永享の乱と上杉憲実

永享の乱と上杉憲実

箕輪初心★上杉家②『8代:上杉憲実~9代:憲忠~10代:房顕』 より

  • 初心氏のブログより編集して永享の乱と上杉憲実について調べて行こうと思う。これは何故関東地方が、全国に先駆けて戦国時代へと突入して行ったか知る上で重要な事である。

  • 上杉憲実といえば、『足利学校』というイメージが強い。上野国の藤岡平井城も築城した。・永享10年(1438)永享の乱後、鎌倉公方家足利持氏と関東管領:上杉憲実の対立が始まった。上杉憲実は頭脳明晰であったが、足利持氏の教育に失敗してしまって、主君殺しの汚名を着てしまった。

  • 今回は『8代:憲実~9代:憲忠~10代:房顕』をまとめてみた。⑨憲忠→⑩房顕→⑪顕定→顕実→憲房→憲寛→憲政→ 長尾輝虎(上杉謙信)と山内上杉家は16代:上杉謙信まで続いた。

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★★ 8代:上杉憲実の生涯 ★★

  • 応永17年(1410) 上杉憲実は、越後守護:上杉房方の3男として越後国で生まれた。幼名は孔雀丸。


  • 応永24年(1417) 上杉禅秀の乱が収束。

  • 応永25年(1418)関東管領:山内上杉憲基が死去。従兄弟の上杉憲実が後継者に選ばれて鎌倉へ入りした。山内上杉家の偏諱「憲」の字を受けて上杉憲実と名乗った。

  • 応永26年(1419)10歳、室町幕府の鎌倉府において鎌倉公方を補佐する関東管領に就いた?

  • 応永27年(1420)11歳。上野・武蔵・伊豆の守護となった。

  • 応永30年(1423) 6月~8月 小栗満重の乱、常陸の小栗氏攻撃に出陣した。小栗城を攻め落とした。

  • 応永31年(1424) 15歳、上杉憲実が元服した。

  • 応永34年 1427年 このころから利根川が西に変流(それ以前は細井から本町東を流れていた)。
前橋市HPより
  • 応永35年(1428)19歳。
   室町幕府4代将軍:足利義持が死去。
   足利義教が6代将軍に就任した。
   鎌倉公方:足利持氏は将軍後継の候補に選ばれなかったことに不満を持ち
   兵を率いて上洛しようとするが、上杉憲実はやめるよう進言した。

  • 永享元年(1429)足利直家臣の長尾佐衛門景忠が上野・越後守護代。               4男の長尾忠房を上野国府を支配。長尾忠房は国府跡を蒼海城を城郭化
   元の総社神社を   今の場所に移築。~以後、総社長尾氏の本拠地。
   (上野国守護代総社長尾景行入城説あり。)

  • 永享3年(1431)足利持氏が足利幕府を無視した。上杉憲実は謝罪の使節を派遣した。

  • 永享4年(1432) 上杉憲実の足利幕府への融和作
  ①鎌倉府が横領していた所領を幕府に返還した。
  ②将軍:足利義教の富士下向の延期願いをした。
  ※6代将軍:足利義教の鎌倉幕府への疑惑
   ~~~間に挟まれた穏健派の上杉憲実~~~~~
  ※関東公方:足利持氏の幕府への強硬波=対抗姿勢派
    穏健派の憲実は確執が生じるようになっていった。

  • 永享4年(1432) 上杉憲実が足利の領主になった。足利学校の中興に尽くした。
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   鎌倉円覚寺の僧:快元を招いた。
   蔵書を寄贈して、足利学校を盛り上げた。
   北は奥羽~南は琉球にいたる全国から来学徒が
   集まった。3000人とも言われている。
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   ※教育の中心は儒学・易学であった。兵学、医学も教えた。

  ★足利持氏もここで学んだ。しかし、上杉憲実&足利持氏は次第に対立
   していくのであった~~~~。

  • 永享8年(1436) 信濃の戦い
    信濃守護:小笠原政康(★武田系の源氏)
       VS
    村上頼清(★村上源氏)
   
   足利持氏は鎌倉に支援を求めた村上頼清を助けて出兵しよう
   とするが、上杉憲実は信濃は関東公方の管轄外であるとして
   諌め出兵しなかった。、
   結果・・・小笠原政康が勝利した。

  • 永享9年(1437) 足利持氏 VS 上杉憲実
   上杉憲実は相模藤沢へ下り、嫡子を領国の上野に逃して鎌倉へ入った。
   足利持氏は在職を望んだ。
   しかし、上杉憲実は管領職を辞任した。

   通説ではこの時に憲実が家臣の長尾忠房に、平井城を築城させたといわれている。
   6月 足利持氏の嫡子:賢王丸→足利義久が元服した。
   足利持氏が上杉憲実を暗殺するという噂が立った。
 
   8月 上杉憲実が鎌倉を出て上野平井城に下った。
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   足利持氏は上杉憲実の討伐のため出陣した。

   足利幕府は関東公方:足利持氏の討伐の兵を送った。
   信濃国の小笠原政康に上杉憲実の救援を命じている。

   9月 小笠原政康軍は上野国の板鼻に入った。
   鎌倉公方軍を打ち破った。

   10月 武蔵分倍河原の戦い
   上杉憲実は武蔵分倍河原に着陣し、一色軍を破った。
   上杉憲実の家宰:長尾忠政が代わりに兵を進めた。
   
   結果・・・足利幕府軍&上杉軍が鎌倉公方軍に勝った。
        足利持氏は出家して鎌倉の永安寺に入った。
   
   上杉憲実は足利持氏の助命と足利義久の関東公方就任を嘆願した。
   しかし、足利義教は上杉憲実に足利持氏を殺すよう命じた。
   上杉憲実が足利持氏・義久父子の成敗を固辞していると
   足利幕府:足利義教から嫌疑がかけられた。
   
   上杉憲実は足利学校に五経疏本・孔子図など書籍や絵画を
   寄進して身辺整理を行った。
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  • 永享11年(1439) 上杉憲実は永安寺を攻撃した。
   足利持氏・義久は自害した。  
  
  ※永享の乱が集結した。
   永享の乱後、上杉憲実は弟:上杉清方に託して、伊豆の
   国清寺に退き出家した。
  
   上杉清方は山内上杉家当主に就任したが、関東管領は足利
   幕府は認めなかった。

★参考資料・図書
・「関東管領上杉氏の研究」黒田基樹著
・戦国史:
・平井城の管領たち:利根川靖幸著
など多数。

 

  • 最終更新:2016-09-27 21:55:38

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