国峰城を攻略するつもりです。近日中に鎌原支援の軍兵を
其の筋(吾妻筋)に遣わすことを約束します。油断しない
で調略を進めてください。(待っててね~~。)恐れながら
謹んで申し上げます。」
つまり、鎌原氏は上野進出以前に武田信玄に臣従している
ことが分かる。
(★『戦国期上杉・武田氏の上野支配』:栗原修著)
【8】大戸浦野氏+真田幸隆&甘利昌忠の榛名侵攻2
■永禄5年(1562)
2月? 長野氏業(業盛)は三夜沢赤城神社に戦勝祈願
真田幸隆の誘いに武田方に上州鎌原城(鎌原氏:海野一族) →浦野氏が室田(旧榛名町)に放火。 →浦野氏が長野三河守入道(たぶん業氏)ら80余名を討ち取る。 (★関東古戦録) ★長野三河守入道=たぶん長野業氏だろう。 (★まんがみさとの歴史・秋本太郎先生)
※峰岸純夫先生・黒田基樹氏は永禄9年(1566)5月と考えている。
※『群馬県史 資料編7』No.2728は長野三河入道が戦死した。
年次はなく、日付のみで『群馬県史』による比定である。 浦野氏は榛名の稲を刈り取った。 (★受連の文書)
→甘利昌忠は武田信玄に浦野中務少輔を家臣に推挙した。
★真田幸綱(幸隆)&真田昌幸が甘利昌忠の
サポートにより、大戸氏(→浦野氏)ら
吾妻衆と永禄5年(1562)~9年(1566)にかけて数回にわたり、
北から岩櫃→大戸→倉渕→榛名に侵攻した。 この間、長野三河守ら80人を討ち取ったり、長野氏菩提寺: 長年寺を焼いたり、受連以外の僧を殺害したり、田の稲の
穂狩りをしたりした。
関東幕注文では大戸10騎なので、40人。多くて50人。
これでは80数名は殺せない。
当然、真田幸隆&甘利昌忠がバックにいた。
・永禄5年(1562)上杉政虎は北条(きたじょう)高広を厩橋城代とし、
那波城・伊勢崎城を支配した。 北条高広はこのあと30年近く、厩橋城・片貝城にいた。 (★『大江・毛利の一族』:関久著)
【9】武田信玄の西上州への安中への直接攻撃&築城
■永禄6年(1563)2月21日、石井讃岐守信房討死。31歳。
★鷹留城の攻撃があったのだろう。 (★秋間石井泰太郎系図)
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箕輪初心●箕輪城№81「大塚實氏&里見繁美氏の講演会」
箕輪初心:生方▲群馬富士見【石井岡城】
&箕輪城№181長野業正養子:里見義樹=石井信房
箕輪初心:生方▲箕輪城170【黒田基樹説を加味した長野氏の系譜】
・永禄6年(1563)
那波顕宗(あきむね)が北条高広の妹を正室にした。 ★政略結婚ではあるが、2人とも先祖は大江一族である。 長男:那波無理之助=名和宗安は武田信玄の家臣として
箕輪城攻撃に参加していた。
・永禄6年(1563)武田信玄の吉井攻撃
箕輪初心●群馬の城:高崎旧吉井38城①「吉井陣屋他」
箕輪初心●群馬の城:高崎吉井38城②「多胡館他」
箕輪初心●群馬の城:高崎旧吉井38城③「一郷山城・奥平城他」
武田信玄は甘楽・多野地方を掌握。
吉井:長根50騎(長根氏+小河原氏)+多比良氏などを
味方にした。
▲若田原(高崎市八幡町)の戦い
長野氏業の家老藤井友忠が中心になって反撃した。
※箕輪城の城兵は板鼻、若田ヶ原などで反撃した。
6月 鎌原幸重 VS 羽尾幸全 (領土争いに真田幸隆は叔父?鎌原幸重に味方 羽尾も同族であった。でも、斉藤家家老であった。) 真田幸隆 VS 斉藤憲弘
10月 真田幸隆は岩櫃城を攻略した。 やがて、斉藤憲弘の子:城虎丸も嶽山城で自殺させた。
12月 武田信玄は倉賀野城攻撃のため、木部城を再興して、 陣をはった。 (★浦野家文書)
12月5~6日 大規模な箕輪城攻撃 武田軍は箕輪に向かって『行(くわだて)』を行い、城外はもちろん
長純寺まで悉く放火した。
(峰岸先生・浦野家文書:榛名町誌:久保田順一先生)
★箕輪軍記は落城をこの年にしているが、間違いである。
