真田氏の興起と吾妻

 ◆真田氏の興起
真田氏と上州(三山文庫)より

   吾妻郡嬬恋村から長野県小県郡真田町へ越える峠が鳥井峠である。なだらかな傾斜を登りきって、信州側に入ると急傾斜となっている。四阿山の南側の谷である神川流域の地が真田氏の本領である。真田町の大字本原にある「御屋敷」は、真田氏の居館跡である。神川の東岸の河岸段丘上にあって、東から西へ傾斜している台形の土地を、東西約一五〇メートル、南北一三〇メートルのところ周囲に土居をめぐらしている。長野県史跡として、昭和四十二年指定された。真田昌幸が勧請したという伊勢神宮が祀られている。一町以上に及ぶ方形の屋敷は、鎌倉時代からの居館祉と推定されている。
    真田の庄.jpg
   真田の「御屋敷」の北側には、真田氏の信仰している四阿山の里宮であり、真田の里の鎮守でもある山家神社がある。東側の山際には、松尾城があり、城の下には、真田家の菩提寺である長谷寺などがある。「御屋敷」の対岸に信綱寺(真田幸隆の嫡子、源太左衛門僧綱の菩提のために建立された寺)、その奥に実相院などがあって、真田発生の地にふさわしい史蹟が残っている。
   真田氏の名前は、真田幸隆からはじまる。しかし、真田氏居館址(御屋敷)や、四阿山信仰等をみても幸隆以前から真田氏があったものと思われるが明らかではない。真田幸隆について「一徳斎殿御事蹟稿」(甲信濃史料叢書』第十五巻)の中に「真田弾正忠初称海野小太郎滋野幸隆入道一徳斎 永正十年葵酉(一五一三)御誕生、御父海野信濃守棟綱、御母某氏、天正二年(一五七四)甲成五月十九日逝去、御年六十二」 とある。
   この「真田家御事蹟稿」は、真田家八代目の当主真田幸貫が初代真田幸隆をはじめ、先祖の事蹟が滅失し、世に流布する伝承に誤りが多いことを遺憾に思い真実を伝えるために家臣に命じて古文書・記録その他の資料を集め編集させたものである。編さんの中心は、河原舎人綱徳であり、鎌原洞山・堤俊詮等が加っている。正編は天保十四年に成立し、続編は明治八年まで編さんが続き、正続七十三巻の書物が完成した。真田幸隆に関する御事蹟稿の記述は、真田家の公的な見解ともいえる。
   この中に、幸隆の生誕年を、永正十年とし、父を海野棟綱、母は某氏となっている。真田氏初代の祖として幸隆をあげているが、幸隆以前に存在していた真田氏と幸隆との関係がどうなっているかわからない。海野氏から入った幸隆が、真田氏を嗣いだことによって、それ以前の真田氏に関することが消えてしまったという見方もある。また長泉寺系図(長野県上田市矢沢長泉寺)によると「真田右馬佐(頼昌)三男真田源之助」が十六才で矢沢郷に移り、瀧の諏訪明神系の矢沢氏を嗣いで矢沢薩摩守綱頼と名乗ったとある。

○本海野白鳥神社海野系図
 海野棟綱―――――――・―幸義
 海野小太郎号信濃守  | 海野小太郎号左京大夫
            | 實者棟綱弟也天文元年三月十三日村上戦死
            |
            ・―女=幸隆
            | 眞田弾正忠号一徳斎幸義甥也
            | 海野家依断絶為名跡継家督
            |
            ・―貞幸

〇加沢記
 海野棟綱―――――――・―幸義 海野左京大夫
            |
            ・―幸隆 眞田弾正忠
            |
            ・―綱隆 矢沢馬之介 後薩摩守頼綱
            |
            ・―俊綱 常田出羽守

〇上田 良泉寺矢沢系図
 海野棟綱―――――――・―幸義
            |
            | 眞田頼昌
            |  |―――幸隆
            ・― 女
            |
            ・―貞幸

◎現在の有力復元系図
 海野棟綱―――――――・―幸義(棟綱の弟説あり)
            |  
            |      ・―幸隆 眞田弾正忠幸綱(海野家の家督を継ぐ)
            | 眞田頼昌 |
            |  |―――・―綱頼 後矢沢薩摩守頼綱
            ・― 女   |
            |      ・―俊綱 常田出羽守
            ・―貞幸

