尭恵「北国紀行」

 ◆尭恵「北国紀行」
箕輪初心★箕輪城143【尭恵「北国紀行」の上野国府長野陣所】
◆平成26年(2014)10月26日は第13回箕輪城祭りである。
もちろん、私も井伊直政の鎧兜に、小刀、ホラ貝で参加する。
★文明17年(1485)秋~堯恵は美濃国郡上の東頼数の家に滞在
していた。文明18年(1486)5月末、美濃の郡上を出て、飛
騨~越中~越後を旅した。8月末越後柏崎を発ち、三国峠~
上野国:沼田~白井~10月草津~伊香保温泉に浴した。
10月2□日、上野国国府の長野陣所に行った。・・関東管
領:藤原(上杉)顕定に会った。その後、善光寺に詣でたり、
諸所の歌会に臨んだりした。12月半ばに武蔵国に入り、
翌年文明19年(1487)の2月に相模~鎌倉~三崎等に遊び、
6月に武蔵に行った。9月、再び上野国府の長野陣所小野景頼
を訪ねた。11月には越後に帰った。

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【1】堯恵1回目の国府・・・文明18年(1486) 10月
10月2□日? 上野国国府の長野陣所に行った。
  関東管領:藤原(上杉)顯(顕)定に会った。
上野国府に29日~25日間滞在した。

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 (★隣の国分寺・・・長野陣所はこの辺りか)
『無神月廿日あまりに国府長野の陣所に至る。哺時になれり。
 此野ハ秋の霜をあらそひし戦場、未だ払はずして、軍兵野
 に満てり、かれたる萩、われもかうなどを引むすびて夜を重ぬ。
 定昌の指南によりて藤原顯定(関東管領)の旅哀の心ありて
旅宿を東(本)陣にうつされし後は厳霜もをだやかなり。
 平顕忠(長尾修理亮)陣所にての会 
 羇中雲
 『 武蔵野や 何の草葉に かかれとて
   身は浮雲の  行くすゑの空 』

1)「無神月廿日あまりに」・・・
  「カンナヅキ」=10月の20何日か?

2)「国府長野の陣所に至りぬ」  
 長野憲業(★系図の説によっては信業と同一人物)が
 国府に陣を張ったと思われる。しかし、一体、長野憲業
 の館はどこにあったのだろうか?
 ★もしかしたら、堯恵は箕輪の館あるいは箕輪城に行った
 とも考えられる。つまり、国府は旧群馬町の国府から、
 旧箕郷町に移されていた。足利尊氏が箕輪に『安国寺』を
 建てさせたからである。
 
3)哺時 15時→中心16時→ 17時 
伊香保温泉から長野憲業?の陣営に来たら午後4時頃
  になった。

4)「此野は秋の霜をあらそひし戦場、未だ払はずして、
  軍兵野に満てり、かれたる萩、われもかうなどを引
  むすびて夜を重ぬ。・・」
この野原はずうっと前から戦が絶えないでいる。霜や露も
払わず、甲冑を着けた軍兵が野原に満ちていて、、枯れた
萩やワレモコウなどが生い茂った野原に(蒲団かわりに)
引き抜いてきて、寝て夜を過ごしている。

5)定昌・・・上杉顯(顕)定の実兄の越後の上杉定昌である。
・文正元年(1466) 1歳年下の弟:顕定が山内上杉家の家督
 を継いた。
・文明3年(1471)頃~ 関東の軍事を任されるようになった。
・文明6年(1474) 上杉定方から定昌と改めた。
         五十子に在陣していた。
・文明8年(1476) 長尾景春の乱
・文明9年(1477) 正月 五十子の陣が崩壊した。
   上野国白井へと引いた。~~~白井城に在城した。
 ・文明18年(1486 ) 父:上杉房定の民部大輔を譲り受けた。
    翌年、越後守護の家督を継いだ。
   長享の乱    
   上杉定昌は弟:山内上杉顕定を支援していた。
・長享2年(1488) 3月24日 長尾景春の攻撃
   白井で自害した。享年36。


