犬掛の戦い

犬掛の戦い

  • 犬掛の戦い(南房総資源辞典)様より

犬掛の合戦従来の定説は、義堯が上総より安房へ侵攻)

 親が討たれれば子が仇を討つ。それが武士の世の習いです。
父実堯の横死を聞いた義堯は大いに怒って軍備を整え、小田原の北条氏の加勢と、安房上総の旧臣たち3千騎を従え、天文3年(1534)4月5日、上総の居城を発し、稲村めざしながら、長狭郡磯村(鴨川市)まで進軍してきました。

 それを知った義豊は、義堯軍の逆手を取って上総に攻め入り、戦いを勝利に導こうと千余騎が稲村城を出て北上を始めました。一方、義堯も間諜(スパイ)によって義豊軍の情勢を知り、軍を急いで二分すると一部を東海岸の加茂坂に向かわせ、本体は峰岡を西進させました。その義堯と義豊の軍の遭遇したのが4月7日の早朝で、場所は今も古戦場の名が残る、平久里(富山町)の犬掛だったのです。

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 両軍とも一族であり、朋友でもありましたから、名を惜しまず死力を尽くして戦いました。義豊軍は寡勢のため配色濃く、宮本城や勝山城から馳せつけた援軍も敗られ、戦いは義堯軍の勝利に終わりました。このとき、鎌田孫六、勝山隼人、宮本宮内、大野宇兵衛の四勇士は「一世一度の働きはこれなり」と追いすがる義堯軍の前にはだかって、義豊が稲村へ退くのを助けたといいます。

 戦いに敗れ稲村城に落ちた義豊は、夜討ちで義堯を討ち取ろうと、狐塚(館山市腰越)にあった義堯本陣を襲いましたが、また逆に討ち敗られてしまいました。義豊軍は一気に稲村城を囲み、はげしく攻めたてたので、大方の兵は討ち死にし、城も炎上してしまいました。深手を負った義豊は、鎌田孫六に助けられて城の東南の山陰に脱出し、座して静かに果てました。享年21歳でした。

 孫六は義豊を介錯すると、その首を埋め、自ら敵中に切り込むと敵兵二人を左右の脇に挟んで、滝川(腰越の鎌田渕)に飛び込んで死にました。義豊の死によって、稲村城も宮本城も共に廃城になりました。


  • さとみ物語様より

・テキスト版より(新説は、義豊が上総より安房へ侵攻)
 上総へ逃れた義豊は翌年になって反撃をはじめました。態勢をととのえて四月はじめ頃に上総から安房へ進攻してきたのです。北条氏からはまたもや義尭への援軍が派遣されました。そして四月六日、義豊と義尭がお互いに大将としての直接対決がおこなわれ、両軍のあいだで激戦がかわされました。有名な犬掛合戦です。義豊方では数百人もの人々が戦死し、義豊も討ち取られて、この内乱は義尭の勝利となって終わりました。義豊の首は小田原の北条氏綱のもとへ送り届けられています。義尭の勝利に北条氏の貢献が大きかったことがわかります。

・要約版より
平久里川に沿って里見の伝承があります。

内乱の伝承
 犬掛(富山町)にはその古戦場という場所があり、勝負田(しょうぶだ)という地名も残されていました。上滝田(三芳村)にも滝田城跡のふもとに川又古戦場が、腰越(館山市)には狐塚(きつねづか)の古戦場があり、最後の決戦の印象はあちこちに強く残されています。

十三塚(三芳村上滝田)
犬掛の合戦で討死にした義豊方の武将十三人を供養したという伝承がある。

妙本寺(鋸南町吉浜)
 妙本寺のある吉浜は、湊として栄えた。義通の頃に寺が陣場になったり、裏山に城がつくられたりしている。日蓮宗。

里見義尭木像(君津市正源寺蔵)
 天文の内乱を勝ち抜いた義尭が、里見家を戦国大名として飛躍させたが、前期里見氏の歴史も書き変えてしまった。

多宝塔露盤銘
多宝塔の銘文には義尭の先代を義通と書いて、義豊は義通の子としか書かれていない。

石堂寺多宝塔(丸山町石堂)
義尭が多宝塔を再建したのは、天文の内乱の十三回忌の供養のためと考えられている。
 

  • 最終更新:2016-06-18 00:30:24

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