来迎寺

箕輪初心▲箕輪城№149【②来迎寺:長野氏の寺】

   来迎寺は高崎市浜川町にある時宗の寺である。長野氏累代の墓と伝えられる
   墓石群がある。五輪塔・宝篋印塔合わせて35基?が並んでいる。
  ※来迎寺の墓石は1380年以降のものである。

   室町時代に長野氏の信仰をうけた。長野一族の隆盛と共に栄え、
   永禄9年(1566) 武田信玄の箕輪城攻撃によって箕輪城が落城した。
   これによって衰退した。長野氏が滅亡して後、畑の中に崩れ落ち埋没していた。
   大正12年の墓地整備の際に発掘された。
   近くには、北北東150mに乙業館&南南東150mに隆業館 &北西150mに
   長町館が南東100mに高田館、約300mに矢島砦などがある。

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   ①長野氏の最初の菩提寺:石上寺
   ②長野氏関係35基の墓のある来迎寺
   ③鷹留城長野氏の菩提寺:榛名長年寺
   ④長野業正の再建した長純寺
   ⑤長野業正の長男:長野吉業の墓&福田五郎左衞門の墓、
   ⑥井野館&楽間の宝塔1400年代の宝塔である。墓が物語る歴史が分かった。
    私説の箕輪城築城1474年以前説確定した。

   ①長純寺には長野業政の供養塔がある。長純寺が一番箕輪城に近い。
    長野業正が移転して創建した。長純寺も現在「長野姓である。」
   ②来迎寺・・・長野業政の墓(伝)+35基の墓?
   ③長年寺・・長野業政の墓がなく、父までの6代の墓がある。
   ※長野→武田→滝川→北条と支配が変わる中、長純寺や長年寺や来迎寺などの寺が
    残っている。地元の人に愛されていたからだとの考えもあるが、そうではない。
    他地区から入った武田信玄や北条氏邦や井伊直政や徳川家康は旧長野氏の家臣団
    を大事にしたのである。

  ・箕輪城の築城年代10説

 【0】箕輪初心の2014説・・私見は長野業尚文明6年(1474)説

  理由①・・・箕輪に寺が多く立てられた。 
   ・天安元年(834)箕輪山法峰寺が建立された。
   ・平安時代   唐松廃寺
   ・文永元年(1264)箕輪の新屋敷に八幡宮が建てられた。
   ・明徳4年(1393)八幡宮隣には、不動寺が創建された。
 
  ●応永元年(1394)以前 箕輪に安国寺が建てられた。
   足利尊氏は南北朝の動乱が収まって、後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者の
   菩提を弔うために日本全国68ヶ所に安国寺を建てた。

   応永元年(1394)が最後の68番目の国東(大分)の安国寺である。
   上野国の安国寺は旧箕郷町連雀町(井伊時代の呼び方)448-2に建てられた。
   ・・・蝶屋分店・旧宮川邸を下った右の徳田邸にあった。
                                  (★上之宿)
   非常に重要な場所に建てさせたのである。・・・従って、久保田順一先生のおっしゃる
   ように箕輪が長野郷の中心であった可能性が高い。
  
  ・応永2年(1395) 紺屋町に光徳寺(松山寺の道反対)が建てられた。

 【1】長野氏の最初の菩提寺:石上寺

   石上寺は布留山と号し、在原業平の草創と伝えられている。
   石上寺は長野氏の菩提寺で箕輪城の鬼門に造られた。
   つまり、文明6年(1474)には既に、箕輪館あるいは箕輪城が
   造られていたことになると考えた。

   近藤義雄先生や山崎一先生などが

  ●文明6年(1474)、石上寺&八幡神社が造られた。
  ★東明屋の石上寺・・・長野氏の菩提寺である。館あるいは城より、お寺を先に造る
   人はなずいないだろう。しかも、長野時代の箕輪城から見て鬼門にあたる。
  ★西明屋の東向き八幡神社・・源氏???

