戦国後期(兵種別編成)

戦国大名が家臣団や国衆から集めた手勢を備えに再編成して軍勢をまとめる

中世の軍勢から近世の軍陣へ (戦国の陣形より)
   前章では中世の陣形を見てきた。そこには定型がなく、昨今理解される陣形とは実相が異
  なることを確認してもらった。中世の武士は「なんとなく古代にあったらしい、中国にもあ
  るらしい陣形」を曖昧に認識していたが、実形までは把握しておらず、軍勢の配置を改める
  際、経験則によって、「これは何々の陣」などと呼ぶに留まっていた。原因のひとつは武士
  の軍勢が私兵の集まりだったことにあるだろう。

   上位の大将は大小の私兵を連れる領主ごとに部隊を組ませて、配置を定めることまでしか
  できなかった。それゆえ人数を定めたとおりに固める行いが難しかった。だが、戦国時代に
  は改善の兆しがあらわれてくる。大名たちが自身の私兵を増員させたためである。

   戦国時代には足軽・雑兵など非正規の戦闘員が台頭した。かれらの多くは戦乱が生んだ難
  民や牢人だったが、非正規戦闘員であるがゆえに、領主別編成の原理から自由な傭兵として
  利便性が認められた(西股二〇一五)。それと同時に大名たちは外征と内圧を強めて直轄領
  を増やしていった。これにより大名自身の私兵が増強され、これまた領主別編成見直しの土
  壌となっていった。ここに「軍勢」が「軍隊」として大名に再編成されていく姿を見ること
  ができる。

越後上杉氏と甲斐武田氏の軍事故事
   ここからが本題となるかもしれない。戦国時代の一六世紀、ある地域から突然変異ともい
  える軍事の改革が生じた。舞台は東国の甲信越。改革を進めたのは、越後上杉氏と甲斐武田
  氏、上杉謙信と武田信玄である。軍事改革といえば織田信長を想起される方も多いだろう。
  長柄鑓の導入と硬質な城郭の構造は先駆的だったと認められるが、巷間に有名な「兵農分
  離」「三段撃ち」は史料的裏付けに乏しい伝説であるといっていい。

   それよりも重要なのは、東国の大名である上杉・武田・北条たちによる軍勢の仕切り直し
  である。かれらは個人の集積である「軍勢」を組織的に機能する「軍隊」へと作り変えて
  いった。信長は東国大名のような組織的軍隊をあまり推し進めておらず、次の豊臣時代には
  東国大名型の軍隊編成が全国に広がっており、近世の軍事編成のおおもとが東国から生じた
  ことが認められる。

   東国大名たちはなにをどうやって軍勢を軍隊へと改めたのか。まずは三点の《中世軍の特
  徴》を見直してみたい。

 《中世軍の特徴》
[①人数任せと少数精鋭の戦闘]
   南北朝以来、人数任せの力押しが幅を利かせたが、これにより死地へと追い込
   まれた寡兵が善戦することもあった。その結果、壮絶に敗死する武士は名を残
   した。「死地」からの反攻は武士の伝統様式にまでなっていた。
[②騎兵主体・部隊主体の戦闘様式]
   中世軍は騎兵が主力だった。これを充分に機能させるため、徒歩の楯兵と弓兵
   が前列に配されていた。ここには一応の兵種別編成が認められるが、部隊は総
   大将の統制に入ることなく、自分の部隊だけで進退を判断した。
[③不定型の陣形]
   散兵の寄せ集めであるところの領主別編成軍は、不定型の陣形を多用した。魚
   鱗の陣はいわば「びっしりの陣」、鶴翼の陣は「ばっさりの陣」とでも言い換
   えられるレベルのもので、しかるべき形状のマニュアルや軍法は、まだどこに
    も存在しなかった。

戦国時代になると、右の状態を改めさせる三点の変化があらわれる。

    《戦国の環境変化》
    (A)鉄他の伝来と浸透
    (B)足軽・雑兵の台頭
    (C)大名への権力集中


  右の《戦国の環境変化》は、まず《中世軍の特徴》における①と②から変えていった。

「鉄砲伝来と浸透」による環境の返歌
最初に「(A)鉄砲の伝来と浸透」による影響から見てみよう。
天文十二年(一五四三)に南蛮式火縄銃 - 鉄砲 - が伝来することで、
従来の騎兵主体の戦術に変化が生じた。

