石井左京大夫讃岐守信房
十二家客分大身小身知行地方持衆(高家) 筆頭 石井左京大夫讃岐守信房
~~~ 中略 ~~~
◆戦国武将・石井信房
戦国武将・石井信房 「里見の郷再発見伝」発行人 中嶋 講二 (高崎市金井渕町)より
長野氏は、関東管領上野国守護、山内上杉氏の下で台頭し、業尚(なりなお)が
室田鷹留城(高崎市下室田町)を築きました。軍師、鷹留城主でもあった戦国武将
石井信房(左京大夫讃岐守)は幼名を文悟丸、いみなを義樹(里見義樹)といいました。
里見氏始祖義俊より16代目で房州稲村城主(館山市)の里見義堯(里見氏全盛期の大名)
の次男で、母は箕輪城主・長野信業の娘。信業の子、業政の養子となり(長野信房)
鷹留城主になりました。
◆石井左京大夫讃岐守信房(室田鷹留城主:軍師)・・戦死。
箕輪初心:生方▲群馬富士見【石井岡城】&箕輪城№181長野業正養子:里見義樹=石井信房
【父】安房里見義堯
【母】箕輪長野憲成の娘(業政の妹)
天文2年、天分の内訌の年に安房で生まれる
長野業政の養子
前橋富士見の石井城主(6060石)
室田鷹留城主:軍師 石井左京大夫讃岐守信房と名乗る
大久保の砦(館)住
永禄9年5月 鷹留城が落城。城主:長野三河入道業氏ではなく
石井左京太夫讃岐守信房が死亡説あり。
(★浦野家文書)(★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
※峰岸説では受連2回目・・・★関東古戦録や箕輪城着到帳などと異なる説である。
★里見繁美先生の説
里見家→長野業政の養子・・長男:氏業=業盛の誕生
群馬富士見の所領で、
①長野業政は長男:吉業が死んだ。
長野業政には12人の娘がいたが、男の子はいなくなった。
②長野業政は養子として、2男:里見義樹(里見義堯の子)を迎えた。・・しかも、
系図①安房里見の実堯→義堯→義弘の弟:義樹 長野業政の嫡子:長野吉業=福田吉業(菅谷)・・死亡 長野業政の養子:里見義樹が成立した。
★長年寺系図
長野正弘氏の系図
里見義樹系図
③里見義光の娘と結婚=妾とし、3男:長野氏業=業盛を産んだ。
里見義光だれ?棟冶は安房里見氏のだれかと想像している
(系図は長野正弘氏蔵)
長野業政の次男:長野氏業=義盛が産まれた。
④養子の里見義樹(長野義樹)は、長野業盛が生まれたので、
一時、養子を離れ、前橋市旧富士見村に、石井城を築城し
住んだ。里の青柳・木暮・小沢を家臣とした。
⑤石井左京太夫讃岐守信房・・鷹留城主に抜擢した。
※里見義樹→長野義樹→石井義樹?・・
→石井左京太夫讃岐守信房と名乗った。
石井左京太夫讃岐守信房・・勢多郡旧富士見村石井
青柳金王丸忠家…・・・勢多郡現前橋市青柳村
木暮丹後守直政・・・・勢多郡現前橋市木暮村
小沢治郎兵衛亮信縄・・勢多郡現前橋市小沢村
などを、家臣とし、箕輪城に永禄3年(1560)に行った。
棟冶は、信房6060石賜ったとあるので富士見周辺と宮城村の赤城神社以西
そして下田大膳太夫正勝を信房付き筆頭重臣とし、諸氏を従えたと考えている。
※里見繁美氏は、近藤義雄氏の考えを否定した。
近藤先生の「箕郷町誌P989」家臣一覧表2つ
近藤先生「石井信房を鷹留城主にしていること、
青柳・木暮・小沢を重用しているのが疑問である。」
と書いているが・・・。
「石井信房を懸念していて、信憑性に欠ける。
これは、里見義樹は長野業政の妻の甥に当たる
ので、石井信房が身内であった証拠である。」と述べた。
(★里見繁美先生の説)
石井城と信房
◆長野業正養子:里見義樹=石井信房
箕輪初心:生方▲群馬富士見【石井岡城】&箕輪城№181長野業正養子:里見義樹=石井信房
●長野義樹は、石井城主石井信房となる(現前橋市富士見)
現前橋市富士見の【石井岡城】は、珊瑚寺の西隣にある。長野憲業の
娘は里見義堯の妻となった。子どもの里見義樹は長野業正の養子(娘婿?)