  ●石上寺の石造物群(市指定)
   ・文明6年(1474) 六地蔵石幢
   ・延徳3年(1491) 山門の鬼瓦
   ・延徳3年(1491)  輪廻の石塔
   ・嘉永3年(1850)白衣観音の道標
   ・???年    薬師像 多くの石造物が残っている。
  ★当時の壮大な伽藍を現在見ること

  ●明応年間(1492~)・永正年間最後(1521)
   長野業尚(尚業)が箕輪城を築城した。
   子の憲業によって、箕輪城が強化された。
  (★箕郷町政要覧1993版・・・つまり、箕輪城が国指定史蹟になった年である。
    近藤義雄先生・山崎一先生・佐藤さんが頑張った時の・・・)
 
  理由②・・箕輪城御前曲輪の井戸からの出土墓石
   ①建長2年(1250) 
   ②康元元年(1256) 盛勝忠
   ③応永4年(1397)
   ④応永24年(1417)
   ⑤永享11年(1439)
   ⑥文明8年(1476) 逆修妙祐禅誉
   ⑦延徳元年(1489) 本淨門
   ⑧明応8年(1499) 果源精
   ⑨天文14年(1545) 如法界淨上人
   ⑩天文21年(1552) 為信業

  ★南北朝の動乱が終わると、足利尊氏は全国69ヶ所に安国寺を造らせた。
   後醍醐天皇などの供養のためである。上野国では箕輪に安国寺が創建された。
   久保田順一先生の考えのように、鎌倉時代には既に長野郷の中心は箕輪であった。
   従って、足利尊氏は、中心地に安国寺を箕輪と定めた。

   私は箕輪城の築城を1477年 説を採っていた。

   長尾景春(+足利成氏) VS 上杉顕定+長野

   業尚(憲業?)の広馬場の戦いは箕輪城から1,5~2kmしかはなれていな
   い現榛東村で行われた。

 【2】長野氏関係35基?の墓のある来迎寺(高崎市浜川町)

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   ・伝長野業政公の墓

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  ・永仁5年(1297) 遊行二祖:真教上人が開山。
  ・元亨2年(1322)幡応尚初代住職 念仏道場として開山された。

  ・室町時代
   長野氏の信仰をうけた。
   長野一族の隆盛と共に栄え、箕輪城落城によって衰退した。
   長野氏が滅亡して後、畑の中に崩れ落ち埋没していた。

  ・大正12年の墓地整備の際に発掘された。
  長野氏累代の墓と伝えられる墓石群がある。
  小さな五輪塔・宝篋印塔合わせて35基?が並んでいる。

  ※来迎寺は1380年以降の墓である。
   現長野地区には20位の城砦がある。
   長野業政の墓が一番大きいと言われているが不明である
   長野氏一族の庶流の墓だったのかもしれない。
   曹洞宗ではないし???

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   ①北北東150mに乙業館 長野業正公の6代前とされる。
   ★火薬工場の敷地内
   ・井野川を挟んで「長野業盛=氏業の墓」:大円寺 

   ②南南東150mに隆業館→浜川館
    長野業正公の5代前とされる。
    東西200m×南北130m・・
    長野業正公の叔父:執権藤井友忠の館の可能性が高い。

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   ③北西150mに長町館
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 (★山崎一氏の縄張り図)


   ④南東100mに高田館
   ⑤南東約300mに矢島砦
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   東西90m×南北90m・・長野業正公の4家老の下の4臣の一人:矢島氏の砦。 
   ★昭和54年頃に発掘調査があった。

 【3】鷹留城長野氏の菩提寺:長年寺(榛名町室田)

