受連の覚書について

受連の覚書について

  • 受連の覚書について ・・・戦国時代の中期、甲斐武田氏によって数回に及び、西上野への侵略が行われた。その際、甲州勢は、この地域で破壊工作や略奪などを行った。これを一般的に「乱暴狼藉」と言い、これを抑制してもらうための、文言が書かれた文書を「制札」と呼んだ。この制札をめぐって、戦乱の中を奔走した長年寺住職である受連の、言ってみれば日記が「受連の覚書」である。

「箕輪城と長野氏」の中で近藤氏は次のように訳している。

  • 意釈すると、永禄四年±月二十四日に武田信玄が小幡国峰に出陣のとき、ただちに参上して制札を申し請け、武田方の数回に及ぶ箕輪攻撃のたびに一人で寺に留まり、この制札を持って戦陣の中をかけ廻った。この七ケ年の間には初戦(斬り合い)にあうこと一回、衣服をはぎとられること三度、馬や物が盗みにあうこと数を知らず、両年には餓死する者もあり、寺家門前の二〇〇人ほどの人々はことごとく離散し、あるいは他所へいって死んでしまった者もいる。そんな中で自分1人この地に留まり、山に臥し、里に隠れて寺を守った。当時この地方、上下百里の間の神社仏閣は、どこもかしこも人のいるところはなくなつた。そんななかで、受連は一人の稼ぎで、長年寺の昔からの建物を護り通した。

  • もうー通の印判状は、※1永禄六年亥の年十二月五日に、倉賀野・木部の城攻めのために信玄が陣をとったとき、その陣中へ出向いていって重ねて申し請けたものである。この二通の印判状をもつて寺を無事に続かせ、※2永禄九年九月二十九日に箕輪落城の後、晴信(信玄)にお目にかかり、当寺の寺領は前々の通り渡し下されることになつた。 ※1 12月 武田信玄は倉賀野城攻撃のため、木部城を再興して、陣をはった。(★浦野家文書)   ※2 これにより箕輪落城は、永禄9年9月29日が定説となった

  • 最終更新:2016-07-19 18:39:42

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