  これまでのやうな一騎討ちの戦争といふことが出来なくなつた。
  一人だけ前に突進すれば直ぐボンとやられてしまふからである。
  勢ひ戦争は隊を作つて軍隊的行動を取るといふことを必要とするに至り、
  戦術の上に改革を有らした。

  ~~~~ 中略 ~~~~

ただひとつだけ言えることは、
鉄砲の前では武士特有の武技と剛毅の優劣が通用しないことであった。
 これまで「われに続け」と飛び出した勇者を倒すのは、優れた射手か、相応の腕を持つ
太刀打ちであった。だが、鉄砲は名もなき足軽にも使える。
これで[①人数任せと少数精鋭の戦闘]と
[②騎兵主体・部隊主体の戦闘様式]のありようが変化を求められていく。
騎馬武者が飛び出して敵勢を圧倒する戦術が封殺されるからである。
ここに武士が武士である所以ともいえる騎乗して戦う様式が存続の危機に陥ることとなる。

「足軽・雑兵の台頭」と歩兵の充実

 そこであらわれたのが「(B)足軽・雑兵の台頭」である。かれらは非正規の戦闘員だつた。
史料上に登場したばかりのころ、
「足軽」は「軽装備の戦闘員」程度の意味で使われていたが、
やがてそれは階層としての傾向を強めていく。
時代とともに「足軽=武士ではない出自の戦闘員」に内実が転じたのである。
足軽・雑兵は、戦争難民の落し子ともいわれ、足利時代末期に度重なる戦争で、
居住地を逐われた人々がその戦争に傭兵として入り込んだものと推測されている。
奪われる側から奪う側になったのだろう。

 かれらは正規の戦闘員ではないから待遇はお世辞にもいいとはいえず、
使い捨ての兵力として消費されていった。
かれらは領主別編成のような散兵(少数精鋭)の原理に属していないから、
ある意味で利便性が高い。
武技と剛毅ひいては名誉を求めない仕事をさせられることになる。
こうして非正規戦闘貞の足軽雑兵は兵種別編成を促進する存在として急浮上するのだった。

 かれらは「旗を持って広がるだけ」、
「鑓をもって集まるだけ」といった単純ながら負荷の高い作業の編成に多用され、
組織戦に使い勝手のいい歩兵として活用されていく。
やかげで雇用主である大名たちは歩兵を自由に再編し、
兵種別編成を固めることが可能となった。

 史料でもってその一例を見てみよう。

(定) 四十五人、此内四十人具足
     右の内
 一 持道具 弐本
 一 弓   五張
 一 鉄放  壱挺
 一 持小旗 壱本
 一 乗馬  五騎
 一 長柄  三十一本
      此内五本、子の在府に就き赦免す。
      以上、
   右、この如く召し連れ、軍役勤められるべく候ものなり。
    壬戊
      十月十九日
         大井左-馬允殿
       (『戦国遺文 武田氏編』八〇四号「武州文書」)

右は永禄五年(一五六二)に武田信玄が、家臣の大井左馬允に対して連れてくる動員人数
内容を定めた軍役定書である。
内容について説明すると、「持道具」は歩戦あるいは騎戦にて使われる手鑓のことで、
集団戦ではなく個人戦の武器として使われた。「弓」はそのまま弓である。
「鉄放」は「鉄胞」 である。」。
砲術に通じている者が好まれた。「持小旗」は縦長の幟旗である。
武士が背負う「旗印」と異なり、腕力のある歩兵が背に装着し、
先端からのびる紐を手で持って、部隊の進退を定める合図とされた。
次に「乗馬」は騎兵のことである。
そして「長柄」はポールウエポンである。
接近戦に不向きと思えるほど長い(5メートル以上の)鑓や長刀が使われた。
長柄武器の使い方はさまざまに言われるが、武士の武器ではなかっただろう。
その証拠に武士が個人で操って敵勢を圧倒したとする伝承は残されていない
(いわゆる「一番鑓」は長柄の働きではなく、「持道具」つまり手鑓による功績を示す)。
長柄は足軽・雑兵が敵勢を足止めするために集団で構えて使ったと見るべきだろう。

 これらの武装と人数を信玄が定めたとおり集めるのは、武士だけでは難しかったはずである。
信玄は精鋭を連れて来いとは言っておらず、集団行動に従ってくれる人員が揃えば誰でもよかった。
大井氏は足軽・雑兵をかき集めて軍役に応じたであろう。
 傍証として、永禄年間の史料を見ると、武田氏は鉄胞を「悴者・小者等」が扱い、
弓を「同心・被官」が扱うものとして記録している(則竹二〇一〇)。

 弓を使う「同心・被官」は正規の武士だが、「悴者」は最下層の侍であり、
天正一二年(一五八四)四月二日付「木曾義昌掟書」に、武功を立てれば「中間ならば悴者に成し、
百姓(※出自が武士でない階層の者のこと)ならば中間に成すべきこと」と記されていて、
当時の立ち位置を確認できる(下村・山血二九八八)。
悴者はいわば武士見習いで名字を持っていたが、中間は武士に仕えるが名字を持たなかった。
そしてその下にいるのが「小者」で、かれらも名字を持たなかった。
以上のことから鉄胞の扱い手には身分の低い者が少なからず混ざっていたことが理解できる。

 なお、半世紀ほど時代がくだった承応二年(一六五三)版『侍用集』に目を転ずると、
「弓・鉄抱」は「雑兵」「下々」で構成されていたという。戦国時代の歩兵は武士より下の
階層すなわち足軽・雑兵が大勢を占めており、