  ・延徳4年(1492) 長野業尚が榛名に長年寺を創建。
   1)長野氏の墓 1400代以降の墓である。
   2)境内
   3)本堂

  ・永禄9年(1566) 9月29日 箕輪城落城
   永禄4年説・永禄6年(従来説)・永禄8年と諸説あった。
   日日も・9月30日がある。

  @長年寺受連覚書(旧榛名町)3回目
   永禄9年(1566)が通説になった。
   榛名神社の「長年寺:受連の制札」で、9月29日に箕輪城落城後、
   信玄に直接会って寺領安堵・・・。               
 (★まんが箕郷の歴史:長年寺文書)
  ★これが永禄9年説の決め手になったのだ。
   「''長年寺所蔵文書長野氏系図''」  {新編高崎市史1964資料編4}」

  ①長野業尚→②憲業→業氏(鷹留城)→業通
     ↓       ↓    女子3人
     ↓       ↓   大森別当
     ↓       ↓    業固
     →方業(厩橋城)↓    勝業(箕輪城討死に)
             ↓      業固
             ↓    
             →③業政→吉業
                ⑤業盛(=氏業)→業国 亀寿丸
                        「長野氏興廃史」:鎮良「箕輪城考」
                 女子12人 

 【4】長野業正の再建した長純寺(高崎市箕郷町原山)

  ・明応6年(1497 ) 長野業尚か憲業は箕輪に長純寺が創建(★みさとの歴史)
  ※場所は水草・・・高崎市箕郷町下芝の第5保育園付近

  ・弘治3年(1557) 長野業政が菩提寺:長純寺(高崎市箕郷町原山)を再建した。
                                (★長純寺文書)
   梁14丁、柱78本のうち、
      ①柱1本・・松田
      ②柱1本・・源正右衞門尉
            松田右馬助

   梁は出羽守3丁が一番多い。左衞門尉が出てくる。
   松田は右衞門尉なので、身分が高い。
  ※井伊家の彦根に長純寺がある。しかし、寺の敷地だけである。住職はいない。

  1)本郷堰(黒沢川)・・・
    本郷景忠説(★みさと散策:斉藤勲著)
   ★しかし、規模的に本郷景忠だけではできない。
    弘治3年(1598) 長野業正は長純寺に水を引く計画はしたからである。
  2)本郷堰(取り入れ口は車川の善地駒寄&榛名町梅の木
   →榛名町十文字・・・分流長純寺堰本流が榛名本郷に流れている。
  3)長野業政像・・・長純寺の長野業政公の像(市指定史跡)
   永禄4年(1561)6月21日他界  「木彫背銘」(長純寺所蔵)

  ★「長野堰を語り継ぐ会」に入っている。
   長野業正の用水路開発&新田の経営を考えている。
   経済的基盤は田んぼなのだ。・・・・城造り&城下町造り
   &経済政策のための用水路&治水工事についてあまり語られ
   ていない。私は残された時間をこんな観点から、城を覗こう
   とも思っている。

  「長野堰を語り継ぐ会」は平成27年(2015)4月3日~
   高崎のシティホールで説明会を開く。
   中嶋宏氏の企画力や長野堰の思いは素晴らしい発表会がある。
   私も説明者側で出席しようと思っている。

 【5】長野業正長男:長野吉業の墓&福田五郎左衞門の墓:善龍寺
                                (高崎市箕郷町生原)
   長野業正の長男:長野吉業&内藤昌豊&内藤昌月
   (保科家養子=会津藩の関係)の善龍寺

   1)長野業正の長男:長野吉業
   ※神明山「善竜寺」・・・★ドンレミー&南の諏訪神社にかつての善竜寺があった。
    山崎一氏は砦と考えている。
  
   2)長野吉業の長男:福田五郎左衞門(長野業正の長男系の孫)

  *天文13年(1544) 真田幸隆が逃亡。
   ①真田幸隆は小幡信貞と仲良し。
    武田氏24将(渡辺明著「箕輪城興亡史」)
   ②長野業政は、逃亡した真田幸隆を下仁田まで追っていき、
    食料品と幸の品物を届けさせた。
             (まんが箕郷の歴史:近藤先生・田口一郎 埋蔵文化財主査)
   ③真田幸隆は小幡信貞と長野業政批判で意気投合。
    山本勘助の誘いで金敷平→中善地→駒寄
    →榛名湖から逃亡。(野口泰彦著「小説箕輪城」) 

