厩橋城

厩橋城

   厩橋城と石倉城についての解説は、利根川の西遷と築城時期、また築城者が
   長野・長尾氏の間で錯綜している。

  • 2015.08現在の棟治(サイト管理者)の考えを箇条書きにしてみる。
  1. 1427年(応永34年)利根川変流以前に、総社長尾忠房が古石倉城を築く。
  2. 1429年(永享元年)古石倉城崩壊のため、新たに蒼海城を長尾忠房が築(改築?)いた。
  3. 1473年(文明5or9年) 橋林寺建てられる。長野氏は古石倉城址に、厩橋城をこのころ築城 。
  4. 1524年(大永4or7年) 箕輪・厩橋長野氏は、総社長尾顕方を挟撃する。この時西岸の石倉砦築いた?(雲徳軒の文書)
  5. 永禄年間より武田氏も厩橋城攻略の為石倉砦を改修付け城とした?
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  • 新情報:「文明 5年 1473 ・長尾景春、橋林寺開基。」てことはこの頃すでに、厩橋城の形はあったことになる。橋林寺は厩橋長野家の菩提寺であり、鬼門の寺であるから。 長野家を2つに割り、景春に従った為業が築城して居城?したのではないだろうか。尚業もこの頃すでに箕輪城の形を作っていた?

  1. 長尾景春の乱は、文明8年(1476年)から文明12年(1480年)にかけて起こった関東管領上杉氏の有力家臣長尾景春による反乱。太田道灌の活躍によって鎮圧された。
  2. 文明9年(1477)用土原(埼玉県寄居町)の戦い。長尾景春 VS 太田道灌・上杉顕定・上杉定正・長尾忠景 景春方の長野為兼は戦死した。

総社長尾顕方を挟撃。この時の箕輪方が方業(まさなりで後の長野業正、当時37才)で厩橋方が方業の実兄?賢忠と言う説もあってなかなかわくわくさせてくれる。後に石井讃岐守を富士見に据えたり、地域の木暮・小沢・青柳の諸氏を重用したのも、なるほどと思わせてくれる。そして忘れてはならないのは上泉伊勢守も同様であることである。

  • 大永4年(1524)
    • 長尾顕方の謀反(惣社城:現前橋の総社神社付近)北条氏綱(2代目)に内通した 
    • 長尾顕景の謀反(惣社城:現前橋の総社神社付近)北条氏綱(2代目)に内通した
    徳雲軒の文書 大永4年説(優勢)・でも逆らっただけで挟撃無し?
  • 大永7年(1527)
    • 長尾顕景の謀反(惣社城:現前橋の総社神社付近)北条氏綱(2代目)に内通した
    徳雲軒の文書 大7永年説 ここで完璧に挟撃される?

  • 厩橋城とは Wiki最終更新 2015年1月24日 より本サイト内に取り込んだもの

前橋城(まえばしじょう)は、上野国群馬郡、現在の群馬県前橋市にあった日本の城。前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられた。

利根川と広瀬川を外堀とする渦郭式の平城。周囲に城下町が発展し、今日の前橋市中心街となった。前橋城は江戸時代には前橋藩の藩庁ともなったが、その一方で、暴れ川として知られ「坂東太郎」の異名を持つ利根川に始終翻弄された。

◎歴史・沿革

  • 室町時代・安土桃山時代

前橋はその旧名を厩橋といった。このため前橋城は当初、厩橋城と呼ばれていた。城の起源については諸説あるが、室町時代中期の15世紀末頃に長野氏の拠点であった箕輪城の支城として築かれた石倉城がその始まりであるとされる。

伝承では、石倉城築城時に低地帯を台地の東に流れていた利根川の本流が、天文3年(1534年)の氾濫により流路を変え石倉城の水路に流れ込み、本丸・二ノ丸などを崩壊させてしまった。当時の城主長野賢忠(長野方業、法号・固山宗賢)が残った三の丸を拠り所に再築した城が、後に厩橋城と呼ばれるようになったという。ただしこの厩橋長野氏の系譜ははっきりせず、厩橋の長野氏で築城者とみられる初代の人物も、法号の固山宗賢としか判明しない。学説上で明らかなのは長野氏によって築城されたことのみである。