6)「定昌の指南によりて藤原顯定(関東管領)の旅哀の心あ
 りて旅宿を東(本)陣にうつされし後は厳霜もをだやかなり。」
※藤原顯定・・・「関東管領上杉右馬頭顕定」は国府が危険な
ため、堯恵の谷の宿を東の本陣に泊めてあげることにした。
※おそらく、父:上杉房定の大事な客人であったからであろう。
その後は,厳しい霜にあわず、穏やかに過ごせた。
 


7)平顕忠(長尾修理亮)陣所にての会 
長尾顕忠が上杉顕定の家宰を勤めたのだ。
※平顕忠・・・・「館林長尾修理亮」
 (★群馬県立歴史博物館)
★黒田基樹氏の本では、惣社長尾氏・・・・
  だった。

 ★兄上杉定昌・弟藤原顯定=上杉顕定・家臣:平顕忠を
  用いるのは理由はなんなのだろうか?。

  「長尾忠景の子:顕忠は 鉢形城に在城した。
  
※永正6年(1509)連歌師宗長は長尾顕忠の家督をついだ
   長尾顕方の鉢形城に訪れている。 
   

8)羇中雲・・・旅の道中における雲
  羇中暮・・・旅の道中における夕暮。
羇中花・・・旅の道中における花。



9) 『 武蔵野や 何の草葉に かかれとて
   身は浮雲の  行くすゑの空 』

★国府から武蔵野にこれから行こうと思うが、
  ・・・何の草かは分からないが、かかる・・・関係する? 
  覆い被さる。・・・立ちはだかる困難、戦に遭うだろう。
この身は浮き雲のような身の上、どこに行くのか、
どうなるのか この先は分からない。あ~あ、大変。
まあ、いいか。・・・行って見なけりゃ、わからない。
  凄く勝手な解釈なのだ。
  


※文明18年(1486)は、箕輪城は長野業正の父:長野憲業
 の時代である。系図によっては、憲業=信業である。
 文明18年10月26日に太田道灌暗殺と大事件が起きて
 いるが、上杉顕定が鉢形城で画策したというのは地理的
 時間的に少し無理があるかもしれない。




【2】堯恵2回目の国府・・・文明19年(1487) 9月
9月上野国国府に再びやってきた。
『九月尽に長野陣所小野景頼がもとにて、
  暮秋時雨
  「 誰が袖の 秋の別れの くしのはの
   黒髪山ぞ まなくしぐるる 』


10)「九月尽に」・・・九月の終わりに
 (★現11月?日)


11)小野景頼・・・・不明。
  小野景頼・・・(★森田真一・黒田基樹)


12)「暮秋時雨」・・秋の夕方のしぐれ雨


13)「 誰が袖の 秋の別れの くしのはの
   黒髪山ぞ まなくしぐるる 』
★黒髪山=榛名山
私の?小野景頼?長野憲業?との秋の別れは、
まるで榛名山に雨が降り注いでいるように
櫛の歯が黒髪に流れるように涙が落ちてくる
涙涙の別れなのだ。・・・
残念ながら、掛詞が難しくてわかんないや?


★参考文献
・群馬町史など





◆◆ 堯恵の「北国紀行」 ◆◆
・正長2年(1430)~没年不詳

・寛政6年(1465) 加賀から信濃善光寺に詣でた。
  『善光寺紀行』を著した。

************************
・文明17年(1485)秋 
  堯恵は美濃国郡上の東頼数の家に滞在していた。

・文明18年(1486)~文明19年 (1487)
※堯惠は『北国紀行』を著した。
*************************

・文明18年(1486)
5月末 美濃の郡上を出発。

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飛騨~

7月14・15日  善光寺詣で

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  越後逗留~越中~越後を旅した。

8月末 越後柏崎を発った。

●三国峠越えて上野に入った。
「越後信濃上野の堺三国峠といへるを越えて侍るに諏訪の
 伏拝(三国権現)あり」

●上野国:沼田

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●9月9日 上州白井にうつりぬ(子持村)