~~~関東古戦録~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・安中氏息子と依田(あしだ)氏(この時は板鼻城)を攻撃
→武田方につく。 ・国峯城の小幡重貞(箕輪城の長野業政の長女が妻)は敗北 →武田方に参陣
▲若田原(高崎市八幡町)の戦い
長野氏業の家老藤井が中心になって反撃。
*中曽根氏(中曽根康弘氏の親戚で、高校先輩 ・
おそらく曽根昌世系の子孫・・数学者中曽根真吾の曾孫)が曰く
「若田原の俺んちの畑から武具(刀や槍の先・鎧の一部)が多数
出土している。」 ★私見「この年の戦いか否かは不明だが、確実に若田浄水場付近 で戦いがあったろう。」
・武田軍は箕輪城を激しく攻撃。落城しないので、 城外の長純寺(長野氏の菩提寺)・白岩の長谷寺(板東16番) を放火。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
12月5日 武田信玄の長年寺への制札 ・・・乱妨狼藉・波却の事、これを停止おわんぬ。 (★榛名町誌:久保田順一先生)
@12月 長年寺受連覚書(高崎市旧榛名町)・・・・
甘利は木部城に逗留(★浦野家文書)
受連は甘利昌忠→武田信玄に2回目の制札を金持って貰いに
行った。木部城(高崎市木部町)に行って、
金を払って、信玄から制札(寺を襲わない約束札)をもらった。 でも、長年寺に武田軍が侵攻し、殺害。生き残ったのは独り。
(★まんが箕郷の歴史・峰岸純夫著・久保田先生など)
※武田信玄は北条氏康との連合軍で松山城(武州)上田氏を
攻撃中であった。
12月 *和田城主:和田業繁が武田氏に降伏した。 (★山田博久氏:残雲・・中世の合戦と城郭:峰岸純夫著) 後、跡部資勝の長男5歳が和田業繁の養子:信業となった。 和田業繁は譜代並みの扱いになっていった。
閏12月 武田信玄は利根川を越えて、太田金山城の由良成繁を
攻撃した。
(★峰岸純夫著)
【9】武田信玄の西上州侵攻
■永禄7年(1564)
5月 武田信玄が西上州侵攻 ①適地の麦を刈り、・・・
②和田城(高崎)を攻撃
③天引城(吉井)を攻撃 ④高山城(藤岡)を攻撃 ⑤倉賀野の苗を薙ぎ払い、・・・倉賀野城を攻略。 ⑥安中・松井田の苗を薙ぎ払い・・・
松井田城、安中城が陥落した。
⑦本庄・久々宇に放火。
・永禄7年(1564)
武田信玄が替佐城(中野市)を築城した。
武田信玄が上杉謙信側の壁田城(中野市)を乗っ取った。 城将は小幡信貞・・・
★市川氏も入った可能性が高い。
・永禄7年(1564) 和田城大改修
武田信玄は馬場信房(信春)に命じて、上杉謙信側の
倉賀野城に対抗するため、和田城の大改修を行った。
(★新編高崎市史) ★おそらく、幅20mの堀が4つ・・・
・同永禄7年(1564) 松井田城・安中城:落城。 →②長野業政の叔父の娘婿:安中忠政・安中忠成が
武田信玄の支配下となった。
安中忠成は甘利昌忠の妹説(有力説)・娘?を貰った。
以後、安中景繁を名乗ったようである。
6月27日付 上杉謙信→里見義弘 倉賀野直行は若輩故油断があった。・・
私が川中島に侵攻し、信玄を背後から襲うのでよろしく・・
(★峰岸先生・久保田先生)
11月17日 長野氏業→赤城神社:奈良原紀伊守の手紙 河西の戦乱を鎮められるよう、・・妙法僧を送ってくださり、 ありがとうございました。・・・鎮められた暁には、代官を
参内させます。
(★峰岸先生・榛名町誌:久保田先生)
【10】武田信玄の甘楽富岡への直接攻撃
■永禄8年(1565) 信玄の箕輪城攻撃
2月 信州佐久の臼田の新海三社神社に戦勝祈願説 (★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著) 2月7日 諏訪明神・新海三社神社(佐久) で戦勝祈願。 「箕輪城(高崎市)を攻略した後は、惣社(前橋市)・白井(渋川市)
・嵩山(中之条)の四邑、たやすく予の掌握に属し、凱歌を奏し