となり、長野義樹を名乗った。
長野業正の次男:長野氏業(業盛)が生まれて、現前橋市富士見の【石井岡城】
に入城し、長野信房→石井城主石井信房を名乗った。
下田姓が多い
①最初から第2家老:下田大膳が富士見に(知行を持って)いた説 (★棟治氏説)
山内上杉家にかかわりのある、伊豆下田から追われて管領を頼って上野に来た。
富士見に知行を与えられた。勢いを増してきた長野家の与力に組み入れられた。
そしていつの頃からか、家老となった。初めは長野家への目付だったのかな?
棟治はかってに、このように想像したのです。
②石井が永禄元年(1558) 石井信房が鷹留城主となったので
下田大膳が富士見に入った説 (★西原巌説)
★石井信房は先に富士見→鷹留城なのか。
鷹留城→富士見→鷹留城なのか分からない。
城は半円形で、直径120m程ある。現在は長野業正の第2家老:下田大膳の子孫
下田さん一族3軒のお宅である。その後、石井信房は榛名:鷹留城主となったようだ。
子孫には秋 間の石井泰太郎さんや榛名町町長を3代務めた石井氏などがいる。
【1】富士見の石井岡城
◆訪問日・・・平成27年(2015)10月13日
・道は空堀だった。 下田さん、その節はお世話になりました。
・道は東の堀である。
・西の川・・・水堀=自然の要害 ・内部・・・3軒がある。下田さん宅
・下田さんの蔵
・櫓台跡?主郭跡?
・巨大な堀・幅10m、深さ推定8m、かつては長さ150m程?あったそうである。
【2】【系図2「安中秋間の石井泰太郎氏の長野氏系図】
①長野業行→長男:業高
②次男:憲業=信業
妹=安中忠政妻
妹=里見義堯妻
女=和田重能妻
女=倉賀野為広妻
藤井定俊
●藤井定俊(=藤井豊後守友忠:一般的には)
「石井泰太郎氏所有の長野氏系図」には藤井定俊は長野憲業の
弟と記されている。浜川城主。
・永禄6年(1563) 若田ヶ原合戦
住吉城(高崎市沖町)より500騎を率い、武田信玄の家臣:
内藤昌秀を安中まで撤退させた。
●藤井友安 (?~?)
藤井定俊の長男である。
●藤井忠安 (?~?)
藤井定俊の次男である。
※長野憲業=長野信業家督は次男業政が継いだ。
→③業政→女子12人(★長野弾正系図では)
長野業政の子どもは
①女=娘11人(★石井泰太郎系図では)
女:和田新兵衛朝常妻・・・
★和田城の木部範虎が一般的である。
女:長尾弾正正景妻・・・・
★惣社城?・・・越後上田の長尾政景は上杉景勝の父であるが?
女:沼田万喜斎入道妻
★沼田城:沼田顕泰のことであるが、長野業正の母が沼田顕泰
となるので、不思議である。
女:岡本兵部少輔持村妻
★この時は岡本は熊井土姓のはずである。小幡重貞の家老とし
て、小幡館(現小幡城)に住んでいた。
岡本姓は井伊直政の家臣になった岡本半助宣就からである。
後、岡本半助宣就の父は群馬サファリの地区に住んだ。
女:小幡尾張守信定妻・・・
★小幡館→国峰城。この時は、小幡重貞である。武田信玄から
「信」を貰って、小幡信貞→小幡信実になった。
女:小幡図書之助妻・・・・
★宮崎城・神成城
女:木部弾正宮内少輔妻
★高崎木部町堀の内&山名城
女:倉賀野淡路守妻
★倉賀野16騎の金井淡路守であるが、武田信玄の家臣に
なって、倉賀野姓になる。別系図では、倉賀野直行である。
女:安中越前守妻
★松枝城(松井田城)安中忠政=安中重繁である。
黒田基樹先生説では安中越前守忠政の妻は沼田顕泰の
娘:次女を養女にした長野業正(妻は沼田顕泰の長女)
が関東享禄の大乱後、安中忠政に嫁がせたとしている。
②義樹・・・(養子・信房)・・★石井城(現前橋市富士見)
石井讃岐守・・・・・★鷹留城(旧榛名町)
③業盛→曽平之進
女:・・・舞鶴姫
④宗誉 ※石井系図は業正の末子:宗誉の名を記している。僧籍?
