攻城戦

小田原の役・中山城攻防戦(戦国の軍隊より)

払暁の前哨戦
   『覚書』によれば、戦場に到着した秀吉は各部隊の展開状況を見渡して、もう少し城に近
  づくようにと指示を出し、中村一氏は勘兵衛をはじめとしたおもだつた部下たちに、この命
  令を伝達した。これを聞いた勘兵衛は、城の近くに出してある「つぶらつぶら」から鉄砲を
  撃ちかけさせているが、兵たちが動揺しないように「当座にかきあげ」をした方がよいだろ
  う、と一氏に進言している。
   「つぶら」とは何だろう。字面からは「小さく丸いもの」というニュアンスが受け取れる
  が、続く箇所を読むとこれらの「つぶら」には、朝から「鉄砲のもの」を二、三〇人ずつ出
  してあったと書いていることから、即席の董陣地のようなものとわかる。ちなみに『大坂冬
  の陣図屏風』を見ると、攻城軍側が土を小山のように盛り上げて、その上に土だわらを積ん
  だ陣地を造って、鉄砲を撃ちかけている様子が描かれている。
   勘兵衛のいう「つぶら」も、これと似たようなものだつたに違いない。山中城の場合は、
  大阪冬の陣のように小山を盛る時間はなかったが、土だわらや弾よけの竹束などを馬蹄形に
  廻らせた、即席の攻撃用陣地と考えてよいだろう。勘兵衛は、それだけでは心もとないの
  で、当面の備えとして掩蔽用の土塁を造れ、と言っているのだ。
   一氏は、この進言を「然るべし」と容れて、部下たちに「※ほり道具」の用意を命じた。
  ※大坂の陣にあるように、塹壕を掘って寄せて行く手立てを進言したのだろう。
  勘兵衛はこのくだりを少し得意そうに書いているが、彼の進言には理由があった。

    中山城つぶら.jpg  中山城つぶら01.jpg
    先々のつふらへ、朝より廿卅づつ、出し置鉄砲のもの、取りあはず引取候

   つまり最先頗の「つぶら」に入れてあった銃兵たちは、かなわないので退却していたので
  ある。勘兵衛は最前線の「つぶら」は城まで「一町ばかり」、つまり一〇〇メートル強くら
  いの距離だと言っているから、ここには当然城内から鉄抱が撃ち込まれたはずだ。
   ここまでの話を整理してみよう。秀吉軍の先鋒部隊は、定石通り暗いうちから行動を開始
  して山中城の手前から展開を開始し、即席の攻撃陣地を造って、鉄砲を撃ちかけながら前進
  し次の陣地を造る、という動作を繰りかえして、少しずつ城に肉迫していったのである。
   しかし、城兵側ももちろん黙って見ているはずはなく、城内から銃撃を加えて彼らの作業
  を阻止しようとしていた。結果として、岱崎出丸まで一〇〇メートルほどに設置した陣地に
  は、城内からの銃撃が集中して維持が困難になつていた。勘兵衛や一氏は、こうした状況下
  で戦場に進出してきたのである。
   ちなみに、勘兵衛は基本的には自分の周囲のできごとしか『覚書』に記していないから、
  ここに出てくる「つぶら」はあくまで中村隊のものということになる。大手口を担当した一
  柳隊や、西の丸方面に向かつた徳川隊も、めいめいに「つぶら」を築くなどして城に接近 
  し、突撃が可能な態勢を整えつつあっただろう。秀吉が現地に指揮所を置いた時、すでに一
  帯壷は銃声と硝煙に満ちていたのだ。
 

  • 最終更新:2018-10-07 23:39:40

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