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「重陽の日、上州白井と云所にうつりぬ、
 ・・・・(略)・・・・・


●10月 草津~
」是より桟路をつたひて、草津の温泉に二七日計入て、
詞もつゞ かぬ愚作などし、鎮守の明神に奉りし・・・」

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 草津に滞在27日。 
「 忘るるよ 思ひのこせと 浅間山
    消えしけふりの  おもかげに立つ 」


●10月17日 伊香保着・・・・滞在17日

  「からころも かくるいかほの  沼水に
    けいふは玉ぬく  あやめをそひく 」
    (★藤原定家の歌)

10月20日頃? 伊香保温泉に浴した。

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 (★伊香保露天風呂)


●10月2数日 

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上野国国府の長野陣所に行った。
  ・・関東管領:藤原(上杉)顯(顕)定に会った。
『無神月廿日あまりに国府長野の陣所に至る。哺時になれり。
 此野ハ秋の霜をあらそひし戦場、未だ払はずして、軍兵野
 に満てり、かれたる萩、われもかうなどを引むすびて夜を重ぬ。
 定昌の指南によりて藤原顯定(関東管領)の旅哀の心ありて
旅宿を東(本)陣にうつされし後は厳霜もをだやかなり。
 平顕忠(長尾修理亮)陣所にての会 
 羇中雲
 『 武蔵野や 何の草葉に かかれとて
   身は浮雲の  行くすゑの空 』


●11月20日 上野国国府発


●佐野

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 「  跡もなく むかしをつなく 舟橋は
    たゝことのはの   さのの冬原 」

●11月??日 善光寺に詣でた。
         諸所の歌会に臨んだ。

●12月??日  再び、上野国に戻った。
佐野に行った。

●12月半ば  武蔵国に入った。
『12月のなかばにむさしの国へうつりぬ。曙をこめてちやう
のはな(※埼玉県深谷市国済寺庁鼻和(こばなわ)城跡)
といふ所をおき出。ゆくゑもしらぬかれ野を駒にまかせて過侍
るに。幾千里ともなく霜にくもりて。空は朝日の雲もなく。さ
しあがりたる風景肝にめいじ侍しかば。
 「朝日かげ 空はくもらで 冬くさの
    霜にかすめる むさしのの原 」

○庁ノ鼻(★深谷市国済寺)・・・深谷上杉氏が最初に館を
構へた庁鼻(こばなわ)のことである。

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 「朝日欠け  空は曇りて 冬草の
    霜に霞める   武蔵野の原 」

 ★国済寺で一泊した朝の歌であると思われる。
 武蔵野は入間郡の丘陵をいうのだが、霞の中に広がる
 枯花などの冬草のイメージが武蔵野といふ歌枕にふさわ 
 しかったのだらう。 
 朝日が出てこないで空が曇っている。冬枯れの草の上に霜が
 うっすらと架かっている。なんと武蔵野の台地は寂しいのだろう?


○堯恵は馬を走らせ、箕田といふところを経て、狭山
(熊谷市三ヶ尻の観音山)に行った。
ふもとの池を見て歌を詠んだ。
 「氷りゐし 水際の枯野 ふみ分けて
   行くは狭山の  池の朝風  」
其夜は箕田(★埼玉県鴻巣市箕田)といふ所にあかして。
武蔵野を分侍るに。野涀のほとり名に聞えし狭山有。
朝の霜をふみ分て行に。わづかなる山のすそにかたち
計なる池あり。
「氷ゐし 汀の枯野 ふみ分て
   行はさ山の  池のあさかせ 」



其日の半より漸々富士はみえ侍りぬべきを。よるのしもなごり
猶かきくもりて。かぎりもしらず侍り。からうじて鳩が井の
さと(★埼玉県鳩ケ谷市)滋野憲永がやどりにつきぬ。廿日の
よの殘月ほがらかにかれたる草のすゑに落かゝりて。朝の日又
東の空より光計ほのめきたり。富士蒼天にひとしくして雪みど
りをかくせり。唯それならむとおもふに。忙然として大空にむ
かへり。
「けさみれは はや慰みつ ふしのねに
   ならぬ思ひも  なき旅の空 」



