島田宗長の『東路の津登』

島田宗長の『東路の津登』

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨より
  • 永正6年(1509) 『東路の津登』
   (★『群書類従』・・・宗長『東路の津登』より)
   「永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より出立。」
   ※出発は永正六年文月十六日とある。

  • 鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)
   長尾孫太郎顯方の舘はちがた(埼玉県大里郡寄居町鉢形)と
   いふ處につきぬ。政定馬上ながらくちずさびに。
   むさし野の 露のかきりは 分もみつ
   秋の風をは しら川の關
   この比。越後の國鉾楯により。
   武藏上野の侍進發のこと有て。
   いづこもしづかならざりしかば。ひと夜有て。

  ★となると、長尾孫太郎顯方は鉢形城を築城した長尾景春
   の家系ではなく、上杉顕定に重用された長尾景春の叔父
   の系統ということになるのはないだろうか。

  ★いずれにしても上杉顕定の守護代として、長尾孫太郎顕方
   は鉢形に残っていたことになる。扇ガ谷上杉定正と対立し
   ていたからである。顕方の「顕」は上杉顕定から一字を貰ったのであろう。

  ●長井(埼玉県大里郡妻沼町)
    ~~~~利根川~~~~~~~~
  ●新田庄(群馬県新田郡)
  ●下野の足利庄●佐野  ●室の八幡(栃木市)  
  ●鹿沼●日光●鹿沼●佐野●足利
  ●新田之庄●太田●大胡(前橋市大胡)
   9月~~~~~~~~~~~~
  ●青柳(前橋市青柳)●荒蒔(前橋市荒牧)
  「松田加賀守・・重陽(旧暦9月9日)の連歌会」
   宗長は松田加賀守とは文通していた。
  ●大戸(東吾妻町)
  ●草津・・10日間滞在した。
  ●大戸
   9月25日
  ●板鼻か後閑(安中市)
  「きのふけふ(昨日今日)ふわけ出侍る。山中前後左右の
   紅葉の興計なるべし。過諄九月廿五日、太守佳例の
   法楽の連歌 依田中務少輔泊にして、
   菊さきて あらそふ秋の 花もなし 
   規懐紙を越後の陣へとなん。
  ●はま川並松別当(★古い字)にして
   色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」

  ★依田中務少輔(しょうゆう)光幸の宿所で  
   太守=上杉顕定主催の「法楽の連歌」に参加した。
   連歌は越後上杉顕定の陣(新潟県六日町?)に送られた。

  • 『宗長の生涯』
★戦国時代、武将も連歌等の文芸に嗜んだようである。
宗祇と宗長達は連歌の拡大を目指して旅をした。
宗長の永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
    souchou01.jpg
     (★千葉市の戦国時代の城館跡より)
 

★★ 宗長の生涯 ★★
文安5年(1448)~天文元年(1532)

・文安5年(1448) 駿河国島田(現静岡県島田市)で
  鍛冶職:五条義助の子として生まれた。


・寛正6年(1465) 18歳で出家した。
 「下職の者の子ながら、十八にて法師になる」
  (★宇津山記)

・寛正6年(1465)18歳
   宗長は駿河守護の今川義忠に仕えた。

・文正元年(1466)19歳 
  秋、連歌師宗祇が関東に下向した。
  途中、験府で今川義忠を訪ねた。
  今川義忠の命令で、宗長は宗祇を名月の清見が関
  (清水市興津)に案内した。
 ※宗長&宗祇との出会いは宗長の一生を決定づけることの
  なった。 

・応仁元年(1467) 応仁の乱が勃発した。 
   8代将軍:足利義政の継嗣争い・・・・
    細川勝元 VS 山名持豊(山名宗全)

今川義忠1,000騎を率いて上洛した。
  東軍へ属した。細川政元の味方になった。
  上洛中に伊勢新九郎(北条早雲)の姉妹の北川殿と結婚
  した。
  
  戦渦は全国に拡大していった。
  足利幕府や守護大名の衰退・・・・
  約10年間にわたって継続した内乱となった。
   京都は壊滅的な被害を受けて荒廃した。
  戦国時代に突入していった。
  
