東路の明月記

東路の明月記

 
思い付きで作ったページ

誰かさんと誰かさんが混ざったやつです。

私の名は「藤原 棟治 (ふじわらのとうち)」としておきます。

詩のような、日記のような訳の分からんことを、書き記していきます。

過去に書いたことも上げておきます。

未来の誰かさんに読んでもらうために。

「ぬくとめる 風にさそわれ あおやなぎ
         花も実もある 箕輪の梅里」
岡 宗春 (もと藤原棟治)


  • 思いを伝える・・・以前書きかけてあった小説のようなものは、あまりに思いつきで書き始めたので続かなかった。 今度はがんばってみようと思い、戦国当時を忍び、いろいろ調べて回っている。・・・

  • 希望の話 その一・・・私は希望というものを考えてみたくなった。希望とは、好ましい未来の実現を望むこと。私にも希望はあるが、それを語りたいのではない。

  • 思いを伝える II・・・あれから1年余りが過ぎた。甘楽の谷から遠望するあの山は変わらなかった。しかし私の心は、過去の彼方まで見えるようにはなった・・・

  • これも一つの物語◆故郷の戦国物語り・・・それは些細な事からはじまった。子供の頃を、思い出していた時だった。タケダシンゲンと呼ばれたクワガタ虫

  • 最近の独り言1・・・まさか戦国史を学ぶ上で、古墳時代の事を調べる羽目になるとは思わなかった。そして「上毛かるた」ってちゃんと深い意味があることを今更知った。


  • 最近の独り言2・・・いろいろ調べているうちに、どんどん横道にそれてしまった。小説から始まって、大河ドラマ、そして今度は戦国ゲームとか。先人が調べ上げた城の縄張り図をコンピュータ上に3Dで再現する。
  • 最近の独り言3・・・『7人の侍』これを上野の戦国時代に当てはめて、物語をリニューアルしたらどうなるのだろうか?ちと考えてみよう。

  • 最近の独り言4・・・大河ドラマに夢を見て、一度は挫折したがまた取り組み始めた。

  • 最近の独り言5・・・今月出版される久保田先生の著作『長野業政と箕輪城』(戎光祥出版)を先行購入できる機会があった。これを機会にもう一度長野氏に関する情報を整理しようかなと思う。1499年生まれ説とか、鷹留・箕輪長野氏はもっと時代をさかのぼって分家したとか、いろいろ・・・  棟治

  • 最近の独り言6・・・夢中になってやれてる内は良いのだが、減速してきてしまった。色々まとめたりすると時間が掛かってしまう。もっと気楽に思いついた事を書き留めておきたくなった。そこで凝りもせずに新たにブログを始めたわけである。楽しいことを、楽しいうちにやる!これが棟治のモットーなのだ。 『荒船の夕日(ブログ)』・・・棟治 

  • 最近の独り言7・・・関東管領山内上杉氏なんて憲実以降は、山内=越後上杉氏と言ってよくね?また、永正の頃より古賀公方家から養子が入って、その都度に山内家が取り戻している。挙句の果てに、憲政は越後上杉家家臣の長尾景虎を養子に迎えるが、後に管領職は断絶する事になる。戦国の終焉を迎えるにあたる捧げものとでも言おうか・・・棟治

  • 最近の独り言8・・・長尾景春、このお方は父と同じ職に就けなかったことを恨んだという。
   どうだろう、そのような個人的な事で同心を集め、乱を起こすなど出来るのであろうか。
   どうやら逆に、配下の国人領主たちに担ぎ出されたのが真相ではなかろうかと思う。
   なお箕輪長野氏は、景春に同心して上杉氏と敵対し、当主為業は針谷原に没した。 棟治

   散文が書き込まれていた。
   とても大切なもの
   とても大げさな話だが、なくなってしまった
   奥にしまってあった物、とても大事だった
   「命より 名こそ惜しけれ 武士の 道をばたれも かくやおもわん」
   武士の名について思い返してみた。

   多くの冬を乗り越え今がある、苦難を生き抜いてきた人たちに、感謝せねばなるまい。

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   『風光る けふのくるわに さくはなよ あらよの武士は なむと思はむ

   『はなのみは あすのくるわに ちりぬれど いくとせ後の みこそ思へれ
                         またもむすばめ 三輪の里山
                              岡 宗春(棟治 2017.4.5)
  • 最近の独り言10・・・箕輪城と上野の戦国史を調べるのにあたり、上杉氏・長尾氏は外せない。
   特に上杉憲房と長尾景春は、長野氏と深く関りがあると見られている。 両氏について
   研究していくと、黒田基樹先生の論文に行き当たる。ネットで調べていると色々な史料
   が出てくるが、最新のものみたいで引用していいものか迷ってしまう。

   この時代、岩松(横瀬)・小幡氏など上野の国衆たちは、どこの家中でも内乱は絶え
   ない。ならば長野氏も、一族を割っての対立は、当然あったであろう。安房里見氏も
   義豊・義堯の内乱後に、系図は勝者の義堯側に詐称されていたと言われている。
   長野氏の系図は、沢山あり錯綜しているが、内乱の結果だと考えられないだろうか?
   景春の乱時に、白井長尾氏側と惣社長尾氏側で上野の領主たちは割れたはずである。
                                  2017.04.22 宗春
 