●石井義樹=里見義樹(1533~1563)
「石井泰太郎氏の所有長野氏系図」には長野業正の養子
と記される。安房稲村城主:里見義堯の次男:文悟丸である。
系図は長野業正の妹を里見義堯室としている。
★この縁で養子縁組みしたのかもしれない。
1)里見繁美先生はこの説を強調している。
2)黒田基樹先生も『西上州の中世』において、「石井泰太郎系図」を引用されている。
①長野憲業の子ども
長男:長野業氏
次男:長野業正
娘(舞鶴姫?)・・・・・・・石井信房の妻
②安中重繁(忠成)・・妻:沼田顕泰の娘(長野業正の妻と姉妹)
※石井系図では、
長男:安中(忠成)景繁・・妻は長野業氏の娘→長野業正の養女
※長年寺系図では、妻は長野業氏の娘
・安中重繁の妻はほかに妻は甘利昌忠の妹がいる。(★甲陽軍艦)
◆◆ 石井左京大夫讃岐守信房 ◆◆
・享徳3年(1454)~ 享徳の乱
南総里見八犬伝は千葉県館山市を舞台に繰り広げられている。
「南総里見八犬伝」(★江戸時代:滝沢馬琴著)
・文明年間(1469~1487)
長野業尚(尚業:なりなお)が室田鷹留城(高崎市下室田町)を築いた。
・文明5年(1474)頃 箕輪城が築かれた。
★箕輪初心説・・
①長野氏の箕輪の菩提寺:石上寺の石どうの銘が1474年
②長野氏の神社:箕輪の東向八幡宮石どう(せいどう)1474年
従って、寺より家の方が先に作られるのが当然であるから、
1474年以前に箕輪城が築城された。
・????年 長野憲業の娘が里見義尭に嫁いだ。
・享禄3年(1530) 長野方業(業正)が箕輪長野氏を継承した。
・享禄4年(2531) 関東享禄の乱
上杉憲寛+長野業正
VS
上杉憲政+小幡+安中+高田
結果・・・上杉憲寛+長野業正が敗北。
上杉憲寛は小弓公方:足利義明のところに逃げ込んだ。
・天文2年(1533)
里見氏始祖義俊から16代目:安房稲村城主(館山市)の里見義堯
の次男として生まれた。母は箕輪城主:長野憲業の娘であった。
幼名を文悟丸と言った→里見義樹と名乗った。
◆棟治私見
もし里見義樹と名乗っていて養子に入ったとしたら、天分15年以降に
長野家へ養子に来たことになる。なぜなら普通元服しないと諱:義樹を
名乗れないからである。元服は12~18才位で普通行うかなと思う。
棟治は養子時期について
①天分7年・・・第一次国分台合戦のころ
と考えていたが
②天分15年・・・川越城の戦のころ
吉業重症で養子にもらった・・・元服してた (初心氏説)
これもありかなと思えてきた。しかし養子にもらってすぐの年に石井城主も
かなり変だしよわった。
前向きに考えて、石井城へ赴くとき里見義樹か石井信房と案があったが
富士見の石井家へ養子に入って、当主と成り信房と名乗ったかな?
なぜかと言うと、富士見に石井を名のる古い家があるからである。
また、上杉家家臣に石井氏が居り鎌倉時代からの名家で、下田氏
のように富士見に知行を賜り一族が住んでいたと考えられるからである。
信房だけ石井で、突然石井家を起こしたとか不自然だからである。
土地の名家へ養子を入れて支配するとか、常套手段ですよね?