・文明8年(1476)今川義忠が戦死した。
  宗長は駿河を去り上洛した。
  宗長は室町時代の連歌師:宗祇(1421~1502)の弟子
  となった。宗祇に連歌を学んだのだ。

・??年  大徳寺の一休宗純に参禅した。
      大徳寺の真珠庵の傍らに住んだ。

・文明10年(1478)
宗祇と宗長は越後の上杉氏を訪ねた。

宗祇の種玉庵は将軍・管領・公家の居住する地区である。
  公家:三条西実隆 
  管領:細川高国
  周防の大内義興(山口城)
  能登の畠山氏(七尾城)
  越後の上杉房能(上越市)らと連歌を詠んだ。

・文明12年(1480)
宗祇と宗長は筑紫の立花氏?を訪ねた。
「博多千句」を興行し、『筑紫道記(みちのき)』を著した。

・文明13年(1481) 一休宗純がで死んだ。
  山城国薪村(現京都府京田辺市)の
  酬恩庵に住んで一休宗純の菩提を弔った。

・長享2年(1488) 師匠:宗祇が北野連歌所宗匠となった。
  ★名実ともに連歌界の第一人者となった。
  
・長享2年(1488) 『水無瀬三吟百韻』に参加した。
   宗祇は北野連歌所宗匠の座を兼載に譲った。

・長享2年(1488) 水無瀬三吟百韻に参加した。

・延徳3年(1491) 湯山三吟百韻に参加した。

・明応4年(1495) 兼載らと『新撰菟玖波集』を撰集した。
この中に、岩松尚純9句&横瀬国繁3句ある。
1)岩松尚純が9句
「 なでつくす 袖か岩ほの 朝霞 」
「 郭公 月にいざよふ 雲間哉 」
「 風でまたで 露におられよ 萩が花 」

2)小野(横瀬)国繁は3句

3)小野(横瀬)業繁が2句
※文学史の偉大な足跡を残した。




・明応5年(1496) 駿河に戻って今川氏親に仕える。
  宗長は今川氏親の外交顧問であった。
  
 ※各地を旅した。

合計2度にわたって、周防の大内義興を訪ねた。

・明応9年(1500)

・文亀2年(1502)
宗祇は7度目の越後の上杉氏を訪ねた。
宗祇は越後で体調を崩した。
宗長は宗祇を見舞うため、駿河→鎌倉→(鎌倉上道)・・
 板鼻・・・東山道・・北国街道・・越後国府(上越市)
しかし、宗長が病気になってしまった。
 
  宗祇は弟子の宗長、宗碩らに伴われて越後国府→中野→菅平
  →菅平・(真田の地)・・鳥居峠・・・(吾妻)・・・大津
  宗長は草津温泉で療養=湯治することになった。
  宗祇は伊香保温泉で休憩・・・発病した。
おそらくは船で・・・江戸→鎌倉・・・
宗祇は富士山を見たがっていた。
「富士をも もう一度 見侍らん」
(★宗祇終焉記)
    美濃に向かう途中、箱根湯本の旅館で没した。
宗長は最期を看取った。
  
「おのおのこゝろをのどめて、あすは此の山をこゆべき用意
せさせて、うちやすみしに、夜中過るほど、いたくくるしげ
なれば、をしうごかし侍れば、只今の夢に定家卿にあひたて
まつりしといひて、玉のをよ絶えなばたえねといふ哥を吟ぜ
られしを、聞く人、是は式子内親王の御哥にこそと思へるに、
又このたびの千句の中にありし前句にや、

 「  ながむる月に  たちぞ うかるる 」

といふ句を沈吟して、我は付けがたし、みなみな付け侍れな
どたはぶれにいひつつ、ともし火のきゆるやうにしていきも
絶えぬ。

・8月11日 宗長は清見ヶ関に着いた。
「道のほど、たれもかれももの悲しくてありし山ぢのうが
 りしも、なきみわらひみかたらひて、清見が関に十一日
 につきぬ。夜もすがら磯の月をみて、宗長

