女渕城と北爪氏

よもやま話と題された赤城山南麓にお住まいの、おそらくは北爪様のブログより

女渕城と北爪氏

  • よもやま話「北爪氏と女渕衆」  2006年07月19日

 苗ケ島城・苗ケ島本城・柏倉砦・市之関城・大前田城等々が、この宮城地区にはある。城と言っても、堀を巡らし、柵を巡らした砦程度の構造であろう。桐生にある国指定の彦部家を見学したら良い。その程度の物である。大名が建てた城を連想されては困る。

 苗ケ島城には阿久沢氏が、柏倉には大崎氏の砦と六本木氏の砦が、市之関には阿久沢氏の城が、大前田も阿久沢氏が城主として活躍していたらしい。何故なら現在も彼等の子孫が、そこに住んでいる。そして現在も、その子孫の末裔達は、地区でリーダーシップを取っている。牛耳っている!!??何んて言葉を使っては、お叱りを受ける??かも…。故阿久沢嘉重郎元村長や赤城南麓森林組合長の阿久沢勝史氏等が、その末裔である。地区の人であれば、よく御理解して戴けるであろう。

 その他の地区の子孫の方々も各方面で活躍している。しかし、鼻ケ石の北爪氏は地区内に城跡の痕跡が無い…何故なのだろう…将監達の活躍は目覚ましいものがあったというのに…。多分、それらの人々より、一ランク上の規模で活躍していた…のでは…と、と同時に粕川町にある女渕城を本拠地として…。

 阿久沢一門の紋所は表紋・裏紋の区別を別にすれば、ミツウロコを使用している。ミツウロコは小田原の北条氏の紋所である。この地区の土豪達が、その組下で活躍していた証拠である。

 今、NHKの大河ドラマで放映されている、山内一豊の主人豊臣秀吉がいよいよ天下統一に動きだした場面をやっているが、正に関東の覇者、北条攻めが始まろうとしている。その任を任されたのが、徳川家康である。そして、迎え討つ側の北条軍に加わっていたのが、我々の先祖達であった。

 名胡桃城事件を理由に豊臣軍の上野侵攻が開始されるのは、天正17年である。徳川家康に小田原征伐の命令が出されたのはその年の12月13日であった。そして、北条氏は、支配地域全域に軍事動員を掛ける。猫もシャクシにも槍・鉄砲を持たせ??まるで、60有余年前の敗戦直前…の様…??。根こそぎ動員を掛け臨戦態勢を敷いた記録が他県には残っている。上州では、そこまででは無かったらしいが、何れにしても臨戦態勢は敷かれた。

 その年の2月21日、北条氏直が女渕五郷(女渕・鼻毛石・苗ケ島・友成・深津)の女渕地衆と呼ばれる者共を組織化している記録が残っている。税金を免除してやるから働け!!と言う訳である。その記録の中に出て来る北爪一門に関する名前は、北爪大藏・北爪将監・北爪甚内・北爪与兵衛・北爪大膳・北爪織部等である。女渕衆の構成員には、阿久沢氏や六本木氏の名は見られない。彼等は違う集団を組んでいたのであろう。

 そして、豊臣氏の前に崩れ去る小田原北条氏…。負け組…に組した我々の先祖達は徳川氏の下で帰農していったのである。一部、優秀な剛の者は、徳川軍の中に拾われて行った。ある者は、加賀・前田家に仕官した者も…。

 女渕城跡は一見の価値あり!!北爪一門を中心とした女渕衆が守った城跡である。

39もの首を取った強者

  • よもやま話「39もの首を取った強者」 2006年07月13日

 戦国の世に39の首を取った男が、この南麓から輩出していた。その名を「北爪右馬助」と言う。戦国時代の永禄6年(1563年)、北爪助八は軍功により、館林の長尾景長より狸塚・篠塚・石打等の所領を拝領している。その助八の子が北爪将監である。将監の他の兄弟もそれぞれ、北条氏邦の配下として活躍している。

 当時、複数の「北爪」を名乗る者共がいた事が記録に残っている。北爪出羽守長秀や新八郎等6?7人の名が出てくる。彼等は「女淵地衆」と言う集団を組んで活躍していた(北爪宗家に当時の中世文書あり)。現在も鼻ヶ石・大前田・苗ヶ島・室沢等々に北爪を名乗る一族が多く住んでいる。

 鼻ヶ石町の赤城寺が北爪一門の氏寺であるとの伝承を信ずるとすれば、了需の興した「赤城門徒」の有力な信者であった事は疑い無いと思う。そして、了需と関係のある、赤城寺を「赤城の宿の平」から、この地に移したのは北爪一門であろう。とすれば、南北朝の頃より、この地で活躍していたであろうし、多くの一門がいても不思議では無い。

 北爪右馬助の活躍した時代は将監の父親の時代である。恐らく、将監の叔父さん??の可能性も??後北条の滅亡後、それに組した在地の土豪達は帰農して行ったが、野望を持った強者共は他に働き口を求めた…。右馬助もしかりであった。彼は「南部藩」に仕官した。恐らく、その戦功を認められての事だろう。晩年(1606?1015頃)、主君「南部利直」より尋ねられた事に応じて、過去の戦績を27条に亘り書き記した文書が残っている。

 「一 越国より新田へ御はたらきの時、田島においてくび一つ取り申し候、此の請人、本田豊後殿におり申し候長瀬伊賀、牧野殿にこれあるあくさわ治部、此の両人存じ候事」(越後の上杉軍が新田金山城へ攻めし折り、太田の田島で敵の首一つを取ったとの事、この事は、本田様に仕えて居る、長瀬さんや牧野様に仕えている阿久沢さんが証人であるとの意味なり)凄い剛の者がいたんですね!!この証人になっている「あくさわ治部」も或は南麓で活躍していた、市之関か、柏倉か、大前田か、苗ケ島の阿久沢一門の出かも??知れませんね!!多分そうでしょう…。

まだある「北爪右馬之助」の軍功来歴書

  • よもやま話「まだある「北爪右馬之助」の軍功来歴書」

 39の首を上げた、この男の話は南部藩以外の文書にも出てくる。
大胡町史275ページに「北爪右馬之助好豊ヲ召出シ弐百石ヲ給ス」(摘古採要四編)「姫路酒井家文書」四北爪大學助武功の書記の事。

 今の北爪弥太夫が先祖ハあっぱれの勇者にて右馬之助、又大學とも言し初め小田原北条家に仕へたり、浪人して上州に住せり、其頃当家に召し也。其時の知行は二百石なり…右馬之助か招れし時、武功を書記して出せし一巻の書あふとも志候らしく昔ゆかしけれハ爰に縮写す…。

 此頃ハ専ら血臭頃なれば主取せんと志す浪人各おのれか武功を書上て召抱られし世の様なり、此北爪の家に限らず、慶長の頃当家へ抱られし家ニハ上州那波或ハ沼田又ハ大胡なんどの地に浪客あまたありて、追々に召れて五十石、或ハ百石を玉はり家臣に列する家江戸姫路給人以上の家に少なからず見えたり。また北爪の家に伝る北条家の感状或ハ知行の朱印伝馬の朱印等の古文書を伝へたり、珍らしけれハ爰に追加す。

去廿四日於足利表敵一人討捕候高名之至神妙候、弥々可走廻者也 仍如件
    正月廿八日 (花押)
          北爪大學助殿 
此度河□之地乗取就中敵一人捕候、神妙之至感悦ニ仍於女淵一所被下候郷名之儀者重而可被仰出候、弥々可走廻者也、仍如件
    九月廿五日
               (花押)
          北爪大學助

 と言う事は、右馬之助は北爪宗家の息子の一人である事は間違い無い。何故ならば、宗家に伝わる北条家から拝領した武功の感状(宗家に現在まで伝来)の事が此処には書かれている。そして、その息子は弥太夫と称した。しかし、右馬之助は南部藩でその生涯を終えている…。

 と言う事は、右馬之助と、もう一人の息子が南部藩に仕官…弥太夫がこちらの酒井家に、父親に給された石高で召し抱えられた??と言う話が組み立てられる?? のでは…??。これは江戸期の文書である、酒井家は前橋から姫路に転封になっている。きっと姫路の近辺に北爪の子孫が居るのでは??調査の要有り!!

  • 最終更新:2016-06-13 17:01:28

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード