戦に関するメモ

騎馬戦
   江戸前期の兵法書に『雑兵物語』がある。それの乗馬戦闘に関する現代語訳を見てみよ
  う。「今こそ戦の勝負の分かれ目だと攻めかかり、せめぎ合いをしていると味方の関東の
  武士で乗馬の上手な者たちが、今日の戦場は平地で馬での戦に向いているし、 敵味方がも
  み合っているのでちょうどいい頃合いだと見計らって、二番手の槍勝負には参加しないで
  乗馬の上手が30人ほどの騎馬隊を作り、様々な武器を持った30騎がいっぺんに敵部隊の右
  側から突っ込んだ。」

   もともと関東の侍は鎌倉時代より笠懸けや流鏑馬と言った乗馬での戦闘訓練を幕府自ら
  主宰していた。武士は当時一騎二騎と数えられ、幕府の御家人は乗馬での鎌倉参陣を促さ
  れていた。そのことは、最明寺入道(北条)時頼の回国伝説にある、上野国在住(現高崎市
  佐野町)佐野常世の物語り『鉢木』にうかがえる。

  「敵も左側からの攻撃なら少しは抵抗が出来たのだろうが、右側から馬で攻められたのでは
  何の抵抗もできず、ただ騒ぎまわるばかりだった。その上騎馬隊が攻めかかるとすぐ、一番
  手の部隊のうち手の開いている者達が 鉄砲で騎馬隊の攻撃を応援したので、敵はどうにも
  防ぐことが出来ず、味方は何の苦労もなく敵を追い崩した。」

   ここでは右からの攻撃に弱いことを突かれているが、これは弓槍など矛先を向けるのに左
  なら半身に捻るだけだが右だと体の向きその物を変える必要性から、急襲に対する反応が遅
  れてしまうのだろう。

  「関西では、近頃の戦はみんな馬を降りての攻め合いばかりで、馬に乗っての戦というのを
  長い間やっておらず、関東の武士と違って乗馬で戦うのに慣れていないので、 騎馬隊に攻
  められたときどう防げばいいのかと言う心がけが無かったのだろう。」

   もともと乗馬での戦闘は関東が始まりであり、鎌倉幕府御家人の西遷(毛利・熊谷・
  島津・山名)で騎馬戦が伝わったとはいえ広まるまでには至らなかったようだ。その理由
  に、馬の繁殖は寒冷地が適しており、主な産地は信州以東とされているため数をそろえるが
  大変だったからのようだ。荷物運搬にも西国では牛を使い、東国では馬が多く使用されて
  いる。

   関東の武士は騎馬が常識である。しかし維持するためにはかなりの財力(おおよそ200石
  以上)が求められる。

戦国時代の武士像。哲学。 『戦国の軍隊』より

◆犬とも畜生とも
 では、中世の武士はどのようなメンタリティーを持っていたのか。
彼らは「武士道」に相当する言葉として、「兵(つわもの)の道」「弓馬の道」などという価値観を持っていた。
ただし、それは新渡戸や軍国主義者たちのような抽象的な精神論ではなく、
戦いや殺生を生業とする者の現実的な心構えを説いたものだ。
 時代は少し下るが、朝倉教景(宗滴)という戦国武将は、
「武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝っことが本にて候」という言葉を残している(『朝倉宗滴話記』)。
武士は犬といわれようが畜生といわれようが勝つことが全てだ、という処世訓である。
これは、裏を返せば戦いでは何でもありだから、自分がやられたくなかったら常日頃から武芸の鍛錬を怠らず、
常に周囲から甘く見られないように心がけて油断なく暮らすべし、ということでもある。
 実際、『平家物語』や『太平記』などを読んでも、
登場する武士たちは戦場で相手を出し抜くためには平気で嘘をつき、謀略やだまし討ちを駆使している。
鎌倉幕府が自らの正史として編んだ『吾妻鏡』という史料は、
その編纂理由ゆえに幕府側(とくに執権北条氏側)にとって都合の悪い政治的状況については、
しばしば隠蔽や曲筆がなされている。
であるにもかかわらず、戦場においては幕府側が謀略によって敵を討った話などを、
まったく悪びれることなく堂々と載せている。
 謀略やだまし討ちなどは、「兵の道」や「武略」のなかに当たり前に含まれることであり、
それに引っかかるお人好しの方が悪い、というのが武士本来の価値観なのである。
ちなみに、有名な『葉隠』を著した山本常朝は、父の重澄が家臣たちに対していつも、

 博奕をうて、虚言をいえ、一時の内に七度虚言いわねば、男は立たぬぞ、

 と言っていたことを記している。『葉隠』の成立は十八世紀の初頭だが、父の垂澄は戦国末期の生まれで、
鍋島勝茂の家臣として島原の乱などにも従軍の経験があったから、
戦国の気風をかなり残していた人といえる。
 それにしても一時(二時間)に七回嘘をつけないようでは男として役に立たない、とは凄い家風だが、
ヤンチャなくらいでなければ武士は勤まらないということなのだろう。
そういえば、前節では山中城攻防戦と直接関係がないので引かなかったが、渡辺勘兵衛も『覚書』のなかで、