帰楽安泰せば、・・・」
(★新編高崎市史)
3月 武田信玄は倉賀野に出陣した。 (★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
→田口峠→築城していた砥沢城(群馬の南牧村磐戸)→下仁田
→富岡宮崎城→
(1562年築城の安中の磯部城・八幡陣城)+国峯城(富岡)
の小幡信貞→
・富岡・吉井の城を次々に攻略し傘下に。
・奥平城(徳川家臣奥平信昌の父)・庭谷城など吉井の約20城に
侵攻。
・一郷山城の侵攻・・・藤岡の牛伏山の東250m 安部中務尉之友は、武田の攻撃を受け、戦死。落城。 (★一郷山城の資料) 3月 倉賀野城落城→倉賀野尚行が逃亡。 倉賀野城主となった。 金井淡路守秀景→倉賀野秀景→と信玄が命名。 (★子孫の会・高崎市の街巡りパンフレットを参考)
3月5~6日 さらに、箕輪城を攻撃した。 其の5日6日向箕輪被及御行、城外為始長純寺被成放火、一昨日 至宇干当地木辺(木部)被寄陣、・・・略・・・
(★浦野家文書)
長純寺を焼いた後、木部に引き上げた。そして、10日程で木部 城を再興して陣城とした。・・・
(★峰岸純夫著)
「箕輪城に詳しい元長野業政の娘婿を味方に抱き込んでの
出陣計画。
・箕輪城1500 VS 武田35000人の兵。 (★ほとんどの小説) ★私見「攻撃数は資料がないからわからないが、甲州+信濃勢の
メンバー全員。」
・3月16日 長野氏家臣:中室田の田中隼人佐は
成田氏長のもとに使者で行く途中長楽寺に寄った。
義哲は酒&肴を振る舞った。 (★長楽寺永禄日記:峰岸先生)
7月20日 武田信玄は金敷平(榛名白川を挟んだ西)から撤退した。 と由良家臣:小此木左衞門から聞いた。 (長楽寺永禄日記:義哲著)
8月23日 武田軍は和田の陣を引き払った。
9月 長野氏業は赤城神社神主に書状を送った。
★私見「①武田本隊・倉賀野城金井氏・和田城和田氏・国峯城小幡氏
→南ルートからの侵攻。
②岩櫃城の真田幸隆+大戸城の浦野氏→北ルートからの侵攻
11月 真田幸隆が嶽山城の池田佐渡守を調略し味方につけた。 斉藤憲宗・・・嶽山城の東峰から飛び降り自殺した。
12月 @武田軍が金敷平(大手虎蹈門西の岸)に在陣し箕輪城を攻撃。 (★秋本先生) ★「愛宕の腰掛け石」&「見返り坂」伝説・・・箕郷町善地 鷹留城と箕輪城の中間地点である。
11月~12月 北条高広が上杉謙信を裏切った
後北条氏の家臣になった。
(★互尊文庫・謙信→本庄氏への手紙:群馬県文書:峰岸先生)
12月 厩橋城の上杉謙信の家臣:北条(きたじょう)高広が
後北条氏に内通した。
・永禄8年(1565) 倉賀野城:倉賀野八郎?直行が落城。
倉賀野尚行(直行)上杉謙信を頼った。 →倉賀野16騎の筆頭:金井小源太秀景が倉賀野城主となった。 武田信玄の命令で、倉賀野淡路守秀景と名乗った。
箕輪初心:生方▲梁瀬大輔「真田丸時代の高崎」&『箕輪城・和田城の加筆』
・元亀元年(1570) 倉賀野衆の頭目金井秀景は跡部家吉を養子に
した。倉賀野氏を再興し、倉賀野秀景を名乗った。
【10】武田信玄の箕輪城攻撃→西上州支配
■永禄9年(1566)
5月説 鷹留城が落城説。 (★浦野家文書) 城主:長野三河入道業氏が死亡。 長野三河守ら80人余りを討ち死にさせた。 (★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著・黒田基樹氏の2人のみ) 久保田先生は榛名町誌で変更を表記・・・
6月 跡部伊賀(資勝)→ 小暮弥四郎殿への手紙 長野氏業家臣:小暮弥四郎が武田信玄に通ずる
(★小暮文書:榛名町誌:久保田順一文責ほか)
閏8月 金山城の由良成繁・国繁が後北条氏に通ずる。 宇都宮・皆川・成田が後北条氏に通ずる。 (閏8月25日の北条氏照→正木氏への手紙) (★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