 「  もろともに 今夜清見 が関ならば
     おもふに月も  袖ぬらすらん 」



  駿河桃園(現静岡県裾野市)定輪寺に葬られた。
宗長は「宗祇終焉記」を著した。
  
  宗祇没後は宗長&宗碩が連歌界の中心となった。
   

・永正元年(1504) 斎藤安元の援助により駿河国丸子(現静岡市
 丸子=まりこ)の郷泉谷に柴屋軒(現吐月峰柴屋寺)を結んで
  隠棲した。
  駿河&京との間を行き来した。
  大徳寺の山門造営にも関与した。

 宗長は、今川氏親の命で甲斐の武田信虎との講和を成立させる
  など外交面でも働いた。

・永正5年(1508)越後守護:上杉房能(ふさよし)が
守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に八海山の麓で
殺された。長尾為景が佐渡の娘婿:本間氏の援助を
受けたのである
・・・関東管領:山内上杉顕定が越後に出兵した。

・永正6年(1509) 『東路の津登』
 (★『群書類従』・・・宗長『東路の津登』より)
「永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より
 出立。」
※出発は永正六年文月十六日とある。
 「思ひつつ幾春か過し・・」
 ★数年前の宗祇7回目の越後&草津・箱根の影響も
  あると思われる。
 
    souchou02.jpg


7月16日 宗長は白河の関を見ようと駿河丸子(まりこ)を
 出発した。
●丸子→
●駿府→
●小田原
●藤沢
・・・・鎌倉上道・・・
丸子・沼津・小田原・藤澤と経由して
「八月十一日むさしの国・・・」

●府中(東京)

●青梅
「八月十一日 武蔵の国勝沼(東京都青梅市勝沼)といふ処
 に至りぬ。
 三田弾正忠氏宗此処の領主たり。兼ねてしも白川の道々の
事申しかよはし侍りしかば、こゝのやすらひ十五日に及べり。
連歌たびたびあり。

 きりはたゞ わけ入る八重の 外山かな 

此の山家、うしろは甲斐の国の山。北は秩父といふ山に
つづきて誠に深山とは、ここをや申すべからむ。
此処の山深き心なるべし.

 おなじ処に山寺あり。前は武蔵野なり、
 杉本坊といふにして,

 露をふく 野風が花に 朝ぐもり

むさし野の景気ばかりなり。」
★「景気」は景色・風景の美しさを称えているのであろう。
※柴屋軒宗長は武蔵国勝沼(青梅市)の三田弾正忠氏宗の
  居館を訪づれ半月ほど滞在したのだった。
 三田氏宗&三田政定は宗長を手厚くもてなし、宗長
 の滞在中に度々連歌の会を催している。
 ★和歌の嗜みもあったのであろう。
※宗長の文章は上杉顕定・憲房の越後出陣中の武蔵国の不安な
状況を示している。三田氏宗&政定らは山内顕定の家臣であっ
たのに出陣しなかった。何故か?・・・わからん。

※三田氏宗&三田政定父子~~~~~~~
 武蔵国杣保(現青梅市)に根を張った国人で平将門の
  後裔と称していた。
 三田氏宗関東管領山内上杉顕定の配下として活動している。
 長享の乱・・・長尾能景が扇谷上杉氏方から奪い取った
  椚田城(初沢城)の城主になった。
 三田氏宗の勝沼城とその周辺が所領であった。
 永禄6年(1563)三田氏は北条氏照に攻められて滅亡した。
 

「同十五日。氏宗おなじく息政定これかれ駒うちならべ。
 むさし野の萩薄の中を過行がてに。」
 
●鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)
長尾孫太郎顯方の舘はちがた(埼玉県大里郡寄居町鉢形)と
いふ處につきぬ。政定馬上ながらくちずさびに。
  むさし野の 露のかきりは 分もみつ 
秋の風をは しら川の關
この比。越後の國鉾楯により。
 武藏上野の侍進發のこと有て。
いづこもしづかならざりしかば。ひと夜有て。

★となると、長尾孫太郎顯方は鉢形城を築城した長尾景春
 の家系ではなく、上杉顕定に重用された長尾景春の叔父
 の系統ということになるのはないだろうか。

 ・永正2年(1505)長尾景春は上野国に戻って白井城に入った。.
 上杉顕定の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。
★いずれにしても上杉顕定の守護代として、長尾孫太郎顕方
 は鉢形に残っていたことになる。扇ガ谷上杉定正と対立し
 ていたからである。顕方の「顕」は上杉顕定から一字を
 貰ったのであろう。