  • 最近の独り言11・・・その男は、西の端の茜色に染まる峠を越えてやって来た。
   この物語は、宗春の幼い頃みた荒船山に始まった。
   黄昏て沈む夕日はとても悲しく、急いで我が家に逃げ込みたくなる衝動にかられた。
   親父が言うに我が家は、侍の家で大分昔に箕輪から出て来たと言っていた。
   お祖父さん、ひい祖父さんの遺影を見せては何かを語っていた。
   親父が酔っていたのと、私が小さかったので何を言いたかったかは、わからない。
   何やら家の由緒を語りたかったのかなと、今になって思い起こしている。
   私も語ってみたくなった。荒船の夕陽と言う物語を通して・・・ 宗春 2017.5.6

  • 最近の独り言12・・・夫婦喧嘩は犬も食わないと言う。犬死になんて言葉もあって、無駄死にとも
  訳される。和歌も嗜んだ侍たちは、どんな歌を詠んだのであろうか、そこで犬和歌です。

  『命より おもき目方は なかりけり 払いて渡る うき世のわたし』
  『また名より おもき目方も なかりけり かついで渡る うき世のわたし』
  『かれは舞い つゆとちりぬる 箕輪城 いまそ渡らむ うき世のわたし』
   侍とはそうしたものだったのかもしれない。
   そして今、古城跡に立つ宗春。
  『ほとときす 曲輪のうちに ありとても かたる姿に 足そ止めける』
  『たそかれも おいて登れる 箕輪城 いつとやいはす なくそ悲しき』
  『いぬもまつ 主のかえる 箕輪城 岡登りくる たちはなの風』 
宗春2017.5.16

  • 最近の独り言13・・・すでにこのサイト(ホームページ)を立ち上げて1年が過ぎた。
   ゲーム好きの宗春は、信長の野望にはまっていて上野(群馬県)の戦国大名が上杉憲政
   から長野業政に変わったのを記憶している。だれこの人?と群馬に住むノブヤボ・ファン
   なら思ったはず。そして西毛地区に住む多くの人は、祖先がこのお方の家臣とか同心
   (同盟)衆であったのを知る事になる。初めのうちは、色々情報が得られて業政や箕輪城
   の事がわかる。しかし、やがて壁にぶつかり、実は何も分かって無いんだと気づかされ
   る。と言うのは、業政と言う名(諱)さえ当時の古文書には著されておらず、後世のもの
   に頼っている。宗春も、もうちょっと頑張ってみようと思う。2017.05.30

  • 最近の独り言14・・・何事につけて飽きっぽい私である。良くここまで続けて来れたとは思う。
   相談に乗ってくれたり、話を聞いてくれる先生がおられるからだとも思う。
   だが、最近は歴史の研究が思うように進まず、勢いを失ってきてしまった。
   今までは、過去から箕輪落城までを調べてきたが、今度は永禄9年から
   さかのぼるように時代を見て行こうかなと思う。核心に迫るところである
   ので慎重に骨組みを形成して行こう・・・2017.07.14 宗春

  • 最近の独り言15・・・県立文書館に、武田信玄から長野信濃守に宛てた文書がある
   武田晴信書状「笛吹峠にて上杉家との交戦に感謝~~~」 偽物かもしれん?
                        (永禄初年カ)11月15日)
   今まで、山内上杉家に義理立てて、北条や武田に降らなかったと軍記ものが伝えてきた。
   実はまったく真逆で、一刻も早く武田に同心してその同盟である、北条との戦を避け
   たかった、と考えたらどうだろうか? 実に妙案だと思うのだが・・・であるならば
   何がそれを妨げたのだろうか? 面白い物語ができそうだ。  2017.08.17 宗春

  • 最近の独り言16
   幼き頃の思い出、その中には大事なものが詰まってる
   それを溶かして味わうには、失われていそうな幼心
   そうだ、そういった類のカギが必要なのに違いない
   そのカギさえあれば、開けて味わえる命の木の実
   遠い故郷の味がたわわに実る、大きな物語を育てたい  2017.09.08 宗春

  • 最近の独り言17・・・秋の夜長、いよいよ執筆がしたくなってきた。だが、力が足りないので修行の旅に出ることにした。今は別の場所で、鍛えています。宗春2017.09.30

  • 最近の独り言18・・・「上州白旗一揆の時代 みやま文庫 図書 久保田 順一」は面白かった。長野業政はもう少しで国衆としてやっていける所だったのに、古い権威の象徴であった関東管領を引き継いだ上杉謙信に従ったのが間違いだった気がしてならない。早い時期から小幡や和田ちゃんみたいに武田についていれば良かったのかなとも考えさせられる。201806x