   綱頼を幸隆の弟とすると、幸隆の父は真田右馬佐頼昌となる。幸隆は、海野棟綱の子ではなくて、真田頼昌の子となる。幸隆が築城した城と伝えられる松尾城は、真田の集落の北側にあって、上州へのルートである角間峠と鳥居峠の入口の要所を押える地形を利用した山城である。東西九〇メートル、南北一〇メートルの本邸を持っている。
   この山城の南側の麓、根小屋にあたるところに、真田氏の居館址が残っている。ここにある安底羅様(あんちら)と呼ばれる小さな祠には、少年時代の幸隆(幸村ともいう)像が祀られている。そして、その地に接したところに、日向畑遺跡と呼ばれる墳墓群が、昭和四十六年に発堀されている。宝篋印塔・五輪塔が多数出土しており、室町時代から戦国時代にかけての火葬骨も出土している。この遺跡は、幸隆以前の真田氏一族の墓地と推定されている。
   真田氏は、真田幸隆の代には、松尾城に拠り根小屋に当る南麓の日向畑近くに屋形を置いて、この地方の名門であり、真田氏もその一族である海野氏を嗣いだものと思われる。そして、この上信国境の小さな村落から出た真田氏が、戦国史に残る武将として活躍し、戦国大名となり、近世大名にまで発展したのである。
   真田幸隆の出生は、天正二年の没年六十二才から逆算して、永正十年(一五一三)とされている。幸隆に関する史料は極めて少なく天文十九年(一五五〇)七月二日付の武田晴信宛行状(真田家文書)が最も古い。この文書は、武田信玄から真田弾正忠(幸隆)にあてた朱印状であり、「其方年来の忠信祝着に候、然らば本意の上において、諏訪方(諏訪形・長野県上田市)参百貫併びに横田遺跡上条(同上田市)、都合千貫の所、これを進じ候」(原文を読み下し文に改めた。以下これと同じ)として、幸隆の忠節をたたえて、武田氏の攻略が目的を達成することが出来たならば、上田の地千貫文の土地を与えると約束したという内容である。
   この前年に当る天文十八年三月 『高白斎記』の中に「(三月)十四日土用、七百貫文の御朱印望月源三郎方へ下され候、真田渡す、依田新左衛門請取」とあって、この真田が真田幸隆であろうと推定されている。高白斎は、武田信玄の側近に仕える武士、駒井高白斎である。この二つの史料が、真田幸隆に関する文献史料の中でもっとも古いものである。
   そのころの信州は、一国を支配するような大名がなく、小党分立の状況であったが、府中(松本市)の小笠原長時、諏訪の諏訪頼満、高遠の諏訪頼継、伊那地方では、箕輪の藤沢頼親・知久の知久頼元、松尾の小笠原信定、木曽の木曽義在、佐久の大井・伴野氏、北信地方では、坂木(坂城町)の村上義清等が有力であった。
   なかでも、村上・小笠原・諏訪の三氏が優勢を誇り、地域的な統合を進めていた。信州の隣国である甲斐国では、武田晴信の父信虎が、家督相続をめぐる一族の内紛、家臣や中小土豪の下剋上、上杉・北条・今川・諏訪氏など外部からの侵入と戦いながら領国内の統一を進めた。
 
天文十年(一五四一)
  五月武田信虎は、諏訪頼重村上義清と連合して海野・祢津・矢沢氏を攻略した。この海野平の戦いに敗れ、海野棟綱は上野に敗走し、嫡子幸義は神川付近で戦死した。海野氏と共に戦った真田幸隆は上州に逃れ、箕輪城の長野信濃守業政を頼ってしばらくの間在留した「真田氏御事蹟稿」という。その後、甲州の武田家において、晴信(信玄)が父信虎を追放するという政権の交代があった。

天文十一年
  三月、武田家の内紛に乗じて村上・諏訪・小笠原・木曽の信州勢は連合して甲州に攻め入ったが、反って武田方に破れた。これより以降武田氏の信州侵攻は本格的となった。このとき村上氏に奪われた本領をとりもどし、復讐するために、幸隆は武田晴信のもとに属した。幸隆三十才のときであった。武田晴信にとっても、真田幸隆が味方についたことは、信州攻略の上で好都合であったに違いない。こうして、武田の信州攻略、それに続く上州攻略の上で真田幸隆は重く用いられるようになった。幸隆の武田家臣従は11~16年まで諸説あり。

天文十九年
  前述のように上田における千貫文の土地を宛行うという朱印状を与えられるようになっていた。この宛行状の中で「本意之上」においては、千貫文の土地を与えようとあるが、これは、幸隆の宿敵であり、武田氏の信州攻略の重点となっていたのが、村上義清の重要拠点戸石城を攻略することを指している。戸石城は上田市の北東部にあって神川の西岸の河岸段丘上にあって、真田氏の本領地である神川谷の入口を押えるところにつくられていた。
                                           
天文二十年(一五五一)
  三月、小田原北条氏康は関東管領上杉憲政の上州平井城(現・藤岡市)を攻め、八月ついに落城、上杉氏は長尾景虎(のちの上杉謙信)をたよって越後に落ちた。天分21年説が有力
  五月戸石城は落城した。『高白斎記』には「(天文二十年)五月大 朔日戊子二十六日
節 砥石城真田乗取」とあり、幸隆によって戸石城が落城したのが明記されている。天文十年に
真田から退去して以来十年、武田氏に属して宿敵である村上氏を破っている。恩賞として晴信よ
り上田に千貫文の土地を保障されていることもあり、戸石城攻略は武田晴信の家臣としての真田
幸隆の地位を確立することを意味している。
  戸石城を追われた村上義清は、越後の長尾景虎を頼っている。武田の北信攻略が進むにつれて、武田晴信と長尾景虎の間に対立が激しくなる。天文二十二年(一五五三)から永禄七年(一五大四)まで善光寺平の川中島で両者が戦っている。これが川中島の合戦であった。この戦いの中でも、永禄四年(一五六一)九月の八幡原の戦いがもっとも激しい戦となった。真田幸隆は、嫡子源太左衛門尉信綱と共に参加し、三男の武藤喜兵衛尉昌幸も信玄の小姓として側近くにあって参戦している。
  上野囲も信濃国と同様に、強力な大名が出現しなかった。各地に分立している中小豪族たちが地域的な統合として一揆を形成していた、その典型的なものが箕輪城の長野業政を中心とする箕輪衆、金山城の由良成繁を中心とする新田衆などである。このような状況の中で南からの北条氏、西からの武田氏、北からの長尾氏(上杉氏)の侵入があって戦乱の時代となる。とくに、武田晴信と長尾景虎の対立は、信濃川中島から上野国の各地においての戦いとなる。真田幸隆の上野(吾妻郡)への侵攻は、このような状況の中で開始されたのである。

 一、岩下衆斉藤氏と鎌原氏

 天文二十年(一五五一)三月、小田原北条氏康は関東管領上杉憲政の上州平井城(現・藤岡市)を攻め、八月ついに落城、上杉氏は長尾景虎(のちの上杉謙信)をたよって越後に落ちた。永禄三年(一五六〇)八月、越後守護代長尾景虎は大挙三国峠をこえ関東へ出陣すること十数回、関東在陣中に越年することも数回におよんだ。これによって関東は一挙に本格的な戦国の争乱へと突入した。
 そのころ上杉謙信方に参陣した関東武士国の勢力圏がどうであったか。これは各武将の陣営に
張る陣幕に付した家紋を注文させた「関東幕注文」(上杉家文書)によって、当時の上野国を初め関東地方に服属した武士団(衆)の概略を知ることができる。そのうち上野国には白井衆(九)沼田衆(一四)惣社衆(一七)箕輪衆(一九)厩橋衆(四)新田衆(三〇)桐生衆(九)岩下衆(岩櫃城主斉藤氏、数不詳)の名がみえる。
 そのうち吾妻郡は岩下衆、すなわち岩櫃城主斉藤越前守に服属の主力(山田氏外不明)土豪と、ほかに箕輪衆の大戸中務少輔、羽尾修理亮、沼田衆の尻高左馬助等の地侍衆の勢力分野が知れる。なお岩下衆斉藤越前守の部下である諸士の内容は残念ながら欠文で、その詳細を知ることはできない。

 斉藤氏が初め平井の関東管領上杉氏に属したのは文明のころ(一五世紀の後半)といわれるが、吾妻郡西部の土豪の中心勢力は信州滋野氏(真田氏の祖)よりでた鎌原氏(現吾妻郡嬬恋地内)であって同じく平井の上杉氏に服属していた。上杉氏没落後は西毛の諸豪族同様、触手を四方に動かし、互いに他領を押領していった。斉藤氏が沼田衆の御館、沼田氏と不和であったのも、この辺にあったのであろう。そして侵略の歩を西部三原庄におしすすめ鎌原氏と争うようになった。
 このころ甲斐の武田氏は天文・弘治・永禄の間五回にわたって川中島において、越後の上杉氏
と決戦をいどんでいたが、結局勝負を決するに至らなかった。武田氏が西上州に滲透する経路は、一つは上田⇒鳥居峠を越える道、一つは小諸から碓氷峠をこえ、西上州の堅塁箕輪城をつく道の二道があった。西毛の雄箕輪城主長野業政は永禄四年卒去のあとは業盛があとをついだ。永禄四年(1561)十一月、北条氏康は謙信の関東出陣を恐れて信玄に援助要請を求めてきた。
 よって信玄は上野国の西牧(下仁田)高田(妙義町〉諏訪(松井田町新堀)の三城を撃破する祈願文を信州佐久郡小海の松原神社に奉納している。また鎌原文書にも同様のことが出ているので、この時信玄は西上州に出兵したことは事実であるが、その詳細のことは知られていない。

