石上寺

箕輪初心▲箕輪城№148【①石上寺:箕輪長野氏の最初の菩提寺】

   高崎市箕郷町東明屋に布留山石上寺がある。在原業平の
   草創と伝えられている。実際には文明6年(1474)に石上寺&八幡神社が造られた。
   石上寺は長野氏の菩提寺で箕輪城の鬼門に造られた。館あるいは城より、お寺を先に
   造る人はまずいないだろう。つまり、文明6年(1474)には既に、箕輪館あるいは
   箕輪城が造られていたことになると考えた。
   従って、私は箕輪城築城を文明6年(1474)と考えている。
   しかも、長野時代の箕輪城から見て鬼門にあたる。
   sekijouji01.jpg

  ●箕輪城
   sekijouji02.jpg  sekijouji03.jpg
  ★新しい駐車場から北北東に200m登った右にある。
   当時は、神仏混交なので、石上神社もあったと考えられる。

   ①長野氏の最初の菩提寺:石上寺、
   ②長野氏関係35基の墓のある来迎寺、
   ③鷹留城長野氏の菩提寺:榛名長年寺、
   ④長野業正の再建した長純寺→
   ⑤長野業正の長男:長野吉業の墓&福田五郎左衞門の墓、
   ⑥井野館&楽間の宝塔1400年代の宝塔である。墓が

   物語る歴史が分かった。私説の箕輪城築城1474年以前説確定した。

   ①長純寺には長野業政の供養塔がある。
   ②来迎寺・・・長野業政の墓(伝)+35基の墓?
   ③長年寺・・長野業政の墓がなく、父までの6代の墓がある。

  ※長野→武田→滝川→北条と支配が変わる中、長純寺や長年寺や来迎寺などの
   寺が残っている。地元の人に愛されていたからだとの考えもあるが、そうではない。
   他地区から入った武田信玄や北条氏邦や井伊直政や徳川家康は旧長野氏の家臣団を
   大事にしたのである。

 【0】箕輪初心の2014説・・私見は長野業尚文明6年(1474)説

  理由①・・・箕輪に寺が多く立てられた。 
  ・天安元年(834)箕輪山法峰寺が建立された。
  ・平安時代   唐松廃寺
  ・文永元年(1264)箕輪の新屋敷に八幡宮が建てられた。
  ・明徳4年(1393)八幡宮隣には、不動寺が創建された。
 
  ●応永元年(1394)以前 箕輪に安国寺が建てられた。
   sekijouji04.jpg

  (★箕郷町連雀町・・・蝶屋分店&小堀時計店の間)
   足利尊氏は南北朝の動乱が収まって、後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者
   の菩提を弔うために日本全国68ヶ所に安国寺を建てた。

   応永元年(1394)が最後の68番目の国東(大分)の安国寺である。
   上野国の安国寺は旧箕郷町連雀町(井伊時代の呼び方)448-2に建てられた。
      ・・・蝶屋分店・旧宮川邸を下った右の徳田邸にあった。
  (★上之宿)
   非常に重要な場所に建てさせたのである。・・・従って、久保田順一先生の
   おっしゃるように箕輪が長野郷の中心であった可能性が高い。
  
  ・応永2年(1395) 紺屋町に光徳寺(松山寺の道反対)が建てられた。

  【1】長野氏の最初の菩提寺:石上寺

   石上寺は布留山と号し、在原業平の草創と伝えられている。
   石上寺は長野氏の菩提寺で箕輪城の鬼門に造られた。
   つまり、文明6年(1474)には既に、箕輪館あるいは箕輪城が造られ
   ていたことになると考えた。
   近藤義雄先生や山崎一先生などが
   ●文明6年(1474)、石上寺&八幡神社が造られた。
  ★東明屋の石上寺・・・長野氏の菩提寺である。館あるいは城より、お寺を先に造る
   人はなずいないだろう。しかも、長野時代の箕輪城から見て鬼門にあたる。
  ★西明屋の東向き八幡神社・・源氏???

