小説構想

■『荒船の夕陽』(第一部)箕輪落城まで 岡宗春

『荒船の夕陽』(第一部)は、天文十年(1541)真田幸綱が小県を追われて箕輪城へやって来てから、永禄九年(1566)武田信玄による箕輪落城の後に幸綱が箕輪を仕置するまでの25年間を、箕輪城主長野業政の家臣の目を通して描く戦国物語です。

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◆序(北条氏の関東侵攻と上杉氏の衰退)2019.04.16

序の一章 海野平の戦い(天文十年 幸綱登場)
    物語の導入部分は、作者が高崎市箕郷町で行われる箕輪城祭りを見学するところから始まる。発端は夢にうつつに現れる謎の男に誘われて、戦国時代の上野の様子を観せられてきたことにあり、作者がそれをドラマとして語って行く形で進んでゆきます。物語は荒船山を望む上信国境地帯の峠より、謎の男である主人公左京之介が山名郷へやって来るところから始まる。
    そして場面は天文十年にさかのぼり、武田・諏訪・村上の連合軍に包囲された小県の豪族海野氏は、上野の羽根尾氏を通じて箕輪城主長野業政へ援軍を求めてきた。これを承諾した業政は側近の左京之介(主人公)へ、先行して手勢を連れて赴き現況を報告するよう求めた。
    現地の最前線である尾野山城は落城寸前のため、真田幸綱等の小勢でもってこれを救おうと試みる。こうして退却する海野勢と合流した左京之介達は、神川の戦いにて辛くも矢沢城まで後退することに成功した。ところが頼みの綱の上杉勢は、援軍が遅れていることを知り、城を捨てて箕輪城へ落ち伸びることに成った。翌年、海野棟綱は失意のうちに没するが、真田幸綱は後の武田騎馬隊の要である国峯城主小幡尾張守と巡り合った。

序の二章 川越の戦い(天文十五年 幸綱出奔・吉業討死)
   天文十三年氏業が生まれると、安房里見氏からの養子文吾丸は元服して冨士見の石井岡城赴任して行った。この時幸綱とは、故郷を離れて箕輪城に居る事にある種の共感を覚える。その後真田幸綱は、上杉氏を見限り敵であった武田氏の下へ逃亡して行った。この時、主人公の左京之介は、城主業政から幸綱への贈り物を携えて佐久までの街道を同行する。
   天文十四年北条氏は駿河東部において今川氏と対峙した。これを好機と扇谷・山内の両上杉氏は、古賀公方を交えて川越城奪還を目論見て同城を包囲した。よく十五年武田氏の仲介による和睦を無視すると、今川と和睦した北条氏は、上杉連合への内応を図り油断を誘うと奇襲にて勝利を収めた。
   川越の戦いで業政の嫡男吉業は、戦傷も癒えず新五郎に世継ぎの座を渡す決断をする。一方平井城では武田勢に圧迫されている東信濃より援軍の要請があり、関東管領上杉憲政は長野業政の反対を押し切り派兵を決める。業政は箕輪へ帰って川越の戦の教訓から、自在に操れる軍団の編成(兵科別)を画策して上泉伊勢守や岸出雲守に草案を任せる。
 
序の三章 三寺尾の戦い(天文十八年 河西衆の離反、二十一年平井退去)
   川越の戦いで敗れた上杉氏は、長野業政の制止も聞かず、笛吹峠の戦いそして小田井ヶ原の戦いで武田氏に大敗してその求心力を失っていった。天文十八年北信濃攻略とともに西上野への侵略を画策した武田氏は国峰小幡氏を内応させて鬼面まで進軍した。これを迎え撃つ上杉氏は、三寺尾にて激突するも武田軍の戦術にはまり大敗する。
~~~ここから
   天文十九年十一月北条勢(氏邦?)は平井城を攻撃した。この時国峰小幡氏は北条方へ加勢している。天分二十年二月石井信房が鷹留城守将となった。鷹留城主は長野業氏であった。石井讃岐守信房と名乗る。
   天文二十一年三月北武蔵の御嶽城は開城した。最後の砦を失った上杉憲政は、重臣や馬周り衆にも裏切られ、少数の家臣を伴って平井退去(平井退去)した。そして、越後長尾氏を頼り一時水上に潜伏するも永禄初年には春日山へ落ち伸びて行った。この時河西衆のほとんどが離反して、北条側についている。二十一年七月長尾景虎信州経由で上野へ越山して来た。同年九月氏康上野方面へ出撃した。
~~~ここまで描かれていない
 