●長井(埼玉県大里郡妻沼町)
 「翌日日たけて。
長井の誰やらんの宿所へと送らる。
 夜に入ておちつきぬ。」
 
~~~~利根川~~~~~~~~
明る朝。利根川の舟渡りをして。

●新田庄(群馬県新田郡)
「上野の國新田の庄(群馬県新田郡)に禮部尚純(岩松尚純)
 隱遁ありて。今は靜喜かの閑居に五六日。」
★岩松尚純は横瀬=由良一族に太田金山城を奪われて
 いて、「静喜」と名乗っていた。

連歌たびたびにおよべり。
 5~6日、連歌を楽しんだ。

●下野の足利庄(栃木県足利市)
・足利学校
・ばんな寺 


●佐野
 佐野泰綱を訪ねた。


●室の八幡(栃木市)
「あづま路の 室のやしまの 秋のいろは
   それとも分かぬ  夕烟(けぶり)哉 」
         柴屋軒宗長

●鹿沼
 下野宇都宮氏家臣の壬生綱重の鹿沼の館に招かれた。
  壬生綱房&綱重父子を訪ね、連歌会を開いた。
 「六十あまり おなじふたつの 行末は
   君が為にぞ 身をもをしまむ」
壬生綱重と宗長は同年齢であった。親しみを込めて
連歌を詠んだ。

●日光
「この後北行して日光に至るも、戦乱と大雨に阻まれ白川行き
  を断念、北関東を遊歴。
・・・白河の関を断念した。
★後の松尾芭蕉と同じように、歌枕の地であったから・・・
でも、宇都宮氏VS 那須氏の戦いや洪水があった。


●鹿沼

●佐野

●足利

●新田之庄
岩松尚純を連歌を楽しんだ。

●太田
 医光寺・・・太田市由良威光寺かな?

●大胡(前橋市大胡)
大胡上総介綱長の館に泊まった。
★大胡氏は長野大胡氏の可能性がある。
(★高崎市史)

9月~~~~~~~~~~~~
●青柳(前橋市青柳)
「青柳という里・・・」
★箕輪城主:長野業政の家臣:青柳金王はここに領地
  があった。

●荒蒔(前橋市荒牧)
「荒蒔の和泉入道宿所・・・」

9月9日
●浜河(高崎市浜川町)
「松田加賀守・・重陽(旧暦9月9日)の連歌会」
宗長は松田加賀守とは文通していた。
★松田加賀守は一体誰なのであろうか?
長野憲業・長野業政の家臣団の中に松田姓の
  有力家臣は出てこない。
予想される館は「隆業館、後の浜川館である。」
200m×130mの大きな館である。高崎北高
の井野川野球グランドの西隣から西に当たる。
1)寺内館:(元高崎市浜川公園南西部300m・・・
      東山道に隣接北部)
 2)乙業館(おとなり)(高崎市浜川町道場火薬工場北)
3)寺内館・矢島館・北爪館・北新波砦・満勝寺砦
   住吉城(沖町)など
★矢島砦(90m×90m)・北新波砦(90m×90m)など
約20の館が長野郷浜川地区にあるが、浜川館以外
はみな小さい。
久保田順一先生の長野郷の中心地は箕輪であったとすれ
ば、現箕郷町に館があった可能性もある。

●大戸(東吾妻町)
海野三河守の宿所に1泊した。

★大戸氏は滋野系海野氏である。
天文年間頃には長野業政の娘婿となっている
  分家の浦野氏は
武田信玄の時代からであろう。永禄年間の
榛名鷹留城を攻めた記録(★榛名神社)
の長年寺に火をかけた記録(長年寺受連)
が残っている。


9月12日 
●草津
・・・10日間滞在した。

9月21日
●大戸
 海野三河守の館にて連歌会

9月25日
●板鼻か後閑(安中市)
「きのふけふ(昨日今日)ふわけ出侍る。山中前後左右の
紅葉の興計なるべし。過諄九月廿五日、太守佳例の
法楽の連歌 依田中務少輔泊にして、
 菊さきて あらそふ秋の 花もなし 
 規懐紙を越後の陣へとなん。はま川並松別当(★古い字)
 にして
色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」

★依田中務少輔(しょうゆう)光幸の宿所で  
太守=上杉顕定主催の「法楽の連歌」に参加した。

・文明2年(1470) 依田信濃守全棟=政知が長源寺
 (安中市後閑)に、三ツ木(中後閑)・下郷(下後閑)に
 所領を寄進。
      (★安中市史:長源寺文書)
 ①芦田光玄=忠政→②政友=政知→③光慶
   →全真→全賀(弟)→全真の子:信盛→虎昌
   →昌忠→将監(弟)→盛繁
※天文元年(1531)長野業政が箕輪城を継承。
・天文年間 依田光慶は、箕輪城主長野業政の女を
   室として嫁にした。同心になった。
・天文7年(1538)依田光慶が板鼻鷹巣城に移った(伝)。

★とすると、「東路の津登」に書き表された「依田中務少輔
 (しょうゆう)光幸は、依田信濃守全棟=政知の可能性が
 が高い。・・・中務少輔(しょうゆう)ランクは地方の戦
 国武将ではランクが高い。そうすると、・永正6年(1509)
 の時点では、依田氏は安中市後閑の可能性がある。
 多胡碑記念館の研究では板鼻になっているがどうなので
 あろうか? 安中市板鼻ではなく、安中市後閑ではないだ