「廿三日には角田川(★隅田川)のほとり鳥越(★東京都台東
 区鳥越)といへる海村に善鏡といへる翁あり。彼宅に笠やど
りして。閑林にあがめ置る金光寺に在宿し侍。」
※鳥越、金光寺



~~~隅田川沿いに江戸方面
★鎌倉街道下道か?~~~~~~~~~~~

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・文明19年(1487)
同十九年元日に。
 「おさまれる 波をかけてや つくはねの
   大和嶋根に  春の立らん 」

五日立春。
 「春はけふ たつともいはし むさしのや
    霞む山なき  三吉野の里 」


正月二十日  堯恵が鎌倉の地を訪ねた。
・・・極楽寺へいたるほどに、いとくらき山間やまあいに、
 星月夜というところあり、むかしこの道に 星御堂 
 (★虚空蔵堂)とて侍りき
・・・(中略)・・・・
 「今なお 星月夜 こそ のこるらめ
     寺なき谷の 闇のともし火 」

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同月の末。武藏野の東のさかひ忍岡(★台東区上野公園周辺)
に優遊し侍。鎭座社五條天神と申侍り。おりふし枯たる茅原を
燒侍り。
 「契り置て 誰かは春の はつ草に
   忍ひの岡の  露の下もえ 」
ならびに湯嶋(★文京区湯島)といふ所有。古松はるかにめぐり
てしめのうちにむさしのの遠望かけたるに。寒村の道すがら野梅盛
に薫ず。これは北野御神(湯島天神)と聞えしかば。
  
 「忘れすは 東風(こち)吹むすへ 都まて
    遠くしめのゝ そての梅かか(香) 」

二月の初。鳥越のおきな艤して角田川にうかびぬ。東岸は
下総西岸はむさしのにつゞけり。利根入間の二河おちあへる所に
彼古き渡りあり。東の渚に幽村あり。西渚に孤村有水面悠々とし
て両岸にひとしく。晩霞晩霞曲江にながれ。帰帆野草をはしるか
とおぼゆ。筑波蒼穹の東にあたり。富士碧落の西に有て絶頂は
たへにきえ。すそ野に夕日を帶。朧月空にかゝり扁雲行盡て
四域にやまなし。
「浪の上の むかしをとへは すみた川
   霞やしろき  鳥の涙に 」

2月20日 鎌倉着
「廿日を過る比鎌倉山をたどり行に。・・・」

※こののち鎌倉・三浦の間に遊んだ。
2月に相模~鎌倉~三崎等に遊んだ。
三浦半島の芦名に赴き、約4ヶ月逗留・・・・。

 「五月の末帰途に就き、
 再び武蔵を過ぐ。・・・・ 」

・5月末  六浦金沢称名寺
「同じ比六浦金澤(★横浜市金沢区)をみるに。乱山かさなりて
嶋となり。青嶂そばだちて海をかくす。神霊絶妙の勝地なり。
金澤にいたりて稱名寺といへる律の寺あり。むかし爲相卿。
「いかにして 此一もとに 時雨けむ
  山に先たつ  庭の紅葉葉」
と侍りしより後は。此木靑はかは玄冬まで侍るよし聞ゆる楓樹
くち殘て仏殿の軒に侍り。
 「さきたゝ は此一もとも 殘らしと
    かたみの時雨  靑葉にそふる 」


6月 武蔵に行った。
「六月の末角田川のほとりにて。遠村夕立。
 「雲わくる ひかけの末も 夏草に
    いるまの里や  ゆふ立のそら 」


・6月28日  再び武蔵(中野)
「同二十八日。むさしののうち中野(★東京都中野区)といふ所に
平重俊といへるがもよほしによりて。眇々たる朝露をわけ入て
瞻望するに。何の草ばのすゑにも唯白雲のみかゝれるをかぎり
と思ひて。又中やどりのさとへかへり侍りて。
「露はらふ 道は袖より むらきえて
     草はにかへる  むさしのの原 」
漸(ようやく)日たかくさしのぼりて。よられたる草の原をしのぎ
くる程。あつさしのびがたく侍りしに。草の上にたゞ泡雪のふれる
かとおぼゆる程に。ふじの雪うかびて侍り。
「夏しれる 空やふしのね 草のうへの
    白雪あつき  武藏のの原 」

※ 堀兼の井を訪問
 ほりかねの井ちかき所にて。
「そことなく 野はあせにけり 紫もほり
   かねのゐの   草葉ならねと 」

七日に鳩が井の里(★埼玉県鳩ケ谷市)滋野憲永がもとにて。
 秋増変。
 「 きのふかは 思ひし色の あさは野も
   木からしになる  秋の夕暮 」

初秋の比。よふかき道をくるに。入間の舟渡りまでみをくる人
あまた侍りしに。角田川の朝ぎりいづこをほとりともしらず。
小舟の行ちがふかひの音のみ身にしみて哀に覺え侍りしかば。
彼翁かたへ申送り侍し。
「おもかけそ 今も身にしむ 角田川(隅田川)
   あはれなりつる  袖の朝露 」



●9月 (★現11月27日)上野国国府に再びやってきた。

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『九月尽に長野陣所小野景頼がもとにて、
  暮秋時雨
  「 誰が袖の 秋の別れの くしのはの
   黒髪山ぞ まなくしぐるる 』


九月十三夜。
白井(★群馬県渋川市旧子持村)戸部(こほう)亭にて。
 ・・・

こののち、上野から越後へ帰る。 
9月末 再び上野~信濃~越後に旅立った。 
再び同じ道を通り、
(★現11月28日) 三国峠を越えた。
「かくて重れる山連なる道を過ぎ行程、曠絶無人ともいふべし。
越後・信濃・上野の境、三国の峠といへるを越けるに、諏訪の
伏拝みあり。諏訪の海に幣と散らさば三国山よその紅葉も神や
惜しまむ。

こうして、堯恵の約2年間の旅だった。



◆参考資料・文献
・群馬町史
・古典文学全集


