武士の源流

武士の源流について探る

武士の源流
  歌を詠む人なれば古今和歌集の冒頭部分に「猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」
  と記されているのはご存知でしょう。

『もののふ』は武士と書き表し、物部(もののべ)の夫から来たものと解説される場合もあ
  る。物部とは、古墳時代より元々は兵器の製造・管理を表わす官職であり、これを通して
  朝廷に仕えた豪族の名でもある。また松尾芭蕉は、奥の細道にて「夏草や 兵どもが 夢の
  跡」と詠んだ。これら「武士」「兵」について調べてみると、次に掲げる通りとなる。

『つわもの(兵)』とは武器をとって戦う人。兵士。軍人。また特に、非常に強い武人。
『もののふ(武士)』とは武勇をもって主君に仕え、戦場で戦う人。武人。武者。
  兵?(つわもの)?。もののべ。と言う次第になっている。

  兵には、「武器を取って戦う人」と解説され、武士では戦う人とあるので両者の差異は見ら
  れない。ところが、決定的に違うのは「主君に仕える」人であるとされている事だ。ここで
  言う主君とは、封建社会における主君を差していると思われる。つまり主君より御恩(所領
  安堵や新恩給)を受け、その見返りに武勇でもって奉公する武人を武士と言う。

  狭義に考えると、武士の事を自虐的・侮蔑的に兵(つわも)という事はあっても主君を持た
  ない兵は、武士ではないと言ってよいのではないだろうか。つまり、浪人は、「武士のはし
  くれ」であって、もはや武士ではない事になるこの事に留意して武士の歴史を探って行くこ
  とにしよう。

  所領安堵の概念は、時代によって変遷している。平安後期では朝廷から任命された領主が、
  一族や配下の者を都から領地に下向させて支配を任せ税を調達する。現地では着任者が、領
  内の豪族たちと従属契約を結び支配する。現場ではこの豪族たちの働きによって所領の経営
  が行われる事になる。

  このように都から下向した者やそれと従属関係を結んだ者たちが、所領の支配権を強めて行
  き戦国期において土豪や郷士と呼ばれた武士になって行ったのであります。別の見方をする
  と、都を追われた軍事貴族の末裔たちが地方で力を蓄えて、武家として家を保ち家人を従え
  て武士団を形成したとも言われています。これら所領を経営する武士達にその権利を保障す
  ることを『所領安堵』と言う。

  室町期これを行うものは室町幕府であり、守護大名が現地の実務を取り仕切る。ところが関
  東では、鎌倉に京都室町とは別に鎌倉府を置き関東の仕置について一任されていた。このこ
  とが後に大きな災いを招くのであるが今日はここまでにしておきます。
 

半島からもたらされた軍事革命 
   ヤマト王権が朝鮮半島へ軍事介入していた頃、百済から最新技術と共に日本へ
   人々がやってきて定住した。そのなかに、軍事には欠かせない鉄器と、軍事
   目的で、馬と騎馬に関する様々は技術がもたらされた。
   ここにおいて、日本の騎馬武者に関する源流を見ることが出来る。

   馬の繁殖について、当初機内で取り組まれたようだが、もともと育成には、冷涼
   な地域が求められていたため、上手くいかなかったようだ。そこで当時、最も
   日本国の北に位置し、雪もさほど多くない信濃の伊那谷や上毛野の西部地域へ
   技術を導入して馬の本格的生産が始まったという。ここに郡馬県の由来がある
   ことは、県民の知るところである。
   くわしくは金井東裏遺跡を参照されたし

   日本在来馬の原郷は、モンゴル高原であるとされる。現存する東アジア在来馬に
   ついて、血液蛋白を指標とする遺伝学的解析を行った野沢謙によれば、日本在来馬
   の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入
   された体高(地面からき甲までの高さ)130cm程の蒙古系馬にあるという。また、
   古墳時代には馬骨や馬歯、馬具が考古遺跡から出土しており、日本在来馬の存在が
   確認される。

   奈良時代になると平城京を中心に中形馬が増加するが、小形馬も地方を中心に依然
   として残る分布状況であったとみられる(したがって、古代では近畿圏の方が馬の
   体格は大きい。※信濃・上野から献上された馬かな?

俘囚の戦術と関東武者
   ここでは、蝦夷との戦いにおいて俘囚が用いた騎馬による疾駆斬撃戦
   蕨手刀の影響により、それまでの直刀から反りを持つ優美な日本刀への
   変遷と武士の戦術について考える。太刀から弓へ

武士の誕生と一族郎党
   地方で力を蓄えた軍事貴族の末裔たちは、地域の有力田堵を巻き込み
   院政期にはいると、中央の権門と主従関係を結んだ。これを平清盛の
   時代とすると、ここに中世の始まりを見るという考えも成り立つ。
   いわゆる「荘園公領制」にて荘園や郡・郷の役人に補任ことで、知行地
   を持ったと考え奉公として北面武士など朝廷に武勇をもって使えるため
   まさに武士であり中世(封建社会)の始まりともされるわけである。

関東武者の戦術
   狭義の意味において、関東では馬に乗ることを許され、それを巧みに
   操り戦場を疾駆して戦う武人を武士(侍)と呼んだ。
   広義においては、武家の主人を持ち奉公するものを武士とする。
   あ!お公家様が都から下向とかあるから、単に主人でいいのかな。
   では頂点にたった秀吉や家康は何だと言う問題はおいといてくだされ。
   しいて言うなら、関白であり将軍である、でいいのかな?

   鎌倉期から室町後期にかけて、武士の得物は弓から長柄かわって行った。
   戦国中期になると鉄砲が出現し、やがて大勢での個人戦から軍事的に
   兵種べつ編成を持つ「備」による集団戦へと移行する。その中で関東武者の
   シンボルであった騎馬武者は、戦場の表舞台の主役から外れて行った。

   しかし、一部には遊撃機動の別動隊として活躍の場はあったようだ。
   武田の赤備えや、井伊の赤備えがそれにあたると思われる。いずれにせよ
   この戦術には多くの馬とそれを操る武者が必要であり、双方の赤備えは
   信州や上野の馬と周辺地域の武者が編入されていた歴史がある。

兵農分離の意味を考えてみる
   歴史の教科書では、信長の時代に兵農分離が成されて、その革新性により
   信長の軍勢は、農繁期にも出兵できたため優位に立てた。みたいに習った
   気がするが、そこは考え直す必要がある。
   まず、合戦は農繁期を外してより多くの農兵を導入した。とか逆に農繁期は
   農兵を集めることが出来ずに、出兵できなかったとか言われていたが。
   歴史の研究が進むにつれ、農繁期だろうが狭間に当たろうが関係なく合戦は
   行はれていたと言う。そもそも侍が田植えをしていたとか、わたしはあり得
   ないと考えている。もちろん田植えをしたかもしれないが本業ではないはず。
   馬を飼い馬具や具足を備え、従者を複数従えているはずの武士は、相当の財力
   がなければならない。そんな武士が田植えをさせる下人を抱えていないはずが
   なく、農繁期だから田植えで忙しくて戦に出られないなどど違和感がある。
   はなから武士は兵農分離しているのである。こでが出来ていない武士はもはや
   武士とは言えないのではないだろうか。もちろん度重なる出兵で財力云々はある。
   このへんはもう少し研究してみようと思う。

  • 最終更新:2018-09-08 14:31:40

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