木部駿河守範虎

箕輪城主長野業政の娘婿 木部駿河守範虎

箕輪初心:生方★2015年高崎「山名の歴史&木部一族」
  ・永正7年(1510)?~天正10年(1582)
   箕輪城主長野業政の娘婿。
   「箕輪衆」の一員として長野業政の同心であった。
   長野業正は武田信玄の6回の上州侵攻を食止め続けた。

   山名氏の居館光台寺と多くのHpにあるが、実は木部町堀の内である。
   という説が最近の有力説である。それは古山名八幡宮が堀の内にあったと
   いうことを根拠にしている。また、木部氏の居館は心洞寺と多くのHpに
   あるが、実はこれも木部町堀の内である。
  ※木部氏の居館(木部城)戦時は山名城とされている。

   kibe01.jpg  kibe02.jpg
  ※棟治の調べたところによると、永禄年間武田氏に降伏する前は現在心洞寺のある
   場所にあった。箕輪城落城の後、範虎の子の木部宮内少輔貞朝の懇情により天正
   の初めころ、心洞寺は山名の金清寺平からここに移ったと伝えられている。そして
   堀之内に当たる場所に木部城を築いたとされている。もともと、山名氏の居館跡が
   あったとすれば改修したが正しいのかな。もしかしたら、一度は信玄にこの地を焼
   かれていて、どうせならと堀之内へ引っ越したのだろう。この説を裏付ける事に
   なるか解らんが、寺の周辺には木部氏の重臣と思われる子孫の家がたくさん並んで
   いるからである。色々説がありますのでこの辺にしておきます。 
   
   kibe03.jpg  kibe04.jpg
   棟治のおじいちゃんは、男子が絶えたため萩原の家から婿に来た。木部十騎の
   一人、萩原壱岐守の直系子孫の家からだ。訪ねて行くとよくトマトを持たせて
   くれるが、これが非常に美味い。そのおりに聞いた話によると、古八幡の上に
   勝羽と書いて「かっぱ」と読む字があり、ここは出陣する侍が集合する場所
   だったらしい。もとは「勝場」と書いたと言う。これは寄居や内出と同じ意味
   と思われる。左に道城と呼ばれる字があるが、これは時宗に関係があり道々の
   人たちのための施設があった名残だと言う。それ故かこの字の東には、時宗の
   お寺「光台寺」がある。   

    kibe06.jpg  koufdaiji01.jpg
    木部氏館  木部町堀之内       山名氏の館跡と看板がある高台寺

   木部範虎は、箕輪城主:長野業政の娘(4女)を娶り、長野業政の同心
   になった。

   しかし、武田信玄の猛攻から逃亡し、一時は長野氏の復興を願った。
   しかし、※永禄3年には武田信玄家臣として箕輪城を攻撃→最後
   は天目山で自刃した。

   嫡男:木部高成は北条家臣→滝川一益家臣→北条氏政・氏直に仕えた。
   北条氏直に従って高野山に行った。北条氏直の死に伴って殉死したと言われている。 

   ※関東幕注文に小幡氏と木部氏がなかった理由は、結局武田氏になびいていたから
   であったか。これまで疑問とされていた事がほぼ解けてしまう。
   これはもう、認めるしかないかな。

  ・永禄6年(1563) 飯島勘解由介は上野国木部城(高崎市)に
   在番衆として、木部範虎の家臣団に編入されていた。
                       (★『武田氏家臣団人名辞典』)
  ・永禄7年(1564) 馬場美濃守信房は武田信玄より
   和田城の大修理を命じられた。
   3月20日 飯島小太郎は上杉謙信の倉賀野城からの物見を捕縛した。
                       (★『和田業繁・金丸忠経の連署の書状』)

  ★飯島氏曰く
  「木部氏の里城は堀の内ですよ。心洞寺ではありません。・・」 
  ○木部城は烏川と鏑川が合流する南に位置する平城である。
   最近の説では山名義範の館ではなかったかとの指摘もある。
   古山名八幡宮がこの近くにあった。
   川に囲まれた要害であった。
 