  ●石上寺の石造物群(高崎市指定史跡)
   ・文明6年(1474) 六地蔵石幢
   ・延徳3年(1491) 山門の鬼瓦
   ・延徳3年(1491)  輪廻の石塔
   sekijouji01.jpg

  ★長年寺や長純寺よりも古い。
  ・嘉永3年(1850)白衣観音の道標
  ・???年    薬師像

   sekijouji05.jpg  sekijouji06.jpg
   多くの石造物が残っている。  ★当時の壮大な伽藍を現在見ること

   sekijouji07.jpg  sekijouji08.jpg
   sekijouji09.jpg  sekijouji10.jpg
   ・神社跡?

   sekijouji11.jpg
   ・道祖神

  ●明応年間(1492~)・永正年間最後(1521)
   長野業尚(尚業)が箕輪城を築城した。
   子の憲業によって、箕輪城が強化された。
  ★箕郷町政要覧1993版・・・つまり、箕輪城が国指定史蹟になった年である。
   近藤義雄先生・ 山崎一先生・佐藤さんが頑張った時の・・・
 
  理由②・・箕輪城御前曲輪の井戸からの出土墓石
   ①建長2年(1250) 
   ②康元元年(1256) 盛勝忠
   ③応永4年(1397)
   ④応永24年(1417)
   ⑤永享11年(1439)
   ⑥文明8年(1476) 逆修妙祐禅誉
   ⑦延徳元年(1489) 本淨門
   ⑧明応8年(1499) 果源精
   ⑨天文14年(1545) 如法界淨上人
   ⑩天文21年(1552) 為信業

  ★南北朝の動乱が終わると、足利尊氏は全国69ヶ所に安国寺を造らせた。
   後醍醐天皇などの供養のためである。上野国では箕輪に安国寺が創建された。
   久保田順一先生の考えのように、鎌倉時代には既に長野郷の中心は箕輪であった。
   従って、足利尊氏は、中心地に安国寺を箕輪と定めた。私は箕輪城の築城を
   1477年説を採っていた。

   長尾景春(+足利成氏) VS 上杉顕定+長野
   憲業?の広馬場の戦いは箕輪城から1,5~2kmしかはなれていな
   い現榛東村で行われた。

 【2】長野氏関係35基?の墓のある来迎寺(高崎市浜川町)

    
 【3】鷹留城長野氏の菩提寺:長年寺(榛名町室田)
 
 【4】長野業正の再建した長純寺(高崎市箕郷町原山)

 【5】長野業正長男:長野吉業の墓&福田五郎左衞門の墓:善龍寺
 (高崎市箕郷町生原)
 【7】長野業盛の墓のある大円寺
  ・永禄9年(1566) 武田信玄の攻撃を落城した。
   箕輪城主:長野業盛(なりもり)は自害した。
   長野業正の2男:長野氏業=業盛の遺体は業盛を哀れんだ僧が 
   もらいうけ、井出の地に葬ったとされてている。
                                (★箕輪軍記)
  「群書類従」の中の箕輪城
   箕輪城語り部の会岡田:会長・・・
   塙保己一「群書類従」からの出典確認(群馬県立図書館)。
   2009年3月?
   群書類従の中には、箕輪城の長野業政の子業盛の辞世の句もある。 

  ・永禄9年(1566)9月29日
   「陽(ハル)風に 氷肌(ムメ)も桜も ちりはてて 
              名にそ残れる みわの郷かな」 

  ・長野業盛の墓の碑(旧群馬町:高崎北高北200m)
             ・・・・「長野業政墓喝会の建立」

  *長野業政墓喝会
   「長野業政と知己であった井出の大円寺の旅の僧「法如上人」が埋葬した。」

  *箕輪城語り部の会斎藤さん 
  「箕輪軍記」は保渡田西光寺の僧が江戸時代に書いた物で、
   句自体この僧がかわいそうに思って作ったらしい。
   業盛が詠んだ辞世の句がどうかも不明である。

 【8】長野氏業=業盛の子:亀寿丸の逃れた極楽院

   極楽院の古文書類
  ①武田信玄の保護する文書
 

  • 最終更新:2016-06-30 16:36:27

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード