寺の内館
◆寺の内館(高崎市浜川町町東)
解説および縄張りは、余湖くん様のHPより
寺の内館は、北爪の砦の東側600ほどの所、浜川町2131番地辺りにあった。「寺の内」
というのは、かつてこの地に「満勝寺」があったという伝承によるものである(満勝寺
は、北新波砦に隣接した所にある寺院のことである)。
右の図は山崎一氏の図と古い航空写真を基にして作成した想像図である。
こちらも現地を訪れてみたが、耕地整理で完全湮滅してしまったようだ。しかし、ここを
発掘した際の様子が『城郭体系』のコラムに書かれている。(ってことは昭和50年代に
は破壊されてしまったのである。)
寺の内館の発掘調査は昭和52年に行われた。それによると、
「天仁元年(1108)の浅間山噴火爆裂から5cmの自然堆積があった時点で築城された
もの」
「方106mの内郭を元に、全体の規模は265m四方ほどあった」「外堀は幅8m、深さ
3m、中堀は幅5m、深さ2.5m、内堀は幅7m、深さ1mとかなり規模の大きなも
のであった」
「内堀の内側には土塁があった」「内郭には23棟の建物があった」
「内耳付土鍋、ほうろく、擂鉢、かわらけ、茶碗、石臼、銅線その他が発掘された」
「かつての満勝寺跡と言われているが、寺院の痕跡はなかった」
といったことが挙げられる。右の図の西方に、内堀、外堀が展開していたようである。
寺の内館は、かなりの規模の城館であったようで、長野氏に属する有力な豪族の居館で
あったものと推測される。『城郭体系』では、柴屋軒宗長が『東路の津登』に記してい
る松田加賀守の館がここではないか、と推測している。
※はま川並松別当(★古い字)にして
「色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」
島田宗長の『東路の津登』より
下の句はこうかな?
「杉につらなる 三輪の里山」 宗春
- 最終更新:2017-07-25 14:20:47