尭恵の北国紀行に見る長野氏の動向

・文明十八年(1486)
 232北国紀行 九月未ごろ、尭恵が越後から鎌倉への旅の途中、佐野にて旅情にふける
  『~神無月廿日あまりに彼国府長野の陣所に至る事晡(夕方)時になれり、此野ほ
   秋の霜をあらそひし戦場いまだはらはずして、軍兵野にみてり、かれたる萩われもかう
   などをひきむすびて夜をかさぬ、~』   (下略)

   上野国府.jpg  蒼海城.jpg
  埋め込んだ縄張り図はイメージです   縄張り図は余湖くん様のHPより  
〔解説〕
   府中(前橋市元総社町)では長野氏の陣所にも寄り、長尾顕忠の陣所では連歌会を催
   した。また文明十九年(1487)にも上野府中長野陣所において歌を詠んでいる。
   さらに、小野景頼の屋敷にて連歌会を開いた。小野景頼については上野の武士と考え
   られるが他に資料がなく不詳である。 ※現在は木部氏の本姓が小野氏説あり。
新編高崎市史資料編4より

 まとめ
  尭恵は北国紀行のなかで、上野国府に在陣する上州一揆の様子を語っている。
  これは、上野守護代代を務める高津長尾定明に率いられて、下野国足利庄勧農城へ出撃
  する前の様子を語っているのではないだろうか。上杉顕定・長尾顕忠率いる武蔵一揆は、
  大手軍として同地へ向かい、上州一揆は定明と共に赤城山南麓を勧農城へと、搦め手の
  軍勢を進めたのではないだろうか。長野陣所には、許された一揆の旗頭、顕業がいた?
  この当時室田長野氏が台頭して来ているとも考えられるが、本流を差し置いて旗頭の
  座に就いていたかどうか研究が必要である。※白井にあった上杉定昌主導で、惣社の軍勢
  と共に上杉顕定の軍勢抜きに出撃が真相らしい。20181005 宗春
 ※軍兵野にみてり 下野国足利庄勧農城へ出撃前の様子か?(長享の乱勃発)
  さて、長野陣所に居た可能性が高いのは、為業の子長野顕業と考えられるが次点で室田
  長野尚業としておこう。そして陣所の所在地であるが、蒼海城内であったとするのは無理
  があると考えている。なにせ「軍兵野にみてり」とあるように広範囲に陣所が立ち並んで
  いる様子が伺えるからである。また、長野陣所内の小野館と解説される資料もあるため
  常設された砦ないしは城を想定するのが正しいと思う。なにせ上州一揆の旗頭である
  長野氏であるから、ここは思い切って厩橋城か菅谷城を陣所と見立てた方が正解では
  なかろうか。そういった場所なら連歌会が開かれても可笑しくない。今後の研究が期待
  されます。