◆破(箕輪衆の結成と謙信公の越山)これ以降未執筆

破の一章 箕輪衆の結成(天文23年 甲相駿三国同盟晴信からの誘い)
   天文二十三年十月六日 厩橋落城北条家朱印状(漆窪長尾源六郎跡を一宮御修理領とする事) 大道寺駿河守奉。萩原家の初めの場面に戻る。左京之介は木部範虎に対し主長野業政へ同心するよう働きかけ、孫である源吾丸を箕輪へ迎え入れたいと申し出る。
   この時関東管領上杉憲政を失った長野業政は、残された河西衆に呼び掛けて家臣団を再編成して軍勢(箕輪衆)を整えようと画策していた。この動きを見た北条氏は、これを謀反と見て武田氏と盟約を結んだ。それは上利根川を境に西と東を分けて、上野国を支配しようとするものだった。武田氏はこの盟約を基に西上野へ侵攻するにあたり、長野業政に当てて碓氷峠へ出陣しなかったことを取り上げた、晴信へ同心するよう書状を出していたのである。
   天文二十四年(弘治元年)年 北条方の猪股則直の攻撃を受け武蔵守秀綱の大胡城は落城した。北条氏康、廐橋城へ、沼田城代に条孫次郎を置いた。弘治元年四月二十三日、晴信は信濃に出陣。上杉氏与力の由良・佐野・廐橋長野氏等は再び北条に属した。箕輪城主長野業政は、長尾・北条・武田といずれに与するか決断を迫られていた。

破の二章 瓶尻の戦い(弘治三年 昌信討死・支城網の構築
   武田信玄は長野業政が誘いに応じないと見るや、南牧谷より上野へ侵入した。武田軍は諏訪城攻略をもくろむと、瓶尻にて待ち受けていた河西衆と激突した。この戦いにて殿を務めた長野氏の重臣、源六郎昌信は討死した。長野業政率いる兵科別編成された軍勢は、よく戦い板鼻経由で退却して法蜂寺口の合戦(土肥・赤石豊前)の逸話につづく。この時里見衆を任された石井信房は、その軍功により義父業政より感情を戴いた。そして永禄元年(1558) に対武田氏を想定した軍評定にて作成された『長野信濃守在原業政家臣録=着到帳』で信房は、石井左京太夫讃岐守信房と改め鷹留城主となった。

破の三章 第一次若田原の戦い(永禄二年 業政・国峯城奪取・小田原遠征)
   永禄二年鼻高まで出陣して来た武田勢と、長野業政率いる箕輪衆は若田原にて激突する。雉郷城ぬけがら、箕輪城より夜間豪雨の中敵陣襲撃。晴信追い返す。
   永禄三年謙信公の越山に伴い、国峰城を奪取した上杉勢は同族の小幡図書介を同城に入れた。
 

◆急(武田氏の西上野侵攻と箕輪落城)

急の一章 檜平の戦い(永禄四年 豊前守昌貞討死・業政急死)
  永禄四年小田原に遠征した長野業政以下箕輪衆の大半が留守の間武田晴信は、小幡憲重を伴い南牧へ出陣して来た。これを危惧した小幡図書の介は、留守居の豊前守昌貞率いる箕輪衆を加勢に頼み檜平で合戦となる。この戦いで豊前守昌貞は敗れて討死した。同年六月、小田原から帰国した業政は流行り病にて急死する。

急の二章 若田原の戦い(永禄六年 石井信房・忠家討死・信綱出奔)
永禄六年五月 上杉謙信和田城調略失敗 和田業繁弟喜兵衛。
   永禄六年 和田・安中城を攻略された長野氏は、城主長野氏業と共に若田原にて武田晴信と決戦に挑むが、敗れて退却する。その後高浜城が落とされ箕輪城下に迫った武田勢を迎え撃つべく、出撃した金王忠家は青木ヶ原にて討死した。この辺り嘘っぽいので再確認必要。

急の三章 箕輪落城 (永禄九年 忠方討死・吉春落ち延びる)

  • 最終更新:2019-04-16 14:28:24

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