国峯城奪還と倉賀野城

 ◆国峯城攻略戦
箕輪初心:生方▲箕輪城172峰岸純夫説を加味した『武田信玄の西上州侵攻&箕輪城落城』 より
  11月 政虎、関東に出陣する。
   2日 武田晴信は相木領内松原神社で、高田・諏訪(松井田)の戦勝祈願をした。
      西上野へ出陣する。(笹本正治氏 武田信玄)
   18日 上野高田城、二日後に国峯城を攻略。
   西上州を侵攻を開始し、国峰に在陣した。
                        (★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
    国峯城の城域.jpg 国峯城攻防戦.jpg
  ●国峰城奪還
   武田氏余地峠を越え砥沢に到着。
   武田信玄は小幡信貞の従兄弟の小幡図書之介に乗っ取られた国峰城
   を奪い返して、小幡憲重・信実(重貞→信実→信貞)に復帰させた。
   武田信玄は貫前神社に制札を出した。
  ※霜月(11月)24日
   小幡に晴信様が御出張の時、直ちに参上し申し出て受け取った。
                        (★「長年寺文書」の「天産受連覚書」)
   謙信公の越山・・・2.1561年(永禄4年11月~5年3月
  12月
   上旬
   上杉政虎は態勢を立て直したのち、関東味方中の倉賀野尚行が拠る上野国群馬郡の倉賀野
   城を攻囲する甲州武田・相州北条連合軍と対峙した。
   そうしたなか、敵軍の撃退に貢献した倉賀野衆の橋爪若狭守に感状を与え、7日に忠功を
   称えて一所を宛行うことを約束する。
   7日
   北条氏と共に倉賀野城を攻める。
    永禄4年倉賀野城の攻撃.jpg 永禄4年武田・北条連合の逆襲01.jpg
   倉賀野城攻めを推察してみた。木部氏は武田方に降ったとみるのが妥当と思う

  ※国峯城奪還後に、北条勢と倉賀野城を攻めたとある。てことはこの時、一時的にでも
   木部氏寝返った?でなければ、わざわざ平井城方面から烏川を渡り、迂回して倉賀野城
   東南部より攻めかかったことになる。普通に考えたら、木部⇒倉賀野と攻めるのが上等
   手段と思えるが・・・
   また、永禄5年6月に和田業繁は、戦況が不利とみて武田信玄に降伏するのだが、先ん
   じて木部氏もこの時降っていたと考えた方がしっくりくる。であるが故に木部氏は、50騎
   を擁する先方衆として召し抱えられたのではあるまいか。問題は木部姫伝説である。
   15日
   上杉政虎は、改めて忠功を称えるとともに、約束通りに一所を宛行った。
   15日前後
   甲州武田・相州北条連合軍が上州倉賀野表から退散したので、相州北条陣営に属する下野
   国衆・佐野昌綱が拠る下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城に攻め寄せる。
   景虎のもとに上野・下野・武蔵・常陸・安房・上総
   ・下総の国人衆が集まり、氏康はその領国の殆どを失う。
   上杉政虎、将軍義輝の一字を賜り、諱を輝虎とす
   21日
   上杉政虎は、佐野と足利(下野国足利郡足利荘)の境目の城砦を、越後衆の計見出雲守
   (実名は堯元か。譜代衆)・吉江中務丞忠景(旗本衆)と共に守る足利衆の稲垣新三郎
   の忠功を称えて感状を与えた。
   26日まで
   越後国(山内)上杉輝虎(永禄4年12月中に将軍足利義輝との間で使者の往来があり、将軍
   から偏諱を授与されて26日までに輝虎と名乗る)、
   27日以前
   上杉政虎は退陣し、年越しのために上野国勢多郡の三夜沢神社一帯に宿営した。

  ※武田信玄 VS 上杉政虎(上杉謙信)、武田信玄は対外方針を転換した。
   上野国へ駿河国へも視野にいれた。武田信玄 VS 武田義信★ちょっと確執が始まった。
   武田信玄・・・今川領国への侵攻を志向した。
   武田義信・・・※武田義信の妻は今川義元の娘だった。
   武田信玄 VS 武田義信。派閥抗争に発展した。
  ※諏訪勝頼(武田勝頼)は高遠城主となった。

 ◆永醸五(四)年小幡(国峯)城の陥落 (永禄4年国峯城陥落に読み替えてみる)
箕輪城物語より
   小幡城主小幡尾張守信定は業政の女婿中でもつとも豪勇、英智であることで有名を武将
   であつたが、北条氏康が得意とした反間苦肉の計におちいつて、相婿である弟の国峯城
   主小幡図書介景定と不和となつた。景定は兄信定が武田信玄に内通したと疑つて、これ
   を業政にうつたえた。信定は事実無根であると主張し、百方陳弁したけれども、業政
   の疑は晴れないで、遂に信定は逐い払われて、景定は小幡城を併せ、居城を国峯から
   小幡に移した。信定は怒り、且怨んで、遂に甲州に亡命して信玄に仕えた。

   信玄は大いに喜んで信定を優遇し、西牧の砦を攻略して信定に与え、長野氏の動静を
   報告させて上州侵入の好機をねらつていた。丁度その頃、箕輪城では業政が病死し、
   その喪を秘していることを探知したので信玄に知らせた。そこで信玄は機到るとばかり
   ー万余の大軍をひきいて、余地峠を越え南牧に入力、信定を信玄の本営に招いて、景定
   の性格を開いた。信定が答えてぃうのには、景定は大剛の士であるが、臨機応変のオに
   とぼしく、事にあたって狼狽する気質であると。信玄はこれを開いて一策を内藤昌豊に
   与えて、間通から進ませ、奇計で景定を小幡城から追いはらい、信定を本領に復帰させ
   て、その上援兵も与えて甲州に帰つた。こゝで信玄は小幡城に拠点をすすめたのであり、
   箕輪城攻略の基地を定めることができたのである。

    国峯城の奪還.jpg
    文書より奪還の様子を推察してみた

   その奇計につぃて、上州治乱記の一節を左に抜粋して置く。
   信玄上野国を攻めんとし、兵一万三千を率い甲州を出発し、余地峠を放え、上州南牧の
   砦に到着す。依て尾張守信定を招き、信定に尋ねけるは、足下の弟図書之介が気賀如何
   と、信定答えて臼く、景定は器量も力も人に勝れ、武勇抜群、大剛の者なれ共、事に驚
   き周章する性質なりと、信玄之れを観き、さては術こそあらめと、内藤修理に下知をし、
   小荷駄一頭に提灯二個宛附けさせ、馬追人足にも松明一本宛持たせ、旗本にては竿頭に
   提灯を結び付け置き、之れに点火して差上げなば、汝が受持の提灯松明に一時に点火せ
   しめ、小高き所に追い上ぐ可しと示し合せ、同時に総軍を三分し、箕輪、安中、松枝の
   三方面に配備し、牽制の手筈をなし置き、旗本、脇備数千の兵を進め小峰城に押寄せ、
   合図の提灯差上げしかば、昌豊之れに応じ、小荷駄の提灯松明に即時に点火せしめて、
   高き所に追い上らせ、鬨をどつと揚げしかば、図書大いに驚き度を失い、敵は無比の
   大軍なり防ぐこと叶うまじと、城を開きて落ち行きけり。甲州勢追乱暴、瞬く暇に
   小幡城を乗取りけり。と。
 

  • 最終更新:2019-06-08 23:06:38

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