  • 文明10年(1478)  
  1月 足利成氏が簗田持助を通じて山内上杉家家宰:長尾忠景へ和議を打診した。
   20年以上の戦いに飽いた足利成氏は足利幕府の関東管領との有利な条件での和睦を望ん
   でいた。上杉氏と足利成氏の間で和議が成立。太田道灌の裏工作であった。
  20年間対立していた
   享徳の乱終結・・・享徳3年(1454)~文明10年(1478) (都鄙合体は文明14年)  
  ・長尾景春は足利成氏の後ろ盾を失った。
  ・長野為業を失った本流長野氏は衰退したかに見えるが、一族の房業が立川原で上杉方と
   して討ち死にしている。その後上杉家に復帰したとみられる顕業は顕定から一字拝領
   と考えられている。
  • 文明12年(1480)
   忠景の嫡男:長尾顕忠は、秩父郡で上杉軍の将として長尾景春と交戦した。
   総社長尾氏の家督を継いだとみられている。 (「太田道灌状」)
   1月 長尾景春が八幡山(雉ヶ岡城付近)で蜂起した。
                          (★太田道灌状・・)
   鉢形城落城後も児玉郡付近には長尾景春の勢力が残っていた雉ヶ岡城が長尾景春方の
   城であったのか不明であるが、児玉郡は山内上杉氏の所領である。
   ★山内家には相当数の長尾景春の支持者がいたのではないだろうか?
   (雉ヶ岡城周辺地域は白井長尾氏の諸領であった
  6月 長尾景春の最後の拠点:日尾城(埼玉県秩父市)を
   太田道灌に攻め落とされた。長尾景春は足利成氏を頼って落ち延びた。
   古河公方:足利成氏と長尾景春は、室町幕府に「両上杉家」との「和睦」調停を申し
   出た。足利幕府も命により、「両上杉家」と「古河公方」の対立&
   「長尾景春の叛乱」は、和睦で、終焉することになった。
  • 文明13年(1481)
   上杉憲房(15才)元服する。長尾景春は。憲房を「屋形」と称して被官していた。
  • 文明14年11月27日(1482年1月6日)
   足利成氏と両上杉家との間で和議が成立。
   足利成氏は幕府から赦免された。(都鄙合体
  ※30年にも及んだ享徳の乱は終結した。
   だが、定正は山内家主導で進められたこの和睦に不満であり、定正と顕定は不仲になる。
   上杉顕定&上杉定正は、その後も対立したままだった。
  • 文明18年(1486) 太田道灌が殺害された。
   太田道灌は、群を抜く大きな江戸城:扇谷の石垣修理しようとした。
   主君の扇谷上杉定正は「謀反だ。」と思った。
   そこで、扇谷上杉定正は糟屋邸
   (相模国糟屋現:神奈川県伊勢原市)に誘い出し、殺害。
  ※扇谷家の台頭を恐れた山内家の策略だと言う学者・研究者や子孫の方もいる。
   大田道灌暗殺により、大田道灌の子:資康や扇谷上杉家に
   付いていた国人衆の多くが山内家へ走った。
   長尾景春も上杉定正に加担して、山内:上杉顕定と戦うことになった。
  • 文明19年/長享元年(1487)
  長享の乱が勃発
   顕定と実兄の定昌(越後守護)は扇谷上杉家に通じた長尾房清の下野国足利庄勧農城
   (現在の栃木県足利市)を奪い、ここに両上杉家の戦いが勃発したのである。
     山内上杉家の上杉顕定(鉢形城) VS 扇谷上杉家(河越城)の上杉定正→甥・朝良
   長尾顕忠は山内上杉家の家宰として軍を率いて上杉朝良・伊勢宗瑞らと戦った。
   晩年・・・武蔵国杉山城を居城にした可能性がある。

尭恵の北国紀行に見る長野氏の動向
・文明十八年(1486)
 232北国紀行 九月未ごろ、尭恵が越後から鎌倉への旅の途中、佐野にて旅情にふける

   一七日いかほに侍(はべ)りしに、出湯の上なる千巌の道をはるばるとよぢ上りて大なる
  原あり、其の一かたにそびえたる高峯あり、ぬのたけといふ、麓に流水あり、是をいかほの
  ぬまといへり、いかにしてと侍る往躅(おうちょく)をたづねてわけのぼるに、からころも
  かくるいかほの沼水にけふは玉ぬくあやめをそひくと侍りし京極黄門の風姿まことに妙な
  り、枯たるあやめのね霜を帯たるに、まじれる杜若のくきなどまで、むかしむつまじくお
  ぼえて、

    種しあらはいかほの沼の杜若
        かけし衣のゆかりともなれ

   ※榛名湖の東南に沼ノ原(湿原)があり、ここで枯れたアヤメを引き抜いたのであろう
    湖の青さ(杜若色)と尭恵のまとった衣のゆかり(青)色の風姿が絶妙なれ(保護色)
    アヤメや杜若が昔懐かしく都を思い出させる。
    (常光院堯孝の弟子堯恵の歌は技巧重視で、非常に凝った趣向を用いているという)
                              宗春の勝手に歌の解釈

   神無月廿日あまりに彼国府長野の陣所に至る事晡(夕方)時になれり、此野は秋の霜をあ
  らそひし戦場いまだはらはずして、※1.軍兵野にみてり、かれたる萩われもかうなどをひき
  むすびて夜をかさぬ、(上杉)定昌の指南によりて、藤原顕定(関東管領)の旅、哀の
  こゝろありて、旅宿を東陣にうつされし後は、厳霜もをだやかなり、平顕忠(長尾修理亮)
  陣所にて会、羇(旅)中雲、

    むさし野や何の草はにかゝれとて
          みはうき雲の行末の空

   ※武蔵野を旅して、夜は枯れ葉や草を布団代わりに掛けて寝たとしても
    私は雲が行く末の空へ向かって行くように気ままに旅を続けるだろう
    また、尭恵の言う行く末の空とは平安を取り戻した京の都かもしれない。
   ※ここで疑問に思う事。この歌は上野国府にて詠まれたように思えるが、
    実は武蔵野とあるように定昌の指南(道案内)で鉢形城?へたどり着いた
    後に詠まれたのではなかろうか。平顕忠(長尾修理亮顕忠)は顕定の家宰
    として武蔵において活動していたと考えられるからである。
    『旅宿を東陣にうつされし後は、厳霜もをだやかなり』とあることから
    そのことが窺えはしないだろうか。
                              宗春の勝手に歌の解釈

   十一月五日は佐野舟橋にいたりぬ、藤原忠信をしるべとせり、彼所を見るに、西の方に
  一筋の平らなる岡あり、うへに白雲山ならびあら舟御社のやま有、其北にあさまのたけ崔嵬
  (さいかい)たり、舟ばしはむかしの東西の岸とおぼしき間、田面はるかに平々たり、両岸
  に二所の長者ありしとなり、此のあたりの老人出てむかしの跡をおしふるに、水もなくほそ
  き江のかたちに有りて、二三尺ばかりなる石をうちわたせり、かれたる原にみわたされて、
  そことおもへる所なし、

     跡もなくむかしをつなく舟橋は
         たゝことのはのさのの冬原
   (下略)

   ※上野国府から武蔵への途中。万葉集巻十四、東歌(あづまうた)にある
    「かみつけの佐野の船はしとりはなし、親はさくれどわはさかるがへ」
    と詠われているが、今はただ舟橋をつないだ跡もなくただ言の葉(万葉集)に
    詠われているだけの佐野の冬野原になってしまっている。
    十一月五日とあるので、ちょうど烏川は渇水期に当たっているためなのだろう。
    この時、越後上杉定昌と同行だったのか、定昌の家人となのかはわからない。
    また、この歌の解釈は易しい部類に入るのかもしれない。
                              宗春の勝手に歌の解釈

〔解説〕
   尭恵は京都常光院の僧であり、歌人としても有名でもる。彼はこの年九月初めに、三国峠
  から上野国に入り、白井・草津・伊香保・府中・佐野を経て、鎌倉に向かった。府中(前橋
  市元総社町)では長野氏の陣所にも寄り、長尾顕忠の陣所では連歌会を催した。十一月五日
  には佐野野の舟橋を見て、万葉集以来歌われた旅情にひたろうとした。またここから、荒船
  山・浅間山などの遠景をながめてもいる。

 ※1.軍兵野にみてり 下野国足利庄勧農城へ出撃前の様子か?(長享の乱勃発)

・文明十九年/長享元年(1487)
 233北国紀行九月十三日、尭恵が鎌倉から越後府中への途中、上野府中長野陣所において歌を
 詠む

   九月十三夜、白井戸部亭にて、松間月、

     すみまさるほとをもみよと松のはの
             数あらはなる峯の月影

   ※これは良いね。すみまさるって澄み切っているのと墨のように黒々とした松葉
    なのかな。その向こうには月明かりに照らされた山並みの稜線がくっきりと見える。
    澄み切った空に架かる月は、現代と違って街灯もなく黒々とした大地と対比して
    観ると感動ものであったのでしょう。
                               宗春の勝手に歌の解釈

   九月尽に長野陣所小野景頼が許にて、暮秋時雨、

     誰袖の秋のわかれのくしのはの
          黒かみ山そまなくしくるゝ

   ※尭恵の坊様は、宗春の歌心に近いのかもしれない。そんなに言の葉をこねくり
    回さなくても良いのにと思ってしまう。親近感。ここでも宗春の思い込みで
    解釈してみる。「誰袖~わかれ」は、袖を振るとか別れを誘引する。秋に櫛の葉
    (かえでか何か)が散ることに掛かっている気がする。黒髪山は榛名山系の
    中でも国府から良く見えて目立つ山である。黒髪とまな櫛が掛かっていて
    黒髪山は秋の長雨にしぐれていると詠んだ。宗春は、別れを惜しむ女人が黒髪を
    すきながら泣き濡れている様子とみて、尭恵が詠んだと想像しました。
                               宗春の勝手に歌の解釈