9月 由良成繁・国繁が北条氏康・氏政と同盟を結んだ。 (★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
****************************
※箕輪城は孤立・・・丸裸状態。
●真田幸綱(幸隆)の調略により敵となった長野業正の娘婿・親戚衆
①長野原の羽根尾城:羽尾幸全・海野幸光など
・永禄7年(1654)岩櫃城:斎藤家家老:羽尾幸全・海野幸光 は寝返り、岩櫃城は陥落した。武田晴信に臣従した。
②東吾妻の大戸城:大戸真楽斎・大戸浦野氏
・永禄5年(1662) 真田幸綱の調略 5月2日 「去る2日、味方の色を顕はされ・・・
権田に放火。室田に放火。長野三河守を始め
・・80余名人を討ち捕らえ候、。具に能うべく候。 恐々謹言 海野中務少輔殿(大戸) 信玄押印 」 (★武田信玄5月7日付 武田信玄文書:榛名町誌)
★大戸氏は元は海野一族であった。
忠節を示す証としての攻撃であった。 久保田順一先生は「永禄9年説→永禄5年説に変更」 「味方の色を顕はされ・・」が根拠である。
※峰岸純夫先生・黒田基樹氏は永禄9年説のまま?
甘利昌忠の取次で武田信玄に臣従した。
・永禄7年(1654)真田幸綱本隊は大戸城から岩櫃城攻撃をした。
③東吾妻の大柏木城:羽田氏
・永禄5年(1662) 真田幸綱の調略
★長野弾正系図でいうと、①②③は元々、海野一族
●武田信玄の攻略により敵となった長野業正の娘婿・親戚衆
①旧妙義の高田城:高田繁頼(父は妻が安中重繁娘)・高田直政
・永禄4年(1561)11月 武田信玄の侵攻
高田繁頼が武田信玄に臣従した。
②安中の松井田城:安中重繁(長野業正の叔母の娘の婿)
・永禄4年(1561)11月 武田信玄の松井田・安中侵攻 ・永禄7年(1564) 松井田城、安中城が陥落した。 安中の安中城:安中景繁(甘利昌忠の娘婿?妹婿) &家臣:松本・須藤・・・後閑の萩原が臣従した。 後閑城には丹生城主:新田景澄が入り、後閑姓になった。 甘利昌忠は配下・見張りとして共に行動したようである。 ただし、安中景繁の秋間攻めは単独行動かもしれない。
③小幡の国峰城:小幡信貞(業正娘婿)(重貞→信貞→信実)
&小幡城:熊井戸(後、岡本姓) 小幡重貞は武田信玄推薦の2人目の妻を断った。 武田信玄の「信」の字を貰った。
・天文16年(1546)頃から3重契約(上杉憲政・北条氏康
・武田晴信)をしているが、次第に武田に比重が高くなった。 (★真田三代:平山優著)
・永禄3年(1600)に従兄弟の小幡図書之介に国峰城を乗っ取られ
てから、完全に武田信玄の臣従した。
(★真田三代:平山優著) (★上毛古戦記・関東古戦録)
小幡信貞は南牧の笹の平城にいて、小幡図書之介の攻撃に勝ち、
国峰城を武田晴信と奪還した。 市川一族は武田信玄の命令で小幡信貞の配下になった。 (★市川家文書)
・永禄4年(1561)国峰城を取り戻して貰ってからは、武田信玄の
先方衆として活躍した。
・永禄7年(564)替佐城・壁田城(北信濃中野市)の城代も
兼ねた。
(★信濃史料) ・永禄9年(1566) 箕輪城攻略後には約4万石程度の所領があった。
④高崎の和田城:和田業繁(業正娘婿)
・永禄5年(1562) 和田和田業繁は自分から志願して
武田晴信に臣従した。
和田信業=跡部勝資長男5歳が養子となった。 (・・・長篠の戦い以後、娘婿となった。) ・永禄7年(1564)和田城攻撃 (★峰岸説?) 上杉謙信家臣:和田喜兵衛の和田城乗っ取り作戦 ・・・失敗して、殺された。 ・永禄7年(1564)武田信玄は馬場信房に命じて大改修。 (★新編高崎市史) 小宮山・馬場は配下・見張りとして共に行動したようである。
⑤高崎の山名城:木部範虎(業正娘婿)木部10騎
・永禄7年(1564) 木部範虎(業正娘婿)は喜連川に逃亡?
