東国の戦国合戦

東国の戦国合戦
市村高男氏著 「東国の戦国合戦」より

小弓公方の成立と上総
      
さらに古河公方の内証は、政氏・高基父子の対立に加えて、政氏次男義明(高基の弟)の
自立化動向とも絡んで一層複雑な様相を呈することになった。

義明は幼くして鶴岡八幡宮若宮別当に就任し、雪下殿と呼ばれて東国の宗教界の最高支配者となり、
公方と協力して東国の支配に関わる存在であった。

義明は叔父の跡を受けて雪下殿となり、元服の年回りの文亀三年(一五〇三)ごろに得度して
空然と称するようになった。

雪下殿は本来鎌倉に居を構えていたが、鎌倉公方成氏の古河移転に同行して
下総国下河辺荘高柳(埼玉県栗橋町)に移り住んでおり、
空然もまた高柳で雪下殿となっていたのであった。

そして、空然が主体的意志に基づいて活動し始めようとするとき、古河公方家で永正の乱が勃発し、
次第に深刻の度を増していったのである。

空然は父政氏と兄高基との抗争に際し、当初は兄高基と連携して動いていたが、
永正七年(一五一〇)六月、山内顕定戦死の混乱を衝いて武蔵国太田荘(埼玉県鷲宮町から岩槻市一帯)
で蜂起し、政氏に公然と反旗を翻したのである(「歴代古案」三)。

それは武蔵神奈河権現山で蜂起した伊勢宗瑞の動きと連動しており、
早くから宗瑞の動きを射程内に捉えていた高基に通じる動きであった。

しかし、空然は高基の拠る関宿には入らず、まもなく雪下殿としての立場から脱却し、
還俗して義明と名乗り、世俗の政治世界での活動を志して下野小山に移り、
「南の上様」と呼ばれるようになった(「家蔵文書」十)。

さらに永正十一年(1514)三月以前の時点で、宇都宮氏が知行する小山領北部へ入部し、
佐野・佐貫・皆河氏らに支えられ、政氏(古河から小山に移転)・高基(関宿から古河に移転)の父兄に
対し、独自な政治路線を歩みはじめることになった。

これに伴って、公方家をめぐる合戦の舞台も、
自ずと下総北部から下野・常陸を中心とする地域で展開されるようになる。

しかし、永正十三年(1516)十二月、進退窮まった政氏が小山から岩付を経て甘□院に隠居すると、
高基と挟を分かつ義明の周辺には新たな期待を寄せる人々の動きが表面化した。

永正十四年閏十月以前、義明は本貫地の下総高柳に帰還して甘□院で隠居する政氏とも懇ろな関係を回復し、
常陸の臼田氏に宛てて義明への忠節を勧める政氏の書状も発せられるようになった(「臼田文書」)。

政氏が義明を自らの後継者と見なし、義明もそれを受け止める関係にあったのである。
そうした状況の下で、上総の真里谷武田氏が義明を房総の旗頭として擁立すべく、
下総小弓城(千葉市)への移転を要請したのであった。

上総の武田氏は、甲等票田氏の流れを汲み、三世紀後半の享徳の乱に際して足利成氏が上総
に配置した武田信長を直接の先祖とする。

その子孫は、真里谷城(千葉県木更津市)を本拠とする真里谷武田氏と、
長南城(千葉県長南町)を本拠とする長南武田氏を中心として、上総中に一族が広く
発展し、房総における成氏方の重要な権力基盤となっていた。

この上総武田氏の中心となっていたのが真里谷武田氏であり、明応九年(一四九八)七月、
武蔵浅草の浅草寺(東京都台東区)が火事で焼失したとき、
真里谷武田清嗣がその再建に乗り出している(「武州文書」)が、彼はそれ以前からたびた
び対岸の武蔵六浦(横浜市)に渡海していたことが知られている(「鏡心日記」)。