 ろうか。安中市史・中世の安中・安中市教委の井上慎一先
 生講演会、長野立科町史?などでは天文7年(1538)
 依田光慶(徳昌軒)が板鼻鷹巣城に移った(伝)。ので、
 それ以前は、後閑にいたことになる。
また、古くは碓氷郡は現倉渕の烏川右岸=西地域まで
あった。幕末に小栗上野介の子どもらが西軍のから逃れよ
 うとして、使おうとした道である。
 宗長は大戸→倉渕→地蔵峠→松井田細野→安中後閑と行け
 るはずなのだ。後閑から東山道に入り、板鼻→東山道北道?
 (国府道)と通ると、八幡→金井淵→長野郷:浜川となる。

連歌は越後上杉顕定の陣(新潟県六日町)に送られた。


9月末~10月1日
●浜川
「その日、九月儘なるべし。神無月朔日になりぬ。
 又発句、
神無月 里やふりにし 花の春

此別当俗長野姓石上也並松上野國多胡郡
 弁官府碑文銘曰太政官二品穂積親王左大臣
 正二位石上尊此文系図(★古い字)有布留社あり
布留今道
ひの光や ふしわかねは 石上ふりにし里に
花咲にけり。
当月異名小春にそよへて過にし花の春に
 やと申計也。武州成田下総守顕泰亭にして
あしかもの みきはゝ雁の 常世かな 
水郷也。舘のめぐり四方沼水幾重ともなく蘆の露
枯れ廿余町四方へかけて水鳥おほく見えわたり
 たるさまなるべし。同千句興行第一句発句に・・・
 ・・・(略)・・・

★宗長は浜川(高崎市浜川町)に10月1日に戻ってきた。
・・・・・重要ポイント・・・

10月~~~~~~~~~~~~

●忍(埼玉県行田市)
宗長は高崎の浜川から埼玉の行田に行った。

【6】武州成田下総守顕泰の館(埼玉県行田市)
・延徳元年(1489) 山内上杉氏配下の成田親泰が
   太田道灌の縁戚で扇谷上杉氏配下の
   忍大丞の館を急襲。
・延徳2年(1490) 成田親泰が築城を開始。
            翌年完成。

・永正6年(1509) 成田下総守顕泰(親泰)の忍城に
          連歌師の宗長は立ち寄った。
★成田顕泰か長泰が上野の箕輪城主:長野業政の
     娘をもらた?? ・・
  箕輪城主:長野業政は娘を成田下総守顕泰の
嫡子に嫁がせた。
(★箕郷町誌:箕輪城&長野氏:近藤義雄先生)
★更に「のぼうの城」と繋がる。


●鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)
「鉢形より菅谷に入る。
 鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)の舘にして。
  霜をへん 生さきしるし 松の千代
 馬庭豐前守重直興行せし也。
 顯方いまだ少年の行末はるかなることを賀し侍る計也。
 又一座興行。發句。顯方にかはりて。
  さえし夜を かさねてけさや 薄氷

 連歌はてゝ酒など有て夜更侍りし也。
 當城逗留の旅宿隨意軒といふにして。
  神無月 くれさりし秋か 宿の菊

 庭の菊秋を殘せるさま成べし。
 鉢形をたちて。

●菅谷(埼玉県嵐山町)
「須賀谷(比企郡嵐山町菅谷)といふ所に
小泉掃部助の宿所に一日休らふ。
人數はなくて。懷紙表八句。
  冬かれや 萱か下葉の 秋の風

むさし野の東野中のほとりなるべし。
 霜枯の景氣ばかり也。
あたりの平澤寺(嵐山町平沢)にして。
  こほりけり 松にうこかぬ 岩根水

本尊は不動尊。池にふりたる松有。

●勝沼(東京都青梅市勝沼)
「又かつぬまにつきぬ。
建長寺天源庵は横川嶽の開山大應國師遷化の舊跡也。
いぬる五とせばかりのさきのとし回祿す。庵領なども久しく
知行して。およそなきが如くなり。紫野大徳寺衆中。
たびたび申くださるといへども。とかくことゆかず。
此折ふしに堅眞と云人多年の知人にて。うちうちに申つ
たふること有て。」

●江戸・・江戸城
「江戸の舘に六七日におよべり。
連歌三百韻あり。
  霜寒き 松ゆく田鶴の 朝日かな
   遠山に こゝろはゆきの 朝戸かな   上杉建方
  雪はけさ 水につもれる みそれ哉

こゝろは雪のといへるあたりふるめかしくて。しかも又
めづらしげ也。一日づつ隔て。おもしろかりし會席也。
すなはち天源庵領二箇所かへしつけらるべきよし。
嚴重の事也。都鄙いまの折ふしには。まことに希有の事
なるべし。」


●品川(東京都品川区)
品川といふ津にしる人あり。
 和泉堺よりきて。此六七年すめりとかや。
 長途窮屈。五六日休息して。
 ある夕なぎに海の邊にありきて歸りて。
  夕なきか 冬に入江の 春かすみ

江春入二舊年一といふ句をおもひ出て。なぎたる夕のおぼろ
おぼろと見えわたるさまにや。
安房上總下總めのまへの處なるべし。ある人安房のきよすを
一見せよかしとさそひしに。いづこかさしてとおもふ世なれば。
 たち歸り江戸のたてのふもとに一宿して。」
 
