広馬場の戦い

広馬場の戦い

  • 広馬場の対陣 上州合戦記より   

 文明8年(1478年)6月、景春は五十子を襲った。扇ヶ谷の家宰太田道灌(道資)が、今川氏の内紛を鎮圧するため駿河に出陣中の留守をねらったのだという。景春はそのまま鉢形城に戻ったが、糧道を断たれた五十子の上杉勢は、翌年(1479年)正月18日五十子城を放棄し、越後の上杉定昌は白井城、上杉顕定は阿内城、扇ヶ谷上杉定正は細井に陣を移し、岩松明純は武士の城山に上がって陣し、上杉勢の撤退を掩護した後金山に戻った。

 この上杉の機器を知った太田道灌は手兵を率いて上州にかけつけ、上杉諸将を迎えて武州に進み5月8日針谷原で景春を破った。この戦に、大石源左衛門、長野左衛門尉為兼(業)が討死した。古河公方成氏は、景春の危急を救うべく進発、新田から利根川を渡ろうとしたが、金山の岩松家純父子に阻止され、古河に兵を返した。7月になると古河公方成氏は宇都宮、烏山等の大軍を率い利根川を渡って那波をすぎ、群馬郡滝まで進陣した。将に平井、白井間を分断せんとする勢である。成氏がこの戦略行動をとることができたのは、6月、金山の岩松氏が成氏についたからであった。岩松家では、今まで通り上杉方を支持しようとする明純と、それに不同意の家純との間に意見の衝突があり、おそらく家宰横瀬国繁の調整で成氏方となることを決したのであろう。

 武州では対景春作戦中だった太田道灌はじめ上杉方は、急遽白井城まで退却し、全力を結集して成氏に対抗した。実に結城合戦以来の決戦で、受けに廻った上杉方にとり最大の危機であった。その後、半年近くにわたり、成氏が白井城総攻撃に出ることが出来なかった事情は不明であるが、遠征中自陣営中に起こった種々の問題の処理に手間取り、そのため思わぬ長陣となり、長陣の結果はまた別の問題を惹き起こし、軍紀の弛緩を呼んでそうなったのではあるまいか。長期の滞陣間、兵糧その他補給と連絡のため利根川の舟行が利用され、角淵河岸はその津として最も重要な地点となっていた。烏山式部大輔が恩賞のことで不満を抱き自陣を焼き払い三百余騎率い退陣という事件が起こった。また宇都宮正綱が川曲りの陣中で病死したのも難事であったが宇都宮勢はそのまま成氏軍中にとどまった。

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 これらにより、成氏軍の行動が停頓し、動揺が見えたのに乗じ太田道灌は(白井城より)行動を起こした。景春方を誘い出し、味方に有利な地形に誘い込み、撃破しようとして道灌が現前橋市の片貝、荒牧に出撃すれば、長尾景春は(厩橋城から?)結城、横瀬等の有力部隊を指揮して寄せて来た。当時なお利根川主流は現桃の木流路(現在は現利根川の方が流量大が定説)だったので、片貝、荒牧はその右岸低地にあり、左岸は赤城火山扇状地末端の起伏の多い台地になっている。案の定景春方の寄せるのを見た道灌は、利根川(桃の木)を渡って、引田付近の複雑な地形を前にし塩売り原(米野南側の庄司原であろう)に陣し、天子の御旗をひるがえして敵をさそった。錯雑地に入り込んだ敵の相互連絡不自由に乗じ攻撃し、利根川(桃の木)に圧迫して殲滅しようとする巧妙な計画である。ところが景春もそれを見抜き11月14日撤退しはじめた。これを追撃使用としたとき、長尾忠景勢の終結がおくれ、敵を捕捉できずに残念だったと道灌状にいう。那須勢らは戦意を失い、そのまま帰国してしまったというから、作戦は一部成功したことになる。景春も脱落したのであろう。

 12月23日、成氏は滝から行動を起こし和田(現高崎)から観音寺原を通って24日広馬場(現榛東村)に布陣し、白井総攻撃に移ろうとした。これ以上の長陣は不利だったからであろう。しかも既に厳寒の季節であった。やがて、上杉顕定から成氏に対し和睦のことが申し出られ、簗田高助が斡旋して、文明10年(1478年)正月2日、和議が成立、成氏は河越へと、諸将はそれぞれ帰陣した。

 講和の条件は、一つ上杉顕定が幕府の成氏討伐令免除を願出て努力すること。二つ成氏の子四郎を顕定の養子として山内上杉家をつがせること。三つ成氏は景春と絶縁すること等であった。これにより、成氏討伐令が撤回され、鎌倉公方が復活すれば、当然、鎌倉府の再興となり、永享10年(1438年)以来40年間続いた公方、管領の軋轢は消え、両者ともに鎌倉に復帰する段取りとなるべきだが、事態はそれに程遠かった。

 その年7月、太田道灌はかねての横瀬国繁との約束を果たし金山城を訪れた。3日間金山に滞在中軍議は一度もなく、只一度だけ城一帯を見物し、まことに名城であるとほめたという。軍僧松陰西堂とは兵書等につき雑談を交わした。道灌が城を辞す時に横瀬国繁は今井の大橋まで見送り、業繁以下20騎が間々田の舟渡しまで警固し、業繁はさらに仲間1人だけを従えて道灌の陣下まで供奉するなど、丁重を極めたという。
既に横瀬氏あって岩松氏なしの感がある。道灌は、景春とその与党の掃蕩をつづけ、文明12年、景春を武州大里郡長井城に攻め降して目的を達した。将軍義政と、古河公方成氏との和睦の成立したのはさらに2年後の文明14年11月であった。

  • 最終更新:2016-05-24 01:06:34

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