  • 最近の独り言19・・・私が群馬県の中世について興味を持ったのは、祖先たちがこの地で何を見て生きて来たかが知りたかったからである。遠く荒船山に陽が沈む姿を、どのように感じ眺めていたのだろうかに帰結する。それらを理解するためにはどうしても現代人の計算尺を使用することになる。戦国を上手く測には、どうしてもメモリを切り直し角度を変えて行かなければならない。戦ばかりでなく、飢饉・疫病・略奪の横行する世界をどう生き抜くかがすべてであったのだが、これは侍と平民の区別なく平等に襲い掛かる。つまらん独り言でした。 宗春 20180613
  • 最近の独り言20・・・戦国時代最大の合戦となった関ヶ原の戦い。福島正則の先陣を直政と松平忠吉の抜け駆けによって戦闘が開始されたとされているが、実際は抜け駆けとされている行為は霧の中での偶発的な遭遇戦であったようだ。戦後に彦根藩の礎を築き、その『侍中由緒書』には多くの上野武士達が名を連ねている。そのなかに長野氏は、3席家老として4千石を与えられ幕末まで続いている。むろん、長野業政の時代の家臣たちもこれに従い関ケ原へ従軍して行ったに違いない。宗春 20180704

最近の独り言21・・・箕輪城で繰り広げられる戦国ドラマを構想して数年が経つ。主人公の一人と成り得る長野業政の足取りは、40才を過ぎた天文10年に起きたとされる、海野平の戦いにおける上杉氏の佐久派兵からである。後の時代に上野の黄班と呼ばれるようになった活躍の、前半生が見えないのである。だが、最近になって提唱されている長野方業=業政説をとると、なるほど猛将であったと頷ける。また、ドラマであるからには波乱に満ちた方が良く、例えば山内家の正当な養子でありながら古河公方からの養子に世継ぎの座を奪われた憲房と、景春に与して長野宗家の座を奪われた方業がのし上がって行くストーリーの方が面白いと思う。だがこれには、読者を納得させる歴史的土台が必要である。

  • 最近の独り言22・・・長野業政の父親は誰か、これまでは憲業とするのが定説であった。ここへ来て方業なる箕輪城主の出現で定説を見直す必要に迫られている。そんなわけで憲房と業政の時代がどうしてもまとめられない。仕方がないので、当時の合戦について学び始めた所へ遭遇したのがトピにある動画だ。これは最近始めたTwitterから情報を得て載せたものです。他にも沢山あって見ごたえがある。その他に参考として「戦国の陣形」なる書籍が紹介されていた。魚鱗とか車懸かりとか怪しい奴だろと思ったが違っていた。「戦国の軍隊」に並んで真面目に当時を研究されていると感じ入って今夢中である。但し図解版を買ったらしく新書版も購入予定   2018.08.22 宗春

  • 最近の独り言23・・・箕輪軍記などで長野業政は、上杉家に最後まで従い武田信玄の箕輪侵攻に対して数回に及び跳ね返したとある。歴史を調べて行くと信玄の西上野侵攻は永禄4年からとされており、その年に小田原から戻ってきた業政は病に伏してお亡くなりになったと言う。つう事は一回とて信玄とは戦っていない事になる。たった一つだけ可能性があるのが、弘治3年の瓶尻(みかじり)の戦いくらいであり、永禄4年初侵攻と矛盾する。どうやったら複数回跳ね返したなどと盛った話が出来上がるのだろう? もう疲れたよパトラッシュ 2018.09.11 宗春

  • 最近の独り言24・・・はじめツウィートしてから2か月が経とうとしている。得られる情報からの成果は目を見張るものがあった。特に戦に関する事では、『戦国の陣形』『戦う大名行列』が為になった。『戦国の軍隊』これは昨年読んだものだが、これを合わせて合戦3大本と言えよう。最後に上野の剣聖上泉伊勢守による『新陰流訓閲集』は、上野武士なら戦の心得の虎の巻と言える。いよいよ榛名山麓に靡く旗印が動き、武田勢に打ち懸かって行く様子が目の前に浮かんできた。
2018.10.08 宗春

大河ドラマの小説とか無理であっても、小話とそれに添えた和歌なら行けるかも。
まずは少しづつ貯めて行こう。

    『空蝉は 憂くもはかなき 白川の 水面に浮かふ 水草の影』  岡 宗春

  ◆稲村の変
    『夕暮れの 霞こめたる 保田みなと 時々わたり 鳴くもかなしや』  岡 宗春

  ◆山里の庵
    『逆月は 池のかはつと 鳴きくらへ 花のしょうふか 山里の庵
   人も春だというのに、夜ふかしをして、かはづと花を争い鳴きくらぶる宗春、いとかなし

    『霞立ち 松や林の 痩せかえる 池の浮舟 何時や来るらむ
   かたや、蓮上のかわづとて只にその身を置くはなし

  ◆梅の里
   初心師の周りでは、今年も梅の季節がやって来たらしい。
    『ぬくとめる 風にさそはれ あおやなぎ 花も実もある 箕輪の梅里

  ◆帰郷
   長篠からの帰り道、甘楽の谷をすすむ騎馬武者
    『東の 野に炊煙の 立つ見へて 西の山端に 月は渡りぬ
   ちと本歌を取りすぎたかな・・・宗治
  ※長らく旅をしてきて、東に日が昇るのを見た。来た道を振り返ると下弦の月が西の
   端に隠れようとしている。月を船に見立てるならば、共に渡って来たと考えるが
   趣を興すと言えないだろうか。

