本郷の砦
◆本郷の砦(御門(みかど)城・久留間の砦・景忠寺城)高崎市榛名町本郷字三角
解説および縄張りは、余湖くん様のHPより
本郷町の景忠寺のある比高10mほどの台地が御門城の跡である。
御門城の1郭は寺院の境内となっている。普通、寺院というのは誰でも立ち寄れるよう
になっている場合が多く、城址が寺院となっている時は安心して訪れることができたり
するのだが、景忠寺の場合は、入口の門が閉ざされていて、勝手に境内に入ることがで
きないようになっていた。
というのも、寺院の境内はそのまま本郷保育園の敷地となっているからである。本郷保育
園は、景忠寺が経営する保育園なのであろう。近年は保育園の警戒も厳しくなっており、
部外者が勝手に進入することなどとてもおぼつかないのである。その代り、寺院周辺には
保育園の駐車場が何か所にもあり、車を停めるためにはまったく苦労しない城址である。
台地は1郭から北側にも続いているが、その間に堀切を入れている。この堀切は半分近く
が埋められており、堀底に車庫が建てられて改変もされているが、現状からでも、なんと
なく旧状をうかがい知ることは可能である。堀に面した1郭北側には一部土塁も残されてい
る。西側の一部が土橋となって寺院境内と接続している。
2郭は全面的に墓地となって改変されている。基本的には平坦な地形であるが、北側には
腰曲輪があり、それに面する城塁の一部には折れが見られる。
2郭の南側が大手口と呼ばれている部分である。ここには切通しの通路が開口している。
ここが大手門の跡であったということだろう。この切通しは大手門を置くにしてはかなり
小規模な観が否めない。大手口の規模がこれくらいだということは、城全体の構造物も、
さほど大きくはなかったのであろう。
大手口から見ると、南東側の民家の脇に土壇状の地形が見えていた。出丸か何かがあった
のであろうか。だとしたら、けっこうおもしろい意匠である。
基本的に、御門城は2郭構造の城郭であった。市街地の中でかなり改変されているとはい
え、側面部の城塁などには要害らしさを見ることができる。とはいえ、平野部に築かれた
城館であるから、急峻な山城などと比べたら、防御力は比較にならなかったであろう。
御門城は、長尾一族の城館であったと言われている。戦国末期、この長尾氏は、箕輪城の
長野氏の配下となっており、長尾景忠が城主であったという。この人物がまさに、景忠寺
を建立した人物であろう。
◆安国寺と長野郷
高崎市史(中世通史編)より
ところで、安国寺は箕輪で創建されたのだろうか。
「明細帳」は箕輪での設立を記すが、『高崎市史』寺伝は元亀二年箕輪での中興を示し
ている。設立と中興の違いがある。
箕輪城は長野氏によって築かれた城であるが、長野氏は箕輪城に本拠を移す以前は(室町
期)、浜川・長野に拠点を持ち、上杉領国経営を支えていた。
箕輪も「長野郷内箕輪本郷」(資4-189)とあるように、長野郷内に生まれた所領で
あった。
こうしてみると、安国寺も長野氏が長野郷から箕輪に本拠を移すにともない、移動した
ものと思われる。箕輪での元亀二年中興が事実に近いのではないだろうか。
長野郷の初見史料は応安七年(1374) であるが、応永二年(1395)七月二日に将軍家
から上杉家に安堵された上野国守護所領の一つとして「長野郷」も見える(資4-163)。
長野郷は南北朝中期以降、上野国守護の上杉氏所額であった、と見てよい。
この長野郷に安国寺は創建されたと考えるのが妥当と思われ、全国的にも見られる守護
と安国寺との関係が、上野国でも想定される。
安国寺が創建された時期(所伝では暦応二年だが)、上野国守護は上杉憲顕であった。
憲顕は上野国守護としての権勢を、この時期には築き上げており、関東管領の立場にも
あった。安国寺創建は上杉憲顕の事業としてふさわしい、と思われる。
憲顕の上野国守護復帰はどうであったか。
管領復帰とほぼ同時と見られるが、上野守護職としての活動は貞治二年十二月には確実
に認めうる。基氏が上野国国衛職・同淵名庄花香塚の沙汰付けを上杉憲顕に命じたのが
貞治二年十二月である。
このうち淵名庄花香塚については翌年正月十六日守護代長尾教阿(景忠)が打渡してい
るし(『神奈川県史』資料編3-4483)、国衛職についても四月七日守護代施行状が出
されている(県資6-1031)。
貞治二年秋には、憲顕の上野守護権行使は開始された、とみてよい。
※以上の記事から推察すると、現榛名町本郷は「長野郷本郷」と見てよいものと思われる。
上野守護代長尾教阿(景忠)こそ本郷の砦(景忠寺城)の築城者であり、長野郷を支配
するために築いたのではないだろうか。そして安国寺もこの辺りにあったのであろう。
「蔵屋敷」という字名があったりして、当時の様子を思わせる。
◆長尾景忠 (左衛門尉)
wikiより
長尾 景忠(ながお かげただ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武士。長尾氏
7代当主。関東長尾氏の祖。
多くの系図では、長尾景能の子・景為の嫡男とされる。長尾藤景の娘婿となったとする
説もある。
出自に関しては別説あり、『長尾藤明(あるいは藤景)の子』とする説や、『千秋上杉
藤氏(藤明らの兄弟と思われる)の子』などもある。また、長尾氏の親族である鎌倉氏
の後裔が、宝治合戦以降に長尾氏の名跡を継いだ家系とも言われ、出身が長尾氏のいずれ
の流れであったかは判然としていない。
景忠自身は上杉憲顕の家臣として各地を転戦。時には上杉氏の名代として足利尊氏に従軍
し、「二引旗」を賜って石動山攻略などで武功を重ねたと云われる。子孫の多くは関東各地
の守護代となった。
※長尾五郎景忠 久留馬砦 (箕輪町史考より) 何か戦国業政時代にも同姓同名の武将が
- 最終更新:2017-08-07 18:57:59