多胡碑研究の歴史

多胡碑研究の歴史

  • 多胡碑研究の歴史・・・★和銅4年(711)多胡碑が多胡郡が設置された。羊(ひつじ)という渡来人が東国へ移住し、多胡郡を建郡。朝廷は羊に支配を任せる。弁官局からの命令を記述した内容となっている。700年後、建久6年(1509) 連歌師:宗長の「東路の津登」で多胡碑を紹介した。約900年後から、研究が急速に発展した。参考文献は「多胡碑の江戸時代」:多胡碑博物館著である。実に素晴らしい研究であった。400円って、安すぎる。十分、楽しめた。3月9日、16日は3碑は覆堂の中に入って、直接碑文が見られる日のであった。
箕輪初心★多胡碑&「多胡碑研究の歴史」 より

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◆◆ 上毛4碑の歴史 ◆◆

  • ★上毛3古碑を年代順に追うと、以下のようになる。
    • ①681年の高崎市山名:山上碑・・・放光寺の僧:長利が、自分の系譜を記し、母の黒売刀自を供養したものである。
    • ②711年の高崎市吉井:多胡碑・・羊(ひつじ)という渡来人が東国移住し、多胡郡を建郡。朝廷は羊に支配を任せる。
    • ③726年の高崎市山名:金井沢碑・・石碑を建てて神仏に誓った。=先祖供養の仏教碑なのである。群馬への仏教の伝来が東大寺・国分寺建立以前にあったことを意味している。
    • ④801年の山上多重塔(群馬県みどり市山上)道輪という僧が、朝廷や衆生の安楽のために法華経を安置する塔を建てたものである。平安時代初期の東毛への仏教文化伝来を知る上で、重要である。

  • ◆◆ 多胡碑 ◆◆
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    • 【1】多胡碑
    【銘文】
   弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
   良郡并三郡内三百戸郡成給羊
   成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
   宣左中弁正五位下多治比真人
   太政官二品穂積親王左太臣正二
   位石上尊右太臣正二位藤原尊
    
    【読み方】
   弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘
   良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて
   多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅
   に宣る。左中弁・正五位下多治比真人。
   太政官・二品穂積親王、左太臣正二
   位石上尊、右太臣正二位藤原尊。

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    【現代語訳】
   朝廷の弁官局(べんかんきょく)からの命令があった。
   上野国の片岡郡・緑野郡(みどのぐん)・甘良郡
   (かむらぐん)の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡を
   つくり、羊(ひつじ)という人に支配を任せる。
   郡の名前は多胡郡としなさい。
   和銅4年(711年)3月9日の甲寅(きのえとら)の日
   に宣(の)べられた。
   左中弁正五位下:多治比真人(たじひのまひと)の宣旨である。
   また、多胡郡を作ることを決めたときの太政官は
   二品(にほん)位:穂積親王(ほづみのみこ)、
   左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様、
   右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様。
(★多胡碑博物館の説明書き)

    • 【2】周辺遺跡
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    • 【3】多胡碑博物館
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  ※高句麗の広開土王の碑文の拓本がある。撮影禁止であった。

 「多胡碑の江戸時代」

  ・和銅4年(711)多胡碑が多胡郡が設置された。
  ・8C後半 多胡碑が建碑されたと考えられる。
  ・9C後半 郡衙の衰退・・・律令制の崩壊、多胡碑も忘れ去られた。

  • 連歌師:島田宗長・・・建久6年(1509) 連歌師:宗長の「東路の津登」で紹介された。約700年後のことである。約700年間、多胡碑が残在したのかを伝える資料はない。
    • 「その日、九月儘なるべし。神無月朔日になりぬ。又発句、神無月 里やふりにし 花の春

   此別当俗長野姓石上也並松上野國多胡郡
   弁官府碑文銘曰太政官二品穂積親王左大臣
   正二位石上尊此文系図(★古い字)有布留社あり布留今道

   ひの光や ふしわかねは 石上 ふりにし里に花咲にけり。
   当月異名小春にそよへて過にし花の春に
   やと申計也。武州成田下総守顕泰亭にして
   あしかもの みきはゝ雁の 常世かな 
   水郷也。舘のめぐり四方沼水幾重ともなく蘆の露
   枯れ廿余町四方へかけて水鳥おほく見えわたり
   たるさまなるべし。同千句興行第一句発句に・・・
   ・・・(略)・・・