犬和歌

   『夢おいて 拾い集めし ことのはを さてもあおやぎ つづるいとなし

   『黒穂根の 裾にこめたる 春霞 下ろすこしなく ただよふばかり

   『霞野や 紅とふくらむ 梅が枝の 匂いほのかに  咲くもくちおし』 

   『たいらかな 漢をなでて すぐる風 まことおかしき かほりに満てり

   『西の端に うきてそまれる 船のかげ かり立つ風の 秋の夕暮れ

   『かこまれし 曲輪のうちに くちき虫 こだちにけむる 秋の夕暮れ

   『さと山の つらつら椿 みてくるは おりてしのはる ほりそこのうね
 
                                   岡 宗春

曲輪にさく桜

 多くの冬を乗り越え今がある、苦難を生き抜いてきた人たちに、感謝せねばなるまい。

   『風光る けふのくるわに さくはなよ あらよの武士は なむと思はむ

   『はなのみは あすのくるわに ちりぬれど いくとせ後の みこそ思へれ

   『このみより まさりておしく あるものは みをまつ家の かまどの煙

   『春風に ふかれ家路に まふ桜 ともにかへらむ かのひとなれば

   『さみだれに うたれて鳴くか ほととぎす かへらぬみとは 思はざりしを

   『あまのがは あの待ちひとが きみならば せをかへりみず 今ぞ渡らむ

   『中秋の 月をあなたと みるよるは 池の水面を すくひて愛でる

   『かれはまひ 西の彼方へ たつとりに かまどに煙る 秋の夕暮れ

                                   岡 宗春 

◆犬和歌
  『命より おもき目方は なかりけり 払いて渡る うき世のわたし』
  『また名より おもき目方も なかりけり かついで渡る うき世のわたし』
  『かれは舞い つゆとちりぬる 箕輪城 いまそ渡らむ うき世のわたし』
   侍とはそうしたものだったのかもしれない。
   そして今、古城跡に立つ宗春。
  『ほとときす 曲輪のうちに ありとても かたる姿に 足そ止めける』
  『たそかれも おいて登れる 箕輪城 いつとやいはす なくそ悲しき』
  『いぬもまつ 主のかえる 箕輪城 岡登りくる たちはなの風』

   秋の日に お百度踏んだ 彼岸花 がくは無くとも すれたてにけり
   うつせみは 夏もつかの間 あかね空 虫がどこかで 別れを告げる
   自作して 自演にいたる 寂しさは 秋の夜長に 一人飲む酒
   夕暮れに 濡れる紫苑〈しおん〉を 知れとても 花の思いは 叶わなざりしを
岡 宗春

 

  『篠突く雨の 笹曲輪
  (激しい雨)

  『おいのみは 金もちからも なかりけり 

 ◆思い月
  • 『逆月は 池のかはづと 鳴きくらべ 花のしょうぶか 山里の庵』 岡 宗春
   かじか(「河鹿」)は夏の季語らしい。3~8月頃繁殖期に鳴くようだ
   夕方空を見上げた時に見える月は、「上弦の月」で、
   「下弦の月」は、朝の空に白い半月がみえたら下弦の月なのだそうです。
   てことは、人も春だというのに、夜ふかしをして、かはづと花を争い
   鳴きくらぶる宗春、いとかなし
   一人さみしく、酒も飲めない宗春を詠んでみたくなっただけなのだが・・・

  • 『霞立ち 松や林の 痩せかえる 池の浮舟 何時や来るらむ』
   さて、宗治と覇をあらそったかわづ君にも辛い冬があったのだ。


読んで心に感じたことのメモ

まっこと素敵なサイト『うたことば歳時記』より学ぶ。
   まずは密かに学んだことを、メモを取って後で整理しよう。
   いきなり、先方様に大変参考になり、ありがとうなんて書き込みできないしな。

 ◆私の授業 「東山文化 1」より

  よく知られている和歌に「秋の夕暮」を歌った「三夕の歌」というものがあります。

 三夕の歌
   『寂しさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ』(寂蓮法師)
   (口語訳)寂しさには、特に「寂しさ色」というものはないなあ。
        針葉樹がぽつんと一本立っている、この秋の夕暮れよ。

   『心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ』(西行法師)
   (口語訳)物の情趣を感じる心のないこの出家者の身も、あわれが自然と感じられる
        ことだなあ。鴫が一羽沢に立ってじっとしている、この秋の夕暮れよ。

   『見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ』(藤原定家)
   (口語訳)まわりを見ても、美しい花も鮮やかな紅葉もないことだなあ。
        粗末な小屋だけが立っている秋の夕暮れよ。

 また別のサイトでは
   次席
   「眺むれば 衣手涼し ひさかたの 天の河原の 秋の夕暮れ」(式子内親王)
   「もの思はで かかる露やは 袖におく 眺めてけりな 秋の夕暮れ」
                                                          (摂政太政大臣良経)
   「村雨の 露もまた干ぬ 真木の葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ」(寂連)

