歴代の関東管領
歴代の関東管領
◆上杉 憲実(うえすぎ のりざね)
(Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの)
室町時代中期の武将、守護大名。関東管領、上野・武蔵・伊豆守護。
越後守護上杉房方の3男。子に憲忠、房顕、周清(上杉憲房の父)、法興、周泰ほか。
養父は従兄の上杉憲基。猶子に上杉実定(さねさだ、憲基の実弟・佐竹義人の次男)。
関東管領を務め、足利学校や金沢文庫を再興したことで知られる。
応永17年(1410年)
上杉憲実生誕?、幼名は孔雀丸。
文正元年(1466年)
憲実は長門大寧寺で死去、享年57。
◆上杉清方(うえすぎ きよまさ)
(Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの)
室町時代中期の武将。上条上杉家の祖。上杉房方の末子。越後上条城城主。
実兄の上杉憲実が隠棲後、山内上杉家当主を兼ねた。
また、関東管領・武蔵守護も兼ねていた可能性がある。
越後守護職は兄の朝方・頼方が継承し、三兄の憲実は山内上杉家を継承し関東管領と
なっていたため、清方は刈羽郡鵜川荘上条の地を領して分家し、上条上杉家を興した。
応永19年(1412年)誕生?、通称は十郎。
文安元年(1444年)に清方は死去(自刃説あり)した。
◆上杉 憲忠(うえすぎ のりただ)
(Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの)
室町時代中期の武将、守護大名。上杉憲実の長男で房顕の兄。山内上杉家出身。
関東管領に就任するが、鎌倉公方足利成氏に謀殺されて、享徳の乱のきっかけとなる。
生誕:永享5年(1433年) 幼名は龍忠
死没:享徳3年12月27日(1455年1月15日)
◆上杉 房顕(うえすぎ ふさあき)
(Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの)
室町時代中期の武将、守護大名。
関東管領、山内上杉家当主。上杉憲実の次男で憲忠の弟。
生誕:永享7年(1435年)龍春(幼名)、八郎(通称)兵部少輔
死没:寛正7年2月12日(1466年2月26日)
●結城合戦の後、上杉憲実は房顕以外の子供を全て出家させた。
房顕は従兄の越後守護上杉房朝の元に留め置かれた。
◆上杉顕定(うえすぎ あきさだ)
(Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの)
室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。
越後上杉家の出身(上杉清方の孫)で山内上杉家を継いだ。
関東争乱期の40年以上にわたって関東管領を務めた。
生誕:享徳3年(1454年)龍若 四郎
死没:永正7年6月20日(1510年7月25日)
◆上杉顕実(うえすぎ あきざね)
(Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの)
戦国時代の武将。古河公方・足利成氏の次男で関東管領・上杉顕定の養子としてその後
を継いだ。娘に宇都宮成綱の妻がいる。
生誕:不詳 足利政氏の弟。通称は四郎。官位は民部大輔。
死没:永正12年(1515年)
◆上杉憲房(うえすぎ のりふさ)
(Wiki最終更新 2014年6月1日 より本サイト内に取り込んだもの)
戦国時代の大名。上杉憲実の子で僧籍にあった周清(秀晟、周尋とも)の子。
正室:上杉朝昌の娘
生誕:応仁元年(1467年) 五郎(通称)
死没:大永5年3月25日(1525年4月17日)
憲房と箕輪長野氏との関わり合いは深く、戦国物語を綴るうえで重要な位置にある。
◆上杉憲寛(うえすぎ のりひろ)
(Wiki最終更新 2016年10月3日より本サイト内に取り込んだもの)
戦国時代の武将。関東管領。古河公方・足利高基の次男。賢寿王丸 通称:四郎
養父は上杉憲房。母は宇都宮成綱の娘・瑞雲院。
上杉氏時代の別名に憲広(読み同じ)。
関東享禄の内乱後上総宮原(宮原御所)へ移り、宮原晴直と改める。
◆上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)
(Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの)
戦国時代の大名。室町幕府の関東管領を務めた山内上杉家の当主である。
憲当(読み同じ、旧字体:憲當)、光徹とも名乗っているが、憲政の名で統一する。
「九月二十二日 上杉憲寛部下西氏・小幡氏等叛、立故管領憲房子憲政、時称竜若、
継山内家、而破憲寛安中陣、憲寛移上州程田(★旧群馬町保渡田)陣、長野一族従之」
(★『続本朝通鑑』:久保田順一)
◆上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)
(Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの)
戦国時代の大名。室町幕府の関東管領を務めた山内上杉家の当主である。
憲当(読み同じ、旧字体:憲當)、光徹とも名乗っているが、憲政の名で統一する。
「九月二十二日 上杉憲寛部下西氏・小幡氏等叛、立故管領憲房子憲政、時称竜若、
継山内家、而破憲寛安中陣、憲寛移上州程田(★旧群馬町保渡田)陣、長野一族従之」
(★『続本朝通鑑』:久保田順一)
- 最終更新:2017-06-11 23:52:11