いなかったかも? ・永禄8年(1565)武田信玄の木部城(山名城か堀之内の改修。) 甘利昌忠は入っていた。(★受連の制札:長年寺文書) 大井貞清は配下・見張りとして共に行動したようである。
⑥高崎の倉賀野城:倉賀野秀景等倉賀野16騎
・永禄8年(1565) 武田信玄の謙信方:倉賀野城攻撃
倉賀野直行(尚行)逃亡。金井秀景→倉賀野秀景 伴野助十郎は配下・見張りとして共に行動したようである。 一時、真田幸隆も在番があった。
⑦伊勢崎の那波宗安=無理之助・・・
・永禄3年(1560)臣従した。父と兄は長尾景虎側・・・
⑧吉井:長根50騎(長根氏+小河原氏)+多比良氏など
・永禄6年(1563)武田信玄の吉井攻撃で臣従した。
⑧藤岡の高山行重・高山定重・高山衆・小林平八郎監物
・永禄6年(1563)武田信玄の藤岡攻撃で臣従した。
など、天文年間~早い時期に南牧の市川氏・・富岡の小幡氏・
熊井戸氏が臣従していた。
永禄4年(1561)以降、下仁田小幡氏・富岡の小幡系一の宮氏
・丹生の新田氏(→後閑城後閑氏を名乗った。)
・妙義の高田氏
・安中の安中氏・須藤氏・松本氏・萩原氏など・・・
・吉井の長根氏・庭谷氏など・・・・ ・藤岡の高山氏・小林氏
・旧高崎の和田氏・木部10騎・金井など倉賀野16騎など・
吾妻では高山村以西の鎌原氏・海野氏・大戸氏・羽田氏・・
真田幸綱の家臣になった横谷・富沢・割田・折田・湯本など
有力な元長野業正の同心衆・長尾輝虎の家臣が武田信玄に5
年間に旧榛名・旧箕郷・高崎浜川・旧群馬町・榛東村吉岡・
前橋北部・富士見・大胡を残すだけの勢力範囲となった。
この間、前橋の石倉城攻撃もあった。
****************************
・永禄9年(1566)
?月・・・武田信玄の作戦命令 5月・・・武田信玄は二万の大軍で侵攻・・・
○信州余地峠→南牧→下仁田→高田→安中八幡陣城
○伊勢崎の那波無理之助宗安が先発隊で秋間(飽間)の
蔵人城:島崎蔵人や礼応寺城:赤見藤九郎などを攻撃し、
攻略した。 (★箕郷町誌) 安中忠政は秋間の八貝戸・内出・蔵人・礼応寺を攻略した。 (★上毛古戦記)
○那波無理之助宗安が200~250で雉子ヶ尾峠を夜間に越えた。
高浜砦を急襲。奪取。
○武田方の飯富(おぶ)・小宮山(こみやま)隊が里見城・雉郷城
を陥落させた。 ※茗荷沢砦(=御嶽山砦)・雉郷城・里見城は
里見河内宗義の支配であった。
○安中忠政・小宮山・飯富隊は烏川北岸の長野業通弟:業勝を攻撃。
突破し、那波無理之助が高浜城に火をかけた。 (★上毛古戦記) 鷹留城将の長野業通は弟:業勝・業固ら数百の手勢で迎撃。 (★箕郷町誌) 武田軍の小幡信貞らの一隊を一時は烏川南岸に押し戻すなど善戦。 しかし、業勝は討ち死。 (★上毛古戦記)
○那波無理之助は白岩まで進軍した。
白岩観音堂(=長谷寺)で狼藉。 長谷寺の僧が仏像・教典を持って箕輪城に逃亡した。
○箕輪城から高浜城主:鷺坂(匂坂)長信・安藤九郎左衛門勝通・
青柳金王丸らが高浜城奪還を目指して進軍。
(★上毛古戦記)
○安藤九郎左衛門勝通100と那波無理之助200が激突。
→安藤九郎左衛門勝通が戦死。
「老の身は いずこの土に なるとても
君がみのわに 心とどまる 」
(★上毛古戦記・上州治乱記巻之三)
○青柳金王丸・新波新左衛門ら200は白岩から高浜城・烏川の
南岸まで那波勢を追い返した。
○翌日、飯富・小宮山隊は神戸から白岩を占領した。