この清嗣の子信嗣の時代、真里谷武田氏は上総北部まで勢力を拡大し、上総真名城(千葉県茂原市)
の佐々木三上氏と領地をめぐつて対立するようになっていた。

三上氏は下総小弓城の原氏と結んで抵抗し、さらに原氏は佐倉城の千葉氏と連携して武田氏に対抗したため、
信嗣は戦局の好転を計って相模統一後間もない伊勢宗瑞に派兵を求めた。

永正十三年(1516)八月、三上氏は千葉氏のかつての本拠「井花」(亥鼻、千葉市)を襲撃し、
原氏の一族らを討ち取っている(『本土寺過去帳』「千学集抜粋」)が、
宗瑞もそれに呼応して上総へ派兵、同十三年十一月に原氏配下の上総三上城を攻略し(「藻原寺文書」)、

翌十四年には藻原寺周辺まで軍勢を差し向け(「藻原寺文書」)、のち上総二宮荘(千葉県茂原市)
に所領を獲得している(「箱根神社文書」)。

その間に真里谷武田氏は小弓攻めを実行し、原氏の手から小弓城とその領地を奪取すると(「快元僧都記」)、

永正十五年七月、その小弓城に足利政氏のいっぼうの後継者と目された義明を迎え入れ、
武田氏一族や上総の領主層を統合する旗頭として擁立したのであった。

こうして下総小弓城に入った義明は、小弓公方と呼ばれるようになる。

ここに古河城の古河公方高基に対し、房総を中心としたもう一つの地域統合の核が成立したのであった。


永正期の安房里見氏

上総の武田氏とともに、小弓公方を支えるようになるのが安房の里見氏であった。
近年の研究では、安房里見氏は、足利成氏の弟(定尊)が関東に復帰し雪下殿となったとき、
これにしたがって安房に入った美濃里見氏が、関東の里見氏の名跡を嗣いだ存在であろうとされている。
その中興里見氏の初代が里見義実であり、
房総半島南端に位置する安房白浜(千葉県南房総市)に白浜城を構えた。

ここは外房と内房とを繋ぐ海運の要に当たっており、
山内上杉氏が伊豆・伊豆七島と一体的に支配していたところであった。

鎌倉に復帰した足利成氏は、その山内上杉氏の海上支配の一角に楔を打ち込む形で里見氏を配置したのである。

安房白浜に入った里見義実は、この地域の海上勢力の掌握に力を注ぐいっぽう、
享徳の乱に際し、前後して上総に入った武田信長らとともに、
成氏方として各地を転戦したと伝えられている(「鎌倉大草紙」「快元僧都記」)。

里見・武田両氏は、成氏の期待通りに安房・上総の経略に大きな成果を1げたのであった。
そして、義実の嫡子義通の時代に、里見氏は安房一国の統一をほぼ達成し、
永正五年(1508)九月、明応の大地震の復興事業の一環として、
安房の中心的神社である鶴谷八幡宮(千葉県館山市)の修造を挙行し、その棟札に古河公方二代
政氏を支える「大檀那副師源義通」と書き付けたのである(「鶴谷八幡宮棟札」)。

里見氏は、自家が足利一族であり、公方の関東支配再建を支えるために安房へ送り込まれた存在であることを、
はっきりと自覚していたのである。

永正十五年(一五一八)七月、真里谷武田氏が、足利政氏のいっぼうの後継者である義明を、
下総小弓城に迎え入れた背景にも、おそらくこれと共通した意識があったものと思われる。


義通とその嫡子義豊の時代、里見氏は白浜城から内陸部に位置する要地に稲村城(千葉県館山市)を築き、
安房支配の拠点として北に接する上総をうかがうようになっていた。

永正期の安房は、上総と同じく外来の足利一族が定着し、
一国支配の中心としての立場を固めた時代であったということができよう。

  • 最終更新:2016-06-09 01:21:04

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