   十一月の末に上野のさかひ近き越後の山中石白(上杉相模守房定干時法名常泰旅所)
  といふ所へ源房政にたぐへて帰路をもよほすべきよし侍りしかば、白井の人々餞別せしに、
  山路雪、

     かへるとも君かしほりに東路の
         山かさなれる雪やわけまし
(下略)
   ※これはどうだろう?白井の君(越後上杉氏の関係者?)が無事の旅路を祈って
    選別をくれた。いま東路から降り積もる雪をかき分けながら三国峠を越えて行く。
    珍しく、ちょいと捻りを感じないのは私だけだろうか。
                               宗春の勝手に歌の解釈
〔解説〕
   尭恵は、鎌倉から越後への帰途上野府中(前橋市元総社町)の長野氏陣所に寄り、
  小野景頼の屋敷にて連歌会を開いた。小野景頼については上野の武士と考えられるが他に
  資料がなく不詳である。※現在は木部氏の本姓が小野説あり。
新編高崎市史資料編4より

 最後に
  宗春の勝手に歌の解釈ごめんなさい。宗祇や宗長に憧れて宗春(むねはる)などと名乗り
  挙句の果てに尭恵の歌までかってに解釈するなど、身の程知らずも良いとこでした。
  歌の道をもっと精進すべくありたいと思います。

   長野業尚か憲業が雲英(+恵応)和尚を招いて長年寺を創建?(★秋本太郎先生)
   長野氏系図には、鷹留城を築くとある。箕輪城も築くともある。
  • 文亀3年(1503) 長野業尚が死亡。(★みさとの歴史)            
   長野憲業が家督を継承。
  • 永正元年(1504)
   長享2年(1488)杉定昌(顕定兄)死去に伴い、上杉憲房は白井城を継いでいた。
   9月6日 上杉顕定は、仙波から白子へと江戸城攻略のため陣を移した。
   この動きに対して宗瑞・氏親が進軍してきたため、顕定は西方へ退却した。
   9月27日立河原の戦い 長野孫太郎房業(房兼:憲房の房?)討ち死に
   父顕業の子であるとすれば、孫太郎房業は嫡子だったのであろうか?それならば憲房より
   房の字を拝領したことにうなづける。またこれにより長野賢忠が厩橋長野家を継いだの
   かもしれない。
   駿河守護:今川氏親伊勢宗瑞(北条早雲)・上杉朝良
     VS
  結果・・・山内上杉連合軍 2,000人余りの死者を出して大敗。鉢形城へ敗走した。
    「長野孫太郎房業、上杉顕定に従い、戦死・・・」(★近藤先生の群馬県史)
   しかし、越後上杉房能(ふさよし:顕定の実弟)に援軍を要請すると、守護代長尾能景
   の援軍を受けて反撃に転じた。
   11月 武蔵椚田要害
   12月 相模実田要害を山内上杉軍は攻略した。

  • 永正2年(1505) 山内&越後上杉氏が上杉朝良の河越城を攻撃。
   結果・・・上杉朝良が降伏。朝良の江戸隠居を条件に和睦した。
   山内&越後上杉氏は長享の乱で事実上の勝利宣言といえる。

   上杉顕定は菅谷館に上杉朝良を幽閉して出家させ、甥の上杉朝興
   を当主に立てることを扇谷上杉家臣団に強要した。

   しかし、扇谷上杉家臣団の反発が強く、諦めた。
   上杉顕定は上杉朝良が解放し河越城に戻した。

   長尾景春は上野国に戻って白井城に入った。
   上杉顕定の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。
   長尾景春は柏原城(★群馬県東吾妻町)に逃亡した。
   長尾景春は引き続き、上杉顕定に対抗した。

これからの長野氏はどうなる?
 文亀3年(1503) 長野業尚が死亡。憲業が跡を継ぐ(★みさとの歴史)
 永正元年(1504) 長野房業が死亡。賢忠が跡を継ぐ?
  そしてすい星のごとく現れた、長野左衛門大夫方業。この後憲業や賢忠とどのように
  係わって来るのであろうか。また上杉憲房との関係は……

  • 最終更新:2018-10-05 14:26:18

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