    ★近日、宗長を紹介予定

  • ●伊藤東涯:伊藤仁斎の子ども
    • 享保元年(1716)~元文元年(1736)京都の儒学者:伊藤東涯が執筆した随筆、「ゆう軒小録(ゆうけん)」の二書に多胡碑のことが書かれている。
    • ①「盍簪録」・・碑の図説&解説 石上・・石上麻呂、藤原・・藤原不比等
    • ②「輶軒小録」・・「壺碑」について 約200年の間を空けた後・・・多胡碑は全国に知れ渡っていく。
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    • ●青木昆陽
    • 延享2年(1745) 「夜話小録」
    • 明和3年(1766) 「続昆陽漫録」
    碑文が載っている。小幡羊太夫勝宗の墓と伝えられている。

  • ●高橋道斎・・・江戸中期、多胡碑を世間に広めた人物
    享保3年(1718)下仁田で生まれた。
    陽明学者、書道家、俳人である。
    陽明学を中根東里・井上蘭台に学んだ。
    書は唐様の書家:高頤斎に学んだ。
    俳人・・西毛俳壇の中心人物。芭蕉句碑を建てた。
    高橋道斎が興味を持ったのは多胡碑の書体=丸みを帯びた
    楷書である。 六朝?中国北魏?ではないかと考えたそうだ。
    そして、上野国に何故こんな文字を書く人がいたかという
    疑問を持った。道斎は帰化人の文化ではないかと考えた。
    多胡碑(高崎市吉井町)の歴史的・書的価値を見出し広く世
    に紹介し、多胡碑研究の出発点となった。道斎の功績は大きい。
(★下仁田町教育委員会)
    • ★高橋道斎の墓は、下仁田町下仁田の西山常住寺境内にある。高橋道斎の弟子の市河寛斎は南牧出身で、子の市河米庵は「幕末三筆」と呼ばれた。

  • ●沢田東江
   ・享保17年(1732)生まれ。
   ・宝暦3年(1753)~4年(1754) 多胡碑の拓本を配った。
   ・宝暦7年(1757)「上毛多胡碑碑帳」を師:高橋道斎と出版した
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  • 岡村良通(林子平の実父)は「上毛多胡碑碑帳」を読んで・・・・仙台の多賀城碑を調べた・
  • 山岡まつ明・・・碑の重要さを説いた。
  • 滝沢馬琴・・・「兎園小説外集」 伊勢平蔵貞丈説を採った。「羊太夫説を否定。」
  • 大田南畝・・・沢田東江と親しかった。「半日閑話」で多胡碑の寸法を書き表した。

  • ●高桑蘭更
   ・安永2年(1773)多胡碑を訪れ、吉井連の入集句「俳諧多胡碑集」を編集し
    翌年出版した。
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  • ★羽鳥一紅(下仁田から高崎に嫁にきた。高橋道斎弟子)
   ・宝暦5年(1758) 「あやにしき」を著した。『くさまくら』(1764~72)がある。
   ・天明3年(1783)『文月浅間記』浅間の大噴火の惨状を描いた。
   ・多胡碑の句を詠んだ。

  • ●高山彦九郎
   ・安永4年(1775)太田細谷から多胡碑を実際に見た。「乙末の春旅」に多胡碑を記した。

  • ●富岡正美1774~1859
    「上野国名跡考」=地名研究
    小泉城主:富岡秀高の8代の孫・・・
    高崎藩主大河内氏に70余年、仕えた。
    ※宮部義正の弟子である。

   ・文化6年(1809)「上野国名跡考」を著した。 
    ①安蘇・・の地名とは、万葉集には「上野の安蘇の・・・」
    箕輪軍記「北は安蘇山相摩の麓・・・箕輪・・」
    高崎市赤坂の「恵徳寺」に墓がある。

  • ●作者不詳・・・■「上野誌」池村にあり。・・・
  • ●作者不詳・・・■「上州風土記」多胡碑池田村にあり。

  • ●神沢杜口
   ・明和年間(1772~) ~「翁草」の中で、多胡碑を紹介している。
   ★箕郷町誌か安中市史で、「高崎市箕郷町出身で、安中藩剣術指南役→
    京都奉行所与力。」とあった気がするが・・・記憶違いかなあ?

  • ●鹿沼政み(まさきみ)
   ・天正期の宇都宮城主:宇都宮国綱の家臣で鹿沼城主の子孫・・・
    川越藩→前橋藩:酒井家側近「閑窓秘話」で上毛3碑を記述した。

  • ●奈佐勝皐(かつたか)
   ・天明6年(1787)「山吹日記」江戸~旧鎌倉上道~~高崎・・
    吉岡の華蔵寺滞在、多胡碑に行った。

  • ●清水浜臣
   ・文政2年(1819) 「上信日記」木部白満(つくもまろ)に聞いて、3碑に行った。
    拓本をとった。

  • ●木部白満(つくもまろ)( 1775~1841 )上毛三碑の研究
   ・ 高崎山名の葉タバコの豪農:木部善蔵の子として生まれた
   ・文政2年(1819)「 上野三碑考」を出版した。
    上野三碑として有名な多胡碑、山上碑、金井沢碑の研究論文集で
    三碑の研究書としては最初のものである。
    本居宣長門下で常陸の古学者:岡庭真垣と木部白満の共著である。

  • ●市河寛斎
   ・下仁田出身。高橋道斎に学んで、江戸林家門下・・
   ・文化8年(1811)「金石私誌」多胡碑を調査した。・・石材が粗い。

  • ●狩谷棭斎(かりやえきさい)
   ・考証学者である。『倭名類聚抄箋注』を著した。
   ・文政8年(1818)『古京遺文』多胡碑などの金石文を集めた。

  • ●伴信友
   ・天保7年(1836)「上野三碑考」宗長の「東路の津登」&拓本?からの考察が出て来る。

  • ●小島成斎
   ・市河寛斎の子:市河米庵(下仁田の幕末三筆)&狩谷棭斎の弟子→老中:阿波正弘の右筆
   ・『酣中清話』・・・多胡碑が出て来る。

  • ●栗原信充(のぶみつ)
   ・柴野栗山&屋代弘賢の弟子→島津久光の家臣
   ・文政2年(1819)『柳庵随筆』 宗長の「東路の津登」から多胡碑を説明した。

  • ●飯塚久敏
   ・高崎倉賀野→橘守部に師事。
   ・文久2年(1862)「上野國古碑考」

  • ●富田永世
   ・埼玉吉田村→清水浜臣の友達→飛脚屋藤岡支店長
   ・嘉永6年(1853)「上野国名跡考」上州の地誌研究

明治以降の多胡碑

  • ●楫取素彦
   ・明治9年(1876) 熊谷県→群馬県が新設された。
    楫取素彦が初代県令として就任した。
    楫取素彦は多胡碑を訪れ保護の重要さを政府に訴え、多胡碑周辺
    の土地を買い上げた。

  • ・明治27年(1995)『上野史談』
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  • ・昭和20年(1945) 文部省通達により多胡碑は桑畑に埋められた。アメリカ軍からの隠匿であった?

  • ・昭和29年(1954) 国の特別史跡に指定。
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  • ・昭和時代・・・群馬県の元総理大臣:福田赳夫、福田康夫の訪問。ノーベル賞受賞者の湯川秀樹の訪問。

  • ・昭和50年(1975) 皇太子:徳仁親王の訪問。

  • ・平成8年(1996) 多胡碑記念館が設立。
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  • ・平成時代・・・多胡碑研究の進展
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  • ・平成23年(2011)?? 多胡碑周辺遺跡の発掘調査


    ★参考文献・多胡碑の江戸時代:多胡碑博物館
    ★実に素晴らしい研究であった。

◆山上の碑

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◆金井沢の碑

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  • 最終更新:2016-05-30 13:36:23

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