  ・天文15年(1546) 川越の合戦
    古河公方・山内上杉憲政・扇谷上杉朝定  VS 北条氏康
   ●長野吉業(業政長男)が負傷→死亡         (★近藤先生の群馬県史他)
    山内上杉(すでに埼玉児玉の雉ヶ岡城→平井城へ)は上州一国のみ。


  ・天文16年(1547) 碓氷峠(笛吹峠)の合戦 
    (本によって年代がまちまち。)
     山内上杉  VS  武田晴信
                     (この戦いは年代不明で幻の戦いと英知出版)
  ・10月4日 志賀城主笠原氏の要請で、上杉憲実(平井城)は援護。
    武田軍馬場・山本軍4500人 
       VS 
    山内上杉憲実2万人→結果:武田軍勝利
  ・和田城主和田業行が戦死。
  *長野業政は参加せず。→武田が長野業政を配下に勧誘→長野業政は断ったとか?
  
  ・武田晴信が佐久の志賀城:笠原清繁を攻撃。笠原軍には上杉憲政も参軍
                         (★箕輪城興亡史・小説箕輪城では)
   笠原軍には上州甘楽菅谷城高田?も参軍
                         (★志賀城現地案内板では)
  ・天文17年(1548) 小田井(長野県佐久市)の合戦
    山内上杉  VS  武田晴信
    大河ドラマ7/1・・信玄が小田井の戦いで
    上杉憲政軍に勝利。勘助悪役。 
  
   結果:武田軍の大勝→3,000人の敵兵を虐殺。
   女子供は人質・奴隷。信濃国の国人衆に晴信への不信感を植え付けた。

   「長野業正が先代:長野憲業と笛吹峠(碓氷峠)の戦没者慰霊
    のために顕山敬応を迎えて開山した。神明山善龍寺を創立した。」
  ※顕山敬応・・・群馬県初の曹洞宗:松井田の補陀寺の僧。

  ・弘治2年(1556)福田五郎左衞門が善龍寺堂宇を建立
   福田五郎左衞門(長野業正の長男:吉業の子)が大檀越(だんおち)となり、
   菅谷(旧群馬町)城主で父:長野吉業の病気平癒(★実際は、河越の戦いで負傷)
   のために、堂宇を建立した。
   松井田の補陀寺2世:的応守的丈を開山とした。

   ~~~場所が変わった。・・・再建~~~~~~

   内藤昌豊&内藤昌月(保科家養子=会津藩の関係)の善龍寺
  3)内藤昌豊

  4)内藤昌月(保科家養子=会津藩の関係)

  ●善龍寺の内藤塚:高崎市指定史跡 五輪塔は寺の南にある。

   「永禄九年(1566)箕輪城落城後、武田信玄は重臣である内藤修理
    之亮昌豊に領有一帯の統治を命じ戦災で焼失した善龍寺を満行山と改号
    させ再建に当たらせた。

   昌豊は後に武田勝頼に従い、長篠の戦に出陣して戦死した。
   時に天正五年五月であった。
   その子昌月は父の遺骸を奉じここに葬った。
   昌月も天正十六年正月に逝去し昌豊の側に葬られた。
   後世これを内藤塚と呼び伝え、また一名開基塚とも呼ばれている。
   大切に供養されて今日に及んでいる。」
                               (★現地案内板より)
  ※昭和48年(     )7月31日

   善龍寺は曹洞宗の寺で、山号は満行山である。 
   武田信玄による箕輪城攻略の際、炎上した。
   その後、武田信玄は満行山とあらため、金を与えて再築した。
   箕輪城代内藤昌豊に命じ、子:昌月が再建した。

  ※長篠の戦いで討ち死にした内藤昌豊と、養子:昌月親子を葬ったと
   伝えられて二基の五輪塔が並んで建立「建立年銘無し」と祀られた。

   右側・・・父:内藤昌豊&左側・・・内藤昌月。多重塔も建立された。

  ★保科正俊の長男:保科正直、3男:内藤昌月(まさあき)である。
  ①保科正俊→保科正直→保科正光・・養子:徳川家康の孫:保科正之=会津藩となる。 
  ②内藤修理亮昌豊の養子は保科正俊の3男:内藤大和守昌月である。
   内藤昌月の3男系4代目は会津藩家老の内藤家の祖に当たる。
   群馬県高崎市保渡田、生原地区は保科家、会津藩と関係が深い土地である。


 【6】井野館&楽間の宝塔=1400年代の宝塔

 【7】長野業盛の墓のある大円寺
  ・永禄9年(1566) 武田信玄の攻撃を落城した。
   箕輪城主:長野業盛(なりもり)は自害した。
   長野業正の2男:長野氏業=業盛の遺体は業盛を哀れんだ僧が 
   もらいうけ、井出の地に葬ったとされてている。
                               (★箕輪軍記)

  「群書類従」の中の箕輪城
   箕輪城語り部の会岡田:会長・・・
   塙保己一「群書類従」からの出典確認(群馬県立図書館)。
                               2009年3月?
   群書類従の中には、箕輪城の長野業政の子業盛の辞世の句もある。 

  ・永禄9年(1566)9月29日
   「陽(ハル)風に 氷肌(ムメ)も桜も ちりはてて 名にそ残れる みわの郷かな」 

  ・長野業盛の墓の碑(旧群馬町:高崎北高北200m)
     ・・・・「長野業政墓喝会の建立」
  *長野業政墓喝会
   「長野業政と知己であった井出の大円寺の旅の僧「法如上人」が埋葬した。」

  *箕輪城語り部の会斎藤さん
  「箕輪軍記」は保渡田西光寺の僧が江戸時代に書いた物で、
   句自体この僧がかわいそうに思って作ったらしい。
   業盛が詠んだ辞世の句がどうかも不明である。

 【8】長野氏業=業盛の子:亀寿丸の逃れた極楽院

   極楽院の古文書類
  ①武田信玄の保護する文書


 【系図4】 「和田山極楽院長野系図」

  極楽院長野正夫氏所蔵文書{箕郷町誌}
 (★関係ないけど、父は長野正夫氏に高等科で2年教わった。)
  乙業→尚業(鷹留城・長年寺)・→憲業
    →憲業の弟・信業→ 長男:亀寿(早世)
             次男:業氏(三河・伊予守)
                →業通→業康                  
                →吉蔵
                →吉三郎
                →業固
                →大森
                →女子2人 
           ~~~~~~~~~~~~~
    →信業3男?:業政→吉業(沼田腹、16歳で卒)
             →女10人
             →業盛(保渡田腹)→亀寿丸:(鎮良)
             →女2人
    →憲業4男:直業・・→勝業(方業の養子)
                →新七郎
                →新八郎
         ・・・・→女子   
    →憲業弟方業
      ・・・・・→業吉(高浜居住)・→氏業
               →女子  
      ・・・・・女2人

   ~~~~高崎市箕郷町のその他の高崎市指定史跡~~~~~~
  ●松山寺の梵鐘
  ●塚の越の宝塔
  ●金竜寺の宝塔
   raikouji13.jpg
  ●竜門寺の山門
  ・安藤家の菩提寺 井伊直政養父:松下家3代の墓

  ●万福寺の宝塔
  ・下芝砦:元の長純寺の場所かもしれない早瀬川の横にある。
  ●真福寺境内の石神仏群
  ●慶長六年善地村御縄打水帳弐冊
  ・下善地の神沢重見さん宅
  ●滝沢寺の巡り経蔵
  ・青柳金王の墓
  ●生原北野神社本殿
  ・中内出・・・箕輪城の砦の一部の可能性もある。
  ●東向八幡宮(十三仏石幢)
  ・文明6年(1474) ・石上寺と同じ年に創建された。
 

  • 最終更新:2016-06-18 22:13:43

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