神戸(ごうど)城:桜沢伊賀守(榛名町神戸)はいち早く、武田 の支配下になった。 →遠北の陣屋(榛名町高浜)を設置し、箕輪城と鷹留城を分断した。
○鷹留城の長野業通・業固は覚悟を決め、山県昌景隊に突入した。
★既に鷹留城は落ちていた。
○武田方の応援の内藤昌豊・馬場信房隊に包囲された。
○長野方の利根木隊の救援で辛うじて、小幡重貞隊の囲みを突破し、
鷹留城に戻ろうとした。
○しかし、このとき小幡重貞の鷹留城内の内応者、男蟹谷直光らによって
鷹留城内に火が放たれ、鷹留城は落城した。(伝)
武田信玄は馬場・山県隊と穴山・小山田隊などを出撃させていた。 →箕輪城・鷹留城を分断。
○長野業通らはやむを得ず吾妻の長野原火打花に逃げ延びた。
○高浜砦(榛名町)・白岩砦を占領した。鷹留城は箕輪城と分断された。
武田信玄は、本隊を東の若田原(高崎市)へ向け、進軍した。
【1】蓑輪軍記:箕郷町誌のP1157~近藤義雄氏 武田信玄は那波無理之助に秋間の城(口碑によれば、蔵人城 主:島崎蔵人、礼応寺城主:赤見藤九郎)を攻略させた。 那波無理之助は夜暗を利用して、二百の少勢をもって雉ヶ尾 峠を越え、雁又、茗荷沢、雉郷、里見の各砦に配した長野方、 里見河内等の警戒網の間隙を縫い、烏川を渡って高浜の砦に
襲い掛かった。
砦の将、鷺坂常陸守介長信はあたかも箕輪城にあって
「留守の家人防戦するも、敵は目にあまる大軍なれば、
留守部隊は敗れ・・」と各戦記は記している。
※近藤義雄氏の意見~~~~~
もし無理之介が、雉郷城か里見城にかかって里見河内と一戦 していたとすれば、鷺坂は急遽高浜の砦に帰り、箕輪からも
援兵が加わって砦を固めていたはずである。
この砦から東、白川が烏川に合する地点に至る間には、所 謂本郷崖の絶壁が続いていて渡河点はなく、以西は鷹留城の
防御範囲であって、そこからの進撃は、鷹留城の強力な反撃
を受けやすい。その切際部を固めた高浜の砦は、箕輪方が放
棄するわけがなく、事実、この砦の失陥が箕輪の落城を早め たのである。 無理之介の行動は、その名の如く無理な作戦であって、これ が成功したことから、雉ヶ尾峠突破は夜間行動であり、任務は
強行偵察を兼ねていたものと判断される。しかも、精強な武田
勢は機を失せず、戦果を利用し、突破口を拡大するため、那波 隊の直後に飯富、小宮山の有力部隊を進めていたのである。 那波隊が砦に突入放火し、守兵が箕輪に向かい敗走した頃には、 飯富、小宮山勢は雉ヶ尾里見両城に攻めかかり、背後の高浜の
砦にあがった火の手を見て、動揺した城兵を圧倒してたちまち
城を占拠したと思われる。
このことは、箕輪城に関するどの戦記にも記されていないが当
然のあるべき戦況かと考えられよう。 雉郷峠の失陥が、この稜線に備えた第一戦防衛陣の無力化を
意味する。
『敵は目に余る大群』というのは、200の那波軍を呼ぶにはあ
まりな誇張であるが、砦を焼いた那波隊は、白岩に向かって
突進した。
(★箕輪軍記:箕郷町誌のP1157~近藤義雄氏)
【2】上州治乱記→上毛古戦記:山崎一氏 武田信玄は安中忠成を先鋒として秋間の諸城を攻略した。 八貝戸、内出、蔵人、礼応寺の諸砦は追い落とされ、里見河内 の守る雉郷、里見の両城も落ちて鷹留城は正面から敵を受ける
ことになった。
武田方先鋒は烏川北岸に備えた長野業勝(業通弟)の軍を突破 して渡河に成功した。那波無理之助は手勢250余騎を率い、 高浜の砦を襲った。砦将、匂坂常陸守介は箕輪城にあって
留守の小部隊は防戦のあと、砦を捨てた。那波無理之助は
・・・(中略)・・・
那波無理之助は白岩砦に進んだとき、箕輪城から出撃した
安藤九郎左衞門の100余騎と遭遇。白岩観音堂付近で激戦と
なった。安藤九郎左衞門は戦死した。・・・那波勢が観音堂の
仏像や教巻などを担いで・・・
そこで、青柳金王・新波新左衛門は200の兵を率いて、白岩に
向かった。・・那波勢を破って、烏川の南岸まで追いやった。
(★上毛古戦記:山崎一氏)
★若田ヶ原から里見河内守の城:高橋隼人正の守る
雉郷城(旧榛名町)を攻撃した。
武田信玄に家臣になった安中忠成(甘利昌忠の娘婿か妹婿) は旧支配下の礼応寺城(安中市秋間)などを攻略した。 箕輪城の大支城:鷹留城(旧榛名町)は正面に見えるよ
うになった。
①5月説 鷹留城が落城した。
②9月説
武田信玄は2万の大軍で侵攻し、高浜砦を突破して、箕輪城・
鷹留城の連絡を分断した。そして、小幡信貞の率いる一隊が
鷹留城攻略に向かった。
鷹留城将の長野業通は、業勝・業固(共業通の弟)をはじめ
数百の手勢で迎撃した。一時は烏川南岸に撃退するなど善戦
したが、 鷹留方も長野業勝を失った。 翌日、長野業通、業固は山県昌景隊に突入したが、武田方の
内藤昌豊、馬場信房隊に囲まれて、 長野方の利根木隊の救援
で辛うじて囲みを突破した。鷹留城に戻ろうとしたが、城内 の内応者、 男蟹谷直光らによって放たれた火によって鷹留 城は既に火焔につつまれていた。 長野業通らはやむを得ず吾妻方面へと落ち延びてた。 鷹留城は落城した。
9月29日(=新暦11月2日)箕輪城を攻略。 9月29日 箕輪城は落城し、城主:長野氏業(業盛)は
箕輪城内の御前曲輪の持仏堂で自刃した。
★御前曲輪は江戸時代の浅野家文書の表現なので、長野氏の
時代に御前曲輪なんぞなかったとであろう。しかも、
持仏堂・・・は昭和初期までそれらしいものが有ったらしい が、玉置山=霊置山の意味であるから、玉置山にあったと
考えるのが妥当であろう。上杉謙信の春日山城の毘沙門堂が
主郭の東隣にあるように・・・・
以後、16年、箕輪城は武田信玄の支配下になった。
9月27日 武田軍は総攻撃を開始した。
●武田信玄は保渡田砦から箕輪城を攻める際に、現ドンレミー前
&諏訪神社にあった善龍寺を焼いた。
9月28日 箕輪城内に残る城兵は1500人からわずか200程に減少して いった。戦死する者、降参する者、逃亡する者が出たから である。
9月29日 死力を尽くして戦う長野勢・・・しかし多勢に無勢では、
いかんともしがたい状況になっていった。
■参考文献
・群馬県史
・新編高崎市史
・箕郷町誌(近藤義雄執筆)・・・ベース
・「箕輪城と長野氏」
・近藤義雄先生の論文・講演会
・榛名町誌(久保田順一共著)
・関東古戦録(久保田順一訳)
・上毛古戦記(山崎一著)
・群馬の古城(山崎一著)
・境目の城(宮坂武雄著)
・「戦国期の上杉・武田氏の上野支配」:栗原修著
・「真田三代」:平山優著
・「真田四代と幸繁」丸島和洋著
・・・などなど多数。
1) 『箕輪軍記』 城主である業政の子業盛は19歳。 ★永禄9年説では23歳である。
②永禄6年(1563)
武田信玄は15000の兵で箕輪城を囲んだ。
城兵は城主長野業盛以下1500人。 大手口は山県昌景、馬場信房。搦手口は武田勝頼、 原胤元、内藤昌豊といった信玄旗下の猛将達。 この時、長野家の家臣:藤井友忠という武将がわずかな
兵を率いて城外に打って出て、搦手攻撃軍を襲い、一時は
武田勝頼を討ち取る寸前まで行ったが、多勢に無勢。
背後に回った原胤元に斬られてしまった。箕輪城の曲輪が
落とされた。
最後、突撃した業盛は自ら薙刀を揮って28人の敵兵を切り
伏せた.。業盛はひと反撃して帰城した。
これまでと観念した城主長野業盛は御前曲輪に入ると、業政 の位牌を拝み自刃した。 「春風に梅も桜も散り果てて 名のみ残れる箕輪の山里」 (長野業盛辞世の句) 一族とともに長野業盛が自刃して落城した。 箕輪城が落城し、・・・長野氏が滅亡した。 しかし、落城直前に長野業盛の一子亀寿丸は家臣に
連れられて城を脱出し、和田山(箕輪城の南南西約3km)
の極楽院で匿われた。 (★箕輪軍記) 現在の長野家の当主は、亀寿丸の子孫である。
2) 「関東古戦録」より久保田順一先生訳 箕輪の城に飯富(おぶ)兵衛・馬場信房・小山田信有 らが・・(中略)・
一隊は搦め手口、自身は法峰寺の一の門に押し寄せた。
城主左衛門太夫業政(本当は1561年死去)は
「吾は・・・関東管領の上杉様を再び関東にお迎えし
たい。・・・・・・・・。」
と業盛に語った。 大熊は越後の譜代の武士で、輝虎(謙信)に背いて、 飯富の手下になった。 (*大熊備前守は元上杉謙信家臣で箕冠城主 (春日山城の南東部)。 大勢の中かに割って入り、5人の突き伏せた。 その首を取って引き上げたが、指物を落とし、 城兵に奪われてしまった。・・・・(中略)・・・
後日、信玄はこの働きに感じて、備前守と改名させ、
同心30名、足軽5名を預け、 小畑山城入道日意の娘・・・と娶らせ、遠州小山 の城代に据えた。・・(後略)・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 箕輪初心●箕輪城№93【上泉伊勢守秀綱】箕輪城落城 ~流浪の旅へ
★永禄9年(1566) 武田信玄が箕輪城を攻撃時、 上泉伊勢守秀綱は箕輪城在城し、活躍したのは本当だろ うか?上泉伊勢守信綱が本当に箕輪城での長野氏業 =業盛の自決後に修行の旅に出たのだろうか?
箕輪初心★箕輪城136【長野氏業=業盛】:永禄9年箕輪城落城。
★永禄9年(1566)、武田信玄の攻撃で箕輪城落城。 箕輪初心私見 「長野氏時代の箕輪城は、小規模な平山城と考えられるので、 箕輪城を攻めるには東から入るのが一番手っ取り早いのでは?
そして、武田信玄との攻防戦における最大の激戦地だったの
ではないだろうか?・・・
後、北東部に丸馬出を造った。
長野業盛は持仏堂に籠もり、辞世の句を詠んだ。一般的には
「春風に 梅も桜も 散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里」
であるが、文書資料では、
「陽風に 氷肌(むめ)も桜も散り 果てて名のみ残れる みわの郷かな」
である。
★箕輪城語り部の会:岡田会長
「16種類の歌がある。」
とおっしゃっていた。
→そして、持仏堂で自刃した。
★多くの小説では、御前曲輪であるが、御前曲輪は井伊直政の時
代のなので、間違いの記載である。ましては、長野時時代には
御前曲輪堀はなく持仏堂は玉置山にあったと考えるのが妥当で
あろう。御前曲輪の北から西にかけての水堀はなかった。
これは、秋本太郎先生の発掘調査の第一期の説明からも証明さ
れつつある事実である。 「長野氏の遺構は基本的には本丸・御前曲輪付近だが、木俣に も遺構が発見された。」 (★秋本太郎先生)
- 最終更新:2017-09-05 10:33:25