・天文2年(1533) 安房天文の内訌(稲村の変)
7月27日 里見義豊が叔父:里見実堯と一族:正木通網
を殺害したことから勃発した。
★里見氏の内紛である。
★里見義堯の妻は長野業正の父と言われている長野憲業の娘:即ち長野業正の妹である。
(★黒田基樹説では、長野憲業の養子:長野方業の子が長野業正としている。)
・天文3年(1534)
4月6日 里見実堯の実子:里見義堯が、後北条氏の力を得て、
里見義豊を犬掛の戦いにて、自害に追い込んだ。
父:里見義豊を殺された里見義堯が里見義豊を討つという
里見氏内の全面抗争であった。
里見義堯が第5代当主となり、家督を継いだ。
※天文の内訌は、里見分家:里見実堯・義堯父子による宗家
に対する下克上であったとの見方が強まっている。(★ウィキペデイアの説)
第5代当主:里見義堯はその後は後北条氏と手を切り、
再び小弓公方方についた。後北条氏や上総武田氏と交戦した。
★小弓公方:足利義明の庇護下の前関東管領:憲寛は
長野業正の養子ととして、里見義樹を斡旋・仲立ち可能性がある?
・????年 長野業正の養子となり、長野信房を名乗った。
①里見義樹:長野信房は長野業正の甥?に当たる。
②里見義樹:長野信房は長野業正の養子となった。
③里見義樹:長野信房は後に長野業正の娘を結婚し、養子となったのかもしれない。
★危険な状態のため、里見義樹を長野業正に養子として預かって貰った可能性が高い。
また、長野業正が身内として、喜んで養子にした可能性が高い。
・天文7年(1538) 第一次国府台合戦
北条氏綱2万 VS 小弓公方:足利義明・里見義堯など小弓公方:足利義明が戦死した。
里見義堯が大敗した。北条氏綱による安房攻めで苦境に陥った。
越後守護:上杉定実と里見義堯が同盟を結んだ。
里見義堯は上総に勢力を伸張した。
安房国の里見義堯は真里谷氏の弱体化により空白地帯となった
上総国南部に進出した。真里谷氏の配下だった久留里城、大多
喜城などを攻略し、房総半島での勢力を拡大していった。
・天文13年(1544)長野業正2男:長野氏業(業盛)が生まれた。
・天文15年(1546) 川越の合戦
長野業正の長男:長野吉業が負傷・・・没?
・天文18年(1549) 里見義光没
・????年 富士見:石井岡城主:石井信房(現前橋市富士見)となった。
里見義樹は長野業政の養子になったが、業盛が生まれたので行くことになった。
天文13年説あり
★石井岡城は石井信房が築城したのか、下田大膳の一族が先に住んでいたのか不明である。
現在は下田氏が住んでいるが・・?
・天文20年(1551) 長野信業没
(★黒田基樹先生説では長野信業はいない。)
(★近藤義雄先生説では長野憲業=長野信業なので1530年没)
(★長年寺の墓に長野信業はない。)
2月 長野信房が鷹留城守将となった。鷹留城主は長野業氏であった。
(★長年寺系図などでは長野業正の兄である。)
石井讃岐守信房と名乗る。
・永禄元年(1558) 石井信房が鷹留城主となった。
・永禄3年(1560) 里見義堯が長尾景虎に越山要請した。
(★正木家文書) 長尾景虎の第一次関東出兵
・永禄3年(1560)箕輪城着到帳(★江戸時代に作られた)
客分筆頭に、石井左京大夫讃岐守信房:鷹留城主とある。
「長野氏家臣録」に富沢伊八、十郎衛の名もある。富沢氏は
『群馬県姓氏家系大辞典』(角川書店)によると、新田一族
里見系で、始祖義俊とともに里見に移り住んで里見氏の武将
として仕え、新田荘富沢(太田市富沢町)を領して富沢を名乗った。
(★中嶋講二さん:上毛新聞 2012年6月10日掲載)
・永禄4年(1561) 長野業正没
父:長野業正の死により、長野氏業(業盛)が14歳で家督を継いだ。
・永禄6年(1563) 石井信房没 2月21日、討死。31歳。
武田勢に滅ぼされた。
※石井信房ではなく、長野業氏が死んだとする説 (黒田基樹先生説)
・永禄9年(1566) 箕輪城落城
- 最終更新:2017-09-16 10:21:11