 さて岩下衆のお館(衆の長)である斉藤越前守は天文以来いかなる情勢であったろうか。吾妻軍記の「高橋物語」によると鎌原氏の所領は二百貫であったが、次第に斉藤氏に蚕食されて、その大部分を押領せられたとのべている。岩櫃城の築城は不明であるが、一説によると、その構造よりみて総社長尾城の築城様式と酷似し、その年代は文明~大永のころと推定されるが、詳細は不明である。(山崎一氏説)

岩下斉藤家系図(本著よりまとめ)

―・―斉藤越前守憲次――・―斉藤越前守憲広――・―斉藤太郎憲宗
 |(孫三郎)     |(太郎・一岩斎)  |
 |          |          |
 ・―斉藤憲定     ・―女        ・―斉藤四郎太夫憲春
  (佐藤将監)     (大戸真楽斎の嫁) |
                       |
                       ・―女(三島の地頭、浦野下野守の嫁)
                       |  (羽尾治部入道(箕輪衆〉に再婚)
                       |
                       ・―城虎丸
                        (嶽山城、のち嵩山城に置かれた。)

 初代憲次は斉藤越前守といい、孫三郎ともいった。弟憲定は折田に位し佐藤将監と称した。男子一人、女子一人あり、嫡男は憲広といい斎藤太郎、越前守とも称し、のち入道して一岩斎といった。-女は大戸城主大戸真楽斎に嫁した。憲広が家督をついで岩櫃城主となった時期は不明であるが天文年間であろうと考えられる。妻は不詳であるが、四人の子供がぁった。長男は斉藤太郎憲宗、二男を四郎太夫憲春、次は女子で三島の地頭、浦野下野守に嫁したが、のち羽尾治部入道(箕輪衆〉に再婚した。末子を城虎丸といい、武山城においた。(武山城はまた嶽山、のち嵩山と言った。)
※斉藤憲広は永禄4年当時あくまでも岩下城主であり岩下衆を率いている。現在岩櫃城の築城は永禄6年ごろという説がが有力である。
 

 二、鎌原宮内少輔幸重、武田信玄に属す

 このころ鳥居峠をこえた信濃の地には甲斐の武田信玄の勢力が日を追って強大となっていっ
た。鎌原幸重は何とかして、おのれの苦衷を披瀝し、信玄の幕下となって斉藤の押領から逃れ出
ようと日夜心胆をくだいていたのであった。丁度そのころ一族である信州小県郡真田の豪族真田
幸隆が上州箕輪から国元へかえり信玄の部下として、その勇名は近郷に轟きわたり評判がよかっ
たので、幸重は嫡子重澄と相談して幸隆にその旨を申しいれた。
 幸隆は非常に喜んで小諸城主甘利昌忠は信玄の信任が特に厚いので、彼に紹介してもらおうと、その時機をうかがっていた。永禄三年春、信州平原(小諸付近)において、幸重父子は信玄に面謁、吾妻郡の情勢を逐一通報したのであった。信玄はかねてから西上州進出の機をうかがっておった折りなので、非常に喜んで、幸重に遠かに岩櫃城主斉藤氏を討伐する計略を油断なく、めぐらすことを命じた。

   永禄初めの西上野.jpg 
 ここにおいて鎌原氏は日夜何等かの策を練っていたその時、すなわち永禄四年(一五六一)十一月十九日、信玄が西上州へ出陣し、高田(妙義町)国峯城(甘楽郡)の戦況を書状でもって示し、近日中に人数を分けて吾妻へ派兵するから、今後共油断なく計略をめぐらすようにと申し伝えてきている。
 さて、一方岩櫃の斉藤憲広は、重用していた羽尾入道道雲(幸全)が鎌原氏と同族であるのに不和である間柄を利用して、早々に鎌原を討つことを画策した。道雲も快諾したので、羽尾入道道雲と塩谷将監の両将を二手に分ち鎌原城を急襲させた。要害も堅固のうえ、一族の浦野、湯本、横谷の諸氏が鎌原氏に味方して戦ったので鎌原を降すことができず、大戸真楽斉を仲に立て、和議は成立したのである。

