大河ドラマ制作

そして物語は、破城・崩壊してしまった。だが、もう一度頑張ろうと、思った 棟治

 ◆大河ドラマ制作 もうちょっと内容練り直し中 2017.02.26
  ・タイトル   :「荒船の夕陽」⇐ 工事中
  ・サブタイトル :箕輪城と上州戦国史(シナリオ出来たらその時点で変わるかもね)
  ・時代設定   :戦国時代中期、長野業政が元服したあたり(1500年初頭)から
           箕輪城落城(第1部)武田氏滅亡(第2部)関ヶ原(第3部)まで

  ・大河ドラマオープニング曲のイメージ
   イントロの尺八が終わって、和太鼓が鳴り響くあたりがいい感じです。
   業政の耳に湛光(たんこう)風車と言う虚無僧もいて、違和感なしで良い。
   この曲に合わせて、箕輪衆が丘の上から鼻高の信玄本陣目指して駆け降りる。
   軍記物の業政が集中豪雨を利用して、武田勢に奇襲を掛けるサビの部分ですね。
   土砂降りの雨で、もちろん上州名物雷さんが暴れてます。

   本当に大河ドラマ(NHK)にしようとしたら1部~3部までは、約100年あるから長
   すぎると思う。そこで、前の方か後ろを切る必要があると考えるが、悩まずにおく。
   今から出来てもいないものについて、悩んでも仕方ないからである。

 ◆ドラマの初回は、古代毛野氏の騎馬武者たちが上野西方の峠を越えて出兵して行く
 ※実際には、古利根川を船で下り香取海を南下して後の江戸湾より外海へ出る
  そして後の東海道沿岸から瀬戸内海を通じ、朝鮮半島へ出兵していったようだ。
  防人の時代は、東山道を登って行ったのかもしれん。

  ナレーション、時は下り戦国時代、一騎の武者が峠を越えてやって来る・・・

 ◆今度は実在した主要人物について、先に検討することにした。

 ◆シティギャラリーのジオラマ・・・今日は休みだったので見に行ってきた。お目当ては
  残念ながら長野堰ではない、井伊直政以降と思われる江戸期以降の和田城ジオラマだ。
 

業政が箕輪城主になるまでの時代

 ◆初めに
   箕輪長野家2代目は。憲業でありその次男が業政とされてきた。それが近年になって
   実子ではなく、厩橋長野家からの養嗣子では?と言う説が有力視されるようになった。
   ここでは、その説をとり業政の成年時代を推定してみる。

   また以降このページでは、一説や推定の域を出ない文面で、特に強調したいところは
   緑色で表記いたします。いずれにせよ業政の若い頃の様子が定説化しなければ、大河
   ドラマ化は困難を極めると思われる。推測やあったかもしれない連発で、しまいには
   他人のしたことを主人公に当てて話を進めるとか、どっかで見たような大河ドラマに
   なってしまい、なんだかなあ・・・である。面白ければ良いけれどね。

   業政同心衆とわざわざ表記したのは、永禄年間に箕輪城を対外勢力から守る為、同心
   してくれた12高家として出てくるからである。利根川より東(河東地域)は敵対勢力
   との最前線にあり、永禄年間には厩橋長野氏は没落した。その後これら高家の領主達
   は、あえて河西地域の主となった、長野業政に引き続き同心した。江戸時代に書かれた
   もので『長野信濃守在原業政家臣録』があり、この中で河東地域の高家小領主たちが重
   く用いられている。かつて共に戦い長野家の隆盛を作り上げてきた、仲間であったなら
   当然の結果であろう。

 ◆上杉家主流派
  ・上杉憲房   ・上杉憲寛
   顕定没後長野家と共にしてきた関東管領である。憲房扇谷から業政へ正妻を、憲寛
   里見義堯へ長野家から正妻をと橋渡しをして、隆盛を共にしてきた。さらに近年では
   義堯の子義樹を長野家の養子に迎えたという説も出てきている。

  ・長野顕業(仮) ・長野憲業  ・長野(大胡)
   「まえはし殿、箕輪殿、大こ殿」と那智大社文書ある。没落以前は、先頭に名が上げて
   あるので、厩橋長野家が宗家ではないかと言う説がある。

  ・長野業政(方業)・長野賢忠
   この時代の中心人物となる方業と賢忠の兄弟は、厩橋長野顕業の子として生まれる。
   父親の顕業の名は、比定できる史料は無いがネット上でそれらしいのがあったので採用
   してみた。長尾景春の乱の後上杉家に復帰した時、顕定から一字拝領したとするもの。

  業政同心衆
  ・下田大膳太夫 ・上泉武蔵守 ・引田伊勢守   ・北爪周防守
  ・青柳藤右衛門 ・木暮丹後守 ・小沢治部兵衛亮
   下田・引田を除くと、室町以前より土地に根付いた小領主(高家)であると思われる。

  ・長尾景長   ・高田
   この時代に白井・総社家が没落し、代わって足利長尾景長は、管領家の家宰になり
   活躍した。白井・総社・足利長尾氏?及び高田氏は、長野氏と遠い血縁関係にある。
   この時代そうやって力を付けてゆくので、どこも似たようなものではある。
 
 ◆反対勢力その他
  ・北条氏綱   ・北条氏康
  ・長尾顕景   ・長尾景誠  ・成田
  ・小幡(国峯) ・安中    ・藤田
   このうち北条氏は敵対で間違いないが、あとの4氏はわけがある。同じ上杉家中?
   にありながら、享禄年間に幼い憲政を担ぎ上げて公然と管領上杉憲寛に反旗をひる
   返したのだ。憲寛に付いた長野・高田は敗退している。なのに業政は直後に箕輪
   長野家を継いでいて、しかも上杉家中では最大の軍事力を誇るようになる。なぜ?

 ◆おわりに
  ・以上のような登場人物を軸に、定説とされている出来事を元に、足らないところを
   推定して物語りを大筋でたどってみる。
 

業政の物語、大筋を見る 

  ◆文明3年(1471) 上杉顕定は古河御所を占領して勝利している。
  ①足利義政の文書、「長野左衞門尉とのへ」 ※久保田先生・長野氏は上州の代表
   文明9年景春方「厩橋長野左衞門尉為業」武蔵針谷原の合戦で死亡
  ②「享徳の乱後」の長野氏の分立 ???年、「実相院諸国旦那帳」(★那智大社文書)
   「上野国まえはし殿 名字なかのと御なのり候えどもいその上氏也、箕輪殿・大こ殿~」
  ※久保田先生・・・熊野神社が有力であった。伊勢神宮はそれから後の時代である。
    まえはし殿・・・厩橋長野氏(宮内小輔の冠途・・)
    みのわ殿・・・・箕輪長野氏、庶流に室田長野氏
    大こ殿・・・・・大胡長野氏(左馬介の冠途、厩橋長野氏の連枝)
  ※久保田新説・・・長野宮内少輔系方業などの厩橋が本家ではないか?
   那智大社文書には長野3家「まえはし殿、箕輪殿、大こ殿」と初めにあるからである。

  ◆文明三年(1471)七月二日付 『群馬県史 資料編7 中世3』 P.240  
   『將軍足利義政感状寫』
   【太田圖書助は佐野越前入道を降伏させ、「將又攻寄上州佐貫庄館林舞木城之刻」、
   圖書助らは多くの疵を被り、討死する者もいた、との記述。攻められたのは館林城で
   はなく、舞木城か。】 館林城(実は大袋城=赤井氏)と、舞木城を攻めた?
   佐貫系の舞木・青柳氏は没落している。自称佐貫系赤井氏が台頭。
   ・説①この当時いわゆる沼に3方を囲まれた館林城は築城されていない。実は大袋城説
   ・説②館林市史によると古河公方の力添えで館林城は築城されていた。

  ※大袋城(群馬県館林市羽附字富士山)応永の頃(1394-1427)、この地を支配していた
   羽継(はねつぐ)氏は、関東管領・上杉氏の有力な被官であったが、禅秀の乱で没落し
   、赤井氏が台頭した。その赤井照光が文明年間(1470頃)に築城したとされる
   (『日本城郭大系』)。

   台頭してきたばかりの赤井氏に、大袋城よりはるかに規模の大きい館林城が作れるで
   あろうか?しかも大袋城から時(世代)をおかずにである。という事で①の大袋城説
   が適当と思われる。ただし、大袋城に千人規模の立てこもり可能であればだが。 棟治

  ◆文明5年(1473)長尾景春、橋林寺開基。「上毛剣術史(中) 剣聖上泉信綱詳伝」より 。
   厩橋城このころ築城(改築?)ともいわれる。

  ◆文明6年(1474)、石上寺&八幡神社が造られた箕輪城もこの頃整備されていたと考え
   られる。城より先にお寺を造る人はなずいないだろう。

  ◆文明8年(1476)関東管領山内上杉氏の家臣長尾景春(群馬白井城主)が鉢形城を築城

  ◆文明9年(1477)5月 長尾景春の乱・武蔵針谷原の合戦で、景春方の長野左衞門尉為業死亡。
   この後上野の地が戦乱に巻き込まれるが、厩橋・箕輪両城が築城改築された説はあり得る。

  ◆文明14年11月27日(1483年1月6日)足利成氏と両上杉家との間で和議が成立。
   足利成氏は幕府から赦免された。※30年にも及んだ享徳の乱は終結した。
   上杉顕定&上杉定正は対立したままだった。

  ◆文明18年(1486) 太田道灌が殺害された。
   太田道灌は、群を抜く大きな江戸城:扇谷の石垣修理しようとした。
   主君の扇谷上杉定正は「謀反だ。」と思った。
   そこで、扇谷上杉定正は糟屋邸(相模国糟屋現:神奈川県伊勢原市)に誘い出し、殺害。

  ◆長享元年(1487)  長享の乱が勃発
   山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂した。抗争は各地へと広がっていった。
 

業正の生誕から上杉憲房の管領就任まで

  ◆延徳3年(1491)長野業正の生誕、幼名は松代(業盛と同じ仮)、厩橋長野顕業の子
   長野賢忠の弟である長野方業=長野業政説(飯森康広説)をとる事にする。
   つまり箕輪長野氏先代(長野憲業・信業?)の、養嗣子となって長野家を継ぐ事になる。
   業政は本家の座を奪い返す形になるが、そこにドラマを感じる。

  ◆明応3年(1494) 上杉顕定は東国における「古河公方&管領体制」の再構築を図っていた。
   特に足利政氏の弟を上杉顕実として養嗣子として迎えた。密接な関係を築いた。
   上杉憲房を差し置いて、上杉顕定の正統な家督後継者に据えられたと考えられる。
                             (★久保田順一先生の講演会)
  ◆文亀元年(1501) 長年寺が創建:長野業尚
   長野業尚か憲業が雲英(+恵応)和尚を招いて長年寺を創建?(★秋本太郎先生)
   長野氏系図には、鷹留城を築くとある。箕輪城も築くともある。

  ◆文亀3年(1503) 長野業尚が死亡。(★みさとの歴史)            
   長野憲業が家督を継承。

  ◆永正元年(1504) 立河原の戦い
   駿河守護:今川氏親&伊勢宗瑞(北条早雲) VS  上杉朝良
   結果・・・上杉朝良 2,000人余りの死者を出して大敗。
    「長野孫太郎房業、上杉顕定に従い、戦死・・・」
   しかし、越後上杉家の援軍を受けて反撃に転じた。

  ◆永正3年(1506)~4年 古河公方内の相続争い(永正の乱)
   長野賢忠、橋林寺に寺領寄進(厩橋長野家の家督継いだ?)

  ◆永正4年(1507) 関東管領山内上杉顕定の弟で、越後守護:上杉房能が、守護代:
   長尾為景(上杉謙信の父)に拠点を急襲された。追撃を受け8月7日に天水越で自刃した。
   上杉顕定の養子:上杉憲房と上杉朝良の妹の婚姻が成立して
   山内・扇谷両家の同盟関係が復活した。憲房の嫁 説①

  ◆永正5年(1508)北条早雲は越後栖吉城:長尾為景&武蔵:鉢形城:長尾景春(伊玄)
   と結んでいたため、これを契機として両上杉氏に反旗を翻した。

  ◆永正6年(1509)7月、古河公方の内乱を収め、上杉顕定は憲房と共に越後に攻め入った。
   上杉顕定は長尾為景(上杉謙信の父)に殺された越後の弟の弔い合戦のために、
   越後上田庄(新潟県六日町)に遠征し、長尾為景を府内(上越市)に退却させた。
   業政は、兄賢忠に付いて、上杉顕定と共に越後へ出兵したであろうか?
   宗長『東路の津登』「7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より出立。」

  ◆永正7年(1510)7月19日、10日余の激戦の後、両上杉氏は権現山城を落とした。   
   長者原の戦い、長尾為景は佐渡の本間一族(娘婿)の力をかり、長者ヶ原で上杉顕定
   を攻撃した。上杉顕定は長野為景の信濃の援軍:高梨政盛に敗北し、自刃。享年57歳。
   仮説 この時越後へ従軍してたら業政は危なかったね、たぶん憲房付きで白井城
   このあたりで上杉朝良の娘を、業政に娶らせて自陣営に取り込んで顕実と対抗しよう
   と画策したかもしれない。また長野憲業死亡説、弟:長野信業が鷹留城主から箕輪城主
   となったする説があり、混乱する上杉・長野家において業政の存在は非常に大きい。

  ◆永正9年(1512) 長野憲業が長年寺に壁書を提出
(★榛名町誌・新編高崎市史:久保田順一先生) 
   上杉顕実は長尾顕方や成田顕泰の支援を受けて武蔵鉢形城に拠った。
   憲房支持の横瀬景繁・長尾景長に攻められて敗北して実権を喪失する。
   白井・総社長尾家の没落
   業政は憲業と共に憲房側として、鉢形攻めに参加しているかもね
   上杉憲房は上杉顕実と争って勝利し、山内上杉家の家督を継いだ。
  ★上杉憲房が自分の妻の兄:上杉朝良の娘を長野業正に嫁がせることで
   権勢を維持しようとした からであると考えたのは、この頃であろうか?
   長野憲業は本拠を箕輪城に移す

  ◆永正10年(1513) 長野憲業の立願状:榛名神社
   長野憲業が100疋を榛名神社に寄進。大戸城の攻略を祈願(★みさとの歴史)
   (*海野棟綱の息子?娘婿?真田幸隆誕生・・・・説が4つ。)

  ◆永正12年(1515) 上杉憲房(山内上杉家初代)が関東管領になる。
 

業政はいよいよ方業(まさなり)として登場

  ◆大永4年(1524)総社長尾顕景の謀反、北条氏綱(2代目)に内通した。
   ※氏康の執拗な攻撃で江戸・岩槻と北条方へ寝返らせて北上した。追われた扇谷朝興
   は、寄居の藤田陣まで退却したとある。このとき上杉憲房も在陣していたと思われ
   協力して氏康と追い返した。この寄居に在陣していたのは、長尾氏の謀反が原因で
   これを征伐せんとして攻め寄せたのではなかろうか?ここで一回和睦するが大永7年に
   再度謀反を企てて挟撃されるのでは? 要研究

  ◆大永5年(1525)2月氏康は、両の上杉家と交わした和睦を破り、岩槻城を攻略した。
   これに対し朝興は、再び山内家に援軍を求めた。
   それを受けた憲寛は、配下の軍勢を率い武蔵野国へ出陣して行った。
   憲寛は、北条方になびいた、金田氏(菖蒲佐々木氏)の篭る菖蒲城を攻めた。
   3月25日、上杉憲房はに死去し、家督相続を巡り混乱が生じている。
   27代関東管領に上杉憲寛が就任
     上杉朝興 VS 北条氏
   扇谷上杉朝興は小弓公方・山内上杉憲寛と対北条同盟結ぶ
   長野業政の次男吉業が誕生?

  ◆大永6年(1526)
   長野信業は長子:業氏に鷹留城を与えた。(★群馬県史)
   長野憲業=信業同一人物説もある。

   5月、扇ヶ谷上杉朝興と盟約を結び、その要請を受けた安房里見氏の
   当主里見義豊(さとみ よしとよ)は、里見実堯(さねたか)と共に、対岸
   の三浦半島に渡った。その方面へ進出してきた北条氏に対抗するため、
   品川・鎌倉を攻撃して当主としての器量を示した。
   そのさい、軍勢が鎌倉を襲撃したことにより、鶴岡八幡宮が焼失してしまった。

   11月には相模玉縄城まで奪還する快進撃を見せたのである。
   山内上杉軍の一手をなす長野勢にあった長野方業(後の業正)は
   知略にたけその勇猛な戦いぶりから「上州の黄斑」と称えられて行くのであった。
   さらに朝興は、江戸湾の支配を巡って後北条氏と対立関係に陥っていた
   小弓公方足利義明と、その同盟関係にある安房里見氏とも連携を図っていった。
  ※上杉憲寛は、小弓公方足利義明から嫁を貰っている。里見義尭の正室は業政の妹
   根拠の薄い棟治想像 この時業政は、安房里見氏から室を貰い受けた?

  ◆大永7年(1527)長尾顕景の謀反、北条氏綱(2代目)に内通した
    徳雲軒の文書 大7永年説 ここで完璧に挟撃される?

  ◆享禄元年(1528)白井長尾景誠が家臣に殺害された。★長野方業の陰謀か?
  ※筋書きを推察・・・景誠は長尾家を盛り返そうと後北条+長尾為景と
   結ぶ画策(誘いがあった)をした。長野派の家臣(嫁について行った)
   が業政に密告した。業政は憲寛に相談した。憲寛は長尾家の粛清を命じた。
   業政は長尾家臣に命じた。考えすぎかな・・・      棟治


   長尾景誠には男子がないために、跡継ぎ争い。
  (※長尾景誠は長野業政の姉が景英に嫁いで生んだ子で業政の甥)
     惣社長尾氏から長尾景房を迎え白井長尾氏を継がせた。

   長野信濃守業正、これを聞き白井を攻略し、惣社長尾に景房を招き正統をを継承させる。
   長尾景誠の母は長野信濃守業正の母と記されている
               (★史跡箕輪城発掘調査報告第8集:一般には限定100部)
   長野一族は山内上杉氏家の最有力者に台頭したと思われる。
   その地位においては、上杉家家宰の足利長尾氏に譲るが実力(軍事力)おいては
   抜きんでた存在となった。 『長野信濃守業正』の名が初めて登場する

  ◆享禄2年(1529)~享禄4年(1531) 関東享禄の内乱  ・・・黒田基樹
   8月14日 上杉憲寛が上野国碓氷郡:安中城の安中氏討伐を開始
   した。同盟関係にあった扇ヶ谷上杉朝興からは制止されたが、これを無視した。
    (『続本朝通鑑』)
   9月22日 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立した。
   上杉憲寛に対して謀反を起こした。・・・・山内上杉家の内紛が発生した。
   上杉憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立があったと考えられる。
                                 (★黒田基樹)
   長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
     VS
   小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政
   安中城付近で交戦
   上杉憲寛は長野方業(業政)を随行させながら
   安中城から程田(高崎市保渡田)に後退した。負けた?やらせ?
                                 (★『続本朝通鑑』)
  ◆享禄3年(1530)5月「左衛門尉」が上野国多胡郡仁叟寺(吉井町)に対して禁制を与えた
   棟治はここを長野業正(左衛門尉)が、小幡攻めした時に意地悪しないよと
   禁制を与えたんじゃないかなと考えた。
   吾妻の戦いにて、長野憲業が戦死説。長野業正40歳?が家督相続した。
                        (★箕郷町誌・みさとの歴史)
  ◆享禄4年(1531) 28代関東管領に上杉憲政が就任、家宰は足利長尾憲長
   9月3日 上杉憲政が関東管領を継ぎ、憲寛は上総国の宮原(市原市)に退去して
   晴直と名を改めた。

   長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹)
   あるいは長野方業の娘を小幡憲重に嫁がせた。業正は業政と改名?
   その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を
   安中重繁に嫁がせた。
   さらに、安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。
   これによって、和解が図られている。         (★黒田基樹)

業盛が生まれ箕輪城が落城するまでの時代

 ◆箕輪衆

  ・長野業政   ・長野業盛  ・藤井豊後守 ・下田大膳太夫
  ・長野業氏   ・安藤九朗衛門・鷺坂    ・石井信房
  ・里見河内   ・

  ・安中     ・倉賀野   ・木部    ・羽根尾
  ・大戸     ・小幡憲重  ・小幡図書  ・小幡三河

 ◆反対勢力その他

  ・北条氏康   ・武田信玄  ・真田幸隆  ・由良氏
  ・上杉憲政   ・上杉謙信  ・里見義堯  ・成田
  ・その他大杉

  • 最終更新:2017-08-20 23:02:11

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