天文20年(1551年)、厩橋城は上野国に侵攻した後北条氏に付いた。一説には城主の長野賢忠が城を明け渡し長尾景虎(後の上杉謙信)を頼りに越後へ移ったという。なお、石倉城を破壊した利根川はこの天文年間までに厩橋城の西へと流路を完全に移している。

永禄3年(1560年)、景虎の長尾軍が厩橋城を攻め取る。この際に厩橋長野氏を中心とする厩橋衆は分解した。以降、厩橋城は景虎の関東進出の足掛かりとされた。永禄6年(1563年)小田原北条・甲斐武田の連合軍により攻め落とされる。年代に諸説あるが、この時期に厩橋長野一族は上杉家の家督を継いだ景虎改め政虎に断罪され粛清された。賢忠が病気を理由に攻防戦に参陣しなかったからとも、玄忠(賢忠?)の子・彦太郎の馬が暴れたのを謀反と勘違いされたとも言われる。また上杉家の謀略だったともされる[2]。城はその後再び上杉家に取り戻され、越後の北条高広が城代に据えられた。だが永禄10年(1567年)にはその北条高広が北条陣営へ寝返ったことにより周辺は再び北条家の勢力圏となる。

その後、越相同盟によって北条高広は上杉家へ帰参することが取り決められ、厩橋城は上杉方に引き渡された。高広は謙信の死後の天正7年(1579年)勝頼率いる武田方に降伏、引き続き城代として残るも、天正10年(1582年)3月に武田氏が織田信長によって滅ぼされると織田方の滝川一益に城を引き渡す。同6月の本能寺の変の後、神流川の戦いで北条氏直に敗れた一益は上野国から撤退、厩橋城は後北条氏の元に入る。天正18年(1590年)小田原征伐に際して豊臣方の浅野長政により攻め落とされ、同年8月、関東を任された徳川家康が家臣平岩親吉を厩橋城に置き3万3千石を与える。

  • 江戸時代

慶長6年(1601年)の関ヶ原の戦いの後、甲府藩に移された親吉に代わって酒井重忠が厩橋藩3万3千石を任され城に入る。重忠は城の大改修を行い近世城郭へと変貌させ、城には3層3階の天守も造営された。17世紀中頃から18世紀初頭、忠清から忠挙の代に、厩橋の地は「前橋」と改められ、城も「前橋城」と呼ばれるようになる。しかし、大老酒井忠清を出すほどの名門が置かれたのとは裏腹に、前橋城は利根川の浸食を受け続け、18世紀の初頭には本丸の移転を余儀なくされている。

寛延2年(1749年)播磨国姫路藩に転出した酒井氏と入れ替わり姫路より松平朝矩が15万石で前橋城に入る。以後、前橋城は明治維新まで越前松平家の城となった。明和4年(1767年)、利根川の浸食を受けた本丸が崩壊の危機に曝されたが、前橋松平氏は前橋入封までに10度の転封を経験して借財が多く、城を修築するだけの力は既に無かった。時の藩主松平朝矩は幕府の許可を得て前橋城を放棄し、武蔵国川越城に移り、以降前橋藩ではなく川越藩となる。前橋城一帯は川越藩の分領としての陣屋支配となり、前橋城は明和6年(1769年)に破却された。

領主が去り荒廃した前橋領において、領民の前橋城再建・領主帰城の願いは強く、再三にわたり松平家に帰城が請願された。天保年間(1830年 - 1843年)に郡代奉行安井政章(安井与左衛門)らにより利根川は改修され、利根川の勢いが西方に反れた事で城郭崩壊の危険度は低くなった。横浜開港後、特産の生糸の輸出により前橋領の財力が回復すると、文久3年(1863年)12月、時の川越藩主松平直克は遂に幕府に願い出て前橋城の再築を開始した。領民による出資や労働奉仕を受け前橋城は竣工、慶応3年(1867年)3月、直克が入城し前橋藩が再興した。

  • 近現代

前橋城再建から半年の後、大政奉還により江戸幕府は終焉、明治4年(1871年)の廃藩置県により前橋城本丸御殿に前橋県の県庁が置かれたが、他の建屋は取り壊された。府県統合により群馬県が成立した後、県都が当初の高崎から前橋に移され、本丸御殿は昭和3年に老朽化で取り壊されるまで、群馬県庁舎として使われた。

今日、本丸跡地には平成11年(1999年)に竣工した地上33階・地下4階の鉄筋コンクリート建の群馬県庁本庁舎が置かれている。また、二の丸跡地には前橋市役所が置かれ、三の丸跡地は前橋地方裁判所となっている。三の丸外郭の地が明治38年(1905年)に整備され、前橋公園となった。この他、前橋城址には、移築された群馬県庁昭和庁舎と、群馬会館の2つの近代建築遺産がある。現在の城址は市街化が進み、城の面影は少ない。


  • 歴代城主

・長野氏
   長野賢忠:山内上杉氏家臣

・越後北条氏
   北条高広:上杉謙信、武田信玄、北条氏康に寝返る。
   北条景広:高広の子、御館の乱により戦死。

・滝川氏
   滝川一益:織田氏家臣、神流川の戦いに敗れて伊勢に帰国。

・越後北条氏
   北条高広:城を落とされ、北条氏邦に従属。

・平岩氏
   平岩親吉:徳川氏家臣、初代前橋藩主。

・酒井氏
   酒井重忠:同上、前橋藩主。(以下9代続く)

・越前松平氏
   松平朝矩:同上、前橋藩主。
   松平直克:政事総裁職。
   松平直方:前橋藩知事、前橋県知事。

◎遺構
開発が進み遺構の保存状態は良くないが、石垣、土塁、堀の一部が良く残る。建造物としては、市内総社町に城門が移築され現存する。また、松平直方の邸宅が、市内川原町の大興寺内に移築現存する。

  • 厩橋城とは 「群馬県古城塁址の研究(山崎一氏著)」より
   昭和の時代に作成された書籍であり、現在は緑色のところが新しい説に置き換わっている。

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     酒井氏時代の末期縄張り           慶応3年当時の縄張り

 前橋城(厩橋城)は天下の名城である。名城とは、戦略点に築かれ、構造の優越と目覚ましい歴史とを誇る城でなければならない。たとえ千丈の石塁を積み百棟の門を連ねても、戦術的価値に乏しく、一片の史話も語られていないものは決して名城とは言い難い。

 永禄の頃、謙信、氏康、信玄の3傑は厩橋城を大渦の中心として、「三国志」さながらの千変万化の激斗を展開し、幾多の史実を残し悲話を伝え、残塁上の古松を渉る川風さえ凛凛として人々の心に何事かを訴え続けている。のみならず以下に記述するように、城郭構造上にもまことに興味深きものがあり、既に失われてしまったこの偉大な文化財に、限りない哀惜の情をわき立たせてやまない。

 厩橋城(前橋城の古名)の前身は石倉城である。総社長尾の駿秀長尾忠房は蒼海城を棄てて石倉に築いた。古い形式の蒼海城に改修に見込が立たなかったからであろう。しかし、利根の激流を利した石倉の方が城地に適していた事は言うまでもない。

 当時、現利根川の流路には久留間川という小流があり、利根の本流は広瀬川の線であった。忠房は城の要害を増すため利根川から久留間川に運河を掘ったという。ところが、天文から永禄にかけての数回の洪水に利根川はその運河にのって久留間川の線に移り、石倉城はさんざんに押し崩されてしまった。変流時期を応永34年(1427)と結論

 忠房4世の孫長尾賢忠(景忠ー忠景か、その子顕忠)は石倉城の残部を基礎に新石倉城を築いた。これが厩橋城である。・・・・・・現在前橋城対岸に遺構のある石倉の砦とは全く別のもの。・・・・・・長野為業~顕業・賢忠が築城して居城?


        


        

  • 最終更新:2016-07-21 16:51:47

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