 鎌原幸重は和議を好機として憲広に表てむき二心ないようにみせかけ、そのすきに乗じて岩櫃
城を攻略しようと日夜心をくだいていた。憲広の譜代の臣である岩下城主富沢氏の嫡男に富沢但
馬守行連という者がおった。この者は都合のよいことに一族横谷左近太夫の姉聟にあたっていた。
 幸重はまず行連にことの次第をことこまかに話し、憲広の甥にあたる斉藤弥三郎則実にその旨何とか話しを通じてはくれまいかと談じこんだ。則実は大慾の者であったので、幸景の手にのってしまった。憲広のかねて信用している富沢と斉藤則実から、幸重は全く異心なく斉藤に心服している旨申し立てたので、気のよい憲広は心もうちとけ、幸景も猫をかぶって表面心腹のていをみせかけたのであった。
 一旦戦闘の場合、両人を中心に真田に間応することを約束させた一方、幸重はこの陰謀の一部始終を家臣である今井の住人黒岩伊賀守をして密かに甲府の信玄のもとへ報告していた。信玄は幸景の計画の巧妙綿密であるのに感心し、六月二十七日付の文書に「吾妻の様子はよくわかった。特にお前の陰謀工作の意味はよく諒解できた。早いうちに貴殿の甲府へ来ることを待ち望んでいる。詳しいことは甘利から申すであろう。」という信玄の親書を黒岩に托した。(鎌原文書)
 黒岩はこの手紙を携えて、ひそかに鎌原城に帰り、幸重に信玄の手紙を手渡した。幸重の喜び
は大変なもので、早速自分の代理として長男の重澄を甲府へやった。信玄も非常に喜んで、沢山
の褒美を重澄に与え、斉藤のことを遂一たずねられ、はじめて信玄は岩櫃城攻撃の決意を重澄に
のべたのであった。

 かくて信玄は永禄四年(一五六一)八月、真田、甘利を大将とし、旗本検使として曽根七郎兵衛を命じ、その後信州勢の芦田、室賀、相木矢沢、祢津、浦野左馬允等に三千余騎の兵を与え吾妻に派兵した。戦雲は吾妻の山野にみなぎり、大戸、三原の両方面より岩櫃城を攻めたので、憲広は全く信玄の詐謀に陥って、人の和を失ったので全く勝算なく善導寺の僧を仲に立てて降伏し、人質を差出したので、武田の先鋒、真田、甘利の両将は一戦を交えないで各陣
所に帰った。(第一次岩櫃城攻め)
  ※甘利左工門尉……昌忠という。備前守虎泰の子。小諸城主、永禄七年三十一才にて没。
 

 三、鎌原・羽尾合戦

 憲広は信玄の岩櫃城攻撃は鎌原の陰謀術策によるものであることを知ると激怒した。そして無
二の臣であるところの羽尾入道を呼び報復のための鎌原攻めの作戦をねった。羽尾も前回の復讐
戦であり、今回も鎌原攻めの将を引受けたのである。永禄四年十月上旬、山野にたちこめる霧をついて羽尾入道道雲・海野幸光兄弟を中心に、湯本善太夫・浦野下野守・横谷左近等その勢六百余人、鎌原の要害めざして粛々として進撃した。かねてからこのことのあることを知っていた幸重は嫡子重澄を三原の赤羽根の台に、西窪佐渡守を袋倉の鷹川城に配備し、自身は本城鎌原にあって指揮に当った。
 海野幸光は一挙に重澄の守る赤羽根の供養塚へ押しよせ白兵戦を展開したが、仏坂、西川の池付近の戦斗は膠着状態で一進一退であった。丁度このころ、大戸真楽斉の弟但馬守が二百騎をひきいて、須賀尾峠をこえ狩宿に進出してくるという情報が入ったので幸重は現況の不利を洞察し、常林寺の僧を使者として憲広に降伏した。幸重は戦斗の詳報を即刻信玄に報告した。
 羽尾入道・斉藤憲広と鎌原幸重との間の度々の衝突は羽尾氏と鎌原氏との領地争いから端を発
しているものである。信玄はこの吾妻の情勢を逐一幸重より報告をうけ承知していたので、お互
いの小競合は大事の基であるとして検使を派遣して検地し、その境界を定めるにしくはなしと事
件の解決にのり出した。

 永禄五年(1562)三月、甲府から三枝松善八郎、曽根七郎兵衛、信州から室賀入道を検使と
して現地に派遣し、境界線を定めた。この境界線は赤川・熊川の落合から南を鎌原領としたもの
であった。斉藤は勿論この取極めに満足の意を表したが、羽尾入道は数代相伝の古森・与喜屋の
両村が鎌原領となったことに大いなる不満を示して憲広に訴えたのである。
 羽尾入道よりの訴えによって憲広は山遠岡与五右エ門尉、一場右京進を使者として幸重のもと
に送った。幸景は一旦信玄が検地した境界線を今更云々して言い懸りをつけられることは一家の
浮沈、安否に拘わる重大事であると、同年十月突然鎌原を引払って一門悉く信州佐久郡へ退去し
てしまった。そしてこの事件の詳細は鎌原氏から甲府の信玄のもとにもたらされた。信玄は永禄
五年三月二十六日甘利を以って鎌原の許へ「羽尾領においてお前が渡した土地と同高の土地を小県郡浦野領内において与えるから心配なきように。」との安堵状を下賜し、信州において領地を宛行われたのであった。
 このようにして羽尾入道は永年願望の鎌原城へ無血入城という次第になったのである。羽尾入
道は風流者であったので常日頃赤根染の小袖を着て、浅間山麓モロジ野に遊猟したり、加沢の湯
(現・廉沢温泉)へ入湯に出かけるなど得意の絶頂にあった。道雲は戦国の時代にありながら、いとも悠々たる毎日を送っていたのである。幸重は信玄から浦野の地を与えられたとは云え、羽尾の安楽な毎日の生活を風の便りに聞くにつけても腹立たしく思い、幸重は故郷の百姓に申し付けて、その行動の詳細を探知していたので、入道の行状は筒抜けに鎌原のもとに伝えられていた。

 永禄五年六月、鎌原よりの百姓の報告によると羽尾入道が万座山(万座温泉)にでかけて留守であり、入道の嫡男源太郎も岩櫃城へ伺候して留守であるとの連絡が入った。この好機を失うべからずと幸重は、真田幸隆、祢津覚直、甘利昌忠から少々の加勢をもらい、鎌原へ向かった。幸景の軍兵は水のトウをこえ、堀厩の辺へ、甘利等の加勢の兵は砂塚、はふた坂の辺に二道に分れて到着した。
 その時鎌原の城には羽尾の留守兵僅か五、六十人程があっただけであったが、この報せをきくと、鎌原の城兵は早々城をあけ、いづくともなく逃げ去ってしまった。実に幸景は一兵を損うことなく鎌原の城を奪回することができたのである。しかも城には羽尾が貯えておいた米穀や兵具その他いろいろのものがあったので幸重は加勢の軍へ馳走して信州へ帰してやった。
 幸重の鎌原城帰城の報はいち早く万座の羽尾のもとにしらされた。入道は茫然として力なく、
羽尾の館へ帰ろうにも道を塞がれ、この侭ここにおれば敵が襲ってくるのは明白と意を決して六
月下旬万座山の湯を立って山越えに信州高井郡に落ちていった。またこのしらせは、岩櫃城の斉
藤憲広の許にもとんだ。憲広は何しろ信玄の加勢のない前に何とか鎌原を滅ぼさなくてはならな
いとあせった。
 それにしても今のような小勢では到底どうすることもできない。そこでまず早急に越後の謙信に通じてその援軍を求めるより外に方法はないと、憲広は直ちに善導寺の僧と甥の斉藤則実を白井城の長尾憲景のもとに使者として遺し、吾妻の情勢をくわしく話し、その援助を求めた。長尾は非常に喜んで、中山城主中山安芸守(実は家老平形丹波守)を使者として越後春日山城につかわして、吾妻の実情をつぶさに報告した。
 謙信は願ってもない幸いと大いに喜んで憲広のもとに親書を賜わった。憲広も早速春日山城に行って直接謙信にその情況を報告し、その援助を得たいのは山々であったが、何しろ世は戦乱の渦中で、それも不可能であり、やむを得ず甥の斉藤則実と岩下城主宮田沢但馬守を代理として春日山城に遺し臣下の礼をとったのであった。

 一方羽尾入道は信州高井野ですでに三カ月夢のようにすぎてしまったが、何としても故郷へ帰えらねばならぬと日夜計策をねった。ことに鎌原の老臣樋口次郎左エ門は羽尾にも親族筋にあたり、彼を利用し何とか帰城を計策しようと、樋口の許に連絡した。それは、もし鎌原氏を覆滅することができれば鎌原幸重の広大な所領はその儀々そっくり樋口に与えることを密約した。また憲広も海野長門守幸光を使者として同様の次第を樋口に伝えたのであった。案の定、樋口は大欲のものであったので、ことの外喜ぶで早速羽尾に全面的に協力し同調することになったのである。
 樋口は早速高井野にある羽尾入道に密かに連絡をとった。その趣旨は時機を失すると万座山に
雪が降れば行動は全くとざされる。ぜひ九月中旬迄には出馬するようにとの手紙を送り、その凄
かなる去就を要請し、さらに細かい打合わせも交換し合ったのである。
 それというのは(1)出撃路は門貝(嬬恋村の大字)を下ると、この路は西窪氏が防戦する。干俣通り米無山に上り大前に進出する方法がよい(2)鎌原の中城・外城は嫡子筑前守がいて攻撃は至難である。大前へ下れば、ここは幸重が自身出撃するだろう(3)幸重の乗馬は黒毛である。自分(樋口)は葦毛(白毛)の馬で出陣するから黒毛(鹿毛)の馬を狙撃するのが上策である。以上のような細部の連絡打合ができた。

 同年九月上旬、羽尾入道は高井野から加勢をえて、約五百余騎、再び万座山をこえ、干俣、米
無山に陣を布いた。他方鎌原勢はかねて樋口が入道に内示したように大将幸景は黒い馬にのり、
樋口は指揮の大将で白馬に跨りその勢二百余騎、前後を狙撃手十人程に取囲ませて大前表へと
向った。
 途中鳥居川(吾妻川の上流)を渉ったとき幸重の馬が膝を折ってドゥト倒れてしまったので、互に乗馬を交換し、幸景は樋口の白馬に乗替えて進軍した。羽尾は大前の上原に控えて鎌原勢を迎撃した。入道はかねての約束通り、信州高井野山中で鉄砲の特に上手な猟師をやとい、こ
ろはよしと物蔭から黒い馬めがけて狙撃させた。弾は正しく樋口の胸を貫通して射殺されてし
まった。
 入道は鎌原幸景は討死したぞと、弓・鉄砲を袋に収め、弁当取出し、戦勝の酒盛に移ろうとし
た瞬間、鎌原勢は一機に突入して来た。この時を同じくして草津の谷から湯本尊大夫、浦野義見
斉らが援軍としてその側腹をついた。羽尾勢は忽ち総崩れとなり潰滅しさった。羽尾はいかんと
もしがたく、ただ一騎吾妻川を下り憲広を頼って平川戸へ落ちたのであった。高井野からの加勢
は、ほうほうの体で、馴れない山路をふみ迷い、七日-十日もかかって漸やく高井野へ逃げ帰っ
たという。
  ※信州高井郷……信州高井郡高井野村。高井野村と沓野村が渋峠越しに上州門貝鎌原と交易のあったのは中世からである。(嬬恋村、岩上文書)
 

 5 羽尾道雲没落
同年十一月二十七日、鎌原氏は手兵三百余騎をもって、当時羽尾の館におった羽尾入道道雲を
急襲した。折しも雪の深い夜であったので、取るものも取りあえず道雲は須賀尾峠をこえて、命
からがら大戸の城へ落ちのびたのであった。


  6 斉藤氏没落後の情勢
 永禄六年(一五六三)十月、斉藤氏を越後に追い落した幸隆は平川戸金剛院の修験徳蔵院に戦斗
の状況を詳しく記さして信玄へ戦捷を報告した。ここにおいて信玄は吾妻の重要拠点岩櫃城の奪
取に成功したので大いに喜び直ちに幸隆を吾妻郡の守護に任じ、鎌原宮内少輔、湯本善太夫、三
枝松土佐守の三人を岩櫃城においた。そして同年十二月十二日を以ってこの度の戦において武田
に忠節を尽した人々に感状を授与し、鎌原宮内少輔が代表してこれを拝受した。なお、一般武士
の論功行賞は翌七年二月十七日に行われ、それぞれ本領を安堵し、あるいは新しく所領を賜わっ
たものも多数に上っている。

 さて武田方に寝返った内応の武士の処遇であるが、斉藤弥三郎則実以下の武士は岩下郷におい
てこれを監視することとした。翌年正月、斉藤弥三郎、海野長門守、同能登守以下内応の武士の
妻女を人質とし、岩櫃城天狗の丸におくこととしたが、何しろ乱世のこととて岩櫃城内では何か
と不都合なので甲府へ送ることとなり、下曽根岳雲軒の館に預け入れたのであった。
 かくて斉藤弥三郎にはわずか川戸上村において斉藤憲広の直轄地の内五分の一の土地を与えら
れたのみで、海野兄弟も真田に預けられ、信州佐久、小県両郡のうち、少々の土地をあてがわれ
たにすぎなかった。