~~~~島田宗長の『東路の津登』~~~~~~~
・永正6年(1509) 『東路の津登』
 (★『群書類従』・・・宗長『東路の津登』より)
「永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より
 出立。」
※出発は永正六年文月十六日とある。

 
●鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)
長尾孫太郎顯方の舘はちがた(埼玉県大里郡寄居町鉢形)と
いふ處につきぬ。政定馬上ながらくちずさびに。
  むさし野の 露のかきりは 分もみつ 
秋の風をは しら川の關
この比。越後の國鉾楯により。
 武藏上野の侍進發のこと有て。
いづこもしづかならざりしかば。ひと夜有て。

***********************************************

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
***************************************************
箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪~三の曲輪
~二の曲輪~本曲輪 
**************************************************
★となると、長尾孫太郎顯方は鉢形城を築城した長尾景春
 の家系ではなく、上杉顕定に重用された長尾景春の叔父
 の系統ということになるのはないだろうか。
★いずれにしても上杉顕定の守護代として、長尾孫太郎顕方
 は鉢形に残っていたことになる。扇ガ谷上杉定正と対立し
 ていたからである。顕方の「顕」は上杉顕定から一字を
 貰ったのであろう。
●長井(埼玉県大里郡妻沼町)
~~~~利根川~~~~~~~~
●新田庄(群馬県新田郡)
●下野の足利庄●佐野  ●室の八幡(栃木市)  
●鹿沼●日光●鹿沼●佐野●足利
●新田之庄●太田●大胡(前橋市大胡)
9月~~~~~~~~~~~~
●青柳(前橋市青柳)●荒蒔(前橋市荒牧)
●浜河(高崎市浜川町)
「松田加賀守・・重陽(旧暦9月9日)の連歌会」
宗長は松田加賀守とは文通していた。
●大戸(東吾妻町)
●草津・・10日間滞在した。
●大戸
9月25日
●板鼻か後閑(安中市)
「きのふけふ(昨日今日)ふわけ出侍る。山中前後左右の
紅葉の興計なるべし。過諄九月廿五日、太守佳例の
法楽の連歌 依田中務少輔泊にして、
 菊さきて あらそふ秋の 花もなし 
 規懐紙を越後の陣へとなん。はま川並松別当(★古い字)
 にして
色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」

★依田中務少輔(しょうゆう)光幸の宿所で  
太守=上杉顕定主催の「法楽の連歌」に参加した。
連歌は越後上杉顕定の陣(新潟県六日町?)に送られた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出してきた。
 武蔵の権現山城(神奈川県鶴見)まで侵攻した。

・永正7年(1510)6月権現山の戦い
 北条早雲は、扇谷上杉朝良の被官:上田政盛を早雲側に
 寝返らせた。
 上田政盛が権現山で蜂起させた。
 北条早雲は、平塚の住吉城で呼応し、扇谷上杉領を脅か
す打ち込む形をとった。

 ところが、扇谷上杉朝良は今まで対立していた山内上杉
 顕定の養子憲房と和解する。
上杉顕定は武蔵に引き返した。
 
 そして両上杉氏は2万余の軍で、権現山城を包囲した。
7月19日、10日余の激戦・・・
両上杉氏は権現山城を落とした。
権現山城に籠もった上田蔵人政盛は
「本覚寺の地蔵堂をば根城に拵らへた。」とある。
本覚寺山の根城は、藤田虎寿丸により攻め落とされた。

 ・伊勢宗瑞(北条早雲)は小田原城まで撤退した。

 そして、上杉顕定は再び、長尾為景を討つため越後に
 行った。 

・伊勢宗瑞(北条早雲)は三浦半島の制圧した。
やがて、権現山城を攻略した。多米が城将となった。

**************************************************

箕輪初心●神奈川:【青木城】&神奈川宿
*****************************************************

・永正7年(1510) 長者原(新潟県六日町)の戦い
  長尾為景は佐渡の本間一族(娘婿)の力をかり、
  長者ヶ原で上杉顕定を攻撃した。
  上杉顕定は長野為景の信濃の援軍:高梨政盛に敗北
  し、自刃。享年57歳。

※越後(現六日町八海山麓)の管領塚

★上杉顕定はなんと、長尾景春の同族で越後守護代:長
 尾為景(上杉謙信の父)と戦って戦死してしまったのだ。

***********************************************

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺
・雲洞庵・坂戸城・管領塚



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心★上杉家10代:上杉顕房&11代:上杉顕定

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦

箕輪初心▲埼玉秩父:「長尾景春の乱&逃走」

箕輪初心▲埼玉秩父【長尾城=瑞岩寺城】:長尾景春の城

箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル

箕輪初心●群馬渋川【白井城】=上杉謙信の同族の城

箕輪初心●群馬【蒼海(おうみ)城 】千葉氏→長尾氏→諏訪氏

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008 
*********上杉顕定の関係****************************
箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦

箕輪初心★【連歌師:飯尾宗祇】&関東管領:上杉&長尾

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨

*********上杉顕定の死********************************
箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間一族→酒田本間家
 日本一の地主へ
★長尾為景の協力者:佐渡本間家が上杉顕定を倒した。

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺・
雲洞庵・坂戸城・管領塚
★上杉顕定の管領塚=戦死した場所

****関東管領:上杉家関係***************************

箕輪初心★山内上杉16代①「初代~7代」=足利尊氏の母方系

箕輪初心★埼玉【庁鼻和城】&4代上杉憲顕の子:庁鼻和上杉
憲英~ 

箕輪初心★上杉家②『8代:憲実~9代:憲忠~10代:房顕』

***************************************************

  • 最終更新:2016-06-15 22:48:43

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