東山道
◆東山道
箕輪初心◆【東山道③】上野編
*江戸時代:1706年にできた中山道コースとは違うコースである。
◆群馬県の見解は碓氷峠からは2説
(群馬町誌資料編1の東山道の駅路の発掘調査・現地発見より)
◆軽井沢教委の第4ルート説
→総合すると、たぶん、以下のようになる。
※馬を用いた情報ネットワークは基本は16kmごとである(若狭:高崎千年物語104)
◆毛野国最大の遺構は、①宿大類の遺跡 ②新田郡庁である。
★参考文献・・・群馬町誌・古代のみち(群馬県立博物館第70回企画展)
1)中山道の北道=旧碓氷峠から霧積コース
●軽井沢・旧碓氷峠(中仙道の峠)・留夫山方面・霧積・
小根山森林公園「山吹の里」・松井田九十九国衙
★私見・・松井田の国衙・松井田城の位置・秋間への道を考えると
初期の東山道はかな? このコースでは、坂本駅に戻るので変?
坂本駅は最初はなかったのではないだろうか?
※あるとすると、700年~1607年の間で造られた。
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(大島氏の写真) 2)中山道に近いコース ★中仙道は1607年~でこの時代はなかった。 ●軽井沢・旧碓氷峠(中仙道の峠)県境熊野神社~ 松井田小根山森林公園脇(やまぶきの里)→飽間(安中市秋間)にいたるコース。 ★小根山森林公園は、碓氷鉄道文化村・横川宿裏から車で5分。 やまぶきの里の先に表示。猪・熊注意 ※中山道よりルートが北にあった。
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(やまぶきの里の表示)
3)軽井沢・入山峠・入山・・原・・坂本(現碓氷バイパスコース) 中仙道碓氷峠の尾根を南へ約6kmの上信国境の入山峠説。(有力説) ※軽井沢の旧道の入山峠で碓氷バイパス建設時、「古代の祭祀遺跡」が発見された。 軽井沢町の案内板 「古代の旅人は山の峰峠の頂上などで神々に「ぬさ」を奉り、家族の安泰を
祈願して旅を続けた。その折使用された「ぬさ」石製模造祭器がこの峠附近
で数多く発見された。このことから、入山峠は古代の官道東山道の通過地点と
考えられ、古代交通上の貴重な遺跡となる。」 (軽井沢町教育委員会)
※1590年、上杉景勝はこのコースで来て坂本上の愛宕城に陣。 松井田城の北条氏の大導寺政繁を配下に。
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(中山道の坂本上の愛宕=霧積温泉との分岐点)
4)入山峠少し南コース・・・ 谷急山北コース
★谷急山が挟んで、道があったもしれない。
実際に谷急山を登り、谷を勝手に降りたら、生きて帰れない谷であった。
5)軽井沢南の和見峠コース 志賀・笠原から八風峠コース
一番最短コース。・香坂ダム・(妙義荒船林道近く)
・八風平・(高速越え)・高岩・西野牧・坂本 ★箕輪初心「ここは勝手に想像した道である。 松井田の歴史学者:武者先生 が探していたからである。でも、東山道の遺構を発見できなかった。 古代、道の変更は難所を通るため、あるいは自然災害のため、 変更は多々あったと思われる。 (中仙道の坂本宿)
6)志賀・笠原・八風峠・・香坂ダム・○○峠・現妙義湖・坂本
◆◆◆3)の入山峠説(有力説)を採用◆◆◆
▲入山峠祭器遺跡
●暮井・仁田
①坂本宿駅(群馬県安中市:旧松井田町原)・・・
●坂本原遺跡(東山道駅推定地)・・・8世紀の大型家屋跡の遺構。
坂本~小根山森林公園経由で秋間コースも時代によってあったかも
しれない。崖崩れなどで?
●横川の萩の反(碓氷鉄道博物館北の小根山森林公園のヤマブキの里9
●五料野ヶ久保
●五料平・・・・(中山道の横川のお西・お東9
◆分岐
1)五料山岸遺跡・・・・
高梨子・九十九国衙(安中市松井田町国衙)・飽間(群馬県安中市秋間)
発掘調査なし。★私説根拠は地名のみで文書なし。 ※室町時代・・・秋間7党は支配(安中氏の所属) ※九十九川の東に走る。
2)松枝(=松井田) 二軒在家(★ここが碓氷川を一番渡りやすい)・人見へ
◆貫前神社(富岡)・甘楽・多胡・緑埜・山名コース
群馬県:安中地区の東山道脇路発掘調査現地説明会2010年7月25日
②旧松井田町人見中部地区・・・
4筋あり、2筋はは直線9~10mに併せて削堀。
7km?に渡る東山道の貫前神社(群馬県富岡市一ノ宮)まで
外の大堀は(幅3m・深さ2m)で300ha.
8~9世紀「牧の囲い」の北の一部が完全な形で発掘された。
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①旧松井田町人見東部地区・・・刀剣も出土。
2筋はは直線9~10mに併せて削堀 賀曽利E式4000年前~磨製石器もあるよ?
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貫前神社に伸びる幅10m道路
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◆3)本線コース
●原市
●野尻・・・発掘調査では、近世中山道北に10~15m道路発掘。7世紀後半の遺構。
②野尻宿(群馬県安中市板鼻)・・・・・・・・・
●碓氷川を渡る。
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(多胡碑シンポジウムの資料より)
●板鼻
源義経伝説①・・・伊勢某に家に宿泊。
1)Aコース・・・・野尻からの国府近道北ルート
※9C=800年代の道(若狭徹説)・・・★確実に違っているだろう。
●観音塚古墳北・・・現在の前橋・安中線付近。
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●北に若田原の大塚古墳
●剣崎西古墳・・・
●金井淵
●烏川を渡る。榛名白川を渡る。・・・河川の流れが今と違う。
●我峰~菊地の南・・・現長野堰付近を斜めに横切る。
●長野郷中学校すぐ北・・・義経道伝説が残る。5m道路があった。
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●上小塙稲荷山古墳・・・・現烏子(すないご)稲荷神社
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※長野郷・・※箕輪城の長野氏先祖(在原業平の子孫)の在住地
●寺の内遺跡(浜川公園西部300m)
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●御布呂遺跡(浜川運動公園北部や池周辺)
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●井野川を渡る。
★北300m程で、保渡田古墳群
●井出・・・熊野堂遺跡(三ツ寺遺跡=大王の家の南東300m)
9世紀の溝のない道路と判明。
●福島飛び地遺跡
●西浦南遺跡
●堤ヶ岡・・・中泉群馬群馬銀行前の道(かみつけ友の会会長黒崎氏の話)
●高貝土遺跡・・・食肉工場東・古墳の塚
●正観寺遺跡
●群馬高等専門学校の南を通る。
●染谷川を渡る
●総社(前橋市)に入る。総社神社西
●総社の南部から北上200m・・・(前橋安中線・箕郷総社線を横断)
●山王廃寺・・・礎石が見事。
●国府(群馬町の国府ではない。・・・現前橋市総社町)
③群馬国府・・・大きな道があったのでは?
元の総社神社(平安末期延喜式)を右に見ながら進むと国府があった。 近藤義雄先生89歳の講演会より
①奈良時代・・・長野氏の先祖の石上氏
奈良県天理市布留町・・・石上神宮(神社ではないのだ。) ・・・ここの神官だった。 ■牛池(牛の牧の水場) 国分寺 国分尼寺 □ □
国府
□ 最初の総社神社 : □
:
: 今の総社神社 : □
:::::::::::東山道:::::::::::::::
※東山道の歴史・・・国府の北に牛池=牛の牧は上野で1か所。 貴族が牛車に乗るため・・・・
※国府の手前に東に総社神社(各社を一つにまとめた)。
左に国分寺・右に国分尼寺があった。(近藤義雄先生) *万葉集の防人の歌「伊香保・・・」4首読まれた。 上野の国の歌は全部で25首? (群馬町誌他)
②平安時代・・・長野氏先祖は上野に国司のBEST3~4で派遣
建久元年(1190) 在原業平の子孫:奈良の石上氏 (後の箕輪城・鷹留城・厩橋城=前橋城の長野氏先祖)が
在地国司の惣検校(国の社寺点検)・散所(上級役人として2名の石上
(いそのかみ)の名と花押があった。目代(もくだい:国司代理人)は
藤原であった。
「榛名神社に健児(こんでい)や検非違使を入れていけない。」 という内容が榛名神社に残されている。(近藤義雄先生89歳の時の講演)
③鎌倉時代・・国司は鎌倉時代には無用な役人。国司の役員→在地役人。
新田氏・石上氏(長野氏先祖)は鎌倉幕府の役人ではない。足利氏が役人。
④室町時代長尾氏が蒼海城を造るために今の総社神社の場所に移動させた。
(近藤義雄先生) 長尾氏は関東管領上杉家の執事で、国府に来た。 (総社長尾氏・白井長尾氏・足利長尾氏・越後長尾氏=上杉謙信の曾祖父)
●上野国分寺・・・1982年~1985年に教わった大先生の紹介
①前澤和之先生・(国分寺発掘→横浜市立博→館林教育委員会) 発掘調査の現地研修会などに数回参加。 ②近藤義雄先生・・・現地研修会4回 (国府地区・堤ヶ岡地区・金古地区・下野国分寺)・講演会等に参加。 ③矢野敬一先生・・・群馬町郷土史家→初代国分寺博物館館長に群馬町誌の
文化財執筆のレポート添削
◎発掘調査は前澤和之先生がやっておられた頃の写真。 【藤岡・秋閒・新田の窯で焼かれた瓦が出土・奈良三彩の陶器も出土】
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◎写真は、25年前・・・矢野敬一先生30年前の国分寺模型
●上野国分寺・・・2000年頃~模型は矢野敬一先生作(県教委)
(復元模型は矢野先生作・・・初代博物館館長 現在は金田先生・金井先生が交代勤務・・・写真は許可済み) ※上野国分寺の特徴は、七重塔が全国僧寺の中で最大規模である。 七重塔の基壇が復元。 講堂の瓦が発見されず、講堂は茅葺きだった可能性が強いようである。
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○現存の“国分寺”がないが、妙見寺がある。・・・平将門との染谷川の対決。
●染谷川を渡る。
?群馬駅・・・前橋石倉町と古市町の境・・・不明。反対論が多い。
●牛池川を渡る。
●利根川を渡る。(当時は流れていない。=広瀬川方面)
●石倉(群馬銀行本店の南)
※厩橋(=前橋)・・長野氏の所有地→
上杉謙信の家臣北条高広が城代:上杉謙信は小田原城攻めで宿泊。
●天川大島?・・・伊勢崎?・・・佐位宿?へ
2)Bコース=野尻からの南ルート(牛堀・矢ノ原ルート):県史・群馬町誌
ここが律令制度化の道であった。 7世紀後半から8世紀(発掘調査資料と若狭徹氏群馬№2の意見) ●板鼻 ●平塚古墳下 ●八幡神社 ●豊岡から烏川を渡る。 ■赤坂・・・鎌倉上道(鎌倉時代)への分岐 ※赤坂庄(高崎の市街地北部)は鎌倉時代には地名がある。 ここから佐野→山名→・・・鎌倉上道に入る。金井沢の碑・山名の碑。 さらには、多胡郡からの道と合流。
●飯塚
●高崎情報団地遺跡(高崎市中大類町=宿大類) この遺跡~玉村まで3kmは7世紀後半の「幅12m道路」 ○北に元島名古墳&南に綿貫観音山 ●井野川を渡る。 ●玉村砂町遺跡・尾柄町遺跡・中之坊遺跡・・・7世紀の土師器が多数出土。 ●北道:国府ルート・南道:律令時代ルートが合流する。
④佐位宿(群馬県伊勢崎市上植木説が有力説) ●三軒屋遺跡(伊勢崎)・全国初の八角形の正倉。 1030年頃の上野国交替実録帳に記載 ●伊勢崎南部 ●(旧佐波郡境町東新井)の矢ノ原遺跡(伊勢崎)~下新田ルート
1986年~発掘調査・・・
矢ノ原遺跡(伊勢崎)・大東遺跡(旧新田町大根)・市宿通遺跡・下原宿遺跡・上根遺跡
境町~太田まで9kmの12m幅の道を発掘。溝は用水路に使用。 ※東山道武蔵路の所沢・府中の同様な道路遺構である。 ●境町十三宝塚遺跡・・・東西80mの回廊・塔跡・奈良三彩・獣脚・・墨書土器出土
●寺井廃寺
⑤新田宿・・・新田郡庁の発掘調査(2008年)・・・2回散策
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●新田郡庁近くから武蔵路が分岐判明(多胡碑シンポジウム)。
奈良時代・「東山道」の新田から武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)に到る
「東山道武蔵路」があった。宝亀2年(771) 東山道から東海道に変更。
上野国新田から武蔵国府に向かうルートは使用されなくなった。
●新田天良・・・天良遺跡
鎌倉時代・・・新田一族の支配地・・・寺尾=和食「新田之荘」新田義重の館 ★B級グルメ「岩崎屋」の黒い焼きそばが美味しい。
●金山を左に見ながら、やや南東方向へ進む。
●太田天神山古墳・・・・
★コース不明???
●太田高林 義経伝説・・・宿冠稲荷神社に義経が宿泊したらしい。
●渡良瀬川を渡る。
東山道
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- 最終更新:2016-07-21 17:40:16