ついには弓をも扱うように変化していったようである。
非正規の戦闘員である足軽と雑兵の台頭は、歩兵の兵種を細分化する兵種別編成の普及
に一役買ったことだろう。

◆「大名への権力集中」による軍事編成の変化

 そして「(C)大名への権力集中」が軍事改革の土壌となった。
 明応の政変(一四九三)を経て、
各地方に一国規模の領土を長期的に支配する大名たちが領国体制を固め、
国法や軍制を整備することによって、一六世紀どろ疑似国家的な勢力
 -すなわち戦国大名に転身するという様相が生じてくる。

 特に伊達、上杉、北条、武田、織田、徳川、毛利、長宗我部、島津などといった複数の
国を領有する強大な大名は、直属兵すなわち旗本の増強に注力し、
大名の部隊だけで作戦行動が可能なほどの兵力を有していた。

 直属兵の増員は、占領した領地を直接支配するか、
あるいは親族や近臣、子飼いの武将を置き、
本来そこに伝わる一族の名字を継がせるなどして推進された。
武田家でいえば教来石出身の人物が馬場氏の名跡を継承し、馬場信春を名乗った例があり、
信玄の五男が信濃の仁科氏を継承して仁科盛信を称した例もある。

 すでにある独立的な領主の家系に大名の側近、
あるいは家族が養子として入れられることも少なくなかった。
上杉家でいえば樋口与六が越後屈指の大家である直江氏に入り、直江兼続となった例が有名だろう。
謙信の小姓だった吉江与次にいたっては越後中条氏の養子として遺領を継承し、
中条景泰を称したものの、のちに戦死するまで本領経営にあたった形跡が見られない。

 なかには大名が馬廻のバックに立つことで本来の継承者を差し置き、
強引に家督継承権を曲げさせる例もあった。
織田家でいう前田慶次と前田利家の関係がそれである。
 大名の「御恩」を直接受ける子飼いたちは、あたえられた知行に応じて軍陣に「馳走」する。
かれらは「わが召し連れた兵で独自に動き、
武功をあげてみせますぞ」といった領主別編成の原理を離れ、
「これだけの兵を連れて来ました。さあど再編くだされ」と大名に動員した兵を捧げたであろう。
すると大名ほ多数の兵を兵種別編成方式で再編することができる。
このようにして武士史上でも誓んど初めて、兵力の運用を根本から改める壷が整っ
たのである。

◆二極的な軍事改革
右の土壌がある程度築かれたころ、変化の兆しが甲越の二大名にあらわれた。
 上杉謙信と武田信玄である。
両者は先違べた《中世軍の特徴》が《戦国の環境変化》によって軍制を改める土壌を獲得し、
改革の推進が可能になった。
戦国大名は、[①人数任せと少数精鋭の戦闘]、[②騎兵主体・部隊主体の戦闘様式]、
[⑨不定型の陣形]といった混沌を克服して、
中世の軍勢を近世の軍隊へと進化させることが可能になった。

 両者がどのように中世の「軍勢」を近世の「軍隊」へと改めたか。
 ここからほ上杉氏と武田氏にあらわれた陣形の実相を見ていただくが、まずは武田信玄
が近世的な軍隊を整え、「陣形」にはじめて定型を与える経緯から述べていこう。

騎上一騎は一人か(戦国の軍隊より)
   ここで思い出していただきたいのが、前章であげた天正五年の岩付衆だ。筆者は、編成の
  中にある「歩者」を馬の口取り・小者の類ではなく、徒歩の戦闘員のことではないかと推定
  した。理由は「馬上」と数が合わないからだ。

   他の軍役関係の文書を見ても、「馬上」と「歩者」とは人数が合わないことが多いから、
  やはり「歩者」は口取り・小者の類ではないと思う。では、「馬上」と記される侍衆が連れ
  ていたはずの口取り・小者は、どこにいるのか。これも勘兵衛の場合と同じように、史料に
  は記載されていないと考えるしかない。

   理由は次の二つだろう。
 一つは、当然の存在であること。
  弓には弦や矢を入れる靫が、鉄砲には搠杖や胴乱(弾薬を入れるポーチ)が付いてくるのと
  同様に、馬には鞍と馬具と口取りが、侍には小者が付くのが当然なのだ。つまり「馬上一
  騎」というのは、単に馬に乗った侍一人という意味ではなく、甲冑を着けて腰には大小を差
  し、所要の口取りや小者を連れた、侍戦闘パッケージという意味に解釈すべきだ、というの
  が筆者の考えである。
 二つ目の理由は、口取り・小者らは基本的には戦闘員ではない、ということだ。
  彼らだって状況次第で戦闘に巻きこまれることはあっただろうが、基本的には侍の世話をす
  るのが仕事だ。だから軍役の規定や部隊の編成では、員数外となるのだ。

   では、軍役で「馬上」とされる侍たちは、実際に何人くらいの小者を連れて従軍していた
  のだろう。これは、何せ史料に記載がないのでわからない。おそらく、侍たちは経済力や予
  想される戦闘の状況などに応じて、連れてゆく人数をその都度、決めていたのではないかと
  思う。たとえば行軍が長くなるようなら、ずっと甲冑を着けたままと言うわけにはいかない
  から、鎧持ちの類も連れて行くことになる。城の守備に当たるのなら弓も持って行った方が
  良いなら、弓持ちも必要になろう。
 

  • 最終更新:2018-11-03 14:23:25

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