   五、武 山 合 戦

  1 永禄七年の戦況
   (1)武山籠城の人々
 斉藤憲広を始め一門の人々は越後へ落行きあるいは真田に降伏して、十六才になる城虎丸だけ
が武山城にとり残された。一門の池田佐渡守重安およびその子甚次郎が付従い、蟻川式部、四万
の君の尾の山田与惣兵郷、高津の割田下総、中之条の鹿野大介、植栗の植粟主殿介等がたて籠っ
ていた。岩櫃城との間で小ぜり合いがたえなかった。
 上杉謙信が武山救援のため、川田伯曹守、栗林肥前守を派遣したという情報が岩櫃の真田幸隆
の陣所に入った。幸隆は直ちに甲府へその旨報告したので、信玄も信州川中島の城主清野刑部左
衛門尉と甲府から曽根七郎兵衛を将とし岩櫃城へ千騎の兵を送った。信玄から清野へ送った手紙
に次のような主旨がしたためてある。
   越後衆がいよいよ沼田に出張したという由である。我が軍としては早速事態を重要視し
  甲州から曽根七郎兵衛を派遣した。貴方も早々長野原辺に着陣、真田幸隆の差図によって
岩櫃城に入城してもらいたい。
尚貴方は最近奥信濃の陣中から帰陣し、いまだ幾程もたたない
のに、このような命令で誠に大変で恐れ入るが急速に出陣して
もらいたい。また敵情を早急真田の陣所まで報告するように。
  甲子三月十三日(永禄七)
          信  玄
 清野刑部左衛門尉殿

  ※清野氏家譜に信州埴科郡清野に住す。世々村上氏の代官となるという。
   清和源氏村上氏族。

  案の如く武山城へ上杉方の栗林肥前守及田村新右衛門尉が加勢して立籠り、七年三月下旬、ま
 ず成田原、みの原の原野において緒戦が行われた。

 折しも、この時武山の陣中に信玄が甲府を立って、上州甘楽郡の余地峠を越えて箕輪に着陣し
たという情報が入ったので「信玄来る」の声をきいた斉藤勢は急に兵を引いてみな武山城へ龍城
してしまった。五月に入って、武山の上杉の加勢と白井の長尾一井斎憲景の兵力が合流して、
岩櫃城を総攻撃するという情報が幸隆の耳に入った。こうなると更に事態は険悪となってくる。現
在の兵力ではとても立合うことはできないというので衆議一決し、白倉武兵衛を使者として箕輪
の信玄の陣中へ援兵をたのんだ。

信玄も早速三河衆に長野業政の家来で最近投降した安中越前入
道忠政に兵三百騎をつけ、五月下旬この一行は岩櫃城に着陣した。

 謙信はこのことを聞いて、さらに部下の勇将、柴田右衛門尉及藤田能登守の両将に二千余騎を
っけて、四万の奥、木の根宿峠三国峠清水の辺に着陣して、後備として戦の様子をうかがうこととした。

 戦線はますます緊迫を告げたので智将幸隆は上杉の援兵を途に阻害し、さらに武山と対陣する
に絶好の土地である伊賀野山(沢渡温泉の手前)に長男真田信綱(後に長篠戦に戦死)に手勢五百騎を
引率させ陣をはった。先陣に川原左京、丸山土佐守に二百騎をそえ、朽葉四方の大旗に六文銭の
紋を朝風に靡かせて意気天をつくものがあった。

 岩櫃城には程なく祢津元直の五百騎、先陣家の子田沢兵庫介、加沢出羽、別府若狭、後陣には
嫡子祢津利直二百騎に水林与七郎、藤岡左中、白石兵庫が加わり、以上七百騎岩櫃に着陣し水も
洩らさぬ布陣をなし、さらに幸隆は土地の勢力を合わせて、その勢三千余騎、雲霞の如く集って
敵襲来今やおそしと龍城したこのようなところに城虎丸の重臣池田佐渡守父子から横粟を使者と
して次のような申し入れがあった。
  私は主君斉藤城虎丸を守立てて、お家再長のために頑張ってきた。もし幸隆公が無条件で
  城虎丸の命を助けてくれるならば無駄な戦争は勿論したくはない。そうすれば私も真田の
   家来となって忠勤をはげむでしょう。というものであった。
 幸隆は最遠陣中のものと相談したところ、そういうのなら宜しいだろうと言うことで人質を請
取って和談が成立した。そこで吾妻の山野を蔽っていた胸をしめつけるような戦雲も一風大地を
はらって、信州、甲州からの援軍、清野曽根の両将も帰陣し、永禄七年は静かに年を越したので
あった。

  • 最終更新:2019-07-01 00:46:50

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