   このような美意識と言いうか、価値観は、禅宗や鎌倉武士の倫理的価値観を背景として、
   徐々に育まれてきたものと思と師は語っている。

 禅宗に見る美意識
  「知足」《「老子」33章の「足るを知る者は富む」から》 みずからの分(ぶん)を
   わきまえて、それ以上のものを求めないこと。分相応のところで 満足すること。
   もの静かで趣のあること。ひっそりとして落ち着いていること。
  「侘び」「貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識」
   茶の湯では「佗」の中に単に粗末であるというだけでなく質的に(美的に)優れた
   ものであることを求めるようになった。
  「寂」閑寂さのなかに、趣が現れる美しさ。「さび」とは、老いて枯れたものと、
   豊かで華麗なものという、相反する要素が一つの世界のなかで互いに引き合い、
   作用しあってその世界を活性化する。そのように活性化されて、動いてやまない
   心の働きから生ずる、二重構造体の美とされる。
   まずはこのくらいにしておこう。

   禅宗では自然と自己が一体となった境地の中で、耳に聞こえない声を内なる耳で聞き、
   見えないものを内なる眼で見ようとするものです。

 景を見る
   秋は西に去ってゆくとも理解されていました。
   「黄昏」は元々「誰そ彼」と書き、夕暮れ時に暗くて人の姿が良く見えないところ
   からきた表現です。
   黄昏(夕暮れ)時になると、ひとは何故か物哀しい想いになることから、第三者の
   物憂げな様子を見て「たそがれている」などと表現することがあるという。
   また自身がそうなることは「たそがれる」と表現するらしい。
   
 無茶な自分ルール
   『 五 七 〇〇〇けり 六+の 秋の夕暮れ』 上の3首に並ぶ歌を詠むを目標とする
   宿題

 ◆私の授業「東山文化」2より
   二人で一首の歌をかけ合いのようにして即興的に唱和したものを単連歌
   三句以上付け連ねてゆく鎖連歌(長連歌)、には百句続ける百韻の形式に定着
   南北朝・室町時代・江戸時代を通して連歌といえば、この百韻の形式が通例の
   ものとなった。

   鎖連歌の場合は、最初の一句を「発句」、次の句を「脇句」と言い、最後の句を
   「挙句(あげく)」と言います。「挙句の果てに」なんて言うその「挙句」ですね。
 連歌で一番はじめの句を発句という。発句は五七五の長句で、季語を詠みこみ切字を入れる
   ことが必要だが、何よりも百韻一巻を率いる重要なものだから、一句が独立した風格を
   持ち、余意余情が豊かなことが求められた。また一座の主賓が詠むことが多い。

 脇句は発句をついで七七の短句で、発句に打ち添えるように付け、体言止めが多い。
   脇は会を催した亭主が付けることが多い。第三は五七五の長句で発句と脇の世界を
   転じてゆくのがよいとされ、宗匠が詠み、以下連衆が順に詠んでゆき、一順した後は、
   出勝ちで付けてゆく。

 最後の句は挙句(揚句・あげく)といい、その挙句のあとに句上げといって連衆名と句数
   を誌すことが多い。これが百韻一巻の構成である。

 連歌では月や花を詠みこむが、百韻では四花七月(八月)といい、花は各懐紙に一句ずつ、
   月は各折に一句ずつ詠まれる。また春・秋の句は三句から五句続けてよく、夏・冬の句
   は一句ないし二句を限度とする。季のない句は雑の句といい、適宜季の間に詠み、恋の
   句なども詠んで変化をもたせる。

 百韻の場合では、二つ折りにした懐紙を四枚(八面ある?)用いる。初折しよおりの懐紙の表に
   八句、裏に十四句、二折にのおり・三折さんのおりの懐紙にはそれぞれ表に十四句、
   裏に十四句、名残折なごりのおりの懐紙の表に十四句、裏に八句を記し、初折の巻初に
   は、張行ちようぎよう年月日や場所や賦物ふしものを書く。

   関白二条良基が、連歌の規則を基にして『応安新式』を著して整えました。以後はこれ
   が連歌の式目の基準となり、それに精通した歌人が連歌師として各地を巡回しながら
   連歌の普及に努めたわけです。
   そのような連歌師の一人である宗祇が、弟子の肖柏と宗長の三人で、後鳥羽上皇を祀る
   水無瀬宮に奉納するために詠んだのが、史料集に載っている『水無瀬三吟百韻』です。

   後鳥羽上皇の詠まれた歌に、水無瀬で詠んだものがあります。

   「見渡せば 山本かすむ 水無瀬川 夕は秋と なに思ひけむ」

  ※本来ならば東の空の朝霞こそ春らしいと言うはずなのですが、後鳥羽上皇は
   春の夕暮の霞も、朝の霞に劣らぬほどに美しいものと感動し、
   「夕暮が美しいのは秋だと思い込んでいたが、
    春の夕暮もそれに劣らぬほどに美しいではないか」と、
   新しい美を発見したことを詠んでいるのです。