   館は土塁と濠で囲まれた典型的な方形館で70~80m四方である。
   周囲は旧河川の低湿地を利用した水濠で囲まれている。
   外側には濠祉と思われる用水路がある。

  ※現在、城址周辺は心洞寺境内・水田・宅地になり改変・消滅。
   南側には土塁が残存・外側にはが水田が残っている。

  • 木部北城   阿久津町北城玄頂寺
   kibe07.jpg
  ★箕輪初心住職へのインタビュー
   住職の妻の話 「慶長5年~。大井氏(実家は小諸)の創建。
  ★箕輪初心私見「佐久内山城→根小屋城の大井氏の末裔では?」
  ・戦国時代  木部氏の北城は武田氏の倉賀野攻略の拠点?
  ※この信濃より上野へ在番衆として移って来た氏族に滝沢氏があり
   この玄頂寺の周辺には、沢山子孫の方と思われる滝沢さんが住ん
   でいて、棟治の同級生にももちろんいる。
 
  • 山名城=寺尾下城 山名町城山   木部氏の山城=詰め城 
 「箕輪初心●高崎の城「山名城」を参照~~~。

   kibe08.jpg  kibe19.jpg

  • ◆山名町付近の歴史
  ・古墳時代
  ・山名古墳群

  ・佐野の屯倉
   kibe10.jpg  kibe11.jpg
  ・山名古墳・・・山名の碑隣      698? ・山名の碑


   kibe12.jpg  kibe13.jpg
   ・律令時代~奈良時代      724? ・金井沢の碑   

   中世~~~~
  ・新田義重の子:山名義範は山名の地を領す。
   山名の光台寺と言う説が通説だったが、最近の有力説は
   山名堀の内である。
   kibe02.jpg


  ・鎌倉時代
  ・山名義範は源氏の祈願所:古山名八幡宮(堀の内)を創建。
  
   kibe14.jpg
   後、現山名八幡宮

  ・鎌倉上道の山名宿・・・堀の内を中心に
   山名氏は新田義貞・足利尊氏の鎌倉幕府の倒幕に参加。

  ・南北朝時代
   南朝方の尹良親王の関東での城として整備された。
   寺尾上城・寺尾中城・寺尾下城と呼ばれている。

  ・室町時代
   山名氏は足利尊氏の侍所別当。「三管四職」
   西国を中心に十一ヵ国の守護職を任じられるなど勢力を拡大。

  • 木部の出自

  ・鎌倉時代・・・源範頼→後裔の吉見一族(埼玉県東松山市)
   能登(現石川県)の守護:吉見氏頼の孫の右馬頭満隆の
   次男:三河守氏範。

   説①・・石見国→上野国三戸野郡木部(高崎市)に移住。
       木部を称した(伝)。

   説②・・木部氏範は石見国木部(現島根県吉賀郡野々郷木部)に居住
       →上野国三戸野郡(緑野郡みどの)に移住(伝)。

   説③・・熱田大宮司の一族→古河公方:足利持氏の宿老:木戸駿河守氏範
       木部三河守氏範=木戸駿河守。

   説④・・武蔵七党猪俣党に、猪俣行兼を祖とする小野氏→木部氏。
   ※木部氏の出自は不明。


  • 室町時代
   ????年 木部氏は三戸野郡(緑野郡)木部一帯(現高崎市木部町)
   を支配する士豪であった。

  ・応永年間(1420)頃~
   木部氏は倉渕三の倉を支配していた。

  ・延徳元年(1489) 木部新九郎が全透院を開基した。

  ・永正年間ころ(1504) 倉渕は大戸の浦野氏の支配下になった。
   ※約100年間にわたって三ノ倉地方を支配した。

   木部氏範より5代目まで不明。
   
  ※足利持氏の正妻は簗田河内守(簗田満助?)の娘
   妾は木部氏の娘である。
  
   長野業正は武田信玄の6回(侵攻は9回か?)上州侵攻を食止め続けた。

  ・戦国時代・・木部駿河守範虎=木部氏範より6代目
   木部範虎は、木部城の詰め城として山名城を整備。
   山名城を整備したのは、武田氏に臣従してからだろうか?城の縄張りから
   見て、そう考えるのはどうだろうか?明らかに寺尾上・中・茶臼山とは作りが
   違い、どちらかと言えば根小屋城に近い。誰かさんの受け売りです。

  • 木部駿河守範虎
  ・永正7年(1510)?~天正10年(1582)
   箕輪城主長野業政の娘婿。
   「箕輪衆」の一員として長野業政の同心であった。
   長野業正は武田信玄の6回の上州侵攻を食止め続けた。

  ・永禄4年(1561)11月 長野業政が病死。
   武田信玄は2万の兵力で箕輪城に侵攻。
   上野国に軍兵を進め、吉井の砦・河内、塩川城も続いて落し、
   更に木部、山名に迫ってきた。

  ・倉賀野城の通り道なので、木部城を攻撃。(上州の城S50年)
   →★箕輪初心「①木部範虎は逃亡。

 ◆木部範虎は妻子を喜連川義氏に預けた(伝)
  ※棟治の考察・・・喜連川義氏=足利義氏ではないだろうか。
   父と兄が北条氏康に反抗したもののあっさり鎮圧された事から古河公方の家督を
   押し付けられて、将軍・足利義輝から「義」の字を賜って足利義氏と名のる人物
   の北条氏康の操り人形たる人生がスタートした。ちと長いがこう説明がある。

   永禄4年ごろ足利義氏は、関宿城にあったとされている。しかも当時どちらかと
   言うと北条方にある城である。古河公方には、木部氏より娘が室として入っている
   ので、その縁によって妻子を預けたとしている。

   しかし、いわば敵方の息がかかっているところへ行かせるのは、なんか違う気がする。
   それと喜連川義氏とあるが、喜連川氏は秀吉に北条が滅ぼされた後に起こされた家で
   初代は小弓公方の末裔とある。

   ゆえに伝承の域を出ず、納得いく筋書きを想像するのはむつかしい。 

  ★その後、箕輪城に在城したのではないだろうか?
   木部城が2年は、無住状態ではなかろうか?
  ※誰も言ってない考えなので。この2年間の空白を埋める作業は、困難をきわめる。
   しかし、武田と上杉の間を揺れ動いていて、かなりの割合で武田方であったのでは?
   そしてこの後は箕輪城にいない、この説を取るのが正解と考えている。棟治の補足

  ◆新説・・・棟治の脳内補完含む
   しかし、※永禄3年には武田信玄家臣として箕輪城を攻撃→最後
   は天目山で自刃した。嫡男:木部高成は北条家臣→滝川一益家臣→北条
   氏政・氏直に仕えた。北条氏直に従って高野山に行った。北条氏直の死に
   伴って殉死したと言われている。 

   ※関東幕注文に小幡氏と木部氏がなかった理由は、結局武田氏になびいていたから
   であったか。これまで疑問とされていた事がほぼ解けてしまう。
   これはもう、認めるしかないかな。

   謙信公の越山時・・・永禄3年小幡憲重は、国峯城を上杉勢(長野氏含む)により
   奪い取られるが、この時あせった木部氏は一時上杉側に寝返った。そして翌永禄4年
   11月国峯城が奪還されると、また武田に寝返り直したとすれば辻褄があっちゃう。

   これはまずいだろうと、永禄5年には、和田氏が寝返るが当然の成り行きである。
   そこへきて、倉賀野氏が何故に頑張ったのかは不明である?
   信玄は永禄4年12月倉賀野氏を攻めたとあるが、これは木部or北城を本陣として
   らくらく攻撃できてしまう。なっとくしてしまう。

  ※寝返るという表現には、注意が必要である。この当時大勢力の狭間にある領主たちは
   100%いずれかへ臣従するのではなく、状況に応じてその臣従の割合を変える事によって
   生き延びてきたのである。つまり臣従の割合の高い方をを武田⇒上杉⇒武田と変えて
   行ったと思われるのである。

