戦乱上州へ

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  ◆鉢谷原の戦い

     長尾景春 VS 上杉顕定と上杉定正軍
   長尾景春は五十子を出陣して利根川を渡り、鉢谷原で攻めるが撃退された。

   5月13日太田道灌は上杉顕定・上杉定正と合流した。
   五十子(埼玉県本庄市)を奪回。
   太田道灌は五十子に着陣した。
   長尾景春は鉢形城にひとまず退却した。
 
   5月14日未明、太田道灌は上杉軍を率いて鉢形城へ向けて移動を開始した。
   長尾景春は「五十子の陣」を奪還した上杉軍を迎え撃つべく出陣した。
   景春は上杉勢の進路を防ぐため、用土原:針ヶ谷に移動した。
 
   しかし、これは太田道灌の陽動作戦であった。 

   用土原(埼玉県寄居町)の戦い

     長尾景春 VS 太田道灌・上杉顕定・上杉定正・長尾忠景
  
   太田道灌軍・両上杉軍・長尾忠景軍は一気に長尾景春軍をめがけて突撃した。
   長尾景春軍は完全に意表をつかれた。
  ★長尾景春の戦いの中で「用土原の合戦」は最も激しい合戦であった。
   多数の死者を出して大敗した。長野為業(兼)も戦死した。

  ★私見:長野家の「兼」のつく一族がいた。おそらくは厩橋=前橋系?と推測している。
 
   長尾景春は鉢形城に逃げ込んだ。

   太田道灌の参戦で長尾景春軍は各地で敗れた。
   次第に、長尾景春の勢威は衰退していった。 
   しかし、長尾景春は足利成氏の支援を受け、太田道灌と戦い続けた。
  ◆7月 荒巻の合戦
   長尾景春の要請により、古河公方:足利成氏が長尾景春
   への援軍として、那須・佐々木・柳田・一色の諸将を
   「群馬郡滝」に布陣させた。

  ★私見「群馬郡滝」=船尾滝(現榛東村~伊香保への途中)
  ※長尾景春の白井城&上杉軍がいる五十子の陣の間の説
  
   古河公方は、「児玉の陣」と「白井城」との連絡を遮断する作戦を計画たてた。
 
   太田道灌は、上杉軍主力を白井城に向けた。
   太田道灌は荒巻(★前橋市:群馬大学付近)に布陣した。
   古河公方の行動を牽制した。 
   長尾景春は同族の越後の長尾為景(上杉謙信父)にも援軍を要請した。

  ◆塩売原の合戦
   長尾景春は、結城、那須、佐々木、横瀬らを率い、太田道灌の荒巻の陣に
   進軍を開始した。 
   太田道灌は決戦を避けるべく「塩売原」に陣を移動した。
  ※「塩売原」・・・現在では特定できていない。

  ★おそらくは前橋市惣社か吉岡町の一部であろう。
  ※桃の木川の北側の、荒巻・関根・日輪寺・青柳町から富士見にかけての
   一帯と言う説がある。太田道灌が利根川を渡ったと言うのは、広瀬・桃の木
   川が当時まだ利根川と言う意識があったからだと思われる。
 
   長尾景春も「塩売原」に布陣した。渡ったら川を背にして不利だから渡らなかった
   と言う説もある。
 
     広馬場(群馬県榛東村)の戦い

   山内上杉+長野業尚 VS 長尾景春+長野為業+古河公方
   (景春はこの時すでに鉢形へ帰っちゃっていたかも)
                     (★関東古戦録:久保田順一訳)

  ★関係ないけど、箕輪城から4km。・・・
   つまり、藤岡の平井城&渋川の白井城はちょうど中間地点で
   ある。・・・もしかして、箕輪城はこの年に、長野業尚の
   よって、築城されていたのではないかとう勝手な説を
   私は考えている。上杉顕定が10年前に平井城の修築
   &詰め城:平井金山城を築城したように・・・・

  ★師の意見に賛成である。長野家でも管領側へ着くか、景春に与するかで
   かなり揉めたと想像できる。当然箕輪なりどこかで要害を築いて守る
   必要性は、十分すぎるほど感じていて、緊迫化を増していたと考えられる。
  
   1ヶ月間対陣するが、決着がつかなかった。
  ※足利成氏も古河から前橋の惣社付近まで、応援に駆けつけた。

   11月 双方撤兵。

   長尾景春は鉢形城に戻った。
   「古河公方」が軍を引いた。
  
   長尾景春は孤立してしまった。

   太田道灌は「鉢形城」に総攻撃を加えた。
   長尾景春は必死で抵抗した。
   しかし、太田道灌軍の攻撃を支えきれず、
   長尾景春は鉢形城を放棄して秩父へ落ち延びた。 

   しかし、再び足利成氏が8000騎を率いて出陣したため、太田道灌は撤退した

  • 最終更新:2016-06-02 11:29:03

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