   宗祇資料集 「雪ながら 山本かすむ 夕べかな」。

   峰には雪が残り、山の麓には霞がたなびいている、という意味です。

   第二句は「行く水とほく 梅にほふさと」となっていますが、

   「行く水」は後鳥羽上皇の歌の「水無瀬川」を意識しているのでしょうね。
   (水無瀬の)川の流れは梅の花の香る里を流れて続いている、という意味でしょう。

   そして第三句は「川風に 一むら柳 春見えて」と続きます。

   岸の青柳の糸が川風に靡き、春が見える、というのです。

   宗祇が編纂した連歌集に『新撰菟玖波集』があります。
   「つくば」とは「筑波山」のことで、実は連歌を象徴しているのです。
   それは連歌の起源が日本武尊が筑波山で詠んだ歌であったという
   理解に拠っているのです。

  宗祇の高尚な連歌は「正風連歌」と呼ばれ、相当な古典的教養が基礎にありました。
   またあまりにも規則が煩雑になると、それに対する反発もあり、もっと庶民的で、
   滑稽と機知を効かせた堅苦しくない連歌も流行りました。
   そのような連歌を俳諧連歌と言います。

  俳諧連歌(はいかい)を確立したのが、山崎宗鑑という連歌師でした。
   どれだけユーモアのある人物かは、その辞世によく現れています。
   「宗鑑は いづくへと 人の問ふならば ちと用がありて あの世へといへ」
   (宗鑑は いずくへなりと ひと問ふならば ちと用ありて あの世へといへ
   というのですから、その滑稽さは徹底しています。

  ※俳諧(はいかい・「誹諧」とも書く)の語義は、中国の古辞書に
   「俳ハ戯ケ也、諧ハ和ハ也」とあり、「戯れ和する」意である。

   彼はおそらくそれまで捨てて顧みられなかった俳諧連歌を集め、『犬筑波集』を
   編纂しました。「犬」とは劣っていることや役に立たないこと意味する俗語です。

   まず「きりたくもあり、切りたくもなし」という下句が提示
   すると、そしてその場にいる人たちが即興で詠むのですが、
   「盗人を とらへてみれば 我が子なり」と付けたわけです。

   「霞の衣 すそは濡れけり」に対して
      「佐保姫の 春立ちながら 尿(しと)をして」。

   平安時代以来、春の立つ徴(きざし)は春霞と理解され、
   それは春の女神である佐保姫の衣に象徴されていました。
   それを、春が立ち、その女神の佐保姫が立ったまま小便をしたものだから、
   霞の衣が濡れてしまった、というのです。
  ※春が立つ、霞が立つ。立つとははっきり見えると言う意味があるらしい。
   しかし、佐保姫のしとがはっきり見えたら、ちと興覚めか・・・
   「春たちて にほいほのかに 佐保の露」 ますます興ざめか 宗春

   宗鑑は、言の葉で内なるを綴り、チャップリンは仕草にて思いを語った。
   庶民の喜びや憐れみをユーモラスに描くこの二人は、宗治の手本となすべきか・・・

  ●春になったしるしは霞が立つことであり、
   また春は東からやって来ると理解されていました。
   『春は曙』
   曙(春はあけぼの・まさに夜明けの瞬間)と暁(夜明け前) 東雲(しののめ、とううん)
   暁は夜も更けたまだ暗い時間帯、曙は東の空に朝焼けが見える程度に明るくなりかけた
   時間帯

  ●秋は西に去ってゆくとも理解されていました。
   『秋は夕暮れ』

「桜狩り」より
   ところが花見の古歌を探してみると、桜の枝を折る歌が沢山あるのです。
   それに対して梅の枝を折る歌はあまり見かけません
   そもそも「桜狩り」はあっても「梅狩り」という言葉はありません。

  ①いしばしる滝なくもがな桜花手折りてもこん見ぬひとのため (古今集 春 54)
   桜を見に来られない人のために、桜の枝を折りたいのだが、
   滝があって折ることができないという。

  ②見てのみや人に語らむ桜花手ごとに折りて家づとにせん (古今集 春 55)
   見てきたよという言葉だけでは桜の美しさを伝えられないから、
   家への土産(家づと)に枝を折って持ち帰ろう、というのです。

  ③山守はいはばいはなむ高砂の尾上の桜折りてかざさむ (後撰集 春 50)
   山の管理人はとやかく言うなら言ってもよいから、桜を折って髪に挿そう、
   というのです。花の一枝を折って髪や冠に挿すことを「かざし」と言います。
   意味は「髪挿し」で、後に「かんざし」と変化することは察しがつくことでしょう。
   本来は長寿を祈る呪術でしたが、次第に装飾となっていきます。

  ④桜花今夜かざしにさしながらかくて千歳の春をこそ経め (拾遺集 春 286)
   桜のかざしを挿すので、千年も長生きできるというのです。

  ⑤折らば惜し折らではいかが山桜けふをすぐさず君に見すべき (後拾遺 春 84)
   折るのは惜しいが、折らないと今日という日を過ぎずにその美しさをあなたに
   見せることができるだろうか、というのです。