~~~~隅田川~~~~~~
「すみだ川の河舟にて。」

●葛西(葛飾区・江戸川区)
下總國葛西(葛飾区・江戸川区)の庄
 の河内を半日計よしあしをしのぐおりしも。・・・

●葛飾
●検見川
●市川 
これより下總國葛飾・検見川・市川などを遊歴。

●江戸
江戸に歸りつきて又の日舘にして。
  月や江に よる波たゝむ 朝こおり

●品川
廿八日。品川へとての間に旅宿の古梅軒一折のよし有しかど。
 發句ばかりにて。
  さきてかつ 春をまちとれ 梅の花

此軒號によそへて侍る計也。品川に兩日あしをやすめ。

●木月(川崎市中原区木月)
きつきといふ里あり。
諸西隼人佐宿所一宿して。

●玉縄
鎌倉ちかきあたり齋藤新左衞門光吉宿所に。
一日めを煩ひて逗留。・・・

●鎌倉
 ~12月初めまで鎌倉に逗留した。 

●小河原

●箱根

●沼津

●駿府

●丸子



・享禄4年 (1530)~
  宗長は柴屋軒で最晩年を過ごした。
 「宗長日記」は静かな柴屋軒の生活を記した。

・享禄5年・天文元年(1532) 宗長没。
   3月5日没・・・85歳であった。


★参考図書
・多胡碑の江戸時代:多胡碑記念館
・中世日記紀行集48巻:
・歴史の群像9遍歴「宗長」:斉藤栄文責:集英社
・関東戦国の大乱:群馬歴史博物館92回企画展


★参考サイト
・ウキペディア宗長
・アトミの花便り(文藝譜 宗長『東路のつと』)跡見学園

  • 最終更新:2017-07-25 14:10:33

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