白井城
◆上野白井城
(Wiki最終更新 2016年6月25日 より本サイト内に取り込んだもの)
白井城(しろいじょう)は、現在の群馬県渋川市白井(旧北群馬郡子持村)にある室町時代から江戸時代初期の崖端城(日本の城)。「しらいじょう」と言われることもあるが、地元の読み方は「しろいじょう」である。
縄張り絵図は余湖くんのホームページ様より
利根川と吾妻川の合流地点に突き出す舌状の台地に位置し、東西800m、南北1200mに広がる城である。中央部に本丸、二ノ丸・三ノ丸・北郭・総郭が北方に連なり、南には南郭・新郭が存在する。南に尖った三角形の構造で、西は吾妻川に面する断崖、南東側に白井宿が存在する。
築城時期は不明。南北朝時代に長尾景忠が白井の地に入り白井・総社長尾家を開いており、長尾景仲の代に享徳の乱などの戦乱のため、白井城が築城されたと推定される。
戦国時代は白井長尾家の根拠地の役割を果たした。越後と関東を繋ぐ道路の隘路口に位置しており白井長尾家が代々支配していた。景仲の孫景春が総社長尾家の長尾忠景と対立して山内上杉家に反乱(長尾景春の乱)を起こした際には一時的に山内上杉氏のものになることもあったが、ほぼ白井長尾家の居城として機能していた。しかし景春の孫景誠が大永7年(1527年)に家臣に暗殺され、城主は総社長尾家から長尾憲景が入り白井長尾家を継いだものの勢力が減退、長野氏などに圧迫されるようになった。山内上杉氏が越後に逃れると、白井城は山内上杉氏の名跡を継いだ上杉謙信の勢力下に入る。
永禄年間に入ると甲斐の武田信玄が西上野侵攻を開始する。吾妻郡の攻略を担当した武田家臣の真田幸綱(幸隆)・信綱により、永禄3年(1567年)3月に白井城は落城した。なお、幸綱は白井城落城の頃に家督を嫡男の信綱に譲っていたと考えられている。その後、白井長尾家が白井城を奪回するが、天正6年(1578年)3月に越後で上杉謙信没後に、上杉景勝・上杉景虎間で家督を巡る御館の乱)が発生する。御館の乱において、相模国の後北条氏・上州武士の支持する上杉景虎が天正7年3月24日に敗死し、上杉景勝は武田氏と甲越同盟を結んだ。これに伴い、長尾憲景は敵対していた武田家に身を投じた。天正10年(1582年)3月に武田氏は織田・徳川連合軍の侵攻により滅亡すると、上杉憲景は後北条氏に属し、憲景死後に子の政景が城主となった。天正18年(1590年)、豊臣政権による小田原征伐で松井田城を攻略した前田・上杉氏らの北方軍によって北郭を占領され5月15日開城、白井長尾家の支配は終わった。
●白井長尾氏の知行地
・相模国長尾郷の一部(神奈川県横浜市戸塚区)
・上野国白井保(白井城)(群馬県子持村)
・武蔵国?青木(横浜市神奈川区)
・師岡(横浜市港北区)
・武蔵国八幡山(雉岡城)(埼玉県児玉町八幡山)
・上野国玉村十五郷(群馬県佐波郡玉村町)
※最低でも1万石位はありそうだ。
◆白井城
箕輪初心●群馬渋川【白井城】=上杉謙信の同族の城 より
★白井城も上杉氏、北条氏、武田氏などの戦国大名間の抗争の波に揉まれた歴史を繰り返
している。従って、白井城を居城としていた白井長尾氏は、長尾景虎(同族上杉謙信)
→武田信玄配下:真田昌幸→上杉謙信→北条氏邦配下→滝川一益配下→北条氏邦配下と主人
をを変えざるをえなかった。上杉・武田・北条の三つ巴の中で、★悲しい運命かも?
◆白井城の歴史
・康元元年(1256) 長尾景ひろの築城説あり。
★白井城の築城時期は不明。
・南北朝時代・・・長尾景忠が白井の地に入封。白井・総社長尾家を開いた。
・永享年間(1429~1441)長尾景仲が築城(伝)。
総社長尾忠房が白井城を築城したとする説もある(山崎氏:平井城と縄張りが似ている)
※長尾景仲・・・関東管領:山内上杉憲実の重臣であった。
・享徳の乱などの戦乱・・・白井城が築城された?
・文明7年(1476) 長尾景春(景仲の孫)の乱
長尾景信の死後、管領家の家宰職の相続・家督争いが勃発
長尾景仲の孫:景春が総社長尾家の長尾忠景と対立して山内上杉家に反乱を起こした。
(長尾景春の乱)
城は管理される。
・鉢形城籠城・・・長尾景春 VS 太田道灌
・広馬場の戦い
長尾景春+古河公方・足利成氏 VS 上杉顕定+長野業尚
・大永7年(1527)長尾景春の孫:景誠が家臣に暗殺された。
総社長尾家から長尾憲景が入り白井長尾家を継いだ。
勢力が減退、長野氏などに圧迫されるようになった。
★というよりは、長尾景誠の妻は箕輪城:長野業政と親戚関係(妹の夫)であった。
北条氏邦の傘下に入った総社長尾家を再び上杉憲政の傘下に戻す戻すねらいが長野業政
にあったと思われる。
・天文15年(1546)河越夜戦
上杉憲政の勢力が衰退→北条氏が侵攻
・天文21年(1552) 山内上杉憲政は平井城を捨て越後に亡命
★実際は、沼田か水上の隠遁説が有力(★秋本先生など)
・天文21年(1552)
上杉憲政が越後に亡命(実際は水上・沼田付近)→厩橋城、沼田城には北条氏が進出。
白井城と箕輪城は北条方に従わなかった?。
・永禄3年(1560)
長尾景虎(上杉謙信)が関東出兵する際の足がかり。
越後長尾氏(上杉氏)の支配下→関東出兵により、厩橋・沼田の北条氏は撤退。
白井城は上杉謙信の関東出陣の際の基地の一つとなった。白井城は安定を保持。
・永禄8年(1565)
真田幸隆がの白井城へ攻撃→武田氏家臣真田氏支配下。(甲斐武田氏の支配下。)
織田家臣滝川一益の支配下。
織田氏滅亡後、長尾氏は北条氏康の支配下。
武田氏滅亡後、長尾氏は滝川一益の支配下。
・永禄12年(1569)甲相駿三国同盟が崩壊。
北条氏康は上杉謙信と同盟。
武田信玄は上州へ侵攻。
・永禄13年(1570) 岩櫃城の真田幸隆が白井城の長尾憲景を攻め一時開城させた。
・元亀2年(1571) 北条氏康の死後、氏政により甲相同盟が復活。
・元亀3年(1572) 真田幸隆が侵攻。白井城は武田の属城。
・天正元年(1573) 武田信玄の死。
白井長尾氏は上杉謙信→北条氏邦→滝川一益(織田信長属将)-北条氏邦と主を変えた。
・天正17年(1589)名胡桃事件
北条氏邦は白井城から岩櫃城に侵攻。
・天正18年(1590)“小田原の役”
前田利家・上杉景勝らの北国方面軍の攻撃。
北関東防衛の要衝とされたが、松井田城(安中市松井田町)が開城。
西牧城(下仁田町)が落城。
箕輪城(高崎市)が開城
4月下旬、北方軍軍勢が白井城に攻撃、北郭を占領。
5月15日、長尾政景(憲景の子)は開城。
白井城(渋川市旧子持村)長尾政景が降伏して開城。
徳川家康の関東移封・・・
徳川譜代の本多康重を2万石で入封。
・慶長5年(1600)“関ヶ原の戦い” 本多康重の戦功
・慶長6年(1601) 本多康重は三河岡崎に加増転封、松平康長が2万石で入封
・慶長7年(1602) 松平康長が下総古河へ移。
徳川四天王:井伊直政の次男:井伊直孝が1万石で入封。
・元和2年(1616) 徳川家康の命により直勝は廃され、
井伊直孝が彦根城主として移封。
白井城に西尾忠永が2万石で入封。
・元和5年(1619) 西尾忠永が常陸土浦へ移封。
本多康重の次男:本多紀貞が1万石で入封。
・元和9年(1623) 本多紀貞は嗣子無く死没。
・寛永元年(1624)白井城は廃城・破却。
・・・→所領は旗本領として分割された。
■訪問記③・・・平成22年(2011)2月13日
①宿場町=白井宿
古い街並みが残され綺麗に整備されている。
②総郭・・・武家屋敷群。北に寺、西に寺がある。
北遠構の城戸口跡 北遠構・東遠構の堀があって総郭(城下)を囲んでいる。
③金比羅郭・・・遠望のみ。
④北郭・・・北郭の櫓台跡。現在は城山不動尊
⑤北郭
⑥空堀
北郭&三の丸との間の屏風折れ状に横矢がかりの堀
⑦三の丸
⑧空堀・・・三の丸&二の丸との間の堀
⑨二の丸・・・農地。
⑩空堀
二の丸&本丸との間の東側の堀 ・・・三日月掘
二の丸&本丸との間の西側の堀
⑪本丸
・枡形門
・石垣・・・太田道灌が指導(伝)。
・案内板
・白井城址周辺の空撮写真
(★現地案内板より)
・西側以外は高さ2~3mの土塁に囲まれている。
高さ2~3mの武者走り状の土塁が三方向(北・東・南)にある
・本丸の北面土塁=枡形
・本丸の北側の土塁
・本丸の東側の土塁
・内堀
・本丸の南面土塁
・本丸の西側直下を流れる吾妻川・・30mほどの断崖。
⑫笹郭・・・南側の一段低い郭
・先端部分の櫓台
・虎口から回り込んで西側に伸びる掘。
・掘の西端は吾妻川の断崖になっている。
⑬南郭
南郭からの本丸の眺め
⑭新郭
⑮仁居谷城=平時の館・・・旧子持村白井仁居谷
★白井城のすぐ南東下に見えたんだけど、行かなかった。
カインズホームの南隣にある。
■白井城の城下町=白井宿
道の駅「こもち」
「白井温泉こもちの湯」(日帰り温泉施設)
- 最終更新:2017-04-29 01:01:33