  ⑥みやこ人いかがと問はば見せもせむこの山桜一枝もがな (後拾遺 春 100)
   都人が、山の桜はどうでした尋ねたらね見せもしたいので一枝ほしい、というのです。

  ⑦咲かざらば桜を人の折らましや桜のあたは桜なりけり (後拾遺 雑 1200)
   桜の枝が折られてしまうのは、桜が美しく咲くからで、
   咲かなければ折られることもないと理屈を言っています。

  ⑧よそにては惜しみに来つる花なれど折らではえこそ帰るまじけれ (金葉集 春 54)
   遠くで見ていた時には花が惜しいと思っていたのに、いざ来てみたら、
   惜しむどころか、枝を折って持ち帰らずにはおれない、というのです。

  ⑨万代とさしてもいはじ桜花かざさむ春し限りなければ (金葉集 賀 309)
   万代と限っては言いますまい。桜をかざしに挿して過ごす春は、果てしなく続くの
   だから、というわけです。かざしが長寿のまじないであることがわかりますね

  ⑩桜花手ごとに折りて帰るをば春のゆくとや人は見るらん (詞花集 春 31)
   皆が手に手に桜の枝を以て帰ってゆくのを見て、人は春が去ってゆくと思うだろうか、
   というのです。花見の帰りに、皆が桜の枝を持っていたことがわかりますね。
   桜が散れば春が終わるという理解が前提になっているわけです。

  ⑪一枝は折りて帰らむ山桜風にのみやは散らしはつべき (千載集 春 94)
   いずれ風が散らしてしまうのだから、一枝くらいは持って帰ろう、という。

  ⑫仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば (千載集 雑 1067)
   西行のよく知られた歌で、自分が死んだら、大好きな桜の花を供えてほしい、
   というのです。どこにも枝を折るとは詠まれていませんがね供える以上は折る
   ということなのでしょう。

   桜は山に自生していたので、桜を愛でるには遠出をする必要があったということです。
   梅は唐伝来の花木ですから、野生の梅はありませんでした。
   それで庭に植えて観賞するものでしたから、「軒端の梅」という言葉ができるのです。

  ※桜狩りとはただ桜を観賞することではなく、桜を求めて山や野に分け入り、
   十分に桜を堪能するだけでなく、ついでに枝を折り取って持ち帰ることだった
   と言うことができるでしょう。

ふくろうより
  山陰では「ゴロクトホーセー、ホッホー」と鳴いていると言います。

  ①山深み気近き鳥の音はせで物おそろしき梟の声 (『山家集』1203)
   山が深いので、人に親しみのある鳥の声は聞こえず、
   聞こえるのは恐ろしいフクロウの声だ、というのです。

   動物の鳴き声を意味のある人の言葉に置き換えて聞くことを、聞き成しと言います。
   民俗的学術調査や、鳥の専門家の調査もあります。その中から代表的なものを上げて
   みましょう。

   「ぼろ着て奉公」 「五郎助奉公(ごろすけほうこう)」 「糊つけ干うせ」「糊摺り置け」
   などが最大公約数的に拾い出せそうです。粗末な服を着て奉公しているとか、五郎助が
   奉公しているとか、明日は晴れるから糊をを溶いて服につけて干せ、という意味なの
   でしょう。

  ②山深みなかなか友となりにけりさ夜更けがたのふくろふの声 (拾玉集)
   恐ろしげなはずであるなに、他に友もいない山奥ではねかえって友のように親しみを
   感じているのです。

東に立つもの・・・「東の野にかぎろひの立つ見えて・・・・」の訓釈

  多くの教科書などでは(国学者の賀茂真淵の訓釈か)
   「東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

  仙覚の著した和本の実物の『万葉集』では
   「東野炎立所見而反見為者月西渡」と記されています。
   その訳は
   「あづまのの けぶりの立てるところ見て かへりみすれば かたぶきぬ」

   さて問題は「炎」の読み方です。仙覚は「けぶり」「煙」と理解していますが、
   真淵は「かぎろひ」と読み、「かげろふ」(陽炎)と理解しているようです。

   高校の古典の授業では、「かぎろひ」は日の出前の東の空が赤く染まっている様子と
   説明されることが多いようです。難しい言葉を使えば、曙光ということでしょう。
   そして一般にもそのように説明されています。

 「かぎろい」は燃えるもの
   『万葉集』の巻二の210番の歌にあります。この歌は柿本人麻呂が妻の死を悼んで
   詠んだ歌なのですが、その中に「蜻火之 燎流荒野尓」という句があります。
   これは「かぎろひの燃ゆる荒野に」と読めます。ここでは人麻呂は陽炎が「もゆる」
   ものであると表現しているからです。

   1804番には「蜻蜒火之 心所燎管」があり、「かぎろひの 心燃えつつ」と読めます。
   1835番には「蜻火之 燎留春部常 成西物乎」があり、「かぎろひの燃ゆる春へと
   なりにしものを」と読めます。

   「かぎろひ」「陽炎」は「燃ゆ」を動詞として導くのが普通であったと
   理解できそうです。

 「煙・炎」は立つもの
   『万葉集』の2番目の歌ですから、きっと御存知でしょう。原文は
   「山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍」で、
   「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば国原は
   煙立ち立つ」と読めます。
   煙は「立つ」を導いていますね。他に1879番では「春日野に 煙立つ見ゆ」、
   2742番にも「志賀の海人(あま)の、煙焼き立て」とあり、
   やはり「立つ」を導いています。

   『万葉集』には「けぶり」を詠む歌が4首あるのですが、動詞はみな「立つ」を
   導くのに対して、「かぎろひ」が詠まれた4首は、みな「燃ゆ」を導くのです。

   この歌の「炎」は「煙」と理解した方が良いのではないかという結論に至りました。

 「月」は渡るもの
   「東野炎立所見而反見為者月西渡」
   問題は、「月西渡」です。素直に読めば、「月西に渡る」と読まざるを得ません。
   月を船に譬える柿本人麻呂の歌があり、「月が渡る」という表現は必ずしも不自然で
   はないようです。
   一般には「月が傾く」と訳されているようです。

 長篠からの帰り道、甘楽の谷をすすむ騎馬武者あり ここで一首
   『東の 野に炊煙の 立つ見えて 返り見すれば 月は渡りぬ
   『東の 野に炊煙の 立つ見えて 西の山端に 月は渡りぬ
   ちと本歌を取りすぎたかな・・・宗治
  ※長らく旅をしてきて、東に日が昇るのを見た。来た道を振り返ると下弦の月が西の
   端に隠れようとしている。月を船に見立てるならば、共に渡って来たと考えるが
   趣を興すと言えないだろうか。


つらつら椿より
   日本原産の樹木ですから、『古事記』『日本書紀』にも記載があり、『万葉集』にも
   九首詠まれています。『古事記』の雄略天皇記には、
  「新嘗屋(にいなへや)に生(お)ひ立てる葉広斎(ゆ)つ真椿
   其れが葉の広がり坐(いま)し其の花の照(て)り坐(いま)す・・・・」
   という歌謡が記されていて、広い葉と艶のある花が注目されています。

  ①巨勢山(こせやま)の 列々(つらつら)椿 つらつらに 
                見つつ偲(しの)ばな 巨勢の春野を  (万葉集 54)
   椿をつくづくと眺めながら巨勢(こせ)の春野を思い出す。

  ②あしひきの 八峰(やつを)の椿 つらつらに 
                見(み)とも飽(あ)かめや 植ゑてける君(万葉集 4481)

   椿を植えた恋人をいくら見ても見飽(みあ)きないという意味です。
  「つらつらに(つくづくと)」を導く序詞(じょことば)と「つらつら椿」という慣用句と
   なっていますが、「つらつら椿」は椿の花がつややかな葉の中に連なって咲いている
   形容と考えられ、椿は幅広く艶(つや)のある葉が繁り合う中に、
   紅色の花が連なるように咲いている という理解があったと考えられます。

 ◆「友待つ雪」を詠んだ歌をいくつか並べてみましょう。

  ①白雪の色わきがたき梅が枝に友待つ雪ぞ消え残りたる (家持集 284)
   『万葉集』にはありませんが大伴家持の歌ですから、「友待つ雪」が万葉時代以来の
   古い表現であることがわかります。白梅が咲いている枝に、白梅と見分けが付かない
   ように、白雪が跡から降るであろう雪を待っているかのように消え残っているのです。

  ②春の日のうららに照らす垣根には友待つ雪ぞ消えがてにする (堀河院百首 残雪 91)
   春の残雪を詠んだもので、「かてに」「がてに」とは「・・・・することができないで」
   という意味ですから、垣根に降り積もった雪が、消え残っているのは、友を待って
   いるからだと理解しているのです。今度、白梅の咲く枝に白雪が積もり、次の日も
   残っていたら、そんな気持ちで眺めてみましょう。

  ③降り初めて友待つ雪はうば玉のわが黒髪の変はるなりけり (後撰集 冬 472)
   「雪の朝、老を嘆きて」という詞書が添えられています。降りはじめて、後から
   降って来る雪の友を待って消えずにいる雪は、私の黒髪が白髪に変わるのを待って
   いるのと同じだというのです。先に降った雪が雪の友を待っているように、黒髪が
   白髪を待っているというのでしょう。友待つ雪とは関係なくても、白髪を白雪や
   霜に見立てることは、白髪を「頭(かしら)の雪」というように、常套的な理解でした。

  ④訪はるべき身とも思はぬ山里に友待つ雪の何と降るらむ (新拾遺集 冬 657)
   山里で人恋しくても誰も訪ねてこない寂しさを、「友待つ雪」になぞらえて詠んだ
   ものです。私は友を待っても訪ねてくるあてもないのに、雪はどのような気持ちで
   友を待つといって降っているのだろう、というわけです。古には雪に道を閉ざされて
   しまうと、訪ねたくても訪ねようがなくなり、人恋しさが募るものでした。ですから、
   雪を見るだけで友が恋しくなるのです。
 
 

  • 最終更新:2018-11-13 12:50:40

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