 わかき時はけんくわをもいたし、侍に面目をうしなわせ候事も御座候、


 と述懐している。若い時分には、相当ヤンチャをしたのだろう。
 中村一氏に仕えた渡辺勘兵衛や、鍋島家中だった山本重澄・常朝は、
組織された軍団の一員という意味では、草深い農村に生きた鎌倉武士とは立場が違うけれども、
博打や嘘つきを奨励する価値観は、庭の草はむしるな、生首を絶やすことなく切り懸けよ、
という男衆三郎の家風と相通ずるものがあるように思う。

◆忠孝はあとからついてくる
『葉隠』は、「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」といったフレーズだけがともすれば一人歩きして、
武士の高潔な覚悟を説いた書のように思われがちであるけれども、
全体としては戦国の修羅場をくぐつてきた侍(武士)たちの現実感の籠もった遺訓があふれている。
たとえば、次に挙げるのは鍋島直茂からの聞き書である。

 武士道は死狂ひなり、一人の殺害を数十人して仕かぬるものと、直茂公仰せられ候、
 本気にては大業はならず、気運ひになりて死狂ひするまでなり、又武道に於て分別出来れば、
 はやおくる、なり、忠も孝も人らず、武士道に於ては死狂ひなり、この内に忠孝はおのづから龍もるべし、

「死狂ひ」の者は数十人でかかってもなかなか仕留められない、
戦場では正気を保っていては大したことはできず、
あれこれ理屈で考えて動こうとしても他人に遅れをとるだけだから、
忠も孝も考えずにひたすら死に物狂いで戦うだけで、忠孝は結果としてあとからついてくるものだ、
と言っているのである。
 鍋島直茂のいう「死狂ひ」とは、他人に遅れをとらないよう正気を捨てて突き進む蛮勇のことだが、
それは山中城攻防戦における勘兵衛そのものではないか。ちなみに鍋島直茂は、
肥前の戦国大名だった龍造寺氏を下剋上で塊偏化し、肥前藩の事実上の始祖となった人物である。
そのことを前提に読むと、ここに述べられた忠孝観は何とも現実的、というか現金なものだ。
 山本重澄とほぼ同世代で、やはり島頗の乱に参戦した経験をもつ宮本武蔵も、かの『五輪書』の中
で次のように述べる。

 死する道におゐては、武士斗にかぎらず、出家にても、女にても、百性巳下に至る迄、
 義理をしり、恥をおもひ、死する所を思ひきる事は、其差別なきもの也。武士の兵法をおこなふ道は、
 何事におゐても人にすぐる、所を本とし、或は一身の切合にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の
 ため、我身のため、名をあげ身をたてんと思ふ。

 要するに、死ぬだけなら僧侶でも女性でも百姓でも、義理や恥を知るならば覚悟ができるが、
武士の兵法は相手に勝つためのものだ、と言っているのである。
ここでの武蔵も、勝つことの目的として「主君のため」と「我身のため」を併置していて、
武士にとって「主君のため」は絶対とはかぎらなかったことがわかる。
 同時に、ここでいう「武士道」とは決して人生を律する哲学的・倫理学的価値観などではなく、
戦いに臨む武士の現実的な覚悟・心得を説いたもの、
つまりは中世によく用いられた「兵の道」などと同様の価値観であったことがわかろう。
 鎌倉時代から戦国時代にかけて、武士たちの間ではある共通のメンタリティーが脈々と受け継がれていた。
そのメンタリティーとは、新渡戸稲造が西洋人に紹介して見せたような、
きれい事の「武士道」などではなかった。
戦いで相手に勝つためには偽計も謀略も何でもありで、
自分がやられたくなかったら常日頃から武芸の鍛錬を怠らず、周囲から甘く見られないよう心がけて、
油断なく暮らすようなメンタリティー。
 それは、現代のわれわれから見れば、反社会的とすら思えるような価値観である。
けれども彼らが受け継いできたメンタリティーは職能戦士、
つまりは戦いや人殺しを生業とする社会集団が必要とする、きわめて現実的な価値観や心得だったのである。

鎌倉から戦国前期までの軍勢の様子 『戦国の軍隊』より

◆騎射戦から馬上打物戦へ
元寇において軍事政権としての真価を発揮した鎌倉幕府は、しかしその半世紀後の元弘三年(一三
三三)、後醍醐天皇のクーデターや足利尊氏・新田義貞らの挙兵によって倒壊する。
そして南北朝の内乱の中で、足利氏が京都に室町幕府を樹立する。
勘の良い方ならピンと来たはずだ。
内乱の結果としてではなく、内乱の中で樹立されたというところが、
鎌倉幕府の場合と同様、軍事政権としての幕府のキモなのである。
南北朝の内乱は複雑な状況を呈したけれども、封建制という基本的な枠組みが同じである以上、
軍隊の基本的構造や編成原理は平安時代末期と大差なかった。
戦力の基幹は職能戦士たる武士であり、
彼らはあいかわらず家や一族を単位としてサイズも戦力もまちまちな部隊を形成して、
足利尊氏や新田義貞のような大将に従って戦っていた。

 とはいえ、軍隊についていえば変化した要素もある。もっとも顕著な変化は戦闘様式だ。
平安末期における武士たちの戦いは騎射戦が主体で、治承・寿永の内乱期ではこれに組討ち戦が加わったが、
南北朝期に入ると騎射戦が衰退して、馬上打物戦が主流になってくる。
打物とは刀や長刀などの撃剣用武器のことだから、
甲冑を着た武士たちが馬上で刀や長刀を振るって戦うのが馬上打物戦である。
 もちろん、保元・平治の乱や治承・寿永の内乱においても、
乱戦模様になってくればそれまで騎射戦を行っていた武士が、
弓を捨てて太刀で打ち合うことは当然あったわけで、南北朝期に馬上打物戦が突然登場してくるわけではない。

あくまで、相対的に主流になっていったということである。
では、こうした変化はなぜ起きたのだろうか。
南北朝期に馬上打物戦が盛行した理由として、筆者は次のような問題を考えている。
まず、治承・寿永の内乱や承久の乱(承久三年1221年、鎌倉幕府と朝廷の戦い。鎌倉幕府が勝利する。)
によって武士の底辺層が拡大したこと。この問題についてはすでに説明したが、
もとより騎射戦を行う的に地盤沈下を起こしていったことが考えられる。

 次に、鎌倉期における市街戦の多発である。承久の乱が起きた承久三年から文永の役までの半世紀間、
鎌倉武士たちは「謀反人」とされた勢力の逮捕・討伐や、
荒ぶる僧兵たちの鎮圧にしばしば駆り出されていたし、
鎌倉では権力闘争に伴うクーデターや武力衝突が時折起こつて、市街戦が発生していた。
 そうした市街戦は、当初は街路上での衝突という形をとることが多かったから、
伝統的な騎射戦も見られたが、権力闘争では相手勢力を消滅させることが目的となるから、
最終的には屋敷や寺社といつた施設での戦いになる。
こうした場所では当然、騎射戦は無理だから馬上打物戦や徒歩打物戦になる。
また、市街戦とまではいかなくても、
鎌倉や京都のようにたくさんの武士たちが暮らしている都市で権力闘争が起きれば、
町中で不意に斬りつけられるような事態も想定しなくてはならなくなってくる。
こうして相対的に、撃剣の戦技が重視されるようになってくる。

◆室町時代の軍隊
 実際、鎌倉時代から室町時代にかけて、武士たちの用いる刀剣は次第に太刀から打刀へと移行していった。
太刀は刃を下に向けた状態で紐によって吊すが、打刀は刃を上に向けて帯に差し、
太刀と打刀では刀身の反り具合も違っている。
打刀のメリットは、素速く抜くと同時に相手に斬りつける、
いわゆる「抜き打ち」ができることで、唐突な襲撃者の刃を受け止めるような動作にも、
当然向いている。
打刀が普及するという現象は、
武士たちが降って湧いたようなチャンバラに対応しなければならない局面が増えたことを、反映しているのだろう。
 さらに、南北朝期には城郭戦や陣地戦も多発したが、これも市街戦と同様に打物戦の出番となる。
こうして徒歩であれ騎乗であれ、打物戦を行う機会が増えたことにより、
武士たちの戦技に占める打物のウエイトが増えてゆき、相対的に騎射戦が衰退していったのではあるまいか。
 この傾向に拍車をかけたのが、おそらく弓の長射程化である。平安末期から鎌倉初期にかけて、
武士たちの用いる弓は単純な木製弓から、木と竹を貼り合わせた合わせ弓へと変化し、
室町期にかけて三枚打弓・四枚打弓と呼ばれるような、より強力な合わせ弓へと移ってゆく。
初速や貫徹力とともに射距離が大きく向上してくると、弓射は速戦指向になつてゆくから、
保元・平治の乱の頃のように、馬を走らせながら近距離からピンポイントで急所を狙うような戦法は、
主流からはずれることになる。
 かつて戦場の花形だった騎射戦は、こうして次第に有職故実の世界に属するものとなり、
代わって馬上打物戦が隆盛をきわめることとなった。
もちろん、南北朝期から室町期にかけては市街戦や城郭戦も多発したから、
そうした戦場では徒歩での戦闘が中心となる。
けれども、大勢の武士たちを動員しての合戦では、
徒歩弓兵の遠距離射撃(第五章で詳述する)と馬上打物戦が主要な戦闘様式となつていった。
家や一族を単位とした、サイズも戦力もまちまちな部隊が集合して、大がかりな馬上打物戦が展開する。
南北朝期に成立したこうした軍隊と合戦のスタイルは、基本的には戦国時代の初期頃、
年代でいうなら十五世紀の後半頃まで受け継がれてゆくこととなる。

  • 最終更新:2018-10-08 22:56:30

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