   後は木部姫伝説を。どう処理するかである。

  ・永禄6年(1563) 飯島勘解由介は上野国木部城(高崎市)に
   在番衆として、木部範虎の家臣団に編入されていた。
                       (★『武田氏家臣団人名辞典』)

  ・永禄6年(1563) 武田氏家臣甘利昌忠 箕輪城周辺に放火
   →木部に陣を寄せ・・・(浦野家文書) 
  ◆木部範虎は武田家家臣として50騎の将? 
   100貫文の所領

  ★箕輪初心「武田信玄によって長野氏滅亡後、武田氏に仕える。」
   という説は間違いである。

   永禄6年には、すでに武田信玄の家臣になっている。

   根拠①・・・上述の「浦野家文書」
   根拠②・・・榛名町の長年寺の和尚「受連は制札(襲わない約束札を
          金を出して、もらいに木部城に行った」(長年寺文書)

  ※永禄6年家臣になっているなら、永禄4~5年の間に武田氏の取次役と誼を通じ
   て人質を差し出し、躑躅が先へ臣下の礼を取りに出向いたってことでは?
   そのようなことを行いながら、箕輪城に在るのは困難である。

  ◆木部範虎は「木部十騎」と呼ばれる家臣団を率い、数々の軍功を挙げた。
   木部・阿久津・根古屋など五ヶ村に領地を拡大した。

  ・永禄7年(1564) 馬場美濃守信房は武田信玄より
   和田城の大修理を命じられた。
   3月20日 飯島小太郎は上杉謙信の倉賀野城からの物見を捕縛した。
                       (★『和田業繁・金丸忠経の連署の書状』)

  ・永禄9年(1566)9月29日 木部範虎は武田信玄家臣として箕輪城を攻撃。
   箕輪城は落城。長野業盛は自刃。
   「木部十騎」と呼ばれる勇猛な家臣団とともに数々の合戦で活躍。

  ●木部十騎  
  ・萩原壱岐守・田口石見守・田中美濃守・増尾新兵衛尉・高橋出羽守
  ・松原織部正・戸塚又助・田口采女正・小池和泉守・富澤又左衛門
   合計・・・50騎=訳250人か?

   木部氏の家老の家
   :増尾家→現飯島氏(増尾家の現当主)の話・・・

  ※木部十騎の増尾新兵衛尉の子孫の話
   「堀之内という地区が心洞寺南西部100mにあるので、
    そこが木部館。心洞寺が木部館というのは変です。・・・」
    
  ◆木部・阿久津・根古屋・山名・藤岡の五ヶ村を領する。

  ・根小屋城が築城され、伴野氏・大井氏は城代になった。
   上野の烽火の集積所であった。

  ・天正3年(1575) 長篠の戦い(愛知県)

  ◆木部範虎も参戦。内藤昌豊の相備え
  ※武田信玄が敗戦~~~→転落の一途。

  ★→◆木部範虎は、上野東部戦線に参加中?。
   (現前橋城)→大胡城→女ヶ淵城→山上城→桐生城???
   木部範虎は最後まで武田家に忠義を尽くした。

  ・天正9年(1581) 高天神城(静岡県)の合戦
  ◆木部範虎は一番槍の軍功を挙げた。
  ※武田勝頼が敗戦~~~

  ・天正10年(1582) 織田・徳川軍の甲州侵攻。
   3月 武田勝頼は真田昌幸の「岩櫃城の来城を却下」
  ★ 箕輪初心「群馬?岩櫃城の潜竜院は勝頼館予定地。」
     新府城を60日で放火・・・
   3月11日 織田・徳川連合軍の甲州侵攻。
   武田勝頼は新府城を後にし天目山で自刃。
   ★本当は天目山景徳院

   kibe15.jpg  kibe16.jpg
   ◆木部範虎も天目山で討死。同日自刃かも。(享年72?)

   kibe03.jpg  kibe17.jpg
   ●木部氏館 木部町の心洞寺・・木部範虎の居城説   
   ※※※※・・・全部のHpが「心洞寺=木部館」である  

  ★箕輪初心「館ではない。全てのHpで木部城である。」
  ※飯島氏(増尾一族子孫)
   「心洞寺は絶対に木部館=城ではない。」
   「何年か前に、渋川市から入って来た和尚さんだから、
    歴史を聞くことは難しいこと?無理だと思う。」
    って、聞いちゃったのだ。~~~どうしよう?。
   つまり、地元民は心洞寺が館でないことを気づいているが、

  ○木部範虎の墓
   「当寺の開祖木部駿河守範虎公は、清和源氏の直流化蒲冠者
   源範頼の後裔にして、箕輪城主長野業政の姫を娶り長野氏の
   武将として活躍せしが、武田信玄により、箕輪城が落城。
   ・・・」
   kibe18.jpg

  • ■木部宮内少輔貞朝(高成)・・木部範虎の嫡男
  ・天正10年(1582)
   3月11日  武田氏滅亡後、北条氏に仕えた。
   3月23日  滝川一益は上野国を領した。
   木部宮内少輔貞朝(高成)は滝川一益に仕えた。

   6月2日  本能寺の変   織田信長が自刃。

   8月18日~19日
   神流川の戦い 滝川一益 VS 北条氏邦
   小田原の北条氏政が上野国を奪取。
 
   以降北条氏政・氏直2代の家臣となった。
  ★木部一族の北条家家臣としての働きは資料にない?

  ・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃。
   (木部城:木部高成や和田城の和田信業も籠城)     

   7月5日 北条氏の滅亡で、木部氏は没落。
   7月11日 北条氏直は、徳川家康の娘婿であったことで助命。
   その後、高野山へ。
   木部貞朝(高成)・和田信業は北条氏直に随行(伝)。

  ・天正19年(1591)北条氏直が高野山で病死。
  ◆木部貞朝(高成)は殉死(伝)。
   和田信業は放浪説・小笠原氏への仕官説がある。

  • 藤左衛門尉直時・・木部貞朝(高成):弟小次郎直高の嫡男:
   藤左衛門尉直時(後直方)が徳川秀忠に仕えた。
   直時の曾孫庄八郎直年の時に改易。


  ◆参考文献
   「源範頼の後裔吉見一族の系譜と歴史」

  ▲榛名湖伝説・・木部範虎の奥方が榛名湖に入水した伝説・
   6)榛名湖の「木部姫伝説」&「腰元蟹の伝説」・・・
   榛名の山郷に古くから語り継がれてきた物語である。
   木部姫は箕輪城:長野信濃守業政の4女として生まれ、
   成長して木部城主木部駿河守範虎に嫁いだ。

  ※説①・・木部宮内少輔彈正室
  ※説②・・木部宮内之輔定朝(貞朝)室・・・貞朝は範虎の長男。

  ■訪問記・・榛名湖に「甲子亭」「ふじや」という二軒の旅館がある。
   「ふじや旅館」の近くの森に御社がある。御沼オカミ神社である。
   地元の人達は「木部様」と呼んでいる。
  ※説①・・木部範虎が箕輪城で殉死して、妻が入水なのだ。
  ★説②・・本当に入水なら。木部の裏切りに激怒し、入水自殺?説なのだ。
   たぶん、夢のない男なのであろう。
   「何故なら、歴史ロマンがないかもしれないおいら。
   箕輪城の防御を手伝ってないかもしれん。」
   入水自殺伝説は、3人いる。~~~  
 
   終りに・・・この記事は、棟治によるかなりの修正が入っています。
   生まれ故郷の事ゆえ、少々力が入ってしまいました。

   メモ
   木部氏範持季甥吉見満隆子木戸駿河範時木部三河

   家詮

   範資 文亀頃

   範次新蔵家次

   範虎15101582範次子駿河 天正頃

   貞朝範虎子真利

   高成範虎子宮内

   直高範虎子小次郎

   直時直高子藤左衛門直方

   直春直時子藤太郎

   高家直高子

   因幡

  • 